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2012年9月24日月曜日

創造性の行先

テコンVという作品は 1976 年というからもう 35 年も前の作品なんだけど。35 年も前にオマージュし(パクッ)たから、今でもあの国の作品はそうであるとは言えない。韓国の実写作品には魅力的で独創的な作品も多い。

古い映画の上映は楽しんで見るものだ、おお、なつかしい、あったねぇこれ。当時の風俗だの差別語だのを批判する人は何も語ってはいけない。何故なら、今語っているその言葉は必ず未来から批判されるから、そういう考えを続けている限りは。

古いと言う事で面白がれる人もいる。今との対比が面白さを生み出す。まるで幼稚で汚く退屈な作品で見るに耐えないと言う人もいる。

想像してみよう。溢れる情熱だけで不足する人材と技術、資金、どうやって学べばよいのか。何時の時代でも国外の優れたものを取り入れる事だ。飛鳥時代から日本がしてきた事だ。トレースしたり、真似る事のひとつひとつが大切な歩みであった。

雑誌か何かでこの作品の記事を見た時にこれなら日本の相手にならないと思った。マジンガーシリーズに影響されたよくあるデザイン、古臭いキャラクター。ストーリーに深みがあるとも思えない勧善懲悪もの。だがとても笑う気にはなれない。昨日、下手に真似ていた人が明日は我々を凌駕する作品を生み出さないと何故言えよう。その作品を見てすべき事は笑う事ではない、気を引き締める事だ。今日優位である事は決して明日の優位を保証しない。

思えば偽物とは何だ。間違って買ってきたら絶対に喜べない。これだけ似ていないものを買ってしまう気持ちが分からない。でもおばあちゃんの間違いを非難なんて出来ない。という子供を育むクオリティの高い商品。

"合体巨艦ヤマト"、ああ、懐かしい。僕の欲しいヤマトはこのヤマトじゃないんだ。

ガンダムの代わりがガンガル、ガルダンだったら。これが自分の仕事なら僕はやりがいを感じる。オマージュのありったけを込めて本歌取りのつもりでパクってみせる。しかしこれらの商品は手にした子供の残念さが分かってしまうのである。

偽物とは何だ、それを見分ける主眼を持っているか。真贋をどこで区切ればよいのか、これが難しい。同じパクるにもパクり方と言うものがあるのだ。

完成度、という言い方がある。習作なら優れていても本物と謳えば贋作である。どこが違うのか。完成度とは作品の持つ力だ。そこから生じた社会的価値、つまり価格が偽物を生み出す。だから贋作とは商業上の分類だ。

であれば贋作は作品が持つ力とは関係ない。このヤマトじゃないのに、という子供の中には金銭の価値観はないだろう、だが社会的にそれが贋物であるということは十分に感じ取っているのである。

中国でも日本の漫画やアニメの人気は高い。フランスでも日本の作品は普通に読まれていると聞く。じわじわと広がり続けている日本の作品が与えているものは彼らの娯楽だけではない。

必ず触発されて同じものを生み出してみたいと欲求する人たちが生まれる。その中からオリジナリティも完成度も高い作品が生まれるのは時間の問題だ。

既に韓国出身のBoichiや梁慶一らが日本で作品を発表している。日本で活躍することが頂点であるという意味ではない。日本のコミックが浸透すれば、どの地域からも優れた作家が出現する実例である。

これらの模索者達が生れるのは国内外を問わない。彼らを生み出す光りは国境線に関係なく等しく人を照らす。アニメや漫画において日本で生み出されるものに優れたものがある事は疑いようがない。だが、それが明日も生み出されるとは限らない。

優れた作品は、どの地域に生きる人であれ、何時の時代に生きる人にであれ等しく降り注ぐ。であれば、十分な光を受け取って植物が成長してゆくようにあらゆる地域から新しい芽が息吹く事は疑いようがない。

特に異なるカルチャー、ヒストリー、フィロソフィ、デザインを持っている事は有利だ。最初に駆け出した者達がマンネリズムに陥る時に彼らは新風を吹き込む。

日本が今の地位を保ち続けることを保証する根拠など何処にもない。特に日本のアニメは使い捨てと金銭の問題からこの国からクリエータたちが消滅する可能性さえある。

囲碁は 20 年で追いつかれた。

日本のアニメや漫画が、作家性、思想性、物語性にアドバンスを持っていた時代は確かにあった。そのアドバンテージとでも言うべきオリジナリティが一体どこから生み出されているかは誰もが知っている。それは日本で起きた特殊な事件だったのだ。我々の持つこの思想性ってなんだろう、と思う。それを語る方法を誰かが教えてくれたんだな。

歌を歌えばそれが伝えられるよ、詩を書けばそれが主張できるよ。それと同じように、漫画を描けばこれだけのものが表現できるよ。そう教えてくれた人がいたのだ。

アメリカにはディズニーがいた。たったひとりの人の出現がその後の 100 年を決めたのだ。もし中国にそういう人が出てきたら、そこから 100 年の間は彼らの時代となるだろう。アメリカも、フランスも、ドイツも、イギリスも、アフリカのどこかも、ユーラシアの何処かでも。

実写映画では、日本に劣ることなく中国や韓国にも優れたクリエータが既に居る。何故、漫画とアニメだけは日本が強いと未だに思えるのか。先人たちが通った航跡で遊んでいるだけの子供にはなるまい。

こんなの日本のコピーじゃないか、中国なんてものまねじゃないか、と安心してはいけない。物真似をちゃんと出来る人が独自の創造性を発揮するまでに 10 年はいらない。トライ&エラーを繰り返す彼らが圧倒的な技術を身に付けるのは時間の問題だ。

予算はたっぷりとあるし国家規模で営業もする。人材も予算も営業力もあなどれない。我が国に勝ち目があるとは思えないが、皇紀 2670 年、我が国が中国に勝った事など一度もないのである。

それでも雪舟は中国に渡り、ここにゃろくな絵描きはおらん、と言って帰ってきたという逸話がある。文化がこれほどまでに違っているというのは、面白いものだ。アジアはどこの国でもそれぞれの独自性を持ち、みな違った文化を持つ。人間というのは、ほっといても亜種になろうとする、そういう性質があるのだろう。いやそれは生物すべてでか。

我々はただ過去の威光だけで生きる訳ではない。だが過去に光を持つことの幸いも知っておくべきだ。この光りはいまや国境を越え瞬く間に広がる。今日もアフリカの大地の何処かに汚れた手塚治虫のマンガを熱心に読んでいる子供がいるだろう。彼が手塚を継ぐ者ではないと、誰に言えようか。

光りは照らすもの全てに降り注ぐ。例えプラトンの洞窟であったとしても。真似をしただの、完成度が低いだの、そういう事で笑える人はいい。その人はものを作ると言う事を知らぬのだ。

物を造る人は、決して笑いはしない。ただ作品を前にして不機嫌になるか、沈黙するかである。僕たちには手塚治虫がいただけじゃないか。それだけではないのか。この国にあるものは手塚治虫や宮崎駿といった人達の残照かも知れない。そこに慢心していていいのか。

明日彼らがどのような作品を作るか、それを想い恐怖すべきだ。

なぜロボットは巨大化するのか

アニメという架空世界の中で、巨大ロボットの世界が創り出されてきた。これは何を意味するか。巨大ロボットが存在するのは何故か。

この問いは巨大ロボットが何を具現化しようとしているのか、という問いに変換できる。それはどういう世界観からくる欲求であろうか。

人間は世界と時間の中で生きている。動物にとって世界はサイズによって決まる。生まれ持ったサイズで生きてゆくしかない。体のサイズがエネルギー量を規定する。

人間の生物的なエネルギー量は太古から余り変化はしていないだろう。しかし我々は道具を作り使うことで消費するエネルギー量を増大させてきた。エネルギー量で言えば我々の体のサイズは像と同じかそれ以上でなくてはならぬ。

サイズが大きくなると時間は遅くなる。生体時間(心臓の鼓動回数)は体のサイズの大きさに比例して遅くなる。エネルギー量の増加から言えば人間の時間はゆっくりになっていいはずなのだ。

しかし、サイズが変わらずにエネルギー量だけが増えたために、エネルギー量を基準として見れば、体は小さくなっている。体が小さいほど生体時間は早くなるのだから、我々の時間の経ち方というのは早くなる方向に進んでいるはずである。

我々は消費するエネルギー量が増えたことで体は以前よりも小さくなったと言えるのである。このことは車が生まれレースで競われ船が航空機があらゆる機械がスピード競争へと突き進んだ事とも一致するのである。

エネルギーの増加はスピードの発達の歴史でもあった。エネルギーが増えれば増えるほど、我々にとっての時間は早くなるから、それに見合った速度を求めるのは自然なことである。我々の体がその速度を生み出せないのであれば機械にそれをさせるのは自然の成り行きであったと思う。我々のエネルギー量では歩く速度は遅すぎるのである。

であれば、巨大ロボットが小さくなった自分の体と無関係とは思えない。小さくなった自分の体の代替であることは間違いない。そのサイズは自分が使うエネルギー量に見合ったものであるはずだ。巨大ロボットは増加したエネルギーに見合った速度と世界の両方を手に入れるための我々自身の写像なのだ。

今までにないエネルギーを手に入れて時間の経ち方が早くなったので、それに併せて移動手段は高速化され、我々の住む世界はずうっと小さくなった。巨大ロボットはこの小さくなった世界をもういちどもとの大きさに拡大するために存在する。時間が早くなったので世界を拡大することで比率を同じにしようとしているのだ。

巨大ロボットのサイズはみなそれが活躍する世界の広さに応じて求められる。少なくともこれだけの大きさがなければこの世界で生きていくには十分でない、という直感から決められている。世界の拡張とはロボットに与えられた使命である。巨大化したロボットで辿り着ける世界の大きさは、我々の欲望と一致しなければならない。

ボディの巨大化はエネルギーを得た生物が行くべきステージであり、何度も繰り返されたことだが巨大化する方向で生物の体が進化するのと同じなのだ。我々の進化では間に合わないので巨大ロボットが出現したと考えられるのである。

エネルギー量の増加は、一時的に時間を早くし生活圏を広げ(世界は相対的に小さくなる)、次に体を巨大化し時間は遅くなる(世界の大きさは元に戻る)。進化であればこうして新しいステージでの平衡を得るのであるが、巨大ロボットは時間を遅らせることはしない。だから世界を拡大することで辻褄を合わせる。我々のこの流れを支えるエネルギーはどこから供給されるのか、それに無邪気でいては、我々はいつか供給を絶たれ化石になった動物たちと同じように世界を失うかも知れないのである。

巨大ロボットも宇宙(そら)を行く船も、時間と世界の拡大の代替である。それはエネルギーに対する自然な反応であるから、我々の行く先もそういう世界であることは間違いない。

2012年9月18日火曜日

こんな大河が見てみたい

大河の悠久流れ絶え間なく
滔々たる日あれば濁濁溢れる日もあり
暑き日の涼たり寒き日の暖たり
汚れ穢れもいつの日か清らかなり

いにしえあめつちの頃から数多の泡あるなり
人忘れ世に消えると雖も確かにあるなり
誰ぞ是を知らしめんや
未だひと悩み多く有りいにしえに問う
今むかしの苦しみを紡ぎ前の糸後ろの糸
自在に編み込めばいかな織物にならんや

山縣有朋という人あり
維新の前に生まれ戦争の後に死ぬ
この国の重石なり
彼の死を以って時代の終わりとなす
後を継ぎし者たちの戦の始まりなり

大河ドラマが空疎なメッセージに埋もれ久しい。まるで民主主義の退廃と比例するかのようだ。弱々しい夢や空虚な明るさで今の時代にコミットしようとするのか。今必要なのは暗黒の嵐ではないか、じっくりと見つめた薄暗い雨雲ではないか、ドラマには退屈しのぎ以外の何かが必要ではないか。

それでも大河ドラマはこの国の習慣に既になっておりサザエさんと並んでこれはもう我が国の文化である。

海は悪くない - 311日記

3/14
海が悪いわけでもない、大地が悪いのでもない。海岸に迫りくる津波は、物理の法則が示す通りに海岸に押し寄せた。誰も悪い訳ではない破壊があって、人々の想像を遥かに超えて、これだけの悲しみを残した。

初動としての遭難者の救出もあと一週間もすれば一区切りするだろう。そして次は長期的な避難生活が始まる。当初の興奮も収まり、これから粘り強く耐えてゆく生活の再建が始まるのだ。快適な布団、トイレ、お風呂が必要で、加えて食料、水、この5つが確保されねばなるまい。伝染病の蔓延や衛生の劣化などに対応するインフラの復旧が早急に整えられるだろう。

生活する上での最初に必要な事が十分に供給されれば、次に必要なのが娯楽だ。娯楽と言うよりも心の飢えを満たすものだ。音楽、小説、漫画、囲碁、将棋、スポーツ、舞踏、演劇、映画、数学、文学、学問、ゲーム・・・そういうものが必要だ。戦後の焼け野原で貪るように漫画を読んだという話を聞く。娯楽に飢えるのはもう暫く先かもしれない、しかし、4月になれば必ず飢える。

もうすぐだ。

今年も東北の地にも櫻は咲くだろうが、それが一つの象徴となって欲しい。ゴルフのパター練習マットも娯楽としては最適だろう。野球やサッカーが始まれば、それを映すテレビ、ラジオも必要となってくる。

勿論、仕事が重要な心の飢えを満たす。それは破壊された地域の復興の中心となるだろう。経済が落ち込むというが、それは一時的で暫くすれば必ず復興が始まる。復興は悲しみと喜びの中から始まる。みんなの掛け声が聞こえて来る。

どこから手を付けてゆくんだろうと、テレビの映像を見るだけでもクラクラするが、実は簡単な話であって目の前のものから片付けてゆくだけの事だ。片付けるのには、小さなものから手を付ける派と、大きなものから先にする派がいるだろうが、どちらでもいい、それぞれの地域でそれぞれに復興してゆく。これだけの大災害であるから、見捨てなければならない地域もあるだろうが。

それは遥かに想像を超えているが、だからといって無理な話しではない、行方不明の人は最後まで見つからないかも知れない。携帯電話はどの基地局と繋がっているかという情報を持っているから、どの時点で、どの基地局と繋がっているか、という情報があれば安否情報を確認するのに参考になるかとは思われる。それは時間が経てば生前の最期に生きた場所として残された者には大切な話になる。

機構的に破壊され過ぎて駄目な可能性も高い。国の予算も無尽蔵ではないので、何もかもは出来ないだろう。だが、自粛だの不謹慎などという言葉を今ほど遠ざけるものはない。他の地域の人達までが経済的にも心的にも沈み込んでしまってどうするのか。

娯楽でもゴルフでも買い物でも風俗であろうと、今こそ、金を使って使って使いまくる。それが被災者(東北の人、旅行中だった人、留学中の人達)を支える。彼らの分まで飲み食いせよ。国内の全てが停滞して東北を捨て去るような事をさせない為にも、生活再建する時に彼らの仕事がないと言う様な事にしないためにも、もし復興を願うなら金を使って使って使いまくるべきだ。

それは不幸な破壊であったが、一からもう一度再建するのだから、それは希望の再建だろうと思う。これだけの破壊が我々の精神に何も残さないとは考えられない。それが、遠くイノベーションを生みだす力になると信じる。


3/15
テレビの報道は難しい。専門家も素人も満足させる情報を的確に伝えるのは至難だ。例えば、燃料切れで給水停止とあるが、燃料切れの理由が他を見回っていた為と言うのも疑わしい、疲れて寝てしまったのじゃないかと思うが、それを咎める理由は感じない。

何人が作業に従事し、どれだけの労働が行われているのか、一定時間での交代も必要であるし、十分な休養も必要である、必要なものが十分に取れているのか、彼らの労働環境もよく分からない。

別に真相を究明せよと追求したい訳ではない、それは、彼らのただでさえ忙しい状況を、無駄に圧迫するだけだ。現場がどのような連絡体制と情報網の上に成り立っているのかは純粋な技術者的興味として気になる。スピーカーをずっと ON 状態にして NASA の宇宙船と管制官のように会話するのか、それとも、時たま電話で連絡するのか、FAX で定期連絡を入れているのか。全ての通話をだだ漏れさせた方が早いんじゃないかとも思うし、そっちの方が負担も軽くなると思う。でも、それでは素人を無暗に不安に陥れる懸念があるだろう。それ以上に社会的な圧力で自由な判断が制限される状況が恐ろしい。

つまり、素人は口出しするな、というのが本心だろうし僕でもそうする。ROM ってるだけなら何でも公開する。例え専門家からであろうとも横槍を入れる余裕はないと考える。

例えば、 http://www.tepco.co.jp/cc/press/betu11_j/images/110314s.pdf にはモニタリングカーによる計測結果が報告されているが、こんなものは車にバッテリーと計測器、通信機器(携帯電話とかその類)を載せて10分置きに計測結果をサーバにアップロードする機械を積んでおけば十分である。そのような車をあちこちに放置しておけばそれでいいじゃないか。後はデータベースと Web がプログラムによって勝手に表示してくれる。

情報を公開するには生データが理解できる専門家もいれば、暗号にしか見えない人もいて全員を満足させるのは難しい。更には被災者とそれ以外の人もいて其々が望む情報も違っているだろう。その違いがメディアのそれぞれを特徴付けるのかも知れぬ、テレビとラジオの放送内容の差ともなって現れるかも知れぬ。

データの収集と加工には大変な労力がかかるものである。新しい情報公開の局面に来ている。専門家は生データを欲し、大部分の人は、公式発表と色々な専門家の意見を比較したい。そのためには一次資料をどう公開して行くかが重要になり、これは公開できない情報とは何であるか、理由は、という議論に突き進む。

決して政府や当事者の発表は信じるに値しない、という話ではない。マスコミという一次加工者だけでは70% の満足しか得られないから、残りの 30% をどうやって埋めていこうかと言う話に過ぎない。

今回の様な大事故は初めての事であるし、ここでの反省は必ず次回に生かされるであろう。これで十分だと思う人もいれば、情報が少ないと感じる人もいる。専門家だってもっとこういう情報が足りない、と声をあげるべきだし、それを当事者の耳にまで届ける仕組みもいるだろう。それは現場の人たちだってそう感じているだろう。情報とリソースの不足の中で、それでもしっかりとやって欲しい。

自分としては基本的には ROM に徹するつもりだ。当事者たちの邪魔はしたくない。マスコミ(特にテレビ朝日)が不安を煽るモードに入って、例えば、アナンサーが焦った口調や深刻そうな語り口でオンエアに乗せる。延々と津波の画像に恐ろしげな声をあてて流してたり、解決も見えていない時点で既に批判的な意見が飛び出す。

これだけの事件でさえ、マスコミは、後から十分な検証をする気はないようである。だから、話題が新鮮なうちに全部言ってしまおうと思っているのだろう。批判は後から幾らでも受ける、今必要な事をなす時なので邪魔なものは全て後からにしてくれ、今はそういう状況だと思うし、報道もそれに徹するべきだろうかと思う。

今回の津波に関連して、もし先の戦争中に生きていたら、俺って、大本営発表をまぁ鵜呑みにはしないまでも、肯定的には受け入れていたんだろうなと思った。これには自分でも少し驚いた。今の政府は十分に信用に足る状況にあり必要な情報も出しており、しっかり対応できていると思う。何より今の政府に対して意味のない批判を聞くと、その人を非国民とは思わないが、こいつダメと思う。

例えば、ゲンのお父さんのように、もう戦争は終わりじゃ、負けるんじゃと言う様に、もう福島は終わりじゃ、爆発するんじゃ、と聞けば、頭クルクルと言ってしまいたくもなる。そんぐらい分かっておるよ、だが、現場では未だ働いている人がおるんじゃ、それをどうすりゃええかいの、という意見だって成り立つ。

空襲の後のような津波の跡をテレビで見ていて少しだけあの戦争が空想ではないものに思えてきた。


3/19
零下の中、冷たかろう、不安だろう、怖かろう。それでも命令一下、任務を遂行する。感情というのは、センサーの様なものであって、感情的になる時には其処に何かが潜んでいる。自分の意見を擁護して感情的な論戦があちこちで乱発している。その意見には同意できない、それには欠点がある。その自分の論拠を感情的にこだわる時は、きっとまだ本質が見えていないのだ。

官邸がダメだとマスコミや新聞でさえ言う。言うのは勝手だが、駄目な理由を書くことはない。書いてもそれは感情的な表現に過ぎない。対応が遅れた、だが遅れた理由は書かない。遅れた事は即ち無能の証拠なのか。

無能が故に遅れたと主張するならば、その無能を書かなければならぬ。遅れたから無能というのでは何も語った事になっていない。だが人はそれで納得する。巧遅拙速(こうちせっそく)、この言葉が思い浮かぶ、ただそれだけの理由で。

その先を考えてみるべきだ、遅れたから無能であると主張するなら、遅れていなければこうはならなかったと問うべきだろう。遅れなかったとしても結果が変わらないのなら、その批判は的がずれている。

そうやって一つ一つ丁寧に列挙して行くべきだ。その上でそう考える理由を以って、まったく別の事に応用してみる。すると、ある場合はその通りだ、許せないと思うこともあれば、同じ構造にありながら、それは許せる場面もある。

その違いが本質に繋がるひとつの道となって開ける。こう意見しているが、そう主張する理由は実はこういう話でした。今の僕には、官邸を批判する人は、とても浅ましい連中にしか見えない。その批判は、物事を進展させないばかりか邪魔である。弾圧しても構わない。今の困難を未曾有と呼ぶ者は多いが、その未曾有を他人事で済ませている人もいるのではないか。

今、現実の危機の前で粛々と放水している人たちがいる。黙々と電源ケーブルを引く人たちがいる。自分の被曝線量の累計とあと何回行けるかを計算している人たちがいる。

その批判は、彼らに力を与えるだろうか。
と考えてみる。

政府を批判する事は、彼らの何を後押しするだろうか。それを批判する感情をゆっくりと剥がし、ざくろの実のような本心を見つけてみる。その批判の奥には別の感情があるはずだ。そこにはきっと何かに対する愛情が潜んでいる。だから感情的になってまで守ろうとする。

その感情のイメージを絵にしてみたり、音楽にしてみたりすれば、きっともう少し分かり合えるんじゃないかな、と思ったりもする。もし分かり合えなくても助け合う事はできるかも知れない。そしてその方法以外でもその大切なものは守れるんじゃないか、と聞いてみるのがいい。僕は彼らの力にはなれない。だから彼らの無事を望む。これについては見守るしかできない。

彼らの行動を出汁にして官邸を批判する人がいるが、僕はとてもそんな呑気になれない。彼らにとっての未曾有はそういうものなんだろうか。彼らの怒りの奥にあるものは何だろうか。菅直人は陣頭指揮をせよと、銀河英雄伝説の読み過ぎみたいな事を言う人がいたので、それに釣られてつらつらと書いてみた。

怒りは放射線みたいなものでそのシーベルトは測量できる。それは心の底にある格納容器に守られた圧力容器の中にある核燃料の様なものだ。今は何を見ても、何をしても、全部が原子炉になってしまう。


3/22
まるで司馬遼太郎の二百三高地を読んでる気がする。

さて、情報は3つある、正しい情報、正しくない情報、分からない情報の3つだ。この分からないという状況があるのだから、全ての情報は、確からしい、誤っているらしい、どちらとも言えないのどれかに分別できる。

だから「この話が確かならば、けしからん事だ。」という主張は成立する。だが成立するだけであって「けしからんこと」には前提条件が付く。

もし彼女が俺のことを好きならば俺は彼女に何をしてもいい、だから俺は彼女に抱きついた。彼女に抱きついたが彼女は怒らなかった。だから彼女は俺のことが好きだ。こんな話をされたらどう言えばいいだろう。

さて仮定が正しい事は結論の正しさを保証しない。「けしからん」という結論が妥当であるかは、これまた、3つに区分できる。同意する、反対する、どちらとも言えないの3つに。

情報は、接続詞が付く程に確かさは薄れてゆくと思っていい。距離の二乗に反比例するというのと同じと考えていい。勿論、この結論も事の本質上から3つに区分できる。

分からない、という仮定に立ちひとつひとつの情報を確かめてみる。ニュースソースは簡単に見つかる場合もあれば見つからない場合もある。この情報氾濫の中でひとつひとつを個人が確かめる事は出来ないので、誰が言った言葉であるか、それを伝えたのは誰であるか、そうやって確からしさのフィルターをかける。

「オオカミ少年が言ったことはウソである」が間違っている様に「正直者が言ったことは正しい」も間違っている。正直者は正直に話しているだけであり、彼が話した内容に誤りがない事は保証しないからだ。分からない事を分かる様にするには、科学的な手法か、信じる、信じないしかない訳で、いずれにしろ確からしい事の上に推論を加えてゆくしかない。それは常に土台が崩れる危険性を持つが、だからと言ってもそうするしか論を重ねる方法がない。常に僕たちは確からしさの上に論理を重ねている。だから、少しだけは確からしさを疑う方がいい。

今更、天動説を疑えとは言わないが、人の言った、言わないの話は、言葉の性質から何通りにでも解釈できるから、話の流れ、状況、勘違い、好き嫌いなど幾つもの要素から成り立つ。それを丹念に第三者、当事者、関係者、部外者にヒアリングしなければ全体は飲み込めない。そうして飲み込んだとしてもそれは誰かの手で味付けされているかも知れない。ヒアリングしても分からない場合もある。お互いが相手の言葉を誤解する事はよくあるし、記憶の合成や置き換えなど幾らでも生じる。

本当かどうか、わからない話ばかりだ。もし本当ならもっと検証が必要な話もたくさんある。だが、聞いたり読んだりする範囲だけで確定的に何かを語るのは難しい。巷にあふれる話のほとんどは、情報が全然足りないものばかりだ。だが世の中はいい加減な話も多いし、そういうのを好む人もいる。話題作りもそのひとつだ。本当であろうが嘘であろうが、けしからん話だ、その点については常に正しい。

2012年9月13日木曜日

秋葉原無差別殺傷事件の罪と罰

昔、女子高生をレイプしたあげくコンクリート詰めにした殺人が起きた。その犯人達(4人)は逮捕されたが未成年という理由だけで今も生きている。

この凶悪な犯人を憎むのはとても簡単だし、出来れば病と痛みで苦しみぬいてから死ねばいいと思う。そういう思いが、それだけではないとしても、地獄絵図を生み出した事は想像に難くない。

それと比べれば、この加藤なにがしという者が、それほどの悪人には見えないので困る。もちろん遺族からすれば憎むべき犯人であるし刑事罰に照らし死刑になることに異存はない。だがこの加藤が悪人でない以上、何故、そんな犯罪に走ることになったのか、たいへん腑に落ちないし、その気持ちが分かると言えば分るのである。それは空想が現実に転移するだけでいいのである。地獄絵図がこの世界に出現する事とそんなに大きな違いはない。こういう話は文学の領域だろうか。こういう事件を思う時、ドストエフスキーの罪と罰がいつも思い返される。

この傑作な探偵小説はラスコーリニコフが理想に燃えついに老婆を殺傷する物語である。が、その時の偶然から関係のない老婆の妹までも殺害してしまう。そのアクシデントが葛藤を生み、そして判事ポルフィーリィとの対決を向かえる。娼婦ソーニャの存在が物語を急展開させ結末に至る。

というようなあらすじの19世紀の架空の青年は現実に出現したそうである。それを聞いたドストエフスキーが何と語ったか失念しているのだが、確かに存在したのである。

それと比べると21世紀の殺人者は実に弱々しい。理想に燃えたわけでもなくカミュの異邦人のような「太陽が眩しかったから」という理由もない。

掲示板で馬鹿にされ、それを見返すためだけに17人もの人間を刺して回った。恐らく彼にとっては刺すものは猫でも枕でも何でもよかったはずだ。だがそれを人にしようと決めた理由がある。

彼は人と繋がりたかったのだ、抱きしめたかったのだ、それがただナイフをもって腹を抉るという行為だっただけで、あの瞬間に彼は人々と触れ合っていたのだ。だから人でなくちゃダメだったんだ。

彼からは絶望という言葉が思い浮かぶ。この絶望の果てに人を抱きしめようとした怪人は、遂に死刑となった。もし法がたんに行為に見合った刑罰を割り当てるだけのものであるならば、それは彼を闇に葬ろうとしていると見做される。社会が彼を理解する事もなく何もなかった事にしようとしているのならば、それは人間が人間に対して無関心になったのではないか。それはいつか己れ自身をも無関心の虜にしはすまいか。

絶望と言えば絶望先生だが、彼は「絶望した」とも言わずもくもくと秋葉原を歩いた。僕は新聞に写っている彼を見て AKB48 のコンサート会場にいて何の違和感もない、そういう人に見えた。果たして理由らしい理由が見つからず人を殺して回るのと、欲望の果てに人を殺すのと一体どちらが悪人なのだろうか?一体、悪人とはいうものがあるとして、それはどういうものであろうか?

絶望が殺人に昇華するにはどういう経験が必要だったのだろう。何か、が壊れていたのだろうか。その心理を描くだけで、もう小説ではないか。同時に万人が悪人と認めるような人物を書いてみるのも小説だろう。と、罪と罰を読んだ事もないのに思う。

僕にはこの事件の何処にも悪人を見つけられない。

2012年9月7日金曜日

三軍可奪帥也、匹夫不可奪志也 - 孔子

巻五子罕第九之二六
子曰 (子曰く)
三軍可奪帥也 (三軍も帥を奪うべきなり)
匹夫不可奪志也 (匹夫も志を奪うべからざるなり)

(訳)
ああ、なんという事だ。
匹夫でさえ志しを持つ。
志しを持つ事はまことに結構な事だ。
だが誤った考えを訂正するのは斯くも難しい。
ああ、もうこいつを説得するのは諦めた。
俺に軍の指揮権があれば、こんなやつ、ぎゅうぎゅうとしてやるのに。

夢の中でうつつにこの言葉が浮かぶ。夏の寝苦しい中で何故かこの言葉が繰り返し思い浮かぶ。俺はただ惰眠をむさぼりたいのに、夏は寝苦しくて、夢の中にまで言葉が浮かんでしまう。

匹夫も志を奪うべからず。

なぜこんな言葉が浮かぶのか。

何故だろうか、奪うべからずは、奪うな、奪ってはいけないと思い込んでいた。匹夫の志しも奪ってはいけない、と思っていた、だが孔子は奪えないと嘆息したのだ。彼は奪えない事を前提としている。

本当の事を言えば奪えないはずがない、軍という発想のある人に他人の志しを奪う方法が思いつかなかった訳がない。だがその者を死に至らしめる事で志しも死んだ事になるのか。もし志しが消えてなくならないのであれば、他の誰かがそれを継いだとすれば、それは奪った事にはならぬ、奪ったのは志しではない。

奪ってはならぬ、とは恐らく命を奪ってはならぬ、と思っていたのだろう。志しのために相手の命を奪ってはならぬ、何故なら、命では志しを奪えないから。それでも命は奪われる、その命を奪ってゆくのもまた志しではあるまいか。

テレビを見ろ、金や感情でフラフラと意見が変ってゆく様が目の前を流れてゆく、昨日まで素晴らしい人が今日は犯罪者扱いされる日々ではないか。あやふやな科学知見に基づいた正義で主張するばかりではないか。

奪うなと言っているのではない、それは奪えないと嘆息しているのだ。最後のひとりになるまで徹底的に排除するのか、それで済むような話であるか。だから僕は原子力を巡る言論に辟易としているのではないか。ここには議論などない、あるのは志しの対立だ。

はて孔子の志しは何であろうか。

志しなど誰でも持つ事ができる。匹夫でさえも持っているではないか。だがそれが志しであるから尊いわけでもない。志しとは生きると同じ事かもしれない。生きるがそれぞれの人だけあるように志しもそれぞれあるのではないか。

志しとは人それぞれであって誰も触れる事ができないものである、と嘆息したのであろうか。ちょうど命がそれぞれの人にそれぞれあるように。

小林秀雄に「匹夫不可奪志」という小品がある。

弟子の誰かが、君子はただ志を立てるのを貴ぶというような事をいったところ、孔子が、匹夫不可奪志也と答えた、そんな風にとれる。

志なんて誰でも持ってるからねぇ。そんなもの、彼は生きていると言っているのと同じだよ、それくらい見ればわかる当たり前の事なんだ。

志と言っても色々だ、立てた志に人が集まる事もあれば、人を集めるために志す者も居たりするんだから。

自分の周りに、恰も、軍勢でも集める様に集めて、志が立った積りなのである。だから、いう事がさかさまになる。志が立ったものに論破すべき論敵があるのは当然ではないか、云云。孔子は笑って答える、三軍可奪帥也。

そんなもの志でもなんでもありゃしない、ただ人に勝ちたいという己れの欲望だろうよ。

論敵を論破するために志が必要なのかい、それでは主義主張ではないか、何かを破るならそれは軍である、その軍も何かに打ち破られる、ならば何かを打ち破るために立てた志など何時かどこかで打ち破られるに決っている。だからそれは違うのである、志は奪えないと孔子は言ったのだから。

悧巧と馬鹿の話しや経験の話しが続く。志とどう関係しているのだろうか。

経験というものは、己れの為にする事ではない。相手と何ものかを分つ事である。相手が人間であっても事物であってもよい、相手と何ものかを分って幸福になっても不幸になってもよい

なぜ小林秀雄は経験という話を持ち出したのか。なぜ女を知っているかどうかの話しが経験を語る例え話なるのか。悧巧を生み出す為には馬鹿を必要とするように経験が人を育てると世間では思っている。

経験というものを、何かの為にする手段とか、何かに利用する道具とか思い勝ちな人には聞こえにくいのであるが、それは兎も角、

経験を積んで狡猾になるか、経験を戒めて無垢になるか、いずれにせよ己れ本位に違いない。そうではないのだと、経験とは逃れられない運命なのだと言う。

いずれにせよ、経験の方では、ぶつぶつ言うのを決して止めない。それに耳を傾けていさえすれば、経験派にも先験派にもなる必要はない。この教訓は単一だが、深さはいくらでも増して行く様である。そして、あの世界がだんだんとよく見えて来る、あの困った世界が。

ここで言うあの世界とはどの世界か。彼は語らない。はっきりと語らないけれど誰もが良く知っている世界には違いない。そこに見出す志とは何であるのか。

それぞれの馬鹿はそれぞれ馬鹿なりに完全な、どうしようもない世界が。困った世界だが、信ずるに足りる唯一の世界だ。そういう世界だけが、はっきり見えて来て、他の世界が消えて了って、はじめて捨てようとしなくても人は己れを捨てる事が出来るのだろう。志を立てようとしなくても志は立つのだろうと思える。

この文章だけならば、志を覚悟に置き換えても意味は通じるのではないかと思う。匹夫もその覚悟を奪うことはできない。なぜ覚悟ではなく志と言ったのか、それは覚悟した者は殺せばそれで終わりであるが、志を立てた者は殺しても終わりにはならないからである。志は受け継がれるものだからである。志の己れのうちにある内向さと、誰かに伝播する力との間に奪う事の出来ぬ強さを見る。ああ、そういう志などまっぴらだ。

もし誰かに勝ちたいだけの欲望であるならば、それは数の多い方の勝ちだ、そんなものは三軍可奪帥也と言えば十分である。

経験とは誰かとの関係性の中でしか起きないものであるが、その経験が心の内に残すものは関係性とは別のものではないか、それは他と置き換え不能なものになっている。他と置き換えられないような経験でなければ空想とでも呼んでおけばよい。

それまでは、空想の世界にいるのである、上等な空想であろうと下等な空想であろうと。それまでは、匹夫不可奪志也と言った人が立てた志はわかろう筈もないのである。

恐らくの意味だが、他の志を奪えないと嘆息する人は自分の内に奪いたいという欲望があったに違いない、だけれども奪ってどうするとも思ったはずである。奪えないとは、即ち私は誰の志も奪わないという決意であったのかも知れぬ。いや、他の人の志になんら思うこともないという話かも知れぬ。そういう興味を失った所で、私にも志と呼べるものがあったよ、と振り返る。志を立てる事は容易いが後から振り返る事は案外に難しいかも知れぬ。ただおよそ、人の立てる志とは最初は大変に小さなものであったに相違ない、いつの間にそんな大きな志になったのか。

孔子に他人に語るような志があったのだろうか。そう尋ねたら彼は笑って言いそうだ、匹夫不可奪志也。俺の志など人に語る程のもんじゃないよ、そっとしておいてくれ。

僕はただ奪えない志とは、学びたいという情熱だけは奪えないことだと思っている。

彼は注意深くこれは相対主義の話しではないと一言を付け加える。そう書いておかないと誤解されるだろうと危惧したのであろう。ではどこが相対主義に似ているのか。書いてゆく段階で相対主義と混同しそうに思えたから一言を付け加えたに違いないのだ、それは何か。志は絶対的に己れの内の事であろう、それが誰かとの関係の中で成立する、そういったものを志と呼んで訝らない人を見ていたのか、その辺りについては何とも考えをトレースできないでいる。

ともあれ僕はこれを彼の恋文ではないかと勝手に思い込んでいる。なんだが書きっぷりが恋煩いくさい。彼は志というものの中に何やら恋愛とも通ずるものを見た、それを借りて己れの心情を書いて見た、そういう風に読める。恋というものはわからぬ、だが己の中にひっそりと生じ、そして誰かとの間の関係になろうとする、それを戒めた。

志と同じように恋を貴ぶ、それくらいなら犬猫でもしているさ。誰かのと関係で恋を実らせるのにあの手この手を使うことも可能だろう、だが、それは三軍で愛人を手に入れるのと変わりはしない。それは好きな人の前で悧巧でありたい、良く知りたいという欲望と同じなのだ。よく分からぬその世界に落ち込んでゆく、人であれ物であれ、恋するようにのめり込まなくてはどうしようもない、しかし恋焦がれ足を取られる、そこに本当の自由というものがあるのやら、ないのやら。

僕は恋を重ねるような思いで論語に触れたことはない。ただ夢うつつで思い浮かび印象に残った。僕が思うに志しとはたぶん言葉の事だ。誰も言葉を失う事はできない。不思議な事だ、ヒトが生まれたのは長い地球の歴史の中で進化の必然だったかもしれない。だが言葉が生まれた事には何の必然性もなかった。

言葉が生まれたから今の我々がいるし、言葉のない世界を思い浮べる事も出来ない。言葉以外の何が言葉の代わりになるだろうか、感情も、論理も、思いも言葉になる。一方で言葉に出来ないものがたくさんある事も知っている。言葉の後ろに何かがある、孔子はそれを志しと呼んだのだろうか。

否、そうではなかろう。志しとは逆に言葉の一番先端にあるものではないか。先端にある言葉さえ奪う事ができない、ならばその背後にあるものなど誰が奪い取れようか。我々の脳髄に音を再生する能力があったから言葉は密接に音と結び付いた。音は言葉よりも広い。光りでさえ音で包み込む。だから言葉は様々な姿になる。初めにことばがあったとも言うではないか。他の星から来た知的生命体に人類を紹介する時にはこう言うがいい、我々は音から生れた猿だと。

人は色を失えど音を失えど
言葉を失うべからず

星から光を奪えども
猿から音を奪うべからず