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2016年9月24日土曜日

シン・ゴジラ - 庵野秀明

庵野秀明


シンゴジラを観た。面白かった。それだけならば何も語る必要はない。何かがそこにある。と思うから語りたくなる。

見る前からシンゴジラについて、というよりも庵野秀明について考えていた。果たして彼が紡ぐゴジラはどういう形になるだろうかと。もちろん、全く予想もしない作品であった。終わってみれば、この映画はとても心地よかった。

庵野秀明とは希代のブリコラージュ(切り貼りの作風)である。それがエヴァンゲリオンで傑出した。作品の中に無意味に聖書や量子論をコラージュする。それが如何に作品に奥深さを与えたか。それが如何に底深く見えたか。

我々は暗く深い井戸を覗き込んでいたのではない。きっと黒い水の井戸を覗き込んでいたのだ。

手塚治虫の作品がヒューマニズムを貪欲に取り入れたように、庵野秀明は作品に過去を取り込む。その実、そういうものにちっとも興味がない。これは両者とも同じだ。社会の問題意識など作品のつまくらいにしか思っていないのである。

面白い作品が正義。作品のためなら悪魔との契約も考える。だが、彼らも何故それが面白いのか、それを掴みきっている訳ではない。

それを裏付けるものは感性しかない。何がどうであれ、この方が面白い。その確信の中にだけ、作家の社会も個人も思想も感情も含まれる。

それを面白いと思う自分が居る。なぜ、あれはああも自分を魅了するのか。必ずそこには何かがある。それは作ってみなければ分からない。

料理の素材など、てんで興味ないのに、あたかもそれが重要なテーマに見えてくる。余りにもコラージュが凄すぎて、切り貼りをテーマと勘違いしてしまいそうになる。

思いついたものはただ自分の中で忘れていたもので、必ず何か元ネタがあるんですよ。それでハッと気がついて、あっ、あれだったのかってわかって、ちょっと嫌な気がする。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.46

そう語る作家が、独自性がないならば、あるように見せればいい。そういう方向に才能が突出した作家である。オマージュの中に読者への謎かけが散りばめられている。

何かがあるように見える。重要なメッセージに見える。そのどれもが重要な伏線に感じられる。エヴァンゲリオンの面白さの中に、人生で大切なものが何もないなどあり得ない。そういう直観に対する答えをみんな求めている。誰もがその答えを待っている。もちろん、それは作者も含めて。

見ていない映画とそっくりだと言われても、僕は責任は取れない。僕の持っている人生観や考え方以外は確実なオリジナルは存在しない。それを突っ込んでしまえばただのコピーでしかないと言えるんですよ、胸を張ってね。
庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン p.50

張りぼてと言えば「王立宇宙軍 オネアミスの翼」であるが、さて、この張りぼてをどうするか。これが庵野秀明の作風に見える。膨らませるだけ膨らませたカエルのような。

今さらエヴァンゲリオンの中身は空であると言われても困るのである。禅ではあるまいし。

中身がどうであれ、それに一番に近いのはお前じゃないか。この世界で、お前ほど、それを描ける人間はどこにもいない、それが観客の心持ちであろう。

元来、エヴァンゲリオンには誰もが納得する答えなどないはずである。どのような解釈にも何かしらの違和感が残る。問うているのは作者ではない。その答えは観客のひとりひとりの中にしかない。そこに答えがあると思っているのが間違っている。自分の中にあるものを他人が提示できるはずがない。見つからない答えを探している。この矛盾がエヴァンゲリオンの魅力だろう。

ただひとつの解がないのは幸いである。どんな解でも成立するから。解釈の数だけ作品は成立する。あらゆる解が正解であり、かつ不正解なのである。どの解も正しく、かつ正しくもない。だから作品の解釈は尽きる事がない。

庵野秀明の解釈でさえ正解とは言えない。それも解釈の一つに過ぎない。

足りないのは、庵野秀明以外の人がエヴァンゲリオンを作れないという事だ。多様な作品が生み出しているガンダムと比べてみればそれが不幸である。作品のバックグランドを考えれば、もっと多くの作品が生まれてもいい。何が次の作品を躊躇させているのか。本体が完成されていないため、他の人が踏み越えていないだけのようにも思える。

多くの作家がどうすればエヴァンゲリオンの次のストリーを作れるのだろうか。何があればそれをエヴァンゲリオンと呼べるのだろうか。ガンダムがひとつの時間軸上に多くの作品を生みだした事と比べれば、エヴァンゲリオンはそうでないアプローチが相応しそうである。

新しい作品の解釈が、別の物語を生み出す。ひとつひとつがガンダムという世界観を拡張する。何があればガンダムと呼べるのか、ガンダムの定義をしつつ進んでいる。ファーストからターンAまでが同じガンダムという世界で統一できている不思議さ。

それと比べればエヴァンゲリオンに必要なのはマルチバース(多世界)という考え方だと思う。幾つもの異なったエンディングが成立する世界。まるでエンディングが複数存在するゲームのように。

選択が変われば違う世界が生まれてくる。異なった選択が違うエンディングに至る。それがいい。だが、新しい意識が生まれるにはまだ何かが足りていないようだ。

シンゴジラ


邦画など認めない。邦画を面白いという感性などありえない。そう思っているから、シンゴジラも警戒していた。それが杞憂であった事が嬉しい。

演技さえしなければ日本人でもいい演技ができる。演技する隙を与えない。これがシンゴジラの最大の功績だ。これがこの監督の最大の演出だったに違いない。この手腕だけで彼は日本最高の監督になってしまった。

おそらく原本を知らない沢山のオマージュがある。それを探すのを楽しむ人もいる。これは様々なものを散りばめたコラージュだから。と同時に、そこには明らかなオリジナリティがある。この映画は見事に庵野の作品だと思う。

もちろん、予備知識なしの初見でシンゴジラの監督を言い当てられるかと言えば、そんな自信はない。彼の作画でさえ当てる自信はない。後付けかも知れないが、これは庵野の映画に違いない、と思うのである。

シンゴジラには、意味あり気に見えるものを推量する楽しさがある。言わせたかったけど敢えて言わせていないセリフがある。それが観客の中に自然と浮かんでくる。僕は官邸からヘリで退避するときの大杉漣が、私は総理だから最後までここに残る、君たちは先に避難してくれ、と言いたかったのをぐっと我慢しているように見えた。その解釈をとても気に入っている。

前半の会議を意味のないだらだらとした烏合とする見方には同意できない。徹尾徹頭、この作品には、無能な政治家も官僚も登場していない。映画の都合で混乱を引き起こすためだけに存在するキャラクターはこの映画では皆無である。

全員が立場を異にする有能な人たちの集団として描かれる。全員が有能すぎるとさえ僕は思った。手塚とおるの存在感は特に印象深い。

他の映画なら明らかに無能から混乱を作り出す、主人公を窮地に陥れる役割を与えられていた人だ。そういう演技しかできないようにさえ見える。だが、そんなことは監督が許さなかった。そのお陰で彼は彼なりに大臣として、多様な視点のひとつとして重要な位置に配置されていた。

もちろん、すべての描写に不満がないわけでない。

ビルを一瞬で焼き切るほどの放射線が、その途中の空気に何の作用も起こさないとは考えられない。その描写が僕には不満である。自衛隊の兵器が効かない有機化合物の皮膚もどういう構造かと訝しい。

だがそれらも、ゴジラが嘔吐するシーンの前では帳消しである。シーンのクリエビリティ、今まで見たことのない世界、もしかしたら自分が知らないだけで、これさえもオマージュなのかも知れない。僕がオリジナリティと思うそれが、原作者にとってはただの焼き直しなのかも知れない。だがこの表現は本当に新しいと思った。まぎれもなく自分は庵野秀明という才能に触れているという感覚。この感動はしこたまな才能に直接触れている感銘以外あり得ない。

僕は庵野秀明と同時代を生きている事を幸運だと思う。彼の才能に触れられる事が嬉しい。その才能と比べれば、あらゆることは些細だ。作品の中に納まりきれない才能がフィルムの端々から溢れ出る。才能とは他の人の中で何かを励起する働きである。暗闇の中で、その光の洪水を前に僕は溺れるように浴びている。

石原さとみ


あれが演技なのか。その存在は映画の中でも浮いていたように思う。映画を見ながら英語訛りの日本語にも違和感を覚える。CMでの幼さやコミカルな演技しかしてこなかった人ならあれでも十分な演技というべきなのだろうか。

しかし、暫くしてから、ひとつの結論に達する。シンゴジラを語る事は石原さとみを語る事とほぼ同じである。

彼女の容姿には、後ろ姿の足の短さとお尻の素晴らしさしか印象にない。それ以外の演技はほとんど見る価値がない。石原さとみの登場シーンなど二度と映画の仕事は来ないんじゃないかとさえ思った。ただ立川の飛行場に立つシーンだけはとても良かった。喋らなければいい演技をする女優なのだと思った。

だが、彼女に求められるものは演技ではない。彼女の存在は、ほかの出演者と違って特殊なのである。彼女の存在がシンゴジラを決定しているのだと今は確信している。

彼女は声がいい。この実写作品の中で、唯ひとり声優として存在していたのではないか。物語の中でナレーションという役割を彼女が担っていたのではないか。その証拠に物語が大きく動くとき、必ず彼女の介入があるのである。

彼女の声が物語のリズムになっている。時に箸休めであり、時に物語の導入、時に佳境の記号として。

彼女は核を落とせばさすがにゴジラは破壊できると思っている。だが、観客は核を落としてもゴジラは破壊できないと思っている。だから核を落とすのなぞ止めろと。そんな無駄な事のために東京を焼かれてたまるか。

そんな重要な場面に彼女がいる。彼女の言葉が物語を支えている。物語を進めて行く理由になる。描きたいものはゴジラの姿だ。だが、ゴジラだけでは映画にならない。物語がいる。物語は進行しなければならない。その進行役が石原さとみなのである。日本が核攻撃される、という決定的な、しかし物語の最も重要な状況にリアリティを与える役が石原さとみなのである。

シンゴジラには彼女の印象しかない。それ以外は光を吐くゴジラとか、鰓から血を流すまん丸お目目とか、走ってゆく新幹線とか、そんなもんである。

ドラえもんのリアリティが道具に支えられている。上手く道具を使えば一瞬で問題は解決するのに、それを使わない。だから物語が成立する。ドラえもんのリアリティは使われない道具が支えている。ドラえもんが道具を選ぶとき、その選択で物語が決定されるのだ。そういう構造がある。

ハリウッドの映画は CG に依存している。CG が描く映像がリアリティを支えている。

日本にはその技術がない。だからリアリティは必然と別のもので担保する。主にそれを支えているのが原作である。原作が持っているリアリティがそのまま映画のリアリティになる。映画がどれほど安っぽく陳腐であっても、原作の持つ世界観が映画を支配している限りリアリティは崩れない。その範囲においてリアリティが成立している。

優れた CG が描くリアリティにもひとつの欠点はある。観客は CG に直ぐに慣れてしまう事だ。CG による驚きは二時間も持たない。だから CG でじっくりと描くことは難しい。飛んでいるイカロスが羽を緩める事ができないように止まる事は許されない。

シンゴジラのリアリティはそのいずれとも異なる。庵野秀明という才能を鑑賞する事がこの映画のリアリティだと思う。作品を凌駕した才能が僕のリアリティだ。

走るように流れてゆく物語の中で、石原さとみが登場する時、物語の展開が行われる。オーケストラの指揮者を庵野秀明とすれば、石原さとみはコンサートマスターのようなのだ。

物語が日本という閉じた世界の中にあって、石原さとみだけが外部との接点を担う。日本をひとつの細胞とすれば彼女はカリウムポンプのようなものである。もちろんフランスの大使であるとか、作中では描ききれなかった外部は多数設定されているが。

ゴジラという異物が侵入した世界に、石原さとみがアメリカというもうひとつの異物として侵入する。ゴジラと石原さとみだけが他者である。この二重性がシンゴジラの構造だろう。

石原さとみは多くの怪獣映画が必要とした神への生贄としての存在ではない。津波は生贄などで止まるわけがない、311で我々はそれを知った。原子力発電所が生贄で抑え込めるわけがない。我々に必要なのはそれ以外の何かだ。

彼女が演じたカヨコは、最後まで石原さとみのままであったように見える。誰もがその場面に自分を置いてみる。自分がその立場になったらどう行動しただろうか、どのような事が出来るだろうか、と問う。

そこにおいて彼女は、他人事としてゴジラの中に生きている。石原さとみが演じるカヨコは最初から安全圏にいた。彼女だけが、帰れるアメリカという国を持っていた。それは、リアリティとしてテレビを介して津波を視聴している我々の本当のリアリティを代弁していた。

2016年、夏

監督はひとつの夏を狐付きにする。狐が落ちれば、あっと言う間に忘れられるにしても。ある時代に大流行した作品が跡形もなく消えることは珍しくない。

作品の鑑賞は己の嗜好や心情、世界の切り取り方と関係する。それが面白い、詰まらないを決めるのも当然である。しかし嗜好に基づいた論点から作品を語るのは面白くない。それは単なる作品を通しての自分語りである。この世界には面白くても語る必要のない作品もあれば、面白くなくても語らなければならない作品がある。

この作品は多くのアナザーストーリーが作りやすいように作らている。それはエヴァンゲリオンの習作のようでもある。

例えばカヨコ・アン・パタースンはこの体験を本を書くに違いない。彼女の一人語りとしてのシンゴジラがそこに生まれる。その後の政治家としての姿は別の映画できっと描かれるだろう。

幾世代の時代がありました。それは誰にも分からぬ流れです。分岐点がどこにあるかも知りません。忘却されたものが再び浮上することもあるでしょう。まるで水の中なのです。何かがある。その予感が面白さを凌駕します。

理由が見つからない。なぜ理由が必要なのか。なぜそれは理由なのか。