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2014年8月16日土曜日

無能ということ - 東條英機

無能ならば銀河英雄伝説である。銀英伝は無能を読むためにあるとさえ言える。

さて先の大戦を考えるにつけ無能は避けて通れない課題である。果たして無能とは何であろうか。

東條英機と言う人は、無論無能極まりない人であった。彼への評価は無能でよく日本を破滅へ導いた。彼が何を考えたか、どう行動したかは関係ない。結果を見れば何もできなかった。挙句の果て自殺にさえ失敗した。その無能ゆえ絞首刑にされたのである。

そうは言っても東條と同等の無能は幾らでもいた。戦争の原因も彼だけに起因できない。独逸や伊太利と異なり日本にファシズムはなかった。当時の日本は軍部のクーデターを抑え込む事が最優先事項であった。首謀者など何処にも居なかったが何かをきっかけにクーデターは確実に起きた。全体が大きな流れのうねりとなりそこに居たと言う理由だけで誰かが首謀者へ昇格してしまう。

ひとたびクーデターが起きれば革命へ通じたであろう。それが政治の最重要課題であった。誰もが目先の利益だけに汲々としていた。だが各自が操っていたその細い糸は日本全体を震撼させる要石へと繋がっていたわけである。貧しさも格差も資源も外交もそれと比べればプライオリティは下げられた。クーデターを抑え込むために日本は大陸に向かい、その片手間でアメリカと戦争を行ったのである。東條英機はそういう時代の無能の象徴なのである。

もちろん彼への正統な評価はもう暫く待つ必要があるだろう。あの時勢で他の誰なら上手くやり遂げたのかは誰にも分からない。しかし当時の人々に東條英機以外の選択肢がなかったのは確かである。それが我々には他の選択肢があると主張できるのは不遜だ。恐らく誰がやってもあの程度にしかならなかったのである。ただ変わりの人が居たとしても無能と呼ばれる人の名前が変わっただけであろう。

だだし彼だけに責めを負わす事ができぬ事と東条英機が無能であった事は全く別の問題であって、それによって彼の無能が揺らぐ訳ではない。もちろん他の誰がやってもああにしかならない事は彼が無能でない事の証明ではない、誰もが無能の証明である。再評価も彼があらゆる点で無能とは言えない事を証明するに過ぎぬ。牟田口廉也が無能であり、富永恭次が無能であり、服部卓四郎が辻政信がそうであったのと同様に無能は揺るがない。

東條英機は首相として無能であり、陸軍大臣として無能であった。一方で大佐としてなら有能であったろう。どうして大佐で終わらなかったのか。なぜ彼は出世してしまったのか。なぜ彼は大臣になれたのか。これが無能の本質である。無能とは人事が生む。無能は人物の属性ではなく、地位の属性である。

与えられた責任と官職に無能が付く。人事が不幸な場所に人を配置した結果である。誰だって無能と有能の集合体である。組織の中に無能が出現する(ピーターの法則)。

靖国神社は戦没者墓地の意味合いを持っていたが今やそれは失われた。東京裁判の有罪人が合祀された事で外交問題に発展した。非難する者たちも擁護する者たちも誰も英霊が神として存在するなどと信じてはいない。ただの墓地でない事が非難を成立させる。これは神道に対する批判であり無理解とも言える。逆に言えば日本人の独特の神への信仰を説明していないのである。

海外の人々からすれば先の戦争は宗教戦争であろう。少なくとも天皇への信仰と戦争の遂行は同じにしか見えない。宗教的な狂信さがなければあの戦争は理解できないのである。ここに不信感の根本があり、そして今も戦争の戦死者たちを神として崇めているなら、同根に戦争を起こしたものが日本には残っている、という疑問は払拭できていないはずである。

戦死者の神格化が、日本人と海外の人々の理解を妨げている。日本人はその気さえあれば鯖の缶詰でさえ神格化できる。鯖の缶詰が神様であっても何も困らない民族である。この国に住む多くの人はそれが腑に落ちる。だがそれは日本人だけある。この土地に育まれた神との関係性は恐らく一風変わっているのである。

これが海外の人々には夢にも思わない思想なのであろう。お前らは神の名を叫び特攻までしたではないか。あの狂信的な信仰心は神に向けられていたではないか。そのお前たちが今も戦犯を神と崇めているのなら、またあの狂信が蘇らぬとなぜ言えるのか、それを危険視して当然ではないか。

違うのである。誰も天皇を神と崇めて死に赴いたのではない。日本人の特攻は天皇への信仰が支えたのではない。死に赴いたものがどのような言葉を残したのであれ、天皇の為に死んだのではない。誰にとっても天皇は鯖の缶詰であった。彼らはただ社会からの要請を受け、黙ってそれを受け入れたのである。日本というコミュニティが根底にあり天皇はその色に過ぎない。誰もが社会に属する者として自分に出来ることをしようとした。

バカバカしさを知っている者も知らなかった者も等しく社会からの要求に自分の命を捧げた。それは信仰ではなく社会への同調であろう。社会の存在を信じ自分たちの社会を大切に思い自分の思いを託し社会を成立させるひとりとして働いた。自分の死後を託せると信じた。彼らは社会の犠牲者であり生贄ではあっても殉教ではない。その死は宮沢賢治が描いたグスコーブドリの伝記や映画アルマゲドンに近かろう。

社会の構造として天皇はやはり機関であった。だが天皇機関は天皇が存在しなければ成立しない。20 世紀の科学が神と対峙し多くの無神論を生んだように天皇を失墜させる危惧があった。それを失った時に社会は分裂せずに済むかという問題も孕んでいたであろう。日本を占領した GHQ は早々と天皇を象徴と見抜いた。これは実に正しい慧眼と思われる。日本人では惜しい事に見抜くのは無理であった。