stylesheet

2011年10月27日木曜日

倭は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 倭しうるはし - 倭建命

古事記の伝える所によれば、これは倭建命が亡くなる前に自分の故郷を思い詠まれた歌(思国歌)という事です。

倭(やまと)はもともと今の奈良あたりを指す言葉だったようです。その後に勢力が拡大するに従い「やまと」が指す地域は拡大していきました。その勢力を拡大する立役者の一人である倭建命が奈良という地域を指す言葉として使ったのか、それとも自分たちが拡大している国の名「やまと」を指してこの言葉を使ったのか面白い所です。

「まほろば」という言葉の響きには「まぼろし」という言葉に似ているためか望郷の感があります。実際の意味は「素晴らしい場所」となっていますが、やまとはまぼろしのように素晴らしい国、くらいのニュアンスの方が古典に馴染みのない自分にはしっくりときます。

「たたなづく」というのは「幾重にも重なっている」の意味ですが、「たた」と連続する音や、「づく」から「続く」という語感を感じれば「連なる」という感じがしてきます。

「青垣」は四方を山が取り囲んだ感じが垣(根)のよう見えることを連想したものであり、昔は緑を青と呼んでいた事を知ればなんとなくわかります。しかし、今の私達には「青」という色は山の緑よりも空の青さのイメージが親しくなっています。

ですから、「青垣」という言葉には、周りを取り囲んだ山の連なりと、その背景にある青空という感じがしてきます。入道雲が立ち込める夏の日のイメージもあるし、初夏の青々とした山、からっとした空、という感じもあります。

「山ごもれる」は「隠れる」という字を当てるようですが、この意味は僕には良く分かりません。意味は分かりませんが、前の句から続ければ、山を身近に迫る感じを受けます。

四方を山に囲まれているということで歌は奈良を歌ったものとする解釈ですが、日本においては殆どの地域は山に囲まれているものです。

彼が最後に見た風景にもまた山があったろうと思うのです。

夕暮れでしょうか、山にかかる夕陽、草を揺らす風、揺れていたのは薄であったかも知れません。

そうであれば奈良の歌と特定する必要はどこにもないでしょう。


やまとしうるはし。「やまと」の後に続く「し」は、強調の意味なのでしょうが、「大和路」と当て字にすることもできるでしょう。

やまとへの路はうるはし。なんとなくですが「麗しい」とは違う感じがあります。うるはしには、清涼な感じのする、清々しさ、の語感があります。

どちらかと言えば、「うるはし」には涙のような感じさえあるでしょう。自分が最後に見ているだろう風景から故郷の風景を思い浮かべ国の行く末を案じているのかも知れません。

この「うるはし」は、涙が滲ませている風景、と感じてもいいと思います。「うるうるする」と似た語感を「うるはし」には感じてもいいのではないでしょうか。

すると、この歌は以下のようになります。


私がいるこの国の未来が今やまぼろしを見るかのようにはっきりと感じられる。

青々とした山々、青い空、美しい所。

あの山々よ、私の故郷よ、

この道の先にあるはずの私の懐かしきやまと。


それぞれの人がそれぞれのやまとをまほろばとする。

それを願い倭建命は亡くなったのかもしれません。

今からおよそ1900年前に。

夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯

まさか、彼もこんな勝手な解釈をされるなど思ってもみなかったでしょうね。


この国を まほろばと呼びし きみのすえ うるわしやまと ねがいしきみなり

2011年10月5日水曜日

曰未知生焉知死 - 孔子

巻六先進第十一之一二
季路問事鬼神 (季路[きろ]、鬼神につかえんことを問う)
子曰未能事人 (子曰わく、未だ人につかうること能わず)
焉能事鬼 (焉んぞ能く鬼につかえん)
曰敢問死 (曰わく、敢えて死を問う)
曰未知生 (曰わく、未だ生を知らず)
焉知死 (焉んぞ死を知らん)

僕たちの死生観にこの言葉は強く影響している。

しかしこの言葉は死生観を語るでもなくただ分からないと述べるに過ぎない。なのに僕たちの死生観の基本的な部分になってしまっているように思われる。

ここでは死は恐怖や忌避する対象ではなく、ただ知らぬものでしかない。それどころか死についての問いに生の問いが返る。この言葉によって死は一瞬にして目の前から消え去る。

生きているものは死をどう受け止めるだろうか。それは小さな命から自分に至るまで地球上の生物がみなあらがえぬ生を紡ぐもの全ての行き先にある一つの落とし穴だ。

世界を見渡せば虫たちはその穴に気付くことなく飛んでいる。その行く先を知らずに火に入る如し飛ぶ虫は悲しい。だがそれで人間が悲しくないという事にはならない。

荘氏斉物論
不知 (知らず)
周之夢為胡蝶与 (周の夢に胡蝶と為れるか)
胡蝶之夢為周与 (胡蝶の夢に周と為れるかを)

どの生き物も死を避けるのは自然だ。捕食者から狩人から自然の偶然から。そこでは生が死の状況と対決する。命のぶつかり合いが燃焼する。

それでもいつの日にか命は死から逃れられない。それは生と死の対立でさえない。命はその順番を待っている。

死はその先で落ちてみるまで分からない。死は生きる延長に訪れる。

いつか必ず訪れるのであれば、問えども問わずとも何も変わらない。それでも敢えて問う季路の気持ちを想像してみる。

鬼への問いが人に帰結したのなら、人の死という出来事ではどうであろうか。

鬼であれ、死であれ人の外の世界については語らぬ。それに至る道は人のあり方にしかない、と孔子は答える。その言葉は常に今と未来を指し示す。

この大震災が大事故が死生観を形作る。
畢竟其死生観也、唯一其決美感也

僕たちには、美意識以外の何もない。

死生観とは死に方を決めるものではない。それは生き方を決めるものだ。未だ知らぬ死が生を侵させぬようにするためのものだ。

生きることさえ分からぬその先に死があるとして、それについて思い煩っても仕方がない、と言っているのではない。

その先にある死について考えるには生きる事についての考えが足らぬと言っているのだ。死について分かった気になって生きることを決めても仕方がない。生きる事が分かれば死が分かるとは言っていない。

生きる事さえ分からぬ自分に、死について答えることは出来ない、と言う。では生きる事が分かれば死についても分かるというのか。それについて孔子は一言も語ってはおらぬ。

それでも生を知らぬものが何故死を知りえようかと言われ、納得する自分がいる。

そこにある謎は答えを得る事にあるのではなく、その答えを探している点にある。分からぬものを分からぬままにしておけないと謎を探す神話が確かあった。それは太古の冒険譚、叙事詩、神話、形ある物語として語り継がれている。

死とはそれが訪れる瞬間まで生あるものの謎であろう。それが分かるとは限らぬが、それが存在しないわけではない。探してはみるが答えが見つかるとは限らない。

巻二里仁第四之八
子曰 (子曰く)
朝聞道 (朝に道を聞かば)
夕死可矣 (夕に死すとも可なり)

あしたを誕生と例えれば、ゆうべは人生の終わりだ。生れて、死ぬ、その間に人の道を聞くことが出来たなら十分だ、と解する。

そしてなぜここに"聞く"とあるのか、道とは聞くものではなく、見つけるべきものではないか、実行すべきものではないか。まさしく、聞くことなど出来ぬ事を彼はよく知っていたのだ。

多くの神話において、物語において、宗教において死は重要なテーマである。しかし、それでも死を問いかけるものなど一つもない。死は常に生に対する一つの出来事であった。

これは概念でも思想でもない。死を受け入れるとは正しく考えようとする心の働きそのものではないか。神を畏れ、死を恐れるのも心であれば、それについて考えるのも心だろう。

20世紀になって心と脳の関係に迷いを感じ出したこの星の小さな知性は利己的な遺伝子の乗り物に過ぎないこの体と、精巧に進化した脳が作りあげた働きとしての心という抽象的な概念に翻弄されている。自ら作り上げた砂上の楼閣に埋もれて息が出来ないかのようだ。

遺伝子の機械に過ぎない個人に於いて、心はただの化学反応に過ぎぬ。それはそうであろう、心を生み出したメカニズムは有機体の化学反応だ。あなたが自分自身と感じるその心は蛋白質の固まりに過ぎない。

我々が所詮はただの化学反応に過ぎないとは近来の考え方だが昔の人もまた、所詮はむくろに過ぎないと感じていたはずだ。太古の人の死生観が未だに色褪せないのは同じ事を感じているからだ。

我々の体が元素で構成されている以上、心もまたその構成された何かであるというのは疑いようがない。

ある化学反応が涙を流させたという事について、心がどのように働きそれを受け止めるたのかを将来は化学式で表記できるかも知れぬ。

涙は化学反応の結果に過ぎぬ。その反応はなんらかの刺激が起こしたに違いない。ならば刺激に対して涙を流す回路が我々の中にあるのは間違いない。

それは、違いない。

我々はそうなるように作られている。そう作られたことは何かの悲劇であるか。

人生とは快楽という餌を食わされるだけの家畜に過ぎぬ、心は餌を旨いと感じる脳の幻想に過ぎぬ。それでも、遺伝子であれ、脳であれ、死を前にして自分を救い出せるものは心の働きだけではないか。

死も知らぬ、生も知らぬ、そう呟く心の動きに、遺伝子の道具であろうが、幻想に過ぎぬ人生であろうが、私達の心の働きだけは、それを受け止める働きを持っている。

死を知らぬ、と答えたのではない、生きることさえ分からぬ、と語ったのだ。

そこにあるのは、死というものは人が行き着く先ではない、という明確な意思だ。

死を知ることは生きることを知ることにはならぬ、しかしもし生を知ることが出来れば、死を知ることは出来るかも知れぬ。ただ、我々は生を知ることさえ叶わぬ。

自分自身の中にある化学反応を知ることは、生きることを知ることにはならぬ。もしあらゆる知識で人間を人工的に作ったとして、それで人間を知ったことになるだろうか。

それなら既に地球がやっている。答えを地球が知っているであろうか。答えてくれるだろうか。

僕たちがどういう風に作られているか、どういう反応をしているか、たった一つのパンさえ意識して消化し吸収し体に配分する事も出来ないこの体だ。なのになぜ脳の化学反応が心の構造である事を特別な思いで感じ入ってしまうのだろう。

僕は今日の食事の美味しい理由さえ知らないでいるのに。

食べ物を消化して吸収して排出する働きは心の働きよりも原始的なものだと思っていやしまいか。心にメカニズムがあることは、食事にもメカニズムがあるのとまったく同じ事だ。どのようなメカニズムで動いているかと、それがどのように働くかは別の話しではないか。

メカニズムは構造だが働きには実際にそこに流れているデータがある。構造を知る事とどのようなデータが流れているかは関連する話だが、その二つには何の繋がりもない。

構造を知ることは構造を模倣したり修理するにしか役に立たない。データがどう働くかは構造からは推測しかできない。つまりデータが生み出すものを我々は目にするまで知ることはない。

データが主体になったとき、その関係性、多様性、影響、組み合わせ、順序、この複雑さと比べればメカニズムはあまりにも単純だ。構造は一つで足りるかも知れぬが、データは莫大だ。

誰もがほとんど違わない構造にありながら、人を見よ、なぜこうも違うことを考え、想い、決断しているか。なんとも多くの生き方と人生があるではないか。

我々は心の構造の単純さで、メカニズムによって、働きも同じように単純ではないか憂いているのだろう。だが、心の働きは自分自身にとって多様にも一様にもできる数少ないオプションではないか。

そうであればそれは豊かな文化を生み出す土壌でもあるし、同じようにこの世界を滅ぼすものであっても不思議はない。生も死も超えたところにある心の動きというものは、僕たちが引き受けた一つの運命であろう。誰もそれに抗えない。

誰にもどうしようもないものばかりを身に背負って僕たちは生まれてきた。死もそのひとつに過ぎないが、生ばかりは、これと違う。

心は僕たち自身に親しいが、これこそが受け入れるべき運命そのものだ。心だけが抱えて生きてゆける唯一のものだ、その死の間際まで。

生きることだけが運命のただ一つの条件だ。運命とは予め決まっている道筋などでは断じてない、死ぬ運命など三文芝居のセンチメンタルに過ぎぬ。

生きる事だけが運命であり、それはいつかどこかで途切れてしまう。それを心は運命と自分自身に語りかけるが、それは心が死を一切受け入れぬ働きに過ぎぬ。

死が訪れる瞬間も心は生きようとする。それは死の瞬間まで体が生きようとするのと同じだ。心も体も死を知らぬ、何故なら生きたまま死を迎えるからだ。

もし死後の世界があるなら心は不死だろう、未知死というべきか。私、死んだの?なんてあの世で語れればいいがそれは生きている人間が言うセリフだ。

どう作られていようが、生きる事とは別の問題だ。例え自分が遺伝子の乗り物として作られていようとも、生きている間はこちらのものだ。

未だ生きることを知らぬ、何故死を知ろうか。

どちらも分かりゃしない、その上で足掻いてみないか。