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2023年9月30日土曜日

ヤン・ウェンリーは本当に民主共和制の軍人か?

1.

如何に帝国が盤石とはいえ70年もすれば建国の功臣たちの高貴な忠誠も犠牲的な献身も失われるであろう。この銀河に敵を持たない政治体制であれば虚栄と紊乱と退廃に至るのは螺旋する歴史が示してきた事だ。

敵が居なければ人の心は慢心する。支配層の興味は銀河の外には向かないだろう。冒険に隣の銀河は遠すぎる。内に向かって進むのが自然の道理だ。

権力は富を無限に蓄積する為にある。富が権力を正統にする。そのためには、民衆を狩場とすることだ。

帝国の貴族社会が加速してゆくのは目に見えている。初代の提督たちの理想は高貴である。その子も親の薫風を受け毅然としているであろう。だが、そこまでだ。その次の世代から世界は同じ道を歩いてゆく。

疑心暗鬼が無制限に肥大化する。権力者の周囲には歓心を買う人々が集まる。野心を隠す事が野望の欠かせぬ資質となる。それを見過ごせば終わる。

権謀術数が渦巻き、敵を持たぬ軍が民衆を敵とするのもむべなるかな。民衆が革命の源泉だから。国家は臣民を監視する。裏切りと密告が権力を維持する手段だ。

弓と剣しかない時代ならまだ人々には圧政を覆す手段があっただろう。弱体化した国王を倒す事も可能だったろう。初期の銃程度の社会なら市民側も対抗しえた。

しかし、これほど高度に発達した武装を装備する軍に対しては市民に対抗する手段はない。軍に対抗しうるものただ軍あるのみ。よって軍が国家を支配するのも容易い。そうなれば国を守る力が民に向かう。市民から富を奪う為に。軍が肥え太るために。軍人がこれを拒否しない限り、誰にこれを止めれよう。

人々は難民となって逃げるしかない。過酷な自然でさえ人間の生み出す圧政よりはましであろう。

人々の関心が国家からなくなり、自分たちの日々の生活の為だけに、それを維持するのに精一杯になった時に、初めて社会はその運動を緩め、軍は装備を持ちながらも機能せず、その威力を発揮できなくなる。汚職と賄賂にまみれた国家で誰かが声をあげる。そこまで忘却しないと変革はおきまい。

そんな帝国の未来を思う時、少しは民主主義の意義はあるかと思う。革命を掲げる人々は専制よりも民主主義を求めるだろう。民主主義には腐敗と戦う力がある。軍に人民を支配させない力がある。法に従う為に血を流す覚悟を厭わない人々がいる。

恐らく腐敗の速度を比べたら、帝国貴族と民主共和制でそう大きな違いがあるとは思えない。実際に帝国より同盟の方が遥かに腐敗は早かったではないか。

民主主義の退廃など簡単である。議員たちが世襲となり、選挙が世襲を追認する儀式となり、それを人々が認めた時、帝国の貴族制と何が違うだろう。形を異にせよどちらも特権階級であり、それは、民主制という建前を維持しつつ、資本主義と使い人々から富を収奪する合法的な制度である。

帝国の退廃よりもましなどと何故言えるだろう。

2.

思えば、私が停戦命令を無視していれば、歴史は別の顔をした。後世の人々は何故私がブリュンヒルトを討たなかったのかと訝しむ。しかし私には私の言い分がある。

軍の原則、シビリアンコントロールには従わねばならない。それが誓えないなら私は軍にはいない。この大原則があるから私は軍隊を率いれる。これがあるから何万という将兵の命を奪いながらも私は罪に問われない。もしそれを失えば私の行動は根拠を失う。

あくまで私は職業軍人として行動した。それが私がクーデターを拒否した理由だ。クーデターは常に民主制の宿痾であり、起きない方が望ましい。しかし、本質を言えば、民主制はそれを防ぐ機構を持たない。憲法はクーデターを禁止しない。

だから、独裁者は常に真っ先に憲法の停止に着手する。軍を掌握し、市民に戒厳令を布く力を持っていても、憲法は停止しなければならない。如何にも詰まらない手続きに見えるだろうか。確かにこれは単なる手続きだ。

憲法を停止しようがしまいが、権力は独裁者の手の中にある。それはいささかも揺るぎはしない。それでも憲法は停止しなければならない。

何故か。そうしない限り、権力の正当性が得られないからだ。正しい手順で憲法を停止するから権力の正当性を主張できる。その正当性によってやっと市民を動員できるのである。そうして初めて独裁制への移行が可能となるのである。

これは憲法の停止なく民主制は停止できない事を意味する。この手順に逸脱はない。例外なく独裁者は憲法を停止する。ここに民主制の根幹がある。そして私は同盟憲章をこよなく気に入っている。

同盟が敗れるとは同盟の憲法を失う事に等しい。私は同盟憲章の理念に従う。故に同盟憲章は帝国の手により停止される。それなら私がクーデターを起こし私自身の手で同盟憲章を殺しても同じではないか。

私はそれを否定する。それをした瞬間から私は私を律するものを失うから。そうなった時に私が何をするのか、私自身にも分からない。それを私は恐れる。

軍を停止させた。例えこの停戦が軍事的敗北を超えて民主制度の消滅であったとしても。私の決定が恐らく同盟を救える最後の地点だった。覆す手段はあった。その機会も私にはあった。

だから私が民主制を滅ぼしたと言っても差し支えない。最後の抗う力を放棄したのが私である以上、民主制を滅ぼしたのが最終的に私であると言われても受け入れるしかない。私はこれが民主共和制の軍人としての正しい態度であると思っている。

いつか私が、クーデターか、レジスタンスか、亡命政府か、テロリズムに参加してもその時にはその時で私には理由があるのだろう。恐らくどの場合でも私は無能でない限りは有能である。自惚れではなく。しかし、あの時点での私は正規の同盟軍司令官である。

私は停戦命令に従い、正しく武装解除を行い、兵士たちを安全に故郷に帰す。それを果たすのが責務だと思う。そこから逃げる訳にはいかなかった。

その先の時代にまで責任は取れない。

3.

もし停戦命令を無視してラインハルトを倒していたら同盟はどうなっていただろうか。

私が命令無視をしたのが明らかになれば、ハイネセンの帝国軍がどんな暴挙に出るか。それを止める力は同盟にはない。彼らは報復をしただろうか。星系すべてが核で焼かれても、どのような虐殺が起きても、私には何も出来ない。

もしそうなっていたら。戦争の帰趨がどうなろうと私は永久に戦争犯罪者だ。帝国軍にとっては皇帝を殺めた者、同盟にとっては惨劇の引鉄を引いた者。

ハイネセンの市民すべてを焼き殺してまで守りたい民主制度とは何だろう。私ひとりが選ぶ未来としては少し重すぎやしないか。

もし、それほどの理想的な民主主義がきちんと機能していたら、きっと私はこんな所で帝国と戦ってはいない。アーレ・ハイネセンから始まった民主共和体制は既に命数を使い果たしていたと思う。

それでも、私はラインハルトを倒す気ではいた。もし停戦命令よりも前に私が倒していたら。

その未来はどんな顔をしたいただろうか。

帝国の脅威がなくなる、現政権が続く。軍事予算が縮小し資本は経済再建に回される。結構な事だ。これまで抑圧されてきた欲望が一気に解き放たれる。

戦争特需を失い一時的な不況とはなるだろう。それは経済体制の組み替えが始まったという意味だから。そして解放される。目の前には帝国領という手付かずの果実が。人々は熱狂の中にある。

燎原の火の如く同盟領から帝国領へ広がってゆく。混乱にある帝国では同盟の侵攻は防ぎきれまい。帝国市民も気付く。侵略は一方向ではない。

民主政体だからといって外征をしない理由はない。資本主義はある点では帝国経済よりも強烈で強欲である。満たされる事を知らない。強力な統治が消失した場所の真空に吸い寄せられて征服へと向かう。

我々はほんの小さな勝利に浮かれて、帝国内に侵入した過去がある。その結果として、我々は敗北を早める事になった。それがもっと大規模に見境なく進む。そして、その先でどうせ富を巡って同盟同士で戦いを始める。

どれも碌な未来じゃない。最善の王政と最善の民主制のどちらが望ましいのか、私には答えがない。しかし、腐敗した民主制が最悪の王政よりましだとどうして言える。

4.

帝国に勝利した私に待っているのは過酷な運命に違いない。帝国の存在が私を生存させていた。帝国という敵を失えば私は別の原理に晒される。

帝国領に侵攻をする時の司令官は私ではないはずだ。そこに私の居場所はない。帝国領への侵攻などこちらから辞表を叩きつけるとしても、しかし、実際は辞表を書く必要はないだろう。

どの権力者からも私は警戒すべき筆頭の人物である。私にはそれらを引っ繰り返す力がある。

ラインハルトを討てば同盟は維持される。しかし、その結果として、帝国領は侵略されるし、私も可なりの可能性で刑務所行きである。そこで生きていられたならかなりの幸運だ。査問会の時に私はそういう経験をした。

私が生きている限り、安心できない人がいる。だが、同じくらい私に期待する人もいる。私に独裁者になる気がなくても、指導者になる能力がなくても、私は持ち上げられ担ぎ上げられ恐らく拒否できなくなる日がくる。私の大切なものを守ろうとして、そのうち身動きが取れなくなる。

だから、バーミリオン星域会戦で敗北しても、または勝利しても、私に明るい未来はなかったんだ。その意味で停戦だけがそれとは違う道を切り開いたともいえる。

5.

ならば私は勝ちたくなかったのか。いや、私はラインハルトを倒すつもりでいた。実際にそれはもう少しの所で実現した。

もしそうなったら私は同盟から消えるつもりだったんだ。行方不明者となる。最初からそのつもりで作戦を立案していた。

そのための準備も秘かに行ってきた。戦えば勝たねばならない。その結果として帝国軍との戦争が終結した後に同盟がどうなるか。そして私自身がどうなるか。私にも考える場所はある。

だから、同盟からも帝国からも身を引き、遠くの辺境惑星で開拓でもしながら生計を得る。そして銀河の行く末を見守るつもりだった。恐らく、私が生きている間にこの混乱は収束しないだろう。虐殺や略奪も起きるだろう。しかしそれはもう私の手を離れている。

その後の民主制がどうなるか。その後の帝国がどうなるか。悲劇なる事は十分に覚悟していた。その上で私はラインハルトを討とうとしていたのだ。私が目指すのは第四の勢力しかないと思っていた。それが私の世代で完成するはずもない。私たちの次の世代に伝えてゆく形で確立するしかなかった。

なぜフェザーンは第三の勢力となり得たのか。それを可能としたものは何であったか。それについても研究しようと思っていた。地球教についても学ぶ必要があろうだろう。私は二人目のアーレハイネセンになりたかったのか?いや私はその為の種を蒔く人でありたかった。

アーレハイネセンの民主制が朽ち果てようが、きっと第二、第三のアーレハイネセンは生まれる。民主制は再び、きっとどこかで起きるに違いない。そういう歴史的な力がある。

私が生きている限り必要とする殆どのものは民主制でなくとも手に入る。だけれど、それでも果断な努力、絶え間ない継続を求める民主制を私は希求する。

6.

私の艦隊に居る者たちは私の性格をよく知っていたはずだ。なぜ通信兵は電文を握りつぶさなかったのだろう。なぜその報告を最初に受けた士官は破り捨てなかったのだろう。なぜ参謀たちは1時間の休息を取ろうとしなかったのか。

全艦隊においてだた一人、私さえ知らなければ作戦は停止しなかった。続けていれば我々が勝利した。

だが命令を受領すれば従う。それ以外を私は知らない。

もしブリュンヒルトが沈没したらハイネセンは焼かれていたかも知れない。無辜の市民が何億人と焼かれた可能性がある。そうなる可能性は考えないでもなかった。

帝国側に優れた軍政家がいれば戦場を離れて秘かにハイネセンに向かう戦術は可能だった。ただ私はラインハルトの性格からそれは起きないと判断し、彼の麾下たちがハイネセンを焼く事はないと判断した。だからその宙域に監視船を置く事さえしなかった。

その結果として仮にハイネセンが灰に帰しても、それを許せないのは私自身である。兵や幕僚たちではない。

7.

だのに、最後の最後で私の所に通信文を持って上がってきた。それは軍としては完全に正しい。私が求めた兵の姿だ。それは本当によく教育された立派な兵士たちだ。

それを私は誇りとしなければならないのだろう。その行動に敬意を払うべきであろう。という事は、私の艦隊にはどこにも自発的に考える人間がいなかったという意味になる。私はついに自分自身で考える兵士を持つ事ができなかった。いや、それでいいはずである。

軍はそうでなくてはならない。責任を全て私ひとりに押し付けるべきなのだ。そうでなくては軍は成立しない。私の作戦で死んでいった多くの将兵たちはそうであったから努めて忠実によく任務を果たせれたのだ。

だが、民主制の市民に求められるもの、自由、自主、自立、自尊。

民主政体の市民が持つ唯一の権利が投票権である。民主主義は等しく市民に一票を与える。そして投票による意思の行使を求める。それ以外を民主制は求める必要もない。投票がそれ以外を包含している。

その一票のために、民主主義は全ての市民に自発的な考えを求める。この前提なく民主主義のシステムは機能しない。

ひとりひとりが意味を考え、政治に向い、発言し、未来を信じ、選択を投じてゆく。そうした自律性がなければ民主主義は維持できない。

私が求めていたのは、自分の力で考える民主制の市民であったか。その意思を以って私の命令に従い、命を投げうつ兵士であったか。それはもう超人ではないか。

民主制の軍隊でさえ民主主義の求める所から遠くにある。だとしたら、停戦命令に従うのはそれが私たちの全員の意志とも言える。

もし、通信兵は悩んだ末に報告を上げると決め、それぞれのが悩み、その上で、選択していたならば、どうだろう。やはり停戦命令に従うのは私たちの全員の意志である。

8.

メルカッツ提督以下、60隻の艦隊を逃亡させ、のみならず、捲土重来に備えた戦術である動くシャーウッドの森という構想を託したのは、恐らくシビリアンコントロールからは逸脱していると見えるだろう。少なくとも政府からそのような命令はない。これは完全に私のオリジナルである。

さて、これは民主体制に対する反乱か。私兵の創設か。私はどのように弁明すべきか。

もちろん、民主主義は反乱の制度である。民主制の投票がもともと革命権の延長である。投票は革命権を民主主義の制度に組み込んだものであり、一票とは武力革命で手に持つ銃の代わりである。

革命の本質は、人数の多い方が勝利する原則に基づく。この点で民主制の政権交代とは常に革命でありクーデターであり反乱である。血を流すことなく暴力に訴える事もなく日常の生活の中に革命を制度化したシステムである。

もちろん、多数が勝利するとは必ずしも言えない状況を核兵器が生み出したが、それが民主制の理念を破壊できただろうか。近代軍も核兵器も市民革命を困難にしているが、民主主義という革命システムは機能し続けている。

この脱走劇は、決して革命の準備でもなければ、クーデターでもない。まして私兵創設でもない。

帝国に支配され同盟が滅びる事は明らかだった。帝国の統治は現在の同盟よりも遥かに優れているようにも思える。それでも敢えて私は民主主義のための闘争を続けようとしたのだろうか。その準備のためにメルカッツ提督を利用しようとしたのだろうか。

違うのである。順序が逆なのである。同盟が潰えた時、私たちの運命がどうなろうと、それは同盟市民の問題だ。しかしメルカッツ提督がそれを受け入れる必要はない。

彼の処遇は恐らく私だけでは守り切れない。同盟の手で処刑される可能性もある。帝国に引き渡される可能性もある。どう処遇されるかどうも確信が持てない。

なにより、私はメルカッツ提督にだけは戦後の構想を打ち明けていた。逃走するのに相応な星系を見つけるのも、よく知られていない航路の探索も、実務は全てメルカッツ提督にして頂いていた。

提督にもいつかは帝国の家族の元に帰りたい気持ちはおありだったと思う。しかし敢えて私はそれを無視した。辺境の星系に逃避行をして頂く、それが私のプランだった。これはあくまで人道的な処置だ。

ただ逃避行と言っても、それで納得されるとは思っていない。そう考えたからこそ、私はシャーウッドの森という寓話を持ち出した。

私の目論見では、いったん帝国に支配された惑星自由同盟で革命や反抗が起きるとは考えにくい。民主主義を失っても善政が敷かれ人々が平和に暮らせるのならそう悪い運命ではない。

私もラインハルトの大切な来賓として扱われる。裏切り者と呼ばれ同盟市民から狙われる可能性の方が遥かに高い。

もちろん少しくらいは民主主義を求める活動には参加するだろう。平和的なデモ、民主制を後世に残してゆく学問的な活動、その程度だったと思う。すぐに帝政を倒せるとは考えにくい。

だから、私が生きている間にどうこうなるとは考えられなかった。私は安楽椅子の上で歴史書を読みながら寿命を終えるつもりだった。

民主主義の未来を次の世代に託し伝えてゆければ十分じゃないか。そう思っていたのに、人生はままならない。気が付けば私はまた宇宙へと飛び出している。私が決めたんじゃない。望みもしなかった。気が付けばそうなっていた。

ほら、ラインハルトが生きていてさえこれだ、もし彼が死んでいたら、私の未来がどうなっていたか。想像するだに暗澹たる気持ちだ。

そうまでして君は、私が宇宙海賊となり、帝国へと侵入し、銀河を支配し、全権委任を無制限に無期限に手に入れ、ルドフルのように自分の頭上に冠を乗せる姿が見たかったのかい。