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2012年12月28日金曜日

南野陽子 II

真夜中のメッセージ
彼女が優れた歌い手であるかを僕は知らない。でもこの楽曲には心地良さがある。声は人それぞれで違うものだ。声は良いでも悪いでもなければ好き嫌いでもない。声とは自分の人生の記憶そのものだ。顔を忘れても声は忘れない。この曲は前期アルバムの中で一番いいかも知れない、と何度も何度も何度も繰り返し聞いた。高価ではないスピーカーで十分だ。過去の時間に凍結されているものが再生される。どうあらがおうとも過ぎ去ってゆく時間の中で、そこに立ち止まる事さえ出来ないのに、音は残る。この曲は今でも聞かれていると思う。少なくとも僕が。


あなたを愛したい
「あなたの夢でふと目覚めた夜明け」という歌詞が「あなたの胸でふと目覚めた夜明け」と聞こえる。これは良く似た言葉を使った連想だと思う。この連想が、あなたの胸に抱かれていた夢から目覚める、という印象を与え、夜明けという時間が暗示をより強くする。もちろんこれは狙った効果であろう。この曲のもつ艶めかしさと清廉の同居はこうやって生み出された。それに加えて、先にある悲しみの予感。この曲の編曲はとても素敵だと思う。南野陽子の声を生かしたのは萩田光雄という人だ。何かのストーリーの中に存在しているかのような歌。この頃に彼女の声が変わったように思われる。星降る夜のシンフォニーから夜明けまで来た。


涙はどこへいったの
歩いてきた道がひとつの頂点へ達する。終わりの姿に辿り着けばそれは最後の始まりだ。これまでの路線が遂に来た場所ではないか。この曲のあちこちにこれまでの断片が思い出のようにある。曲がり角からここまで来た。僕にはこの曲が映画色の雨 (GELATO) から連綿と続くその最期にあるように聞こえる。


トラブル・メーカー
この意識的な題材はパッシングを受けていた当時の苦境とは裏腹に心地よい曲に仕上がっている。歌詞も曲もコミカルに楽しく聞いていると笑ってしまう。これはトラブルメーカーである彼女が自分達を笑おうとしているのではない。彼女たちが視聴者に笑ってもらおうと投げかけた曲だろう。そんな製作者たちが集まった風景が見えてくる。ぜんぜん悪くない。明るく楽しく踊っている現場の笑い声が想像されるような感じだ。


瞳のなかの未来
水、夜、月、雲、砂、演劇の舞台。砂漠の行進曲か SF のシーンのような賑やかさ、流れてゆく。何かの始まりのようだ。透明感のある歌声がある。なにかしら母性さえ感じられる。少女漫画であるかのようだ。


メリークリスマス
この曲の魅力は歌詞にもあるしストリングスの響きにもある。世界の成りたちには哀しみがある、それだけを込めた曲だ。だがメッセージと音楽の間には何もない。語感やリズムが言葉の意味を溶かして行く。歌詞の意味は音楽の力で空に溶けてゆく。クリスマスの日にふいに目にとまったテレビの映像。飢えた子どもたちに思いを馳せる。パーティに行くまでの途中の姿。この曲の魅力は、ポップスがこの様なテーマとどう向き合うかを問いかけた編曲、萩田光雄の姿だと思う。テーマ云々よりもこのようなテーマを乗せてどう音楽が進行するかに対する作り手の答えとしてこの曲は楽しい。

メッセージではなくそれに戸惑う女性の姿がいいのだ。楽曲としてポップスを選ぶことが前提にあったんだと思う。ポップスはどうやって世界と向き合うかというこのチームとしての答えなんだろう。テーマを乗せたストリングスが心地いい。これらの曲には歌手の姿よりもチームとしての姿が見えてくる。どのようなテーマであれ彼ら彼女たちを駆り立てのはいつもと同じように仕事をしようという揺るがない姿だと思う。神様への問いかけでも問題の提示でもなくただ祈りのひとつの形として。


6pm. 24. DEC
きよしこの夜という曲を悪戯した。


僕らのゆくえ
ドラマのような景色の曲で彼女が表現するのは感動ではない。彼女は虚構の世界の演者にはなり切れない。彼女はいつでも自分でしか居られない。その彼女の声の透明感が彼女の母性そのものだ。その透明感に風が似合う。彼女の中にあるものが風の形になる。


ダブルゲーム
幼さがを覗かせる情念をどう歌おうとも曲が求める姿は表現できまい。この歌でも彼女は彼女自身でしかいられない。どう歌おうとも彼女自身にしかならない。どうやってもドラマにならない。虚構の世界の人が演じられない。だから彼女の中からは感動が生れない。彼女は風にしかなれない。それは彼女そのものであり、それがいい。


へんなの!!
発表された当初は顰蹙を買ったのだろう。誰もがイメージの違いからびっくりし離れてもいった。みっともない、というのが当時の彼女の姿であった。だが、そういう周りの事情が流れ去ってしまえばこれ悪くない曲だ。歌い方が変幻で面白く決して悪い印象はない。当時の僕にはこれを聞くための準備が出来ていなかった、変わったのは彼女ではなく、受け入れる側の勝手だった。

当時の商業的な失敗など関係ない。今や失敗も古くなってしまえば新しい。当時はなんとも痛々しく感じたものだった。決定的に彼女の終わりを告げた曲とも言えるだろう。そんな中でも彼女は手探りの中で幾つもの顔を披露した。当時は虚像と実像の間でただひとり演じていたのだろう、誰も足を止めなかったにも係らず。それだけの事じゃないか。虚像は流れ去りもう関係ない。歌というものは楽曲としてだけではなく関係性の中でも存在する。その関係性が失われて今はただ聞く。


耳をすましてごらん
どちらかと言えば母を訪ねて三千里。


夏のおバカさん
年齢というものがよく出ている。大人だけどわずかに幼さが残る女性。これからどうすればいいんだろう、それが分からず立ち止まっている女性。明日には歩き始めるのだけど今日は立ち止まる。そんな声だと思う。彼女はここまで来た。彼女が最後に見せた姿に決して嫌な感じはない。この透明感は好きだな。誰かと何かの共感を生むわけではないけれど自分の足跡だと思えばとっても大切なものじゃないか。良い事も悪い事も忘れるしかないじゃない、忘れられないだろうけど。だからそっと取っておこう。


思いのままに
彼女の母性は気付かない。この世界は彼女に母の姿を望まなかった。だれも透明なものは見えないと思っている。そうして彼女の母性を見なかった。彼女の姿はどこへ行くのだろう。不意にナウシカ的な母性というものが思い浮かんだ。不思議だ、なぜ彼女は最後まで幼さを残していたのか。それは何かの偶像であろうか。

彼女の中にある幼さがもしなかったら、これらの歌を今日まで聞いてきたか疑わしい。彼女はこういう音の楽器だったのだ。どのような音色を出そうとも楽器以外の何者でもなかった。幾つもの可能性が消え去って残ったものがこれだ。それでもう十分じゃないか。


過ぎ去った時間に立ち止まったまま
君の歌声が変わらない

怒ったり笑ったりを忘れてしまっても
君の歌声だけは覚えている

もしも遠く彼方に消えてしまっても
またどこかで君に会えるかな

君と同じ時間の中に生れたから
探す事も別れる事もできたんだ

ガラスの中で君の姿を探してる
君が置き忘れたものを探してる
こうして遠くに時間が流れている
そうして僕はすぐ側にいる

遠くから聞こえる歌を聞いている
君が残したものを僕は聞いている
こうして遠くに君が消え去っても
それでも僕のすぐ側にある

2012年12月20日木曜日

レモン哀歌 - 高村光太郎

夏と言えばこんなところ。

サクレ レモン(ふたば食品)

ふんわりかき氷(ふたば食品)

あずきバー(井村屋)

赤城しぐれ(赤城乳業)

みぞれ(森永乳業)

で、がりりと噛んだと言えばこれ。だからサクレ レモンなんだけど…

レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた

写真の前に插した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

(高村光太郎 智恵子抄)

そんなあたなも今日の終わりにレモンのかき氷をガリりと食べてみるのはいかが?


2012年12月19日水曜日

過ちて改めざる - 孔子

巻八衛靈公第十五之三十
子曰 (子曰わく)
過而不改 (過ちて改めざる)
是謂過矣 (是れを過ちと謂う)

(訳)
過ちは誰にでもある。そうと気付かない過ちもある。本当の過ちとは、それに気付いても改めようとしない事だ。だから過ちに気付かない者をそう責めてやるな。彼は知らないのだ、自分の過ちを。


孔子のこの言葉は最後に出てきた過ちが最初と繋がる循環する構造である。最後の過ちの意味は、最初の過ちとは違うものである。しかし、どちらの過ちも同じく過ちと読む。最後のものを過ちを呼ぶなら、最初のものには別の呼び方があるのではないか。そういう同じなのに違うという発見で止まっていいものだろうか。

同じなのに違う、という発見はこの言葉を印象深いものにする。気付いても改めないのが過ちである。であれば最初の過ちは許されるのか。改めたなら許されるのか。と問う。過ちは許すべきなのだろうか、過ちに気付いて改めたのなら許すべきだろうか。

いやいや、そういう話しではあるまい。

過ちなど誰もがする、過ちに気付く事も多い。しかしそれを改める事は本当に難しい。だから人のあらゆる過ちというものは改まっていないから起きたに決まっている。

我々は自分達で気付いていないのだ、その過ちの前に、ずうっとずうっと前に既に過ちを犯していた事を。それに気付かず改めなかったのだ。気付いて改めた積りになって改まってなかったのだ。改めたと思う事が過ちなのだ。

目の前で起きた過ちだけを見るから終わってしまう。間違いは改めればよいと言う様なものではない。改めようとしないのも過ちなら、改まると思うのも過ちだ。未来を改めればいいと軽く考えてくれるな、改めれば許されると思うな、過去に思いを致し振り返ってみてその過ちが何から起きたかと考えて見よ。どう改めればよいかに答えが出るのか。過去でさえ改まらぬのに未来が改まると信じる事が出来るだろうか。それでもひょっとしたら未来なら改まるかも知れない。

改まってなどいないのだ、だから最初の過ちが起きているではないか。誰もが改まっていない。過ちのない人間もいない。改めざるを過ちと謂う。誰もがそうだ。過去に起きた以上、未来でも必ず起きる。改めるのは簡単だ、しかし、それで改まったと言えるのか。そしてその機会を我々は失ったのだ。だから改めようとするものはせめて許してやれ。

2012年12月14日金曜日

Man is but a reed - Blaise Pascal

Pascal's Pensées 346

Thought constitutes the greatness of man.

(訳)
考える事で、人は存在するんよ。


Pascal's Pensées 347

Man is but a reed, the most feeble thing in nature;

but he is a thinking reed. The entire universe need not arm itself to crush him. A vapour, a drop of water suffices to kill him.

But, if the universe were to crush him, man would still be more noble than that which killed him, because he knows that he dies and the advantage which the universe has over him;

the universe knows nothing of this. All our dignity consists, then, in thought. By it we must elevate ourselves, and not by space and time which we cannot fill.

Let us endeavour, then, to think well;

this is the principle of morality.

(訳)
人間は葦よね、ほんま自然界では弱々しい命よね。

そいでも人間は考えて歌う葦よ。全宇宙がうちらを潰そうとするんなら力なんかいらんけえね。簡単よ、蒸気かひとしずくの水滴で十分に殺せるわいね。

ほいじゃがね、もし宇宙がうちらを押し潰したいんならね、うちはそれでもなお、うちを殺しにきた自然に向かってね、毅然と殺されてみせちゃるけえね。よう聞きんさいよ、うちはね、知っちょるんじゃけえ、自分が死に行く存在じゃって事をね、ほいで宇宙はうちらの上をただ通り過ぎてゆくだけの巨大な存在に過ぎんちゅう事じゃってね。

宇宙はうちを殺した事にゃ気付きもせんじゃろ。そいでもうちが宇宙と対峙できとるんは、たぶん、うちが考える存在じゃけえよ。こうしてうちは生きとる。この世界はうちの手じゃ汲み尽くせん事もよう知っとるけえ。

そいじゃからこの先に行けるんよ、そうよね、考えるちゅう事だけをうちは手にして行くんよ。

それだけがうちらの道じゃないんかいね、ほうじゃろ。


Pascal's Pensées 348

A thinking reed.

-- It is not from space that I must seek my dignity, but from the government of my thought. I shall have no more, if I possess worlds.

By space the universe encompasses and swallows me up like an atom;

by thought I comprehend the world.

(訳)
考える葦。人間ちゅうのが宇宙の中におると考えちゃいけんよ、うちが人間を探すんならね、そりゃ、うちらの思索の中にするんと思うんよ。それだけで世界を理解するのに十分なんよ。

宇宙はうちを包み込んで、飲み込んで、最後にゃバラバラにするんじゃろう。

そいでも、考える事でうちは世界を抱きしめとる気になっとるんよ。

http://en.wikiquote.org/wiki/Blaise_Pascal
http://www.gutenberg.org/files/18269/18269-0.txt

2012年12月10日月曜日

ブラックホール空想

ブラックホールは巨大な恒星の末路であって爆発するには重力が強すぎて吸い込み続ける様になったものだ。銀河系の中心もブラックホールであってそれがこの星系を成り立たせている。写真を見ても銀河の中心は明るいのだが (松本零士の絵も) ブラックホールが光りさえ吸い込むのであれば銀河の中心って暗いんじゃないのって思ったりもする。

(ハーロックの「俺の旗」を超える宗教など存在しない)

さて、恒星は水素から鉄までを核融合で産み出しその (宇宙と比べれば) 短い生涯を終える。その末期に幾つかの恒星はブラックボールへ転じる。強力な重力であらゆるものを吸い込むので、その中心は凄まじい高温と高圧になるだろう。この温度と圧力では分子は存在できず原子に戻る、更に原子としても存在できず素粒子に戻る。ブラックホールの中では原子は原子でさえいられない (陽子の崩壊)。それはまるで産み出した我が子を死に至らす伊邪那美命のようだ。

(ぼおるぺん古事記のような)

重力もまたボース粒子の一つといわれる。重力子 (Graviton) が存在すると仮定すればブラックボールの中心部にもこの粒子が存在するはずである。ところでブラックホールの中心部の圧力と温度が高温に成り過ぎて遂に素粒子の存在さえ許さなくなればどうだろう。

もしグラビトンがグラビトンでいられない状態がブラックホールの中心部に出来たら、そこは重力が消滅した世界である。まるでビッグバン直前と同じ状態にならないか。高圧高温の空間は重力によって維持されている。それが失われたらぎゅうぎゅうに圧縮されている何か (粒子でさえない) が一斉に外に向かって放出されるだろう。全ての素粒子が存在しない状態から外に向けて爆発する、しかし、中心から少しだけ外の空間には依然として重力が健在していて粒子として存在する世界である。中心とその周辺では粒子化したり粒子が崩壊したりするような対流が生じるのではないか。

ビッグバンの最初の段階は粒子がぶつかりあう状態があった。それは振動であるから音である。その次に光が生じた。中東の神が最初に光あれ、と言ったのはなるほど、理屈にあっている。光りの前に神は言葉を使った、つまり音 (粒子のぶつかり合う振動) は光りの前に存在した。ビッグバンとは宇宙で起きたブラックホールの爆発のひとつに過ぎないのかも知れない。

野球場を水素元素とすれば原子核はグランドに置かれた3つのゴルフボールに等しい。観客席に置かれた砂粒が電子に相当する。これが原子の構造だ。酸素原子と結合して水分子になる。ディズニーランドにゴルフボールを 3*2 +24 = 30 個だけ置いたのが水の分子だ。それで水という物質になる。

(宇宙人と出会い真っ先に理解し合えるものが元素周期表である)

構造として見ればスカスカなのに 1 兆 * 1兆個 (1mol) も集まれば手で触ることができる。電子顕微鏡で見たら丸い粒に見える。そこには構造とは違う場が支配する世界らしい。構造とは異なる力の場が存在する。この場の影響は小さくなればなるほどよく観測できる。

観測による真実とそれを説明するメカニズムを考えながらそこに少しばかりの空想を交えて人類 (を含むこの星の生命) は宇宙を目指すのです。

つれづれなるままに - 吉田兼好

序段

つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

(訳)
ひとりでは時間も持て余すので、暇を見つけては硯にむかって、世間で見聞きするいろいろな事を考えるまでもなく書き綴っていると、なんだか心の内が騒がしくなってきて、日がな一日悩む事があるんだ。僕がどんなことを考えていたか思い測ってくれ。


243段

八つになりし年、父に問ひて云はく。「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく。「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ。「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ。「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ。「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ。「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と諸人に語りて興じき。

(訳)
八つになった頃、父に仏とはどういうものなのと聞いたらしい。すると父が仏とは人がなるものなんだよと教えてくれたので、人はどうすれば仏になれるの、と聞き返した。父はそれに答えて、仏の教えによって人は仏になれるんだよと云うので、人に教えてくれる仏は誰からその教えを聞いたの、とまた聞いた。それに父は、それより前に仏になった人から教えを聞いたんだよと云うので、その教えを最初に教える一番最初の仏は、誰からそれを聞いたの、とまた聞き返した。ついに父は、最初の仏は空より降ってきたか、土から湧いてきたんだよ、と言って笑った。それを酒の席でみんなによく披露していたと後から聞いた。それを話してくれた時の笑った顔が今も忘れられない。

私も今では名も知られ、私の言うことならさもあらんと認められるようになった。しかしこれまで書いてきたように市井の名も知られぬ人から聞くべき多々の事がある。私が話せば多くの人が納得するけれどそれは私にそういう力があるのではなくて、私を多くの人が知っているからに過ぎない。それでは肩書きで説得したに過ぎない。

仏ではないけれど、自分達が今は正しいと思っている話しも最初に言い出した者は誰ならん、と考えてみればやはり最初の仏と同じ所に辿り着く。それは誰も知らぬものに違いない。私は他の人が価値も見出さないような些細な事の中からも何かあると思った事をこれまで汲み出してきたつもりである。肩書きや社会の常識に捕らわれず、そうだと思う事を書いてきた。それはどれもみな最初の仏ではないか。

私は、私の父親と同じ事をやっていたという話しだ。

(最初の最初はどこはサイエンスの問いである。宇宙の始まりも素粒子も生命の誕生も数論もみな問いは同じ)

2012年12月6日木曜日

吾不復夢見周公也 - 孔子

巻四述而第七之五
子曰 (子曰く)
甚矣 (甚だしいかな)
吾衰也 (吾が衰えたる)
久矣 (久しく)
吾不復夢見周公也 (吾れまた周公を夢に見ず)

(訳)
ついうたた寝をして今しがた久しぶりに会った気がする。

昔はよく周公の夢を見ていたものだ。

それがいつの間にやら見なくなった。

長い間その道を求めてきたので私も遠くに来てしまったのだろう。

周公のもとを離れて本当に遠くに来たのだと思う。

だから周公と会わなくても平気になったのだ。

それくらい私は歩いてきた。

未だ周公への敬慕の念を失うものではないし

今も周公の道を追い求めるひとりではあるが

いまや私は周公とは関係なく私の道を歩いている。

それがせいで夢では会わなくなった。

だけど人にはただ老いたとだけ言っておこう。

ああ、周公に憧れを抱いていた若い頃が懐かしい。