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2024年1月6日土曜日

日本国憲法  第十一章 補則(第百条~第百三条)

第百条
この憲法は、公布の日から起算して六箇月を経過した日から、これを施行する。
○2 この憲法を施行するために必要な法律の制定、参議院議員の選挙及び国会召集の手続並びにこの憲法を施行するために必要な準備手続は、前項の期日よりも前に、これを行ふことができる。

第百一条
この憲法施行の際、参議院がまだ成立してゐないときは、その成立するまでの間、衆議院は、国会としての権限を行ふ。

第百二条
この憲法による第一期の参議院議員のうち、その半数の者の任期は、これを三年とする。その議員は、法律の定めるところにより、これを定める。

第百三条
この憲法施行の際現に在職する国務大臣、衆議院議員及び裁判官並びにその他の公務員で、その地位に相応する地位がこの憲法で認められてゐる者は、法律で特別の定をした場合を除いては、この憲法施行のため、当然にはその地位を失ふことはない。但し、この憲法によつて、後任者が選挙又は任命されたときは、当然その地位を失ふ。

短くすると

第百条
この憲法は、公布六箇月から施行する。
○2 この憲法を施行するために必要な法律、議員選挙及び国会召集に必要な準備手続は、前項の期日よりも前に、行ふことができる。

第百一条
憲法施行の際、参議院がまだ成立してゐないときは、衆議院は国会の権限を行ふ。

第百二条
第一期の参議院議員のうち、その半数の任期は三年とする。その議員は法律により定める。

第百三条
憲法施行の際在職する国務大臣、衆議院議員及び裁判官その他の公務員者は、その地位を失ふことはない。後任者が選挙又は任命されたときは、その地位を失ふ。

要するに

生物の遺伝子の中には胚から発生するまでの間だけ働くコードがある。憲法の中にも施行する瞬間までの事が記載されている。これらの条文は既に名残りであってもう活用される部分はないであろう。ただこの憲法にも始まりの時があった。みんなどのようにどきどきしたであろうか。

効力を発揮する前の手続きに正当性を与えておく。始まる前に骨抜きにされる可能性もある。クーデター、共産革命さえ警戒していた筈である。

この憲法は借り物か

我々の歴史で借り物は憲法だけではない。帝国憲法だって輸入品である。民主主義もそうである。帝国主義でさえ西洋から輸入したのであって、明治の骨格は全て借り物である。

いやいや、明治までの日本の歴史に接ぎ木したのだからそこに日本オリジナルがあるだろうという指摘はあるかも知れない。しかし、儒教も仏教や律令制も中国からの輸入品である。江戸時代どころか、飛鳥時代まで遡ってもほぼ全てが輸入品である。鉄の製法も伝来である、恐らく国という概念も輸入品であろう。神道だって当てにならない。

この国は東の端にあって、終点のひとつである。海を超える必要から相当の吹き溜まりとなったはずである。だれが好き好んで死ぬ思いまでして荒海に漕ぎ出すか。追撃され逃走し追い込まれた人々が無我夢中で飛び込んだに決まっているのである。

この国の骨幹は昔から輸入品で、物部氏が理想とした神道が日本固有かどうかは不明だが、それに対して蘇我氏と聖徳太子は輸入品を中心とする立場に立った。彼の苦悩は、輸入した統治の理想、仏教という思想を日本に如何に導入するかにあったと想像する。

自分たちのオリジナリティに悩んだであろうか。時に建国の熱気はそう言う問題を無視させる。オリジナルでない事よりも、導入したものを軌道に乗せる事に邁進する。彼の偉大さは輸入したものの中に価値を見出した事、それをこの国に合うように翻訳した事、更にはこの国特有のものにカスタマイズした事ではないか。例え借り物からであってもオリジナルを構築できる。それが彼の信念ではなかったか。

其れと比べれば日本憲法の始まりの経緯など小さな問題である。如何なる価値観も過去と断絶していない。民主主義の理想は大正時代の人たちでさえよく学び知っていた。彼/彼女らが自分たちのオリジナルでないからと民主主義を否定したという話は聞かない。

自分たちの手で組み上げたかったという気持ちはあるかも知れない。だがそれは最優先事項ではあるまい。そもそも自分の手で組み立てる事は決してオリジナルの保証とはならない。既存のものを組み合わせる時に元のオリジナリティにこだわるだろうか、それともその時の最善を注入するだろうか。

オリジナリティ

オリジナルとはどういうものか。憲法にこの国固有の価値観を含めて欲しいとか、過去の歴史を反映して欲しいなどの願望は、そのオリジナルがこの国の本来のオリジナルか、それとも起草した人のオリジナルか、単に自分が憧憬かが区別されなければならない。何を満たせば、この憲法を書いた人のではなく、それを読む国民のオリジナルと呼べるのか。

オリジナルを問うなら範囲を限定する必要がある。ピカソの絵は個性的だし確実に彼のオリジナルである。しかし、そのオリジナル性はどこにあるのか。その表現は彼から生まれた、それは確かだ。しかし、それ以前には何もなかったのか、それに通ずる片鱗はこの世界のどこにもなかったのか。オリジナルはゼロから生まれた場合にだけ成立するのか。

誰の影響も受けていないなどあり得ない。少なくとも世界は存在している。だからオリジナルは連続性の問題になる。この連続性をどこで切るかでオリジナルの概念となる。その切り方がオリジナルを決める。

憲法談義でオリジナルを問う人は、明治憲法に戻りたい人達であろう。そのアイデンティティはおよそ日露戦争にある。その希求は戦争の勝利である。これは結果に対する憧憬だから明治憲法そのものに関心がある訳ではない。その憲法の理想に共感している訳でもない。都合のよい歴史、である。

もし軍事的優位を欲するならば、法律論よりも科学に邁進すべきだろう。それを工学で最大限に活用する道を探るべきである。それ以外に近代軍隊を強化する方法はない。

だが求めているものはそういう事ではあるまい。幼稚な宗教でも国造りは可能である。狂信的な人間にも憲法は書ける。アメリカの情報機関が生み出した傀儡政権は片手では足りまい。そうやって明け渡すならば、それを止める手段を民主主義も憲法も持たない。

借り物という感覚には、根無し草の感覚があるのだろう。その感覚の根源を国に求めている。しかし、恐らく実際は世界の変貌がその原因である。過去ではなく未来への不安。故に憲法を変えた所で無くなる事はない。この世界の移ろいを正直に見つめる以外に出来る事はない。

民主主義

民主主義は討論を重ねるという建前から、多くの人の声を聴く必要がある。そのため自然と歩みを遅くする。ひとりの王が的確に指示すれば明日からこの世界が変わる。それと比べれば、民主主義は、議論を重ね、丁寧に説明し、反対する人の意見を聞き、何カ月もの検討を行い初めて法律が生まれる。

この遅さが民主主義の安全弁になる。ゆっくりと考える事。それだけが民主主義の危機回避能力である。この時間の長さに未来の明るさを担保する。

だから、目の前の悲劇を前に、立ち止まっているように見えて怒りを覚える人もいるだろう、無力感もあるに違いない。いますぐ対応が必要な時に、民主主義はゆっくりと書類にサインをしている。この不安に民主主義の本質がある。

スピードを欲するなら全体主義に置き換えればいい。独裁者に従い、支配者の声で一律魚の群れのように動く。蜂や蟻のような真社会性で、全員が自分の役割に徹し、犠牲も厭わず、利益もいらない。そういう社会ならば早く動けるだろう。

そういう不安に飲み込まれないために民主主義が提唱する仕組みはひとつしかない。準備しておく事。長く議論を重ね、限りなく遠くまで見通しておく。懸案など幾らでも生まれるだろう。そのために早くから準備しておくのだ。そのための多くの人の発言を搔き集めてきたのだ。できる限り取りこぼさないような仕組みを用意したのだ。

民主主義の方法は後の先である。何時でも動き出せるように準備はしておく。それが無駄に終わるならそれが望ましい。そのためには多くの人が限りなく自由に広く構えておくのが望ましい。

携わる人の数の多さが確からしさを保証する。その多くは役に立たず終われば良い。だがこの蓄積なく未来が切り開ける訳がない。だから科学との相性が良い。これが民主主義の安全保障である。だから誰も排除しない方向に歩んでいる。参加する人が多いほど可能性が広がるから。

世界の速度は加速している。動きが遅くて滅びた動物がいる。遅くなくても滅びた動物もいる。ただ急がなければならないと考える人たちに民主主義は難しいだろう。準備なく拙速が通じると思うなら何かが足りない。

悪人

民主主義は王政から生まれた。そのためにこの体制の駆動には王政から引き継いだ何かを要求するのではないか。そのため不用意に王政を滅ぼした国や地域では民主主義が上手く機能しないのではないか。フランスもアメリカも王の変わりを掲げているのではないか、だから機能しているのではないか。そういう仮説はありうる。

篤い宗教心をもつ民族が簡単に独裁者の手に落ちる。神への信仰が政治体制への批判にならない。恐らく経済を駆動する力にもなっていない。するとこの宗教心は社会的には駆動の役割を果たしていない。

人々はそれを考える根拠としながらも政治とも宗教とも結びつかないから、およそ現実の辛さを緩和しするためだけにある。服従するための農奴の信仰心になってしまう。それは隣人は救うが国は救わない。キリストを王とする国家は果たしてどのような市民を求めるのか。

この国にも他の地域と同じく政治の理想がある。姿形は異なるにしろ理想がある。それらは代々の我々が鍛えてきたものである。海外の最新の考え方を参考し、吸収し、自ら編み込んで育んできた。確かに現実は理想からは程遠い。そんな事件も事故も悪意も枚挙に暇がない。

それでも、この世界の国々は理想を信じて疑わない。例え真っ二つに割れて闘争を繰り広げている時分でさえ、我々はそこに国売りが交じり込むなどとは思っていないのである。

悪人という補助線を引く。そんな悪人ではあるまいと言うぼんやりとした信頼や、そんな悪人ではなかろうという期待から政権を託す。我々は情緒的にその人の能力よりも悪人ではないという事を重視する。これは裏切らないという価値観と思われる。

無能

無能は誰かの無知や知力の問題であろうか。能力の欠如だろうか。無能は優れた人がスタックする現象である。有能でない者は無能にもなれない。無能の本質は問題の側にある。問題が複雑であり、矛盾を持ち、制約を受けるために解けない状況である。それでも答えを出すならば無能は避けえない。

二律背反を代表として、なぜ解けない問題が発生したのか。それでも答えを出す、問題を解決しようとする。時間が停止しない限り何時かは答えが求められる。答えないという選択はない。

官僚の重要な仕事は関係者の利害の調整である。その調整がスタックすれば、事は動かない。それで放置すれば簡単に公害も薬害も起きる。その理由を無能に求めても仕方がない。無能でなくとも問題は起きる。ならば無能とは、考えるための出発点である。

どんな人も条件さえ整えれば無能になる。問題の解決方法をひとつひとつ拒絶されれば、残る答えは無能しかない。限られた予算で全力で最善を尽くしても無能の誹りは逃れられない。

だからがむしゃらに動くしかない。剣術の奥義は万策尽きたら最後はむちゃくちゃに動けであると聞く。何かをやって変化を起こしそこに活路を見いだす。故に暴走は無能の一形態である。そして日本は戦争に負けた。

我が国は海に守られてきた事もあって大陸型の戦争は知らない。もし大陸に国があったなら、とうの昔に滅んでいたであろう。我々は大陸型の国家を知らないから、大陸の端に少し手を伸ばした経験があるに過ぎない。

戦争

民主主義は恐らくこの地球に誕生した人類共有の思想のひとつである。誰が作ったか、どの国がルーツであるかを問うような問題ではない。万有引力の法則に対して誰もそのオリジナルを問わないのと同様だ。

全人類がこの思想に貢献してきた筈である。だからオリジナリティを問うならこの星という答えが返ってくる。どこでどう切り取ろうとそれは世界の誰かと繋がっている。民主主義は既に国家という概念を超えている、かも知れない。

物理学が世界を破壊する。そして物理学に反しない限りその自由は制限できない。そのため、世界を破壊から守るものも物理学しかない。

人間には核があるので世界を滅亡させる自由がある。これは誰にも回避できない。物理学だからだ。如何なる哲学も法体系も思想も物理学ではない。よって無力である。唯一対抗可能なのは精々報復をもって相手も絶滅に追い込むのみである。

だから狂信的な政治家がボタンを押せば人類は簡単に滅亡に向かって報復のミサイルを発射し続ける事になるだろう。

地球も宇宙の中では有限の惑星であり本当に小さな固まりである。人間が何をしても破壊されないような場所ではない。この星もこの星系も宇宙からみればごく小さな物質である。

それでも人類にとってはこの星は母親であるから、幼児のような純真さで何をしても大丈夫だと信じ込んでいる。だから戦争を止めない。何をしても決して壊れないという無垢さで力の限りで力を行使する。プーチンもネタニヤフも戦争を止める気はない。その精神構造はどれほど老齢になろうと幼児のままである。

彼らはこの戦争の理由を恐怖に求めている。民族や国家の生存権のため、この力を行使するのだという主張を繰り返す。恐らく自分でもそう信じて込んでいる。だがその根底にあるのは自己の権勢を維持する事である。そのための始めた個人的な戦争である。

己ひとりの権力を維持する為なら国民の死は必要なコストである。もしそれを邪魔するなら国民も敵である。必要ならこの星ごと破壊しても構わない。そういう一握りの人間が核のボタンを手にしている。

既に破滅され消滅した社会は幾らでもある。それでもこの世界は続いてきた。それは単に地球のキャパシティーを破壊の規模が超えていなかったからである。

この空の下では何をしてもいい。この空の下では死も含めて人間には自由がある。その自由に制限はない。法は権利を主張するが為政者は自由にそれを上書きできる。なぜ核兵器を持つ国だけが人類を絶滅する権利を有するのか。この宇宙にはそれで滅びた生命体が必ずいる。

反論

このような世界ではどのような憲法も無力である。我々に必要なのは改憲ではない。確実に生き延びたければ核である。あらゆる戦争の答えが核保有の圧倒的な有利さで答える。それ以外に国が立つ根拠がない。

自衛のための核保有を禁止する憲法がある訳がない。それは理念の問題である。紛争の解決のために核を使用するのではない。あらゆる政治家はそう答えながらボタンを押す。

この国は底が抜けてしまった。ざぁざぁと水が抜け始めているが巨大な水瓶なので暫くは気付くまい。この社会がさてどうなるか、この世界がどうなるか。何を語ろうが独立の恐怖に憑りつかれた者たちには核という説得力しかないのだ。憲法の理念など絵空事にしか見えないであろう。

恐怖に駆られた人間に必要なのは兵器である。それしか恐怖と対峙する方法がないからだ。共に生きて行けない相手ならば滅ぼすしかない。相手もこちらを滅ぼしに来るかも知れない。それなら戦争だ。誰も躊躇せず、核のある場所へ向かう。停止を叫ぶ人の声は届かない。支配するか滅ぼすか以外にどのような手段があるのか。

我々は大切なものを守るためには最後まで戦う。滅亡も厭わない。その過程でこの星が消滅しようが知った事ではない。我々が滅びた後の世界がどうなろうとそれを気にするのは我々ではない。どこまでも道連れにする。苦しみ以外は残さない。これが我々の存在を顧みなかった者たちへの当然の報復だ。

立つべき場所

憲法はこれらに答えない。ただ基本的人権を訴え続けている。

憲法は紙切れだから無力である。動物たちにさえ簡単に食いちぎられるくらいに脆弱である。恐怖は人に武器を取らせる。それは正しい。手から先に何かを欲するなら、それは武器でなければならない。石器の頃から、人は手にしてきた。

では手に武器を欲するのは何故かと考える。恐怖は答えではない。恐怖は常に何かに対する反応だからだ。その反応の前に何かがあった。その恐怖を生み出した何かがある。それが生物的な生存欲求となって知覚された。この信号が連鎖しながら焦燥感や心配という情緒と強く結びついてゆく。

その正体を見つける事はあくまで個人的な体験である。それらは強い感情と結びつくので、それを解消するためにはという風に脳は情報を統合する。そしてその多くは、単純に目の前の中から、最も簡単な所に見つける。

脳の意識はそのように原因を見つけるものだ。これに違和感を唱える無意識は多くの場合は無視される。フロイトが夢に頼らなければならなかった所以である。

こんな単純な、生物的な、野生動物の反応に基づいて、我々は戦争を始める。人間も動物だから工夫をしなければ、この程度の問題解決しか見つけられない。

生物的な生存欲求、生命的危機に対する憲法の答えは、基本的人権は尊重されているか、である。何も本能的な心理の働きや交換神経系の活性、ホルモンの分泌に頼るまでもない。静かに基本的人権は尊重されているか、と問う所から問い始めれば十分だと答えているのである。

改憲

我々の前には茫洋たる大洋が広がる。指針を持たぬ国家に憲法は維持できない。

我々は未来が見通せるほど賢くない。だから何かを後世に残すなら、具体的な何かよりも、千年後までこれは正しいと信じられるものに限定すべきだ。これならば千年先の人も頷いてくれるだろう、というものが望ましい。例えばアメリカはそれを自由とした。

同じ思いで居たはずなのに明治の元勲たちは教育勅語を我々に残した。今ではこんな教育していたから戦争に負けたのだとさえ理由なく嫌われている。または熱烈な支持者を生み出すものになってしまっている。日本人に近代国家は早すぎるのではなかろうか。

戦前に戻りたい夢想家が改憲を主導するなら、それは仕方がない。それがこの国の民主主義の姿だ。目先の金のためになら何でも売れる国民性であるから、それもひとつの民主制であろう。最初から憲法など必要としない民族であった。

そこまでの無垢さと幼児性でも国家を建国できたのである。それで良しとすれば良いのではないか。何をしようがこの国が亡びるはずがないという戦争があったばかりである。

しかし、別に滅びてもいいのである。それはこの星が滅びるよりはずっとましである。この星で幾つもの生命が消えていった。

残った生命が優れていた訳ではない。滅びた生命が劣っていた訳でもない。それぞれ環境に応じただけである。残った世界には姿を変えた何かが生まれるだろう。滅びる事で初めて次の世代が誕生する。それは価値のある絶滅ではないか。

憲法は未来への切符だから、そこにしたサインがどこへ向かうかを我々は知らない。だが、この切符の行く先を、未来の人は理解するだろう。どんな切符であれそれが民意である、民主主義であるならば、そう懐かしむしかない。

道徳

憲法は道徳であるか、否。しかし道徳について考える事と等しいのではないか。

理想がある。理念がある。それを生み出す根拠とは何か。理念を生み出す根源とは何か。同様に道徳の根拠とは何か。

我々はそれを好ましいもの、信じられるものと知っている。なぜ知っているのか。世界の平和や国民の繁栄は正しいし望ましい。でもその正しさは説明も証明もできない。

なぜ憲法を書くのか、悩むからであろう。悩んだ末にこれは書く、これは書かないという取捨選択がある。そこに価値がある。憲法を法律を統べる王としか認識できない者に憲法は書けない。世界には憲法と名付けられた憲法でない法律がある。

何が好ましいのか、それを憲法に記す理由は何か。なぜそれが信じられて、誰に向けて書くのか。国家を統べるとは独裁者から国を守る、侵略者に屈しない国を作る、未来の国民に誇れる国家でありたいという願いを伝えたい。

憲法は国民に向けて書くものではない。決して。何故なら憲法は生まれてから読まれるものだからだ。読まれる事を期待している以上、それは必ず未来に向かってである。未来と過去の区別がつかない人には生涯分からないであろう。未来に向かうように見えて過去に向かって生きる者は尽きない。

人間は徳に関しては無意識にも正しいと思うものである。徳のある行為は万人で共有する。無条件に分かり合う事ができる。殆ど脳の中にそのような回路があるかのような反応である。

理由が何もないにも係わらずである。何故そうであるかを幾ら説明した所で利益以外の言葉はあるまい。合理的に考えれば利益である。これは答えではない。作用の説明である。これでは道徳とは腹が減ったと同レベルの情緒ではないか。ならば理念も情緒の一形態なのか。

そうかも知れない。人は誰もが徳は分かると信じている。これは相当な場合で確からしい。この能力を駆って我々はこれまで生存してきた。そしで、この能力を駆って我々はこの強大な法体系を構築し続けてきたのではあるまいか。

ならば、法体系の出発的にあるのは道徳であり、理念である。だから、それをそのまま法として書く事もできる。そして太古の人々は気付いたはずである。それだけでは不十分と。道徳と理念は矛盾の発生を止めないから。

道徳や理念をそのまま無条件に信じては危うい。だから法がいる。法だけでは危うい、だから憲法を記す。

そのような構造でなければ意味がない。素晴らしいものだから書くのではない。素晴らしいものと認めた上で、故に危うい。だから憲法にその危険さを記す。我々の中にある道徳や理想の何に警戒すべきか。それが憲法の正体である。