stylesheet

2021年2月23日火曜日

学びを止めない理由

自分で考える

自分の頭で考える事は人間の最大の喜びであるから、放棄しない方がいい。何歳からであろうと自分の頭で考えるのが遅いという事はない。

しかし、自分の頭で考えていると言っても本当にそうなのだろうか、と疑問が湧く。自分で考えている積りで誰かの受け売りを繰り返しているなどよくある。蓄音機だって音を鳴らしているのは私だと主張するだろう。

自分の考えか、他の誰かの考えかは区別できない。言葉には誰の言葉かという属性は残らないから。だから考えが独り歩きを始めれば、それが誰の考えかは消え失せ世界に広がってゆく。その言葉が本当に彼の口から出たものか、今となっては誰も分からない。

自分の頭で考えるとは何か、自分の中に道筋を構築する事である。この時、構築したのは確かに自分であるが、その時に使った材料も設計図も全部他人のものである事は珍しくないし、果たして自分のオリジナリティはどこにあるのか、と不安に焦燥する事もある。

他人と違っていなければという強迫観念は経済的要請であるから、他と同じでは価値がないとは、同じ物ばかりでは売価が下がるという現象に過ぎず、個性も独創性も人間の性質の問題と言うよりは、市場の競争力の要請である。

経済的に優位に立つために独創的である方が有利として、それが考える目的とは考えられない。それぞれが属する集合の大きさは異なる。経済が属する集合よりも考えるが属する集合の方が大きい場合、経済について考える事は考えるのひとつの応用だが、経済に含まれない考えるが存在する。経済をどれだけ拡張しても、その外に存在するものがあると思える。

人間、生きていれば、自分の足跡が軌跡として残る。振り返らずともその足跡はある。例え振り返れば波が消し雪が覆っていたとしても足跡はあった。誰かに引きずられた足跡であろうと。

誰も踏み入れた事のない草むらを分け入った先に住居があるなどよくある。けもの道を辿って道に迷う事もよく聞く、舗装された道路で大事故を起こすのは日常茶飯事である。通いなれた道だからと言ってよく知っているつもりになるのは危うい。

多くの人が生きてきた世界である。どんな場所にも誰かが進もうとした形跡があると思っておく位がいい。誰も訪れた事のない未開の地に原住民が住んでいた話はたくさん聞くだろう。そういう冒険譚はノスタルジアなる昔の話だ。

みそ汁のベルナール対流を調べた人が江戸時代に居ても不思議はない。その人が残した研究は今もどこかの蔵で埋もれているか、取り壊しの時に焼却されたとしても驚く事はない。月が岩石だらけであると思った人ならギリシャ以前でも居たはずだ。

そういう人たちの自分の足で確かに歩いたという自覚を頼りに生き抜いた歴史だと思うし、歴史に残らずともそれは残念な事ではあっても無駄はあり得ない。今日へと続く42憶年の生命の連綿はそうしてきた。

自分の考えが詰まらないと感じるようになって、マンネリズムに落ち込んだと感じても、自分の泉が枯れたと感じても、それは大地が割れたのではない。今いる自分の場所の風景の問題であって、恐らく新しい知識を必要としている時だ。

知識は知識であるだけではない。どの場所に置かれているかによて知識は違う輝きを見せる。配置が異なれば異なる舞いをする。この振る舞いの違いが自分と他人の違いであると言う事もできる。

数学

数学を学ぶ時、目の前に現れた公式は誰かの手によって洗練され磨きに磨かれた刀剣のようなものだ。その煌めきが如何に優れているかは使ってみればわかる。鉄鉱石の元の姿はもう失われている。

なぜその公式が開発される必要があったのか。どの様な要求に導かれ、その考えが自然に誕生したのか、発見されたのか、なぜその発想が必要だったのか、なぜその要求が生まれたのか。

誰かが其れを見つける前はどうなっていたのだろう。少なくとも今日とは違うように書いていた。新しい方法が登場して、やっと簡単になった事がある。今ではその恩恵に気付き難い。それ以前の体験してみなければその画期性に驚けない。

微積分を開発したニュートンは運動方程式を考察していた。彼がその方法を必要としたのには理由があるはずで、そう考える事でやっと突破できた何かがある。そう展開する事で道が開いた。それは間違いないと思うのだが。

その武器となるべき部分が隠れて博物館に飾られた刀剣からは、その鈍い光に震える事はあっても、それが実際に切り刻んだ物語は聞く事ができない。

それでも良いではないか。今の君が持っているその小刀は、ニュートンやライプニッツが振り回してた大刀の何倍も優れているのだからと言われてもピンとは来ない。見て、触って、使ってみなければ得心出来ない事がある。

瞬間

自分をどんどん小さくして行けば、周囲はどんどん大きくなる。手のひらにあったボールはどんどん大きくなって次第に垂直な壁に見えてくる。とことん小さくなればあらゆるものが垂直の壁に見えるに違いない。という事は、この世界の全ては直線の組み合わせに見えるはずだ。それは二次元の住人になったのと同じ意味にならないか。

そこから元の大きさに戻れば、世界は曲線に溢れた三次元の世界に戻る。小さくなれば直線の世界なのに、大きくなると曲線の世界に変わって見える。世界が変わっていないのは明らかだ。

小さくなった時に見える世界とは、瞬間の事だと考える。瞬間について考えると、そこに時間がない事が分かる。もし瞬間に時間があるなら、更に小さな瞬間があるはずで、時間がある限り瞬間とは呼べない。瞬間と呼ぶ以上、時間は含まれない。

未来と過去の分かれ目に果たして時間はあるのだろうか?舳先の作る波は過去であり、舳先の前の海面に未来がある。現在はどこにあるのだろう、切りさかれた波は過去、切り裂かれる前は未来。波があるかないかのふたつしかない。波が生まれた瞬間はもう過去になる。

その瞬間は時間0としてもカウントできない。0ならば時間があるという意味になるから、それでは瞬間でなくなる。瞬間は時間の様でありながら具体的な時間ではない。

そういう性質を持ちながら、瞬間をたくさん集めれば時間の総計を示す。瞬間は0秒でさえない。だのに瞬間を足せば具体的な時間を示す。なぜそうなるか。

瞬間は明らかにこの世界に存在する。仮に物理世界には存在しないとしても、明らかに成立できるものである。現実世界のどこにも瞬間が存在しないとしても、それは現実世界の不都合のせいであって、瞬間が存在しない理由にはならない。この世界に存在できないのはこの世界の都合であって、我々の認識の中では成立しうる。よって、瞬間というものでこの実世界を切り刻んでみても何ら不都合は起きないであろう。

神という概念でこの世界をどう切り刻んでも、この世界が一切変わらなかったのと同様に。

歴史

歴史は開眼と偏見の積み重ねで、幾つもの慧眼が多くの人の努力が、この世界をデザインしてきた。だが、そのデザインから歴史を演繹する事はできない。残っているものは過去を語らない。

何気ない発見もその人の中では非常な意味を持ち、驚きをもたらしたに違いない。その人にとっての偶然は、歴史上の必然かも知れぬ。当人にとっては如何に些末であろうと、見つけたものを簡単に手離す気などあるまい。

なぜ我々は学ぶのを止めないか。それは学ぶのを止める事が従う事と同じだからだ。学ばないという意思表示は誰かに従うと同じだ。

それが嫌なら学ぶべきだ。しかし、学ぶ事は従わない事と同じではない。議論し、理解し、納得し、合意し、反発し、仲違いする。最後は従うかも知れないが、それも構わない。

学んで従う事は、学ばずに従う事とは大いに異なる。学ぶ事を止めない事だけが色々な選択を可能にする、そう信じる。

いつか宇宙で

いつか異星人と出会った時、我々は最初に原子表を見せ合うだろう。これだけが確実に分かり合える知識のはずだから。だが確実に分かっている事は、その発見の経緯は我々と異星人では全く違う物語だろうって事。

同様に三角関数も対数も微積分も、この星と異星人では違う物語を持つ。それを披露しあうには数学史が必要だ。この星の中でさえ歴史は異なり、異なる地域で同時多発的に発見されてきた。それが細い糸のように伝播して様々な工夫を人が重ねた。

我々は幾何と代数の統合をデカルトの手によって成立せしめたが、彼のアイデアの発火は、他の星では全く違うだろう。同じでも構わないが、それを知る事は楽しいと思う。微分積分をこの星は天文学の要請により開発したが、そうでなければならない理由はこの宇宙のどこにもない。

ならば、その星の者たちはどうやって我々の物語とは異なるストーリーで見出したのか。

始まりの違いが、どのように我々とは異なる数学を発展させたのか。だが、どのような道であろうと、その途中で幾つの見落としがあろうと、それでも、必ず互いに同じ場所に辿り着くだろう、そして道は必ず交差するだろう。そういう予感がなければやってられない。

考える器官

しかし、私は、数学をある種の脳の機能そのものだと考える。

それでよい、という確信をわれわれにもたらすものは、脳の機能である。ただしそれは、普通そう見なされるように、「脳がそのように考える」がゆえに、ではない。「脳がそのように機能している」がゆえに、である。

他人の考えた数学が理解できる、ということは、背後になにか、同じような脳の構造を持っている、ということである。もしそれを持たなければ、やはり理解は不可能であるに違いない。

養老孟司 脳の見方 幾何学と生理学

数学は、脳の最も直接的なトレースのひとつである。数学は、脳の働きを外部に記録したものである。人間をどう引っ繰り返しても脳の考え方、働き方は超えられない。4つのタイヤが6つの轍を残す事はない。数学が我々に示すものは脳の機能の写像であって、この数字の謎を解き明かしているのではない。

だから数学を支えているものは我々の脳が持つ最も根源的な合理性である。そしてこの合理性は普遍的に我々の外部にあるわけではない。あくまで脳が導くものであって、脳の機能を超越するものではない。これをそのまま敷衍するならば、異星人の数学は彼らの脳に該当する器官の写像であるはずだ。

古いものが偏見になる。偏見を新しく刷新する。重たい鎧を脱げば身軽だ。だが、古い偏見を新しい偏見で上書きしただけかも知れない。新しい服を着る時には常に唱えるがいい。その新しい服もいつかは古くなるって。

ペテン師

既知の物事を別の場所で応用するには、そのままでは通用しない事が多い。形を変え、視点を変え、工夫する。それが可能であるという強い信念で見つける必要がある。それが可能である以上、何らかの方法があるはずだ。そうして見つけた新しい方法にはちょっとしたペテンのような所がある。

問題を如何に解くかとは、如何に解ける形に変形するかと同じである。ルールさえ破らなければ何をやっても構わない、これが唯一のルールで、その発想や着想が普通と異なるほど人は驚く。どう変形するか。これは、どうもペテン師の所作である。

円の面積を求めるには三角形に分解すればいい、その慧眼の乱暴さには驚嘆と愉快がある。これなど数千年前には発見されていたエレメンタリーである。

これらのペテン師たちの言い分をじっくり聞いてみれば何ひとつ破っていない。そんなのずるい、という驚愕がなければ数学に発展はない。数学史を紐解けばペテンの積み重ねであろう。目の前にある公式の背後にペテン師どものクククという笑い声が鳴り響いている。

つまり、異星人の数学者らもペテン師に違いないのだ。

我々のペテン話を異星人はどう聞くだろう。ニヤリと笑って、別の解を示すだろうか、それに我々はニヤリと笑い返せるだろうか。待て、異星人は笑うという感覚を持っているのか。

我々の幾何学は異星人の幾何学とどう違うだろうか。それは視覚の違いが原因に違いない。もしくは手の形状の違いかも知れない。

それでも三角形という図形はある。ユークリッド空間での角の和は180度である。我々の代数学は異星人の代数学とどう違うのだろう。我々の論理はその星でも通用するはずである。もしそれを詭弁だと断じるならば、それには反証が必要である事は互いに合意しているはずだ。

我々のとっておきのラマヌジャンの逸話をその星のものは喜んでくれるだろうか。