つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
(訳)
ひとりでは時間も持て余すので、暇を見つけては硯にむかって、世間で見聞きするいろいろな事を考えるまでもなく書き綴っていると、なんだか心の内が騒がしくなってきて、日がな一日悩む事があるんだ。僕がどんなことを考えていたか思い測ってくれ。
243段
八つになりし年、父に問ひて云はく。「仏は如何なるものにか候ふらん」と云ふ。父が云はく。「仏には、人の成りたるなり」と。また問ふ。「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父また「仏の教によりて成るなり」と答ふ。また問ふ。「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。また答ふ。「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」と。また問ふ。「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父、「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と諸人に語りて興じき。
(訳)
八つになった頃、父に仏とはどういうものなのと聞いたらしい。すると父が仏とは人がなるものなんだよと教えてくれたので、人はどうすれば仏になれるの、と聞き返した。父はそれに答えて、仏の教えによって人は仏になれるんだよと云うので、人に教えてくれる仏は誰からその教えを聞いたの、とまた聞いた。それに父は、それより前に仏になった人から教えを聞いたんだよと云うので、その教えを最初に教える一番最初の仏は、誰からそれを聞いたの、とまた聞き返した。ついに父は、最初の仏は空より降ってきたか、土から湧いてきたんだよ、と言って笑った。それを酒の席でみんなによく披露していたと後から聞いた。それを話してくれた時の笑った顔が今も忘れられない。
私も今では名も知られ、私の言うことならさもあらんと認められるようになった。しかしこれまで書いてきたように市井の名も知られぬ人から聞くべき多々の事がある。私が話せば多くの人が納得するけれどそれは私にそういう力があるのではなくて、私を多くの人が知っているからに過ぎない。それでは肩書きで説得したに過ぎない。
仏ではないけれど、自分達が今は正しいと思っている話しも最初に言い出した者は誰ならん、と考えてみればやはり最初の仏と同じ所に辿り着く。それは誰も知らぬものに違いない。私は他の人が価値も見出さないような些細な事の中からも何かあると思った事をこれまで汲み出してきたつもりである。肩書きや社会の常識に捕らわれず、そうだと思う事を書いてきた。それはどれもみな最初の仏ではないか。
私は、私の父親と同じ事をやっていたという話しだ。
(最初の最初はどこはサイエンスの問いである。宇宙の始まりも素粒子も生命の誕生も数論もみな問いは同じ)
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