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2019年12月14日土曜日

初心わするべからず - 世阿弥

花鏡
しかれば当流に万能一徳の一句あり
初心不可忘

この句、三ケ条の口伝在
是非初心不可忘
時々初心不可忘
老後初心不可忘

初心者であった頃の気持ちをいつまでも忘れずにと言う。

所で思い返してみて欲しい、初心者であった頃に何の気持ちがあったか。その頃にあったのは、野心と期待と不安ではなかったか。それ以外の何かがあったか、今となっては何も思い出せない。

ならば初心とは野心や期待や不安を忘れるなという話か、それともその頃の学ぶ姿勢や謙虚な探求心、湧き上がる好奇心を今も持ち続けているかという自問か。

初めて舞台に立った時、きっと頭の中は真っ白であったろう。その時の何を覚えているか、窓の外の空の青さであったり、かがり火に飛び込んだ虫の焼ける音だったり、あくびをする観客の何気ない所作ではないか。目がくらむほどの眩しい灯りだったかも知れない。

そんな頃の気持ちにどんな価値があるだろう。芸の道は常に素人である。どれだけ精進しても自信を深めても突き詰めれば決して到達できないもっと上の境地がある。決して辿り着かない芸の道。常に人は芸の道半ばで散ってゆくのだ。だから我々は今も未熟者であると自覚した方がいい。上を見てもきりがない、下を見てもきりがない、初心忘るべからず。

三遊亭圓生の言葉。
おれの芸が上手いなと思ったらもうダメだっていうんです。生涯マズいと思っていろと。まずいと思っていれば、うぬぼれることはないし、まずは努力をしなくちゃ。

初心者とはそのような自覚をもって初めて言えるのではないか。忘れるべきではないのは、初心者であるためにも自覚が必要だという事だ。そのような自覚さえ持たぬ始めたばかりの者を漠然と初心者と呼んではいけない。自覚なきものは初心者にさえなれない。そして自覚するなら必ず初心者である。

多くの経験を積んできただろう、沢山の技術を身に付け、年を重ね、経験を積み、上手になったという自信もあるだろう。当時の自分より、今の自分は確実に成長している。たしかに芸事であれ技術であれそこには上手い下手がある。

誰々よりも俺の方が上手い、誰にはあの部分は敵わない。初心者には沢山の階段がある。誰も階段をひとつあがるたびに初心者である。あの初心者とその初心者は少し違う、という訳だ。

プロフェッショナルとは失敗を売り物に出来る者の事をいう。少しは価値ある敗北を生み出してこれたかな、そう思う者をいう。勝利だけが欲しければアマチュアで十分である。勝利が楽しいなど観客でも知っている。

勝者だけでこの世界が出来ているわけではない。誰もが思ったようには生きれるわけではない。敗北が颯爽と通り過ぎる場合もあれば、忸怩たる思いで受け入れなければならない日もある。

初心者の頃を思い返せ、初心の自覚を今も持っているか。そんな頃の初心の気持ちに感傷以上の価値はあるまい。ド素人然としたものからも何を学べるか、そこまで貪欲になるべき時もあるだろう。

その頃に感じた新鮮さは今もあるか。いや失っていても構わないはずだ、今も新鮮さを感じているのなら。初心を取り戻せでは意味がない。初心の頃にあったもので、今もあるものは何か。

初心を思い出せなくとも、君は常に初心者である。未来に向かうものは誰もが初心者である。

花が咲いたとき、それは散り始めるのだ。花が散った枝に、人は花の姿を見る事ができる。それが芸だろう。花が咲くだけなら人などいらない。ただ花をもってくればいい。花が咲くのではない。芸が花を咲かせる。そこに人の姿は必要ない、つまり無心で構わないという事だろう。

無心であろうとすることは難しい。もし無心を得たと思うならそれは慢心である。原理上、君は無心という態度に対しては常に初心者である。自分の周囲の世界は何もかも移ろい変わるのに、なぜ自分だけは変わらないと信じられるのか。忘れているかも知れないが人はみな老いてゆくものだ。

初心を忘れるなとは、初心の頃を忘れるな、ではない。

花はなくとも必ずや花は咲く。