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2016年12月23日金曜日

知魚樂 - 荘子

荘子外篇第十七 秋水篇
莊子與惠子、遊於濠梁之上。(莊子と惠子、濠梁ごうりょうの上にて遊ぶ。)
莊子曰、鯈魚出遊、從容。(荘子いわく、鯈魚ゆうぎょ出で遊び從容しょうようなり。)
是魚樂也。(これ魚の楽しむなり。)

惠子曰、子非魚。(惠子いわく、子、魚にあらずなり。)
安知魚之樂。(いずくんぞ、魚の楽しむを知らん。)

莊子曰、子非我。(荘子いわく、子、我にあらずなり。)
安知我不知魚之樂。(いずくんぞ、我の魚の楽しむを知らざるを知る。)

惠子曰、我非子。(惠子いわく、我、子にあらずなり。)
固不知子矣。(もとより子を知らず。)
子固非魚也。(子、もとより魚にあらず。)
子之不知魚之樂、全。(子の魚の楽しみを知れずは、まったし。)

莊子曰、請、循其本。(荘子いわく、ふ、そのもとしたがわんことを)
子曰、女、安知魚樂。(きみいわく、なんじいずくんぞ、魚の楽しみを知らん。)
云者、既已、知吾知之而問我。(これを云うもの、既に、吾のこれを知るをもって、我に問いしなり。)
我、知之濠上也。(われ、濠梁ごうりょうの上にてこれを知る。)

湯川秀樹「知魚楽」より
ある時、荘子が恵子といっしょに川のほとりを散歩していた。恵子はものしりで、議論が好きな人だった。二人が橋の上に来かかった時に、荘子が言った。
「魚が水面にでて、ゆうゆうとおよいでいる。あれが魚の楽しみというものだ」
すると恵子は、たちまち反論した。
「君は魚じゃない。魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか」
荘子が言うには、「君は僕じゃない。僕に魚の楽しみが分からないということが、どうしてわかるのか」
恵子はここぞと言った。「僕は君でない。だから、もちろん君のことはわからない。君は魚ではない。だから君には魚の楽しみがわからない。どうだ、僕の論法は完全無欠だろう」
そこで荘子は答えた。
ひとつ、議論の根元にたちもどって見ようじゃないか。君が僕に『君にどうして魚の楽しみがわかるか』ときいた時には、すでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうかを知っていた。僕は橋の上で魚の楽しみがわかったのだ」

この話は禅問答に似ているが、実は大分ちがっている。禅は、いつも科学のとどかぬところへ話をもってゆくが、荘子と恵子の問答は、科学の合理性と実証性に、かかわりをもっているという見方もできる。恵子の論法の方が荘子よりはるかに理路整然としているように見える。また、魚の楽しみというような、はっきり定義もできず、実証も不可能なものを認めないという方が、科学の伝統的な立場に近いように思われる。しかし、私自身は科学者の一人であるにもかかわらず、荘子の言わんとするところの方に、より強く同感したくなるのである

口語訳
莊子と惠子が橋から池を覗いていた。
莊子。おいかわが流れの中で気持ちよさそうに泳いでいるよ。魚たちも楽しんでいるんだねぇ。
惠子。あなたは魚ではありません。どうして魚の気持ちが分かると言えるのですか?
莊子。君も僕ではないけれど、どうして、僕には魚の気持ちが分からないと言えるの?
惠子。私はもちろんあなたではない。だから私にはあなたの事は分からない。同様にあなたも魚ではない。だとしたら、あなたが魚のことが分かると主張するのはありえないでしょう。
莊子。そうだね。もういちど、話の根本に戻ってみよう。君は僕には魚の気持ちが分かるはずがないと言う。君の主張の根拠は、魚の気持ちが分かるはずがないという事実に基づいているんだよね。なら、そこまで君が僕のことをよく知ることができたのはどうしてだい?なぜ僕には魚の事をよく知ることができないと君には言えるんだい?


惠子の主張は、他人の事が分かることは論理的にあり得ない以上、荘子に魚のことが分かるという主張も同様にあり得ないという主張である。

思うのは君の勝手だが、それが本当に魚たちの気持ちだと、なぜ言えるのか。自分勝手な思い込みで気持ちを代弁するなど、とても危険な考え方ではないか。そういう思い込みが多くの不幸を生んでいる。

惠子の意見はまったくもって正しい。どの時代の人であれ、魚の気持ちが分かるなどありえない。だが、本当かと問われれば分からない。遠い未来、それを知る手段が発見されるかも知れない。いま知りえないことが明日も知りえないとは限らない。

それでも魚の気持ちは分からぬというのが結論だろう。魚の気持ち程度ならば、塩焼きにするのと煮付けにするのとどちらがいい?と聞くのと大差ないが(可哀そうな魚たち)、これが魚ではなく人間だったら、大問題である。

荘子の主張は、こうだ。

本当に他人の事が分からないなら、僕がもしかしたら魚の気持ちが分かるとっておきの方法を見つけているかも知れないよ。それが、本当かどうかはこの際、置いておこう。だけど、このとっておきの方法を君が知ることができない以上、決して分からぬという主張は間違っているんじゃないかな。Strict に。

人間には思い込みもあれば、疑う力もある。疑心暗鬼で身を亡ぼす人もいれば、盲信により身を滅ぼす人もいる。荘子の考えからほんの少し進めば、立派なストーカーの誕生である。僕には分かるんだ、彼女の気持ちが分かるんだ、例え拒否されても。彼女は周囲の人にそう言わさせているだけだと主張されれば説得は難しい。

惠子は自分と魚の関係に寄り添ってみた。そして分かるはずがないと思った。私の気持ちが誰かに分かるなどあり得ない。もし誰かが分かったと言うなら、それは決して私の気持ちではない。私の気持ちは私だけのものだ。他の誰かの中にあるものではない。

荘子もまた魚に寄り添ってみた。楽しそうに泳ぐ魚がいる。そう思うのは私であって、もちろん魚たちではない。だがこの分かったという気持ち以外に何が私と魚とを結びつけるだろうか。正しくないかも知れない。魚にはこの気持ちは迷惑かも知れない。それでも、それ以外に私と魚が分かちあえる方法があるだろうか。

分かるとは、決してひとつの結論ではない。何もかも不確からしいと思うことは簡単である。だがそこで立ち止まっては先に進めない。先に進むためには、貧弱でもそれしか頼りにできないあやふやなものでも、頼りにする以外の方法があるか。

惠子も荘子も知る事について考えている。どちらも推論である。何度考えても魚の楽しみが荘子に分かるはずがない。それに対して荘子は言う。分かるはずがないという以上、君にも、僕は分かっていない、それは永遠に不可視だと君は言う。ならば、不可視の僕に対して、なぜ君は僕には分からないと僕のことを言えるのか。君にとって正しいことが僕の中でも同じとは限らないではないか。同じと言いたいなら、君には僕が分かっていなければならない。

君の知るとは世界がひとつという意味だ。それは正しいように僕にも見える。しかし、世界はそんなにも限定的なものだろうか。全ての人間を同じと考えるから、君はそういう結論に達した。だがもし違うとしたらどうだ。君の結論はぱらぱらと崩れ落ちてゆくではないか。

荘子にとって、魚はひとつの世界であった。知るとは何か。惠子が知りえないという時、荘子はそれでも知る可能性を消さない。

魚が楽しいかどうかは分からない。その通りと認めたとして、私には楽しそうに見えるという事が空虚とは思わない。そこには何かがある。それを幻想と呼んでもいいだろう。しかし、相手の気持ちを推測しようとする働きは、そういうものではないか。ほら、君さえも僕のことを分かりえないと言いつつ、僕のことを分かったように言うではないか。そして僕から言わせれば、確かに君は僕の考えを知ることができたのだ。

常にそれ以外の世界があると留意する荘子だからこそ蝶の夢が忘れられなかった。僕は荘子の事をマルチバースの思索者と呼びたい。