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2016年8月7日日曜日

よき細工は少し鈍き刀を使ふ - 吉田兼好

吉田兼好という人は科学者の目を持っている。徒然草はサイエンティストの目で書かれている。

229段
よき細工は少し鈍き刀を使ふといふ。妙観が刀はいたく立たず。

いまなぜ青山二郎なのか - 白洲正子

先日私は未知の読者から実にありがたい手紙を頂いた。「よき細工は少し鈍き刀を使ふといふ」ことについてで、いうまでもなくこれは『徒然草』の一節である。

「鈍き刀」の意味を今まで私はその言葉どおりに受けとって、あまり切れすぎる刀では美しいものは造れないという風に解していた。

ところがそれでは考えが浅い事を、この投書によって知らされたのである。その手紙の主がいうには、鈍刀といっても、はじめから切れ味の悪い刀では話にならない。総じて刀というものはよく切れるに越した事はないのである。その鋭い刃を何十年も研いで研いで研ぎぬいて、刃が極端に薄くなり、もはや用に立たなくなった頃、はじめてその真価が発揮される。

兼好法師はそのことを「鈍き刀」と称したので、「妙観が刀はいたく立たず」といったのは、切れなくなるまで使いこなした名刀の、何ともいえず柔らかな、吸いつくような手応えをいうのだと知った。そういう経験がなくてはいえる言葉ではない。奥には奥があるものだと私は感嘆した。

ジィちゃん(青山二郎)の言葉を借りていえば、「九十年も研いで研ぎ上げると」幻の如く煙の如く立ちのぼるものがある。そういうものが日本の精神なのであって、兼好はそれを妙観の刀にたとえたのだ。妙観がどんな人物か私は知らないが、その一行だけで日本の文化の真髄を語って余すところがない。兼好の文章も、確かに鈍き刀を用いているのである。

妙観が刀はいたく立たず - 道草インデックス

なぜとは書かない。これは兼好が聞いた話であろうが、それを彼はどう考えたのであろう。それでもただ事実を書くだけで止めた。

白洲正子は書く。鈍き刀とは長年研ぎ続けたために刀が薄くなり遂には切れなくなった刀の事だ。そうなった頃、切れないけれどもその刀の真価が味わえると言う。これはその道の人しか知らない話しである。よって本当かどうかは分からない。恐らく兼好もそう考えたはずだ。自分には分からない、だがそういう話がある。"いたく立たず"とは、研ぎ続けた刀の話である。残り僅かとなった刀が放つ最高の切れ味である。

切れないとはどういうことか。もちろん、木が切れないなどあり得ない。それでは細工もできない。細工が出来る程度には切れる刀でなければならない。ではここで言う切れないとはどういう事か。そもそも誰が切れないと言ったのか。

切れないには二つの意味がある。ひとつに切れない刀では細工ができないという考えである。次に切れない刀では名細工はできないという考えである。全く切れなければ確かに細工はできない。しかし切れるならば細工はできる。ならば問題は優れた細工にはよく切れる刀が必ず必要であるのか、という問いになる。

もちろん、これを読む者の殆どは細工のイロハなど知らぬ。よく切れなければ優れた細工ができないと聞けばああそうだろうと思い、切れ味で細工が決まるわけではないと聞けば、そういうものだろうと得心する。弘法筆を選ばずと言うが、我々はその経験もなければその道で精進したこともない。

果たして妙観が自分の刀は切れ味が悪いと言ったのだろうか。だとしたら切れ味は細工と関係ないという話になる。良い切れ味がよい細工になるとは限らないと語ったも同然だ。すると最初に切れ味の良い刀が良い細工を生むと語ったのは誰かという話になる。

もし妙観がそう語ったのでないなら、なおさらどうでもいい話になる。妙観の職場を訪れた人がその刀に触ってみた。思ったほど切れないので驚いた。その人の常識では、よく切れる刀を使っているのだろうと思った。

ただそう思っていたというだけの話である。妙観の刀はそんなに切れないよ。だからどうした。細工に切れる事が重要であると最初に言ったのは誰なのか。刀の切れ味と細工の関係性など実は誰も知らないのである。

なぜそんな我々がその刀の切れ味が重要であると思い込んでいるのか。ましてやそれがなければよき細工もできないと思うのか。その全ては兼好が悪い。そう考えるように書いてある。

よき細工は切れ味の悪い刀を使うと言う。そう聞けば、人は自動的に切れ味の良い刀を使うことがまず常識としてあると認識する。その上でそれに対するアンチテーゼとして鈍き刀の話が始まる。これがこの文章の大前提としてある。鈍い刀が常識であるなら、こう書く必要もここで書く必要もないはずである。ここに書いてある以上、そういう前提がなければ成立しない。そう読むのは読者の勝手である。

よい細工師はあまり切れない刀を使う。妙観の刀はとても切れ味が悪い。

ほら、これを読めば、まるで細工師は切れる刀を使うのが常識であると考える。その常識がなければ、この論そのものが成り立たないからだ。

誰も何も知らないのに、その常識を疑いもしない。知らない事でも当然そうである。たったこれだけの文章で。我々はなぜ誰も鎌倉時代の細工など知りもしないのにそれが常識であると盲信するのか。

そのことを兼好が気づかなかったであろうか、この文章がもたらす効果を知らなかったのであろうか。硯を擦りながら、筆を洗いながら、彼はなんと思い至っていたであろうか。


妙観という人の刀は切れなかったという。刀は切れればよいという訳ではない。名工は、刀の切れ具合さえ自分によく合うものを知る。

"鈍き刀"という言葉に惑わされてはいけない。注意すべきは"少し"という言葉の方にある。"少し"と言えば誰もが何となく分かった気がする。だが実際に、少しの程度がどれくらいかを分かっているのだろうか。その切れ方をどれくらい知っていると言うのか。それは人ごとに違うかも知れないのに。

だから知らないのは鈍い刀だけではない。鋭い刀さえも知らない。前提であるはずの切れる刀さえ見た事がない。だのに我々は鈍い刀を知っていると思っているのである。もちろん、日常で包丁を使う人には、これとは違った所感があるかも知れない。

もちろん、これは比喩だ。何の比喩か。頭の切れすぎた者についての比喩だ。もしかするとそれは兼好自身かも知れない。彼の友人かも知れない。彼には切れすぎて失墜した友人が居たのではないか。

切れれば良い、鋭ければ良いのではない。会社でも切れ者が左遷される事はざらである。会社で浮いた人も幾らでも居る。周囲が鈍く見えるのに。

彼らの正論は通らない。それは正論であるのに。だからその筋を押し通そうとしてみる。木の中には幾らでも節がある。木目の流れがある。それらを構わず切ってしまう刀では、木を破壊するだけではないか。

切れすぎる事が名細工を失わせてしまうのかも知れない。その正論が切り刻んだ中に切ってはいけないものがあったのかも知れない。切れすぎる刀は切り刻む事は出来ても、切らないでおく事は難しい。

丸で理念に邁進し現実を破壊するかの様だ。それでは人は成り立たぬよ、そう言いたいのかも知れない。頭の良い、見え過ぎるが故に、分かり過ぎてしまい負けてしまう棋士のなんと多いことか。

切れ過ぎる刀では切ってしまう。切らないでよいものまで切ってしまう。それを切らないようにするのが難しい。それならいっそ少し切れないくらいの方が節々が手ごたえで分かって御しやすい。

自分の力を過信しない限りは持て余す切れ味など欲しない。切り刻むだけでは駄目だ。名工でさえそうなのだ。鈍き腕を持つ我々はどう考えればよいか。

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