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2012年9月13日木曜日

秋葉原無差別殺傷事件の罪と罰

昔、女子高生をレイプしたあげくコンクリート詰めにした殺人が起きた。その犯人達(4人)は逮捕されたが未成年という理由だけで今も生きている。

この凶悪な犯人を憎むのはとても簡単だし、出来れば病と痛みで苦しみぬいてから死ねばいいと思う。そういう思いが、それだけではないとしても、地獄絵図を生み出した事は想像に難くない。

それと比べれば、この加藤なにがしという者が、それほどの悪人には見えないので困る。もちろん遺族からすれば憎むべき犯人であるし刑事罰に照らし死刑になることに異存はない。だがこの加藤が悪人でない以上、何故、そんな犯罪に走ることになったのか、たいへん腑に落ちないし、その気持ちが分かると言えば分るのである。それは空想が現実に転移するだけでいいのである。地獄絵図がこの世界に出現する事とそんなに大きな違いはない。こういう話は文学の領域だろうか。こういう事件を思う時、ドストエフスキーの罪と罰がいつも思い返される。

この傑作な探偵小説はラスコーリニコフが理想に燃えついに老婆を殺傷する物語である。が、その時の偶然から関係のない老婆の妹までも殺害してしまう。そのアクシデントが葛藤を生み、そして判事ポルフィーリィとの対決を向かえる。娼婦ソーニャの存在が物語を急展開させ結末に至る。

というようなあらすじの19世紀の架空の青年は現実に出現したそうである。それを聞いたドストエフスキーが何と語ったか失念しているのだが、確かに存在したのである。

それと比べると21世紀の殺人者は実に弱々しい。理想に燃えたわけでもなくカミュの異邦人のような「太陽が眩しかったから」という理由もない。

掲示板で馬鹿にされ、それを見返すためだけに17人もの人間を刺して回った。恐らく彼にとっては刺すものは猫でも枕でも何でもよかったはずだ。だがそれを人にしようと決めた理由がある。

彼は人と繋がりたかったのだ、抱きしめたかったのだ、それがただナイフをもって腹を抉るという行為だっただけで、あの瞬間に彼は人々と触れ合っていたのだ。だから人でなくちゃダメだったんだ。

彼からは絶望という言葉が思い浮かぶ。この絶望の果てに人を抱きしめようとした怪人は、遂に死刑となった。もし法がたんに行為に見合った刑罰を割り当てるだけのものであるならば、それは彼を闇に葬ろうとしていると見做される。社会が彼を理解する事もなく何もなかった事にしようとしているのならば、それは人間が人間に対して無関心になったのではないか。それはいつか己れ自身をも無関心の虜にしはすまいか。

絶望と言えば絶望先生だが、彼は「絶望した」とも言わずもくもくと秋葉原を歩いた。僕は新聞に写っている彼を見て AKB48 のコンサート会場にいて何の違和感もない、そういう人に見えた。果たして理由らしい理由が見つからず人を殺して回るのと、欲望の果てに人を殺すのと一体どちらが悪人なのだろうか?一体、悪人とはいうものがあるとして、それはどういうものであろうか?

絶望が殺人に昇華するにはどういう経験が必要だったのだろう。何か、が壊れていたのだろうか。その心理を描くだけで、もう小説ではないか。同時に万人が悪人と認めるような人物を書いてみるのも小説だろう。と、罪と罰を読んだ事もないのに思う。

僕にはこの事件の何処にも悪人を見つけられない。

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