テコンVという作品は 1976 年というからもう 35 年も前の作品なんだけど。35 年も前にオマージュし(パクッ)たから、今でもあの国の作品はそうであるとは言えない。韓国の実写作品には魅力的で独創的な作品も多い。
古い映画の上映は楽しんで見るものだ、おお、なつかしい、あったねぇこれ。当時の風俗だの差別語だのを批判する人は何も語ってはいけない。何故なら、今語っているその言葉は必ず未来から批判されるから、そういう考えを続けている限りは。
古いと言う事で面白がれる人もいる。今との対比が面白さを生み出す。まるで幼稚で汚く退屈な作品で見るに耐えないと言う人もいる。
想像してみよう。溢れる情熱だけで不足する人材と技術、資金、どうやって学べばよいのか。何時の時代でも国外の優れたものを取り入れる事だ。飛鳥時代から日本がしてきた事だ。トレースしたり、真似る事のひとつひとつが大切な歩みであった。
雑誌か何かでこの作品の記事を見た時にこれなら日本の相手にならないと思った。マジンガーシリーズに影響されたよくあるデザイン、古臭いキャラクター。ストーリーに深みがあるとも思えない勧善懲悪もの。だがとても笑う気にはなれない。昨日、下手に真似ていた人が明日は我々を凌駕する作品を生み出さないと何故言えよう。その作品を見てすべき事は笑う事ではない、気を引き締める事だ。今日優位である事は決して明日の優位を保証しない。
思えば偽物とは何だ。間違って買ってきたら絶対に喜べない。これだけ似ていないものを買ってしまう気持ちが分からない。でもおばあちゃんの間違いを非難なんて出来ない。という子供を育むクオリティの高い商品。
"合体巨艦ヤマト"、ああ、懐かしい。僕の欲しいヤマトはこのヤマトじゃないんだ。
ガンダムの代わりがガンガル、ガルダンだったら。これが自分の仕事なら僕はやりがいを感じる。オマージュのありったけを込めて本歌取りのつもりでパクってみせる。しかしこれらの商品は手にした子供の残念さが分かってしまうのである。
偽物とは何だ、それを見分ける主眼を持っているか。真贋をどこで区切ればよいのか、これが難しい。同じパクるにもパクり方と言うものがあるのだ。
完成度、という言い方がある。習作なら優れていても本物と謳えば贋作である。どこが違うのか。完成度とは作品の持つ力だ。そこから生じた社会的価値、つまり価格が偽物を生み出す。だから贋作とは商業上の分類だ。
であれば贋作は作品が持つ力とは関係ない。このヤマトじゃないのに、という子供の中には金銭の価値観はないだろう、だが社会的にそれが贋物であるということは十分に感じ取っているのである。
中国でも日本の漫画やアニメの人気は高い。フランスでも日本の作品は普通に読まれていると聞く。じわじわと広がり続けている日本の作品が与えているものは彼らの娯楽だけではない。
必ず触発されて同じものを生み出してみたいと欲求する人たちが生まれる。その中からオリジナリティも完成度も高い作品が生まれるのは時間の問題だ。
既に韓国出身のBoichiや梁慶一らが日本で作品を発表している。日本で活躍することが頂点であるという意味ではない。日本のコミックが浸透すれば、どの地域からも優れた作家が出現する実例である。
これらの模索者達が生れるのは国内外を問わない。彼らを生み出す光りは国境線に関係なく等しく人を照らす。アニメや漫画において日本で生み出されるものに優れたものがある事は疑いようがない。だが、それが明日も生み出されるとは限らない。
優れた作品は、どの地域に生きる人であれ、何時の時代に生きる人にであれ等しく降り注ぐ。であれば、十分な光を受け取って植物が成長してゆくようにあらゆる地域から新しい芽が息吹く事は疑いようがない。
特に異なるカルチャー、ヒストリー、フィロソフィ、デザインを持っている事は有利だ。最初に駆け出した者達がマンネリズムに陥る時に彼らは新風を吹き込む。
日本が今の地位を保ち続けることを保証する根拠など何処にもない。特に日本のアニメは使い捨てと金銭の問題からこの国からクリエータたちが消滅する可能性さえある。
囲碁は 20 年で追いつかれた。
日本のアニメや漫画が、作家性、思想性、物語性にアドバンスを持っていた時代は確かにあった。そのアドバンテージとでも言うべきオリジナリティが一体どこから生み出されているかは誰もが知っている。それは日本で起きた特殊な事件だったのだ。我々の持つこの思想性ってなんだろう、と思う。それを語る方法を誰かが教えてくれたんだな。
歌を歌えばそれが伝えられるよ、詩を書けばそれが主張できるよ。それと同じように、漫画を描けばこれだけのものが表現できるよ。そう教えてくれた人がいたのだ。
アメリカにはディズニーがいた。たったひとりの人の出現がその後の 100 年を決めたのだ。もし中国にそういう人が出てきたら、そこから 100 年の間は彼らの時代となるだろう。アメリカも、フランスも、ドイツも、イギリスも、アフリカのどこかも、ユーラシアの何処かでも。
実写映画では、日本に劣ることなく中国や韓国にも優れたクリエータが既に居る。何故、漫画とアニメだけは日本が強いと未だに思えるのか。先人たちが通った航跡で遊んでいるだけの子供にはなるまい。
こんなの日本のコピーじゃないか、中国なんてものまねじゃないか、と安心してはいけない。物真似をちゃんと出来る人が独自の創造性を発揮するまでに 10 年はいらない。トライ&エラーを繰り返す彼らが圧倒的な技術を身に付けるのは時間の問題だ。
予算はたっぷりとあるし国家規模で営業もする。人材も予算も営業力もあなどれない。我が国に勝ち目があるとは思えないが、皇紀 2670 年、我が国が中国に勝った事など一度もないのである。
それでも雪舟は中国に渡り、ここにゃろくな絵描きはおらん、と言って帰ってきたという逸話がある。文化がこれほどまでに違っているというのは、面白いものだ。アジアはどこの国でもそれぞれの独自性を持ち、みな違った文化を持つ。人間というのは、ほっといても亜種になろうとする、そういう性質があるのだろう。いやそれは生物すべてでか。
我々はただ過去の威光だけで生きる訳ではない。だが過去に光を持つことの幸いも知っておくべきだ。この光りはいまや国境を越え瞬く間に広がる。今日もアフリカの大地の何処かに汚れた手塚治虫のマンガを熱心に読んでいる子供がいるだろう。彼が手塚を継ぐ者ではないと、誰に言えようか。
光りは照らすもの全てに降り注ぐ。例えプラトンの洞窟であったとしても。真似をしただの、完成度が低いだの、そういう事で笑える人はいい。その人はものを作ると言う事を知らぬのだ。
物を造る人は、決して笑いはしない。ただ作品を前にして不機嫌になるか、沈黙するかである。僕たちには手塚治虫がいただけじゃないか。それだけではないのか。この国にあるものは手塚治虫や宮崎駿といった人達の残照かも知れない。そこに慢心していていいのか。
明日彼らがどのような作品を作るか、それを想い恐怖すべきだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿