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2012年12月19日水曜日

過ちて改めざる - 孔子

巻八衛靈公第十五之三十
子曰 (子曰わく)
過而不改 (過ちて改めざる)
是謂過矣 (是れを過ちと謂う)

(訳)
過ちは誰にでもある。そうと気付かない過ちもある。本当の過ちとは、それに気付いても改めようとしない事だ。だから過ちに気付かない者をそう責めてやるな。彼は知らないのだ、自分の過ちを。


孔子のこの言葉は最後に出てきた過ちが最初と繋がる循環する構造である。最後の過ちの意味は、最初の過ちとは違うものである。しかし、どちらの過ちも同じく過ちと読む。最後のものを過ちを呼ぶなら、最初のものには別の呼び方があるのではないか。そういう同じなのに違うという発見で止まっていいものだろうか。

同じなのに違う、という発見はこの言葉を印象深いものにする。気付いても改めないのが過ちである。であれば最初の過ちは許されるのか。改めたなら許されるのか。と問う。過ちは許すべきなのだろうか、過ちに気付いて改めたのなら許すべきだろうか。

いやいや、そういう話しではあるまい。

過ちなど誰もがする、過ちに気付く事も多い。しかしそれを改める事は本当に難しい。だから人のあらゆる過ちというものは改まっていないから起きたに決まっている。

我々は自分達で気付いていないのだ、その過ちの前に、ずうっとずうっと前に既に過ちを犯していた事を。それに気付かず改めなかったのだ。気付いて改めた積りになって改まってなかったのだ。改めたと思う事が過ちなのだ。

目の前で起きた過ちだけを見るから終わってしまう。間違いは改めればよいと言う様なものではない。改めようとしないのも過ちなら、改まると思うのも過ちだ。未来を改めればいいと軽く考えてくれるな、改めれば許されると思うな、過去に思いを致し振り返ってみてその過ちが何から起きたかと考えて見よ。どう改めればよいかに答えが出るのか。過去でさえ改まらぬのに未来が改まると信じる事が出来るだろうか。それでもひょっとしたら未来なら改まるかも知れない。

改まってなどいないのだ、だから最初の過ちが起きているではないか。誰もが改まっていない。過ちのない人間もいない。改めざるを過ちと謂う。誰もがそうだ。過去に起きた以上、未来でも必ず起きる。改めるのは簡単だ、しかし、それで改まったと言えるのか。そしてその機会を我々は失ったのだ。だから改めようとするものはせめて許してやれ。

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