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2013年12月31日火曜日

実写ガッチャマン - プロット

ストーリー

西暦2050年代。突如現れた謎の組織ギャラクターは全世界に宣戦布告を行い、わずか17日で地球の半分を占領した。人類は不思議な結晶体である石に人類絶滅阻止をかけることになり、それを受けて国際科学技術庁の南部博士は、約800万人に1人といわれるその石の能力を引き出せる適合者探しを開始する。南部博士は適合者5人を探し出した上で施設に強制収容し、究極の兵器になるよう訓練を行う。そして究極の兵器に変身した5人はガッチャマンと名乗り、ギャラクターに立ち向かうのであった。

本作への反証
科学忍者に不思議な石は不思議だ。もちろん科学にも不思議はある。不思議な現象はある。しかし科学に不思議な石はない。科学も未知の力は扱う。そのために無知から人を不幸にする事もある。

もし不思議な石を原子力の比喩として使っているのならやはりおかしい。科学が不思議なまま使う事はない。説明できなくとも実験により何度も確かめられている。それを説明できる数式も組み立てられている。それが科学というものだ。

科学忍者はそういうものの上にあるはずである。原作は科学の力とそれが描く未来に希望が持てた時代であろう。それを踏まえた上で、人間が制御しきれない力をなぜ扱ったのか、は物語のテーマになりうる。

物語の位置付け、方針、意義、課題
科学を題材にするならば、この時代に福島第一原子力発電所事故の問題は避けて通れまい。

これを直接的に描くならば原子力発電所事故と対峙する科学忍者隊のストーリーが思い付く。ギャラクターが原子力発電所にテロを仕掛け、これを阻止しようとする警察や自衛隊。それが突破された時に科学忍者隊が登場する。

ここで戦いをメインにすればアクション映画になる。もしギャラクターを阻止できず原子力発電所が暴走すれば別のストーリーも描ける。そこで科学忍者隊がどうコミットするかにより幾つもの描き方が出来る。暴走に対して科学忍者隊も無力となり、そこに職員たちが決死の突入をするというストーリーでも良い。

汚染された地域に対する物語も思い付く。

放射能に汚染された地区にギャラクターの基地があり、そこに潜入する物語だ。汚染後の世界観を背景として描く。科学忍者隊は汚染を止められなかった苦い経験を絡めることも出来る。

例えば、山口県で原子力発電所事故が起きたら。九州と本州は物理的に分裂される。九州と本州を結ぶ交通機関は高速道路は使用不能になり、山陽新幹線は岡山を終点となり、残されたものは船と航空機しかない。

九州は日本国でありながら独立性の高い自治国として存在させ、山口、広島、島根、愛媛の一帯は放棄されている。瀬戸内海の汚染は酷く、沿岸部は農業、漁業ともに壊滅状態にある。その風景は、木々が生え野生動物の楽園のような世界だ。ただ人のいない世界だ。

そこには政府に反対する人々や反社会的勢力の人々、政府から見放された人が新しいコミュニティを作り出している。そこにギャラクターの基地がある。

この基地を調査するために科学忍者隊が出動する。

この世界観は、科学忍者隊ガッチャマンでなくとも、破裏拳ポリマー、でも良い。

プロット
原子力発電の事故が発生する。地震かテロか。

それから数年後・・・

放棄された地域に侵入した科学忍者隊のエージェントのひとりがぼろぼろになって戻ってくる。

そこにギャラクターの新しい基地があることを突き止めたのだ。

これを受けて出動を要請された科学忍者隊。

彼らが侵入したその地区で見たものは。

政府から見捨てられた人々の存在を始めて知る忍者隊。

その者達との対立や和解を通してギャラクターの基地へ侵入する。

彼らの目的とは何か、そこで何をしようとしているのか。

物語の肝はギャラクターの設定に全てかかってくる。

敵の定義
味方と敵の対立が物語の主軸である。争いとは両者の間に問題がある事を明示する。換言すれば、問題を解決するアプローチが物語と言える。

その解決方法は多くはニーチェが指摘したように悲劇か喜劇に集約する。突き詰めれば理性と感情の激突である。義理と人情と言ってもいい。ひとつの理解としては、悲劇は理性の勝利であり、喜劇は感情の勝利とする。どちらに転ぶかよりも、それを選択する意志の存在が重要で、物語は選択の過程とも言える。

それによって観客に快感を与えるためには『流す』が必須であり、それは敵を撃滅したり、和解したり、突き詰めれば、なぜそれを選択したか、それを納得させる理由はなにか、そこに機智に富んだ人間性はあるか、を観客は望むのであり、理性と感情を両立させつつ選択により問題を解決する事象が必要なのである。

それを満たすために敵の描き方が大変に重要になる。何故なら選択と意思は敵の描き方で決定する。逆に言えば物語は敵の定義づけでおおかた決定してしまう。
  1. 憎しみの相手として描き、倒す事でカタルシスを得る。
  2. 巨悪として描き、倒す事で正義を再確認する。
  3. 問題の根源として描き、対決を問題解決とする。
  4. 宇宙人や怪獣のように最期まで理解不能な相手として描く。
これらのパターンを反語にする。
  1. 憎しみの相手は、本当に憎むべき相手であったのか。
  2. 巨悪と思われた相手の主張も聞くべきではないのか。
  3. 問題の根源と見做す事が、本当に問題解決になるのか。
  4. なんらかのコミュニケーションにより理解できる相手として描く。
前者を拒絶型、後者を接触型と呼ぶ。もちろん両者の混在や時間を経るにつれ立場が遷移する場合もある。

プロット2
ガッチャマンの敵であるベルク・カッツェは元科学忍者隊の一員である (総裁Xは登場させない)。彼はかつて科学忍者隊の一員として原子力発電所事故に動員されたが政府の裏切りにより事故を誘発させていまった苦い過去を持つ。政府の裏切りを知り政府に敵対する勢力として、また見捨てられた土地の人々を救済する手段としてギャラクターを創設した。

ギャラクターの資本は、彼が持っている情報で政府を恐喝して得た資金、その運用益、更には見捨てられた土地で栽培した麻薬である。

政府はベルク・カッツェの力が巨大化する事を危惧し、また彼の持つ情報を闇に葬るためガッチャマンの出動を要請した。この裏事情も知る南部博士は、最初は難色を示していたがある政治家との会談後にガッチャマンを出動させる決意をする。南部博士が取り交わした密約とは?彼がガッチャマンに託した真の目的とは。

2013年12月29日日曜日

信なくば立たず - 孔子

巻六顔淵第十二之七
子貢問政 (子貢、政を問う)
子曰 (子曰わく)
足食足兵 (食を足る兵を足る)
民信之矣 (民これを信ず)
子貢曰 (子貢曰わく)
必不得已而去 (必にしてやむを得ず去らば)
於斯三者 (その三者において)
何先 (いずれが先きや)
曰去兵 (曰わく兵を去る)
曰必不得已而去 (曰わく必にしてやむを得ず去らば)
於斯二者 (その二者において)
何先 (いずれが先きや)
曰去食 (曰わく食を去る)
自古皆有死 (いにしえより皆な死あり)
民無信不立 (民に信なくば立たず)

民に信なくば立たず、これを国民の信頼を得なければ政治はできない、と解釈する人がいる。だが果たしてそういう言葉であろうか。

民の支えがあるから政治が成り立つという解釈はいかにも民主主義によく合う。だが少し日本的過ぎるかも知れない。民主主義の根幹は信ではない。社会契約説が訴えるように、民主主義の根底には自然状態があり、その上に合意がある。だから民主主義は革命権を当然の権利として内包しており、その権利の穏やかな行使が選挙であり政権交代であろう。

易姓革命と民主主義は構造は似るが演者が異なる。
項目易姓革命民主主義
合意した両者天と王人民と為政者
根拠を与えるもの合意 (契約)
正しさの根拠天の支持なし
統治される者人民
倒す権利を有する者天に変わっておしおきする者人民
倒し方武力投票

孔子曰く。食があり軍があれば民はその政を支持する。例え領土を失おうとも政を支持する。餓えて死のうとも政を支持する。民が支持するから政には意味があるのだ。これは政治を国に置き換えても問題ない言葉に思われる。しかし神に置き換えるとおかしい。

食があり軍があれば民は神を信じる。例え領土を失おうとも神を信じる。餓えて死のうが神を信じる。民が信じるから神に意味がある。これでは何かおかしい。神を天に変えても同じだ。

ならば神への信仰と政への信は違うものか。たぶん、そうであろう。

子貢が政について問い孔子が答える。政について教えてください。子曰わく。

どれかひとつを取り除くとしたらどれですか。3つあります。どれが最も大切ですか。子貢の問いの意味は分かっている。彼の質問の愚かさもよく知っている。どれが大切かではない。私が語ったものと政がどう関係しているのか。それについて分かった気になっている。当然だと思い疑わない。だから彼はその中でもっとも大切なのはどれだろうと疑問に思うのだ。よし、ならば答えよう。だがその質問が既に違うのだ。これを政治の大切な要素だと思っていては足りない。

必要なのは信であって民ではない。民は置き換え可能なのだ。餓えぬともどうせ民は死ぬのだ。それが真意だろうか。

人の死よりも人の信を重視すると言う話は、神風特別攻撃隊を思い起こさせる。あの時間の人々は信なくば立たずであった。命を引き換えにしてさえ。それに人々は耐えられただろうか。それは今も自爆テロという形で世界を覆う。

信なくば立たずとは人々の支持を為政者が受けるという話ではなかろう。現実的な利益よりも、信という、幻想とも架空とも呼びえる、目に見えないもので人々を繋ぐ事ができる。その不思議さや恐ろしさであろう。

孔子はこう言う事も出来た。

政治で一番大切なのは信じさせることだ。領土を失おうとも飢え死にさせようとも、信じ込ませる事は出来る。それさえあれば、彼らはどこまでも付いてくる。政治とは信じさせる事だ。

それで餓えて民が死に絶えたらどうなるのか。本当に信なくば立たずであろうか。民なくば立たずではないのか。政は民を必要とするのではないか。為政者こそが民の信を必要とする。民に信は必須でない。だから立たずなのではないか。

信を運搬する者は民である。民が絶えた時、政はどうなるのか。信を失えば食も軍も意味はないかも知れない。だが民を失えば信も失われるのではないか。

信とは何か。

信用とは失敗を許さない事、信頼とは失敗を許す事。

信用は失敗がない前提、信頼とは失敗を許容する前提。

どちらも始める前の心構えに過ぎぬ。

信用している時に「やっぱり」はありえない。信頼しているなら「やっぱり」はある。

信用している時に「まさか」はある。信頼しているなら「まさか」はありえない。

一般的に信頼は強い。信用は脆い。

一般的に人は生れた国を信頼する。隣りの国を信用する。

一般的に人は家族を信頼する。他人を信用する。

信用も信頼も生れた時間や場所から始まる。

人はそれを足場にして信頼や信用を拡げてゆく。

信用と信頼の違いが、同じ言葉を違った色にする。同じ行動を違った意図にする。信用だけでは足りぬ、信頼だけでも足りぬ。どちらも心構えだから、それは安穏と安心の根拠にならない。

一度失ったら取り戻せないものがある。それだけは疑いようがない。

なぜ孔子にはそれが信であったのか。

人はパンだけで生きるものではない

と同じ話がここにある。パンだけで生きるものではない、しかしパンなく生きてゆく事もできぬ。ならば、パンとどちらかしか、と問われればなんと答えるか。問われたのがパンでなかったから答える事ができる。もしパンなくば人は如何と問われれば、答えることなぞ出来やしない。ケーキを食べればいいのにと言うわけもいくまい。

食と信だから信と答えた。その逆はない。食のみで生きるものではないと答える代りに、どうせいつか人は死ぬのだ、と孔子は答えた。どちらも言っている事は同じである。

兵も食もある事が前提なのである。パンが有る事が前提なのである。それでも失えばどうなるか、と問う。架空である。石をパンに変えよ、架空の話しならば何とでも答えられる。偽ならば真。論理包含である。だがそう答えなければ満足せぬ人の心がある。

人はパンによって生きているのだ、当たり前じゃないか。それでは満足できぬか。何を探しているのか。

その当たり前が霞んでゆく。信よりも食に決まっている。だが食は目に見える。信は目に見えない。分かりやすいのは食である。その当たり前な平凡に納得できない。だから信の理由を語ってやらねばならない。そうしなければ立たない。

孔子は答えを拒絶した。

孔子が民に信なくば立たずという時、この民は既にシャレコウベとなって亡霊として立っているのだ。

民に信がある為には生きてなければならぬ。生きている民の信を得たいならば、軍も食も必要であろう。死んでも構わぬと言うか。民に死ありではない、皆死ありである。誰が民が死に絶える事を望むか。

信があれば民はいらぬと言うか。政はそうなり易いのだ。その恐ろしさを知っているか。

信がある。だが民に信を求め始めれば民を見まい。

民と信、子貢はなぜいずれが先かと問わなかったか。

2013年12月21日土曜日

罪と罰 - フョードル・ドストエフスキー, 米川正夫訳

へ、へ、へ、不思議な話しですな。罪とは何ですか、罰とは何ですか。

ええ、この退屈な小説を読み進めるのは苦痛以外の何ものでもありませんでした。どうしようもなく退屈です。そして訳がまた古い。初版が昭和 26 年とありますからそれも仕方はありますまい。

この訳はもう絶版です。もう古典と言っても差し支えない代物です。確かに 1866 年の世界はこうであった、そう思えるくらいに古い訳です。

もしドストエフスキーが現代に生れていたら。この小説を読みながらそういう考えが浮かびました。きっと彼は小説家ではなく映像作家になっていたと私には信じられるのです。

この小説を読めば分かろうものです。描写が映像的なのですから。ドストエフスキーは映像を目の前にしてそれを写し取っているのではないか。その映像的な手法で人間の心理を文字にして描写してゆきます。

建物の汚れた描写はそのまま心理の暗さを暗喩します。それは人間の気分です。風景に感情が投射されて描かれているのです。彼が長々とした心理描写を始めたら要注意です。何かが起きる前触れです。

何故でしょう。彼は人間の心理など全く信用していないように思われます。にも係らず小説は心理描写によってぐいぐいと引っ張られ、先へ先へと進み、読者を引き摺り込みます。

まるでこの小説に登場する誰もが水の流れに浮かんでは消える水の泡です。彼らの意志は誰かの何気ない言葉で浮かびあがり、捕えられ、実行され、そして沈んでゆく。それが多くの人間で織り成される風景です。

その織り成された風景のひとつが、たまたま聞いた言葉が、それだけがラスコーリニコフに階段を昇らせる理由になるのです。

誰もが行動を己の意志の結果であると信じています。しかしどうやらそれは疑わしい。

その意志と思われるものは波紋かも知れません。河に石を投げて生まれた波紋と変わらない。誰かの言葉が波となり、川面を揺らすように誰かを揺らし、心に干渉して腕が動く。そういった人間の中で起きている化学反応のようなもの。どこから来たのでしょう。

罪と罰もひとつの事象に過ぎないのです。同様の物語はこの世界のあちこちにあるはずです。更に言えばキリストさえも。

ソーニャがもし日本に生まれていたならば彼女はきっと聖書の代わりに阿弥陀仏を唱えていたことでしょう。

南米のどこかの街に生まれていたのなら別の物語になっていた事でしょう、そういう物語があるはずです。

それは世界のどこにでも。宗教も民族も超えた所でも人が居る所には何かがあるのです。ええ、罪と罰はその表層に生まれた物語のひとつなのです。罪と罰は水面に現れた波紋です。

この小説で語られているどんな思想も、一杯のウォッカの価値もありません。そんなものは全て氷山の先の氷の1粒に過ぎません、それがどれだけ人の心を打ったとしても、注目すべきは、見えていない、その奥の奥の海の奥に沈んでいるあの大きな塊の方でしょう、そうお思いになりませんか。

キリストなどたまたま目の前に現れた小石に過ぎません。私は賭けてもいいですけど、ドストエフスキーという男はキリストなんてこれぽっちも信じちゃいなかった。彼はイエスに石をぶつける者でしょう。そういう自覚が彼には十分にあったと思います。彼の前で無条件に跪くなど考えられやしなかった。彼には聞きたい事が山ほどあった。逆に言えば、それほど本気でキリストという男の存在を信じていたのです。

一度も罪を犯したことのない正しき者だけこの女性に石をぶつけなさい。

罪と罰で注目すべきは、最期に罰を法に委ねた事でしょう。罰が、良心の問題ではなく法の執行なのです。これはどう解釈すればよいのでしょうか、我々はここにも注目しなくちゃいけません。

ラスコーリニコフは最後まで自らの意志にではなく誰かの言葉に振り回され続けました。それは最初から、物語の最後まで、ずうっと。ずっとです。

殺人という思い付きでさえ始めから彼の中には存在しなかった。どこかで読んだか聞いた話しが彼の中で成長したのです。彼はそれを自分のオリジナルと信じていたのだけれど。

もう一度読んでみてください。何かが彼の心を捕えたその瞬間を。ラスコーリニコフがそれを決行したのも誰かの言葉があったからじゃないですか。その言葉を聞かなければ彼はあの階段を昇る事もなかったのに。

なぜラスコーリニコフは告白したのですか。一見簡単そうなこの問いの答えが悉く間違っています。彼は自分がヘーゲルのいう世界史的人物でない事に気付いたのでも、超人思想の誤りに気付いた訳でもありません。

ましてや己れの罪に気付いたからでもありません。彼は物語の最期まで、本当に最後まで老婆については何も語ってはいません。可哀そうなアリョーナ。

なぜラスコーリニコフはラザロの復活を必要としたのか。なぜソーニャから聞きたかったのでしょう。この美しい描写が示すのは、この説話によってラスコーリニコフは死者に成れたのではあるまいか。だからソーニャによって復活する、そのとき、彼が初めて口にする言葉は何であるべきでしょう。

罪の告白とは自分が生まれ変わる事に違いない。告白により人は新しい自分に生まれ変われる。決別した昨日の自分の罪だから、告白ができるのです。ならばラスコーリニコフが望んだものは復活であったのか。

いいえ、ラスコーリニコフはそんな事を自分の本心として望んだのではありません。彼はソーニャを試そうとして、ソーニャの言葉を聞いた。ソーニャへの蔑視、同情、憐憫、驚愕、彼にはそれに見合うものが必要だったのです。このお人よしは無償でさえ人に与えるのです。何かを受けたらそのお返しが必要だったのです。

それが彼の中には殺人の告白しかなかった。もしソーニャと出会わなければ彼は告白もしなかったでしょう。その時はラスコーリニコフはどういう人生を歩んだのしょう。

彼はいつでも引き返す事ができた、逃げることもできた。しかし、ソーニャの顔を見た。だから引き返せないのです。だから踵を返したのです。

彼に自分の意志などなく最後まで人の中で翻弄され続けたのです、聡明なラスコーリニコフが、です。

ふむ、賢いあなたはそれを彼の孤独さに求めるかも知れません。社会とのかかわりの問題と言うかも知れません。

しかしこの小説を読んでゆけば、次第に全ての登場人物が梅毒に脳をやられた狂人ばかりに見えて来るかも知れません。もしそうでないならこの小説の中に幻想を見ているのです。ほらどちらにしても脳をやられているのはあなたではないですか。

この小説のプロットは実に単純なものです。幾つかの印象深いが取り留めのない日常の出来事が起きます。難しいトリックも複雑な起伏もありません。しかしなぜこれほどまでに印象深いのでしょう。

重要な二人の人物がもつれ合います。それが二組あって二重化します。# (井桁) のような構造です。ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフ、ソフィヤとドゥーニャ。この四人が対比します。マルメラードフとラスコーリニコフの父親の思い出が導入部にあり、目を打たれる馬の話しはなんとも幻想的です。

ポルフィーリーとラスコーリニコフ、ウラズミーヒンとラスコーリニコフ。この軸で殺人事件を支える。ここでルージンという役者の存在が面白くありませんか。

この物語を途中で強制退場させられる都合の良い人物はしかし物語を成立させるリアリズムを支えています。物語の中で金銭的な問題を浮き彫りにする彼に与えられた役割は、散らばった演者達をある時期にある場所に集める。そういう役割です。それが物語を始めるのに必要だったのです。

初めからその場所に全員が居たのでは成立しない物語でした。これが映像的な時間と空間の広がりです。

これら四人の二重構造が交差し絡み合いラスコーリニコフとスヴィドリガイロフのふたりに集約します。この二人の対照的な、そして小説的な終わり方が、商品として必要でした。

誰があんな自殺を信じますか、あれは史実ではありませんよ、脚色です。ドストエフスキーの悪乗りです。筆が滑ったのです。つまり、あの時点でドストエフスキーは言いたい事は全て書き切っていたのです。

登場人物の中で、初めから終わりまで真っ当な人物がいます。ナスターシャの善良さ、ラズーミヒンの友情、ポルフィーリィの常識。これだけの真っ当さで描かれた人物が物語の軸として必要でした。

ヘーゲルの世界史的人物という思想、歴史的超人という思想は、恐らく当時の人々にとっては深刻な解決すべき問題だったのでしょう。同じように今の人にとっても解決しなければならない問題があります。どんな思想がではないのです、そういう思想がある事が肝心なんでしょう。

ラスコーリニコフが論文に書いた非凡人思想も、ソーニャのキリストへの信仰も、物語を進めるための駆動輪に過ぎません。それらは代替え可能でしょう。読み進めればキリストへの信仰でさえ心理描写を転調するためのきっかけでした。長い長い心理描写が始まれば読者はそれが行動を起こす前触れと知るのです。

何が罪なのか、何が罰なのか、それは語られる事なく物語は最後まで行きます。しかし、最後まで読んだ人なら微かな思いがあるでしょう。

この作品の全ては次の三つに集約します。ドストエフスキーが本当に書きたかったのはその三つだけと私は思うのです。

僕が殺したのです。

あなたが殺したのですね。

そして殺したんでしょう!殺したんでしょう!

行い、告白し、そして指摘される。これが物語のコアになります。ここが罪と罰なのです。ドストエフスキーの思索の後は次第に消えてゆきます。そして心理描写だけが残ります。

ここまで言えば、もうお分かりでしょう、ええ。みなさんが読んでいるのは雰囲気なのです。ドストエフスキーはそんなものを書くのに苦労したんじゃありません。

誓ってもいいですが、ドストエフスキーがこの作品をだらだらと書いたのは、毎月の掲載枚数を埋める為に過ぎません。それ以外のなんの理由もない。ええ、この際ははっきり言いますがね。薄っぺらいのですよ、貴方たちの読み方は。

誰も自分の事を善良でない人間と認める事はできないものです。もしそう口に出す人がいたとしても、それは嘘です。本人も気付かぬ嘘です。どれだけ懺悔しようと後悔しようと心の奥底にはどうしても壊せない小さな粒子が振動を続けています。それが私は善良な人間ですと言い続けているものです。

もう一度問うてみようではありませんか。罪とは何か、罰とは何か。罪とは生きていること、罰も生きていること。それ以外は考えられません。罰が人に降りかかります。だから人は罪を思うのです。罪がある、だから罰を受けるのではないのです。それは後から気付く因果関係に過ぎません。もっと言えば、そうやって安心したに過ぎない。罰がある。だから罪を探すのです。

思想も金も妄想も罪にはならない。罰でもない。生きているから罰がある。生きているから罪がある。では死ねばいいのか。死ねば罪は消えるのか、罰はそこで終わるのか。いいや、そうではありますまい。

罪も罰も人間が生きる本質には何も関係していない。

はっ、はっ、はっ、そう思いませんか。

あなたはドストエフスキーのエピローグを読みましたか?

これがこの小説の全てでありましょう。そして読者の誰もがここで騙されてしまいます。

このエピローグこそはドストエフスキーが読者を前にしてほくそ笑んでいる所です。君たちが望む気持ちのいい恋愛話なら私はいつでも書けるのだ。何の疑問もいだかなくて済む話を書くなど簡単な事だ。

だが私はそれを書かない、だから此処まで付き合ってくれたあなたたちに少しだけサービスをしよう。

エピローグはまさにそういう話ですよ。

それは救いでもなんでもないんですよ。かくも格好よく終わるなんて容易いものだと読者を前にして優越感を味わっている作者がいます。その姿が見えて来るじゃないですか。全ての読者がここで敗者になるのです。

罪と罰 あらまし - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 (上) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 (下) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー

2013年12月13日金曜日

ジム - 機動戦士ガンダム

ガンダムとは、試作機へのロマンである。

試作機は従来のものより性能もよく、費用も掛けられ、最新鋭の理論、科学、技術、素材が投入され、試行錯誤の果てに完成する。もちろん試作機の多くはこれだ。

試作機の源流を求めれば鉄人28号機まで遡る。番号が示すものは失敗の数である。だが鉄人には量産機がない。それとは別にマジンガーZの系譜がある。一品ものの系譜である。

これは現実の工業生産品でも同様である。量産を目指した試作機、一品もののための試作、試作機のみで終わるもの。技術者の手に成る一品もの。通常はそれを趣味と呼ぶ。

一般的に工業品は試作機よりも量産機の方が優れている。試作機は、間違いと勘違いの試行錯誤であり、無駄と不効率と経験不足の集積物である。手探りと実験のためのアルゴリズムがパッケージングされていて、エンジニアが残業を重ね、家族とすれ違いながらひとつひとつの不具合を潰し品質を向上・安定させてゆく。

試作機と比べれば、量産機こそ、品質の向上、アルゴリズムの洗練、コストと性能のバランス、そして少しだけの妥協と課題の積み残しからなる完成体である。あらゆる面で試作機を凌駕するものである。

試作して見なければ分からない事は確かにある。しかし試作機に実装して量産機で落したものであれば、それは結論として不要だったのだ。コスト問題など開発が難航でもしなければやる前から分かっている話しである。オーバースペックはエンジニアの勝利とは必ずしも言えないのである。

と言う訳でガンダムが試作機の傑作なら、ジムは量産機の傑作である。そこにあるダサさ、チープ感、手抜き感は秀逸なデザインの成せる技である。同じ量産機でありながらザクとジムの違いはどうだろう。ジムはザクにも成れなかった。それはガンダムという試作機を頂点とするヒエラルキーの問題である。

ジムの模型を眺めていれば、ガンダムからのブラッシュアップを試してみたくなる。設定によれば、短期間の製造とコスト削減のために試作機から機能を削ぎ落したとなっている。削ぎ落せば通常は機能美の極致が生まれたりするものである。

各機は計画どおり、もしくはそれ以上の性能をもったMSであったが、そのままではコストが高すぎ、短期間のうちに量産できる仕様ではなかった。そこで3機種のうち近距離戦用であるガンダムの量産タイプとして、再設計されたのがジムである。後のムックや模型の解説書などの後付設定では、ジェネレーターの出力や武装および装甲素材などの性能をガンダムより落とすことで、前期生産型の生産コストはおよそ20分の1以下に抑えられたとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ジム (ガンダムシリーズ)

しかしジムの造形の難しさは、少しカッコよくするとバイファムになってしまう事である。これが難しい。ORGIN 版はジムをガンダムに近付けることで回避した問題であるがジムの元の造形をカッコよくする方法は今も発見されていない。ジムのチープ感は唯一無二でありこのデザインこそ傑作と言ってよく世界には未だこれを超えるものはない。

軍用の輸出版にはコストや国防の課題から性能を落とした機体がある。一般的にエコノミーと言えばパトレイバーに登場した機体であるが、あの機体の素晴らしさは作中では扱いよりもそれに対応するエンジニアたちの描写にある。あんなのが出てくるようじゃこの機体じゃダメだよなぁ。エンジニアの歴史はこの台詞の積み重ねなのだ。

この国はどうのこうのと言ってもエンジニアで成り立っている。デザイナーが流行りそうな気配もあるが、デザイナーもエンジニアも根っこは同じだ。エンジニアとは工業で働く人の呼び名ではない。サービス業であれ、農業であれ、漁業であれ、営業であれ、金融業であれ、スポーツであれ、デザイナーであれ、アニメーターであれ、映画監督であれ、メカニズムを思い描き、ああすればこうなると考える人、その上に論を重ねる人は誰もがエンジニアである。

だから分野が違えども分かり合える事がある。

試作機の開発秘話はもちろん風立ちぬで見たように面白い。そこから量産に向けてのエンジニアたちの物語がある。ガンダムからジムへ設計の変更をしたエンジニア達がどこかにいるはずである。設計を変更し、量産のために工場に出向き、そこで製造のためのディスカッションを行い、量産のための組立を行い、テストパイロットが登場し、性能問題での改修を行い、ロールアウトに向けて営業が売り込み、採用側と折衝を重ね、ライバル機との争いに勝ち、そういうものとしてジムを描いたらさぞ面白そうだ。

漫画のパトレイバー(ゆうきまさみ)がそういうエンジニアの普通をもっともリアルに描いていると思う。

2013年11月28日木曜日

実写版ルパン - 僕のやりたいこと

以下は mixi に殴り書きしている時 (2013/11/27) に生まれたものを書き直したものです。これを書いていて、少しだけプロットというものをキャッチできた気がします。そしてそれが本当に自分がしたい事のようです。僕には何もない所から作品を創造するだけの素養はありません。そこから脚本や小説に仕立てあげる訓練も受けていません。しかしプロットを構成することがすごく好きだという事にやっと気付けたようです。物語を作る事の一端にようやく足が踏み込めるかも知れません。それは誰かが作ったものの上に粘土を塗りつける作業です。もしかしたら他人の褌で終わるかも知れません。それでもこれは道です。


実写版ルパンの位置付け、方針

もともとルパンという作品はアニメの PartII で方向性が完成しており、そのため宮崎駿がカリオストロの城で青ルパンをどれほどオモシロく描こうともルパンの本流にはなれず、やはりルパンの本流は赤ルパンであって、その根底にあるものはこっけいさと思われるし、その滑稽さによって物語は支離滅裂、不合理、ご都合主義になっても、それで押し通せる所がルパンの魅力であり、もちろん実写でそれをそのままやると、単なるこっけいさでは終れず、邦画特有の嘲笑を受ける事になるから、役者はルパンのリアリティをどう作り上げるかが肝であり、そのためにも脚本が重要だが、

『“所有者は世界を統べる”という宝物「クリムゾンハート・オブ・クレオパトラ」と、それを収蔵する超巨大要塞型金庫「ナヴァロンの箱舟」を巡るもの』

というプロットでは要塞に忍び込んで Mission:Impossible のパクリでもやる気ではないかと疑念を抱き、それならルパンでなくてもいいのではないか、もっと相応しい原案があるだろうと、勝手に暗澹たる気分に陥り、今のところ、ルパンと最新テクノロジーの相性は良くなく、次元の拳銃にしろ、五ェ門の剣にしろ、漫画だからね、で許されるリアリティに支えられていて、これをまさかまんま実写で再現する気じゃないよねたぶん、と心配になって、実写には実写の意義とテーマがあるだろう、いや、俺が見たいからとかそんなほら無能丸出しのセリフじゃなくて。

プロット

21世紀に30代のルパンならば、もう三世である必要はないかも知れない。三世の名を受け継ぐ者くらいの設定の方がいろいろと出来る。最初のシーンは薄汚れた路地で貧しくつつましく暮らしているルパン。

そこに依頼がくる。なぜ依頼主がルパンの正体を知っているかを最初の謎にする。依頼の内容がある場所から泥棒する事。依頼人は高貴な感じがある人、おばさん。護衛より凄腕のシーンも見せて謎を深める。

そこから次元、五ェ門にコンタクトを取るのが最初の盛り上がり。次元と五ェ門がどこにいるか、そんな彼らが直面しているトラブルを設定する。冒頭に仲間さがしを持ってくるのは冒険映画の基本。その間にキャラクターの人間性、依頼人、その敵、謎を深めてゆく。ここで伏線も張っておく。

それで全員が揃ったら依頼のために動き出す。ここで不二子が登場、銭形も含めて話しはややこしくなって、一度は裏切りから撤退を余儀なくされる、

そこである謎に気付き、体勢を建て直し、再兆戦して依頼を達成、謎解きもして終わり。

エピローグでルパンがなぜひっそりと生きているのか、普段はどう過ごしているかを見せる。

これが基本的なストーリー。アベンジャーズのプロットに似るか。

基本的に行うのは盗みだけど、それは依頼を受けてやる設定。盗みよりも依頼者の謎の方を念頭に置いて物語を進める。

謎には、依頼主は誰か。盗むものは何か、どうしてそこにあるのか、誰が持っているのか、どれくらい巨大な敵か、そこからどうやって奪回するのか、がある。

銭形がいるから最後は警察の手柄で落ち着かせる。

このルパンでは不二子とルパンの関係をリアリティの鍵にする。

2013年11月23日土曜日

過ぎたるはなお及ばざるが如し - 孔子

巻六先進第十一之十六
子貢問 (子貢問う)
師與商也孰賢乎 (師[子張]と商[子夏]とはいずれかまされるや)
子曰 (子曰わく)
師也過 (師過ぎたり)
商也不及 (商及ばず)
曰 (曰わく)
然則師愈與 (然らば則ち師はまされるか)
子曰 (子曰わく)
過猶不及也 (過ぎたるはなお及ばざるが如し)

そのふたつしか選択肢がないとすれば足りないよりも過ぎた方がましだと考える。ことわざにも大は小を兼ねると言う。それを違うんじゃないかと言う。過ぎたのも及ばないのも同様と孔子は言う。

もちろんこの世界にぴったりと調度いいものは少ない。多かれ少なかれ足りなかったり多かったりする。孔子はどちらも同様と語ったが、では及ばないと過ぎたるではどちらがより及ばないかを語らない。

帯に短し襷に長し。使い道が悪い事のたとえだ。この世のほとんどは過ぎたるか及ばざるかなのだから、どれもこれも使い勝手は悪いものだ。そう思っていれば、盲信も少なくなる。

どちみち及ばざるならば、現状維持もある。優れていると考えるから人はもっと優れたいと考える。それで止まらなくなる。過ぎたれば留まれず。ここでよい、ここが調度よい。そんな場所が分からない。

そういう危うい場所を孔子は中庸と呼んだ。中庸が困難な場所であるならば、過ぎたるは猶及ばざるが如しとは、過剰も不足も両方とも足らないではない。過剰は不足よりもたちが悪いとなる。

人は足りないよりも過剰の方がましと考える。何故なら過剰から不足へは物理的に可能だが、不足から過剰へは不可能だからだ。そういう可能性の問題として過剰は不足よりもましな状況と思う。

それを孔子は否定する。確かに物理的な状況としては過剰の方がよい。しかし過剰は中庸で立ち止まれなかった。そういう人が踵を返し不足へと向えるはずもない。

過ぎたものは中庸を通り過ぎた。及ばないものも中庸を過ぎるかも知れない。しかしそこで留まるかも知れない。可能性がある。

及ばないなら不足しているのだ。それは誰もが分かっている。だから良い。しかし過ぎたものは中庸を超えたのだ。もしまだ及ばずと思っていたら、どうやって立ち止まれようか。

孔子は弟子の優劣を明言しない。及ばず、過ぎたると優劣の問題は関係ないと言いたいのかも知れない。中庸の難しさを思えば、及ばずも過ぎたる同様なのだ。

子貢が聞きました。
子張と商ではどっちが優れた人材でしょうか。
孔子は言いました。
子張は行き過ぎる。
商はまだ足りない。
子貢がそれを聞いて言いました。
それなら子張の方が優れていますね。
孔子がムッとして答えた。
子張はもう方向が定まっている。商にはこれからの可能性がある。どっちがいいと決めつけるなよ。

人を見ずに言葉で決める事を戒めたのだ。

2013年11月15日金曜日

海は悪くない - ヒーローについて

藤子F不二雄のウルトラ・スーパー・デラックスマン。不死身の体を持った小池さんの物語である。コミックに登場する多くのヒーローと同様に彼も正義のヒーローである。ただ小池さんは強すぎた。悪の軍団も国家も大企業も敵ではなかった。軍は核を以って排除を試みたが倒せなかった。この世界から悪は一掃された。訪れた世界は平和のはずだった。

ヒーローの正体を誰もが知っている世界。だが誰も言えない世界。知らない振りをする世界。生きるために。立ち向かっても意味がない。その時、敵を失ったヒーローはどうなるのか。ヒーローは悪を欲する。悪はヒーローを欲しない。一体ヒーローとは何なのか、悪とは何なのか。

聖書に登場する悪は神に聞く。神の許可を得てから行動する。悪の目的は分からない。純粋な好奇心か、神の退屈をまぎらわす相手なのか。試されるのは神の方である。その答えを人に託す。

ヒーローの条件とは何か。悪を決める事か。無償である事か。正義か。敵か。勝利か。ヒーローは観衆を盲目にする。思いを託し重ね合わせる。それがヒーローの万能感になる。誰かでなければ助けられない時、その場所にいた者がヒーローになる。

震災から二年以上が経過した。当初の勇者たちはどこかへ消えてしまった。彼らはヒーローであった。彼らが命を覚悟した事は誰にでも分かった。命を賭すことがヒーローの条件であろうか。彼らは確かにヒーローであった。彼らは戦った。命と引き換えにできる代償などない。あの震災で福島第一原子力発電所の事故と取り組んだ人がいた。津波の被害者を救おうと救助に当たった人がいた。

自らの命を顧みず危険の中に飛び込んで行った人たち。原子炉の暴走を押さえ込もうと踏んばった人、取り残された人を助けようと海に出た人、物資を運んで行った人、仕事を放り投げてボランティアに行った人、ボランティアに送り出した人、それらを支えた人。

誰も一人では立ち向かえなかった。物資があり、蓄積された経験があり、帰る家があって初めて現場に向かう事が出来た。訓練で鍛えぬいた日々があった。完全とは言えなくとも何もないよりかは遥かにましな装備だった。最悪の状況の中で、最悪の装備で立ち向かったがいた。

困難の中、挫けなかった人たち、挫けた人たち、支えた人たち、倒れた人たち、逃げた人たち、迎えた人たち、看取った人たち、100 年以上も前に津波の危険を伝えようと石に刻んだ言葉。刻んだ人たち。どの人が欠けてもこの世界は違っていただろう。今より良かったかも知れない。だが今よりもずっと悪い世界であったろうと思う。どちらしろ今さら引き返せる訳もない。

いまや日当は 15000 円だと言う。中抜きをする人がいる。その程度で十分だと予算を組んだ人がいる。政府に、東京電力に、その下請けに。彼らには彼らの言い分がある。とてもではないが資金が足りぬ。今ここでストップさせるわけにはいかない。彼らには彼らの、彼らが支えている場所がある。

その対価は命を削るにしては安い。とてもでないが命の対価にしては安すぎる。あの恐怖を忘れたか、100 万、200 万で十分と思ったか。それが命の代償か。彼らの決意への報酬がその程度か。これが彼らの仕打ちか。

過酷な作業に従事しながらも生活も心配しなければいけない。生活を支え、家族を支え、地域を支え、町を支え、国家を、この世界を支えるのはお金だ。そういう心配をしながら彼らは死地へと赴いた。送り出すのにその程度の金額か。

勲章は老人の為にあるのではない。彼らに勲一等旭日大綬章を授けばいい。「国家又ハ公共ニ対シ勲績アル者ニ之ヲ賜フ 」。もし勲章で足りぬなら、年金も呉れてやれ、10 年くらいは犯罪も見逃してやれ。特別扱いしてやれ。それだけの事はしたはずだから。

ヒーローには勲章を、そうでなければお金を。

最悪の事態の被害を考えれば、それを食い止めた彼らには、それ相応の対価を受け取る権利がある。

将来、働いていた証拠がないと言う理由で病気の治療を受けられない人も出るだろう。事故収束に携わった人が、お金がなくて苦労した、病気の治療が受けられなかった、では悲しい。

福島第一原子力発電所事故は国家の危機であった。国の壊滅を思った。あの時は想像を絶する最悪が待っている事だけは確かだった。

数万人への賠償が必要となった。東京電力は100年間で返す借金を背負ったようなものだ。もし彼らが 40 兆円のお金を持っているなら、これを 200 万人に配ればひとり 2000 万円だ。4 人家族なら 8000 万円になる。これだけ賠償すれば多くの被害者は許してくれるだろう。それだけ払えばインフレになるかも知れぬが。

東京電力は 2500 億円の賠償を上限とする約束で取り組んでいた。それを反故にされれば彼らにも言い分がある。貧すれば鈍する。賠償をしたくとも金が無ければ出来ない。次第に笑顔が戻った人から受け取るのは遠慮して欲しい、という話になってゆく。

原子力発電所には 40 兆円の保険が必要と考える。これを勘定しなければ原子力発電の電気代にならない。

東京電力は国策の当事者であった。事故の時、たまたま立っていた場所が悪かった。彼らだけの瑕疵ではない。想像力の欠如があった訳でもない。東京電力だけが背負えば済む話しではない。

この場所に発電所を建てた官僚や政治家は既に死んでいるか呆けている。推進した学者もいる。反対した者もいる。彼らに責任がないわけではない。事故が起きた時にどうすればよいかを十分に研究し準備してきた人など皆無であった。政府は手探りで事故収拾するしかなかった。

民主主義では誰も言い訳が出来ない。お互いで支え合っているから。特定の誰かの責任には出来ないし、自分にも責任がないとは言えない。それは等しく他の誰かに責任を押し付ける構造だ。誰かを憎んで先に進む。だれも自分が悪いと思っては生きて行けない。あれだけの事故を起こせば誰も責任を背負えやしない。それは最初から分かっていた。

あの事故は誰の責任か。

誰のものでも。

誰かを助けた人がヒーローになった。

誰かを憎しめば自分を責めなくて済んだ。

確かな事はヒーローも、憎しみを受けるのも

どちらも人間にしかできないと言う事。

誰かが悪いわけではない。

誰かに負えるものでもない。

誰かが解決するものでもない。

地震が来るのが早すぎたのだ。

それだけの事。

誰の責任か。

海か?

いいや海は悪くない。

答えは決まっている。

そうしなければ誰も生きていけないのだから。

自分以外の誰か。

そう、海は悪くない。

2013年10月15日火曜日

宇宙はなぜこのような宇宙なのか - 青木 薫, 宇宙は無数にあるのか - 佐藤勝彦

  • 例え囲碁の神様が居ても二眼を持った石は殺せない。神と雖も万能ではない。
  • 有史以来、人間が元来もっている合理性が科学でも使われている。
  • 科学はキリスト教から生れた。
  • 科学は厳密性にある。科学的はそのうちから推察力に限定した箇所を指す。血液占いを否定するのは科学的であり、科学では単に関係性が見つからないと言う。理論物理学も実験が伴わなければ科学とは呼べない。
  • ニュートンの万有引力の公式はユークリッド幾何学で記述され、アインシュタインの相対性理論はリーマン幾何学で記述されたのだそうだ。
  • 光速 c の物理定数 299,792,458 m/s (30 万 km/s)。光速がこの値になっている理由を科学者は教えてくれない。測定した結果がこうだったと言う。
  • 多宇宙論は、神を使わずこれに答える。

そういう話がこの本に書いてある。

ほかのあらゆる可能性がすべてだめだとなったら、いかにありそうもない事でも、のこったものが真実なのだという例のふるい原理を、ここで思いだす必要がある。この場合、ほかの偶然はすべてだめだと分かったのだ。
ブルース・パティントン設計書

We must fall back upon the old axiom that when all other contingencies fail, whatever remains, however improbable, must be the truth.

  • 異なる宇宙では物理定数は違ってもよい。それを人間原理と呼ぶらしい。
  • 人間原理 (Anthropic principle) は、人間の存在が根拠になる。我々が存在する以上、物理定数はこの範囲になければならない。でなければ、我々が存在できない、または我々は存在していない。
  • 情報とは時間の事だろう。時間が流れていなければ情報も存在しない。ならば人間とは時間の受容体であるか。誰も観測できない宇宙も存在はしているだろう、それを、厳密にはどう扱うべきだろうか。
  • 神が居ようが居まいが、人間がいようがいまいが、地球に風が吹く。宇宙から人間が消えても我々が見つけた法則は揺るがない。前提条件を満たす限り宇宙を観測すれば法則と一致する。しかし証明はできない。
  • 多宇宙があるとすれば我々の世界は偶々のものになる。例え神の所作に見えるものも偶々である。逆にありふれたものも偶々になる。
  • どれだけ技術や科学が発展しようが無理なものは無理である。神にさえ無理である。

  • 太古から人は天の動きに神を見た。目の前の事実 (FACT) に意味を付け、同じ現象(恐らく宇宙は人間が誕生してから一度もその振舞いを変えたことはない)に異なる意味を見い出し、それを理由に人も殺した。科学も例外ではない。
  • カマキリの脚は捕食のためにあるに違いない。だがカマキリが自分の意志で獲得したものではあるまい。では DNA に意思があったのだろうか。巧妙に進化した様を見ると、まるで DNA に意思があったかのように思われてくる。
  • 原子、分子をある条件下に置くと生物が誕生するのは間違いない。これは偶然であろうか。もともと原子や分子にそうなる力があると思われる。原子や分子は生物に成りたがっているとも言える。それを原子の意志と呼んでもいい。

  • 人は相手の意を汲もうとする。誰かへの思いやりが誰かを助ける。相手の意図や気持ちを汲み取ることが行動を起こす。
  • 同じ能力が敵対する相手を封じる。相手の意図を汲み取り行動する。これが生き延びるのに有利な能力である事は間違いない。
  • 思いやる能力は人間以外にも拡大する。獲物となる動物から、虫、植物、石、川、山、空からも意図を汲み取ろうとした。もちろん宇宙からも。
  • 読み取る能力が、対象から意志を汲み取る。その対象に機能を見い出す。
  • 機能には働きがある。影響がある。役割がある。仕組みがある。構造がある。意図がある。よって目的がある。

  • 子供が言葉を覚えると「なぜ」と問いかけてくる。これが脳の性質から来るのか、それとも言語の構造が強要するものなのか。言葉を使う時に、なぜ、という空白を埋めたいと思うもののようだ。文法が、誰や、何時や、何故を要望する。それを埋めるように人はものを考える。
  • 言葉は主語を必要とする。何か分からないものがあった時に、そこに神を埋め込めば文章は完成する。
  • 神は主語に過ぎない。それ以外の主語となる言葉を見つければ神である必要はなくなる。神であろうが、偶然であろうが、構わない。

2013年10月12日土曜日

いじめについて ~ いじめられている君へ

いま君がその苦しみから逃れようとしても、何も起きません。君をいじめた人間は罪に問われる事はなく、君を無視した教師は解雇にもならず、君にの苦しみに気付かなかった無能な学校は昨日と何も変わらない明日を迎えるでしょう。教育委員会の老人たちは何もなかったことにしようとします。その道は苦しみから解放するかも知れませんが、何も残さないでしょう。

君は悩んでいるに違いありません。どうしてこんな目に合うのか、自分の何が悪いのかと。そこに理由を探すから一歩も動けないのです。そして理由などありません。なぜなら犯罪に理由などないからです。そして犯罪とさえ思っていないのだからそれもまた犯罪です。

そこで起きていることは犯罪です。だから潜入捜査官になりなさい。起きた事を克明に正確にメモしなさい。可能なら現場で起きた事を録音しなさい。動画があればなおよろしい。いじめた者たちを破滅に向かわせるための証拠を集めなさい。計画をたて証拠を集めてなさい。危険から身を守るための方策も講じなさい。そのために必要なものがあれば親と相談して購入しなさい。今から君は苛めらる人間ではありません。

数カ月、証拠を集めることに集中しなさい。そこで気を付けるべきは、いじめがエスカレーションし(度を超さ)ないようにコントロールしなさい。その過程でいじめが止んだらそれも良いでしょう。そして十分な証拠が集まったら反撃しなさい。

君をいじめた生徒、それを黙認した教師、無視した学校に容赦はいりません。いじめた生徒の親は最低でもその町に住めないようにしなさい。可能なら離婚まで追い込みなさい。彼らの親を退職まで追い込みなさい。持家があるなら売り払わせなさい。教師は解雇させなさい。依願退職など許してはなりません。退職と解雇では次の人生が全く違います。再就職を困難にさせなさい。校長や教育委員会の老人たちも追い込みなさい。安穏な老後など許してはなりません。刑事事件として告訴しなさい。実刑を勝ち取りなさい。前科を付けなさい。民事も徹底的にやりなさい。賠償金を請求しなさい。いじめた子供らの親からは最低でもそれぞれ5000万は取らなければ承知できません。

そのためには徹底的な確実な残酷なまでの証拠が必要なのです。

でもその前に十分に周りの大人たちと相談する必要があります。親にはまっさきに相談しなさい。次に教師にも相談しなさい。校長にも相談しなさい。しかし彼らを信用して証拠を渡してはなりません。もしそこで彼らの行動が適切なら問題は解決に向かうでしょう。

いじめた側の親たちにも訴えなければなりません。とにかく関係者を増やして行くのです。可能なら法律に携わる人にも相談しなさい。そういう相談を受け付けている弁護士や司法書士、行政書士もいるでしょう。本や漫画にもそういう話があるはずです。

しかし、彼らはあなたを無視するかも知れません。相談しても適当にあしらうかも知れません。解決するフリだけかも知れません。その時の事も克明に記録しておきなさい。誰が敵で誰が味方かは分かりません。油断してはなりません。証拠は君にあります。警察に訴えるのは何時でもできます。

敵も味方も関係者を増やして問題を大きくしなさい。知らなかったなどと決して言わせてはなりません。問題が大きくなるほど無視できなくなる人が増えます。賠償金も増えます。

いじめは殺人です。いじめを見逃した教師はその共犯です。いじめた奴らの親は殺人教唆です。そいつらは殺人罪で裁くべきです。だから正当防衛でない限り相手を殺してもいけません。それはそうしなければ自分が危ない状況でしか許されません。殺してしまうよりも生きている事を徹底的に後悔させるべきです。賠償金を請求しそいつらが社会の底辺で苦しむ姿を見ようではないですか。

君は現実に起きている犯罪の証拠を集め、関係者を一網打尽にするために行動をしなさい。それが社会正義です。彼らを見せしめにしなさい。もし高校生なら相手が 18 才を超えた時がチャンスです。卒業が間近にあれば学校も有耶無耶にしようとするかも知れません。逆に言えば相手の就職や入学を取り消すチャンスが来たのです。残された時間は短いけれど成果は大きい。もしかしたら自分の入学にも影響があるかも知れません。しかし大検があるから心配しなくても大丈夫です。大学への行き方は何通りもあるのです。

君はまだ未成年です。だから君がすべき事を正しく見極める努力をしなさい。それは耐える事でも時間が解決するのを待つ事でもありません。いじめている奴らに前科を付け、賠償金を取り、将来を苦労させることです。人生をボロボロにしてしまう事です。君は許される側ではなく許す側でなければなりません。そのための証拠を集めなさい。証拠の使い方には十分な注意が必要です。まだ理解できないでしょうが大人は穏便に済ませようとします。やりすぎれば君が恐喝罪になるかも知れない。攻撃する側は常に諸刃の剣と心得ていてください。

弁護士が良い人であれば問題はあっという間に解決するかも知れません。相手を脅すだけで終わるかも知れません。次やったら然るべき場所で法的に争いますよと言うのは非常に強力なのです。それで許しますか、それとも許しませんか。君は未成年ですが許しを求められることもあるのです。

もしどうしても許せない、それに見合うだけの罰を受けていないと思うなら、考えるべき時の到来です。成人した時に復讐に使えるものは何かないか。恐喝にならぬように細心の注意を払いながら、集めた証拠が使えないか。学校に行きながら研究しなさい。切り札は君にあります。忘れた頃に相手を破滅に追い込む方法を発明してみなさい。法律を読み込んでみなさい。

大人になるとは法の理念を知る事です。法の理念とは人類が長い間に獲得した思想の凝縮です。哲学が理念をどうしてそうなるかと証明する行為だとしたら、法はその理念が正しいものとして社会に還元する行為になります。いじめに理由がないと言えるのはこの理念を知らないと考えられるからです。

頭を最大限に使わなければこの任務は達成できないでしょう。孤独に耐える強さも必要になるでしょう。学校の友人を失うかも知れません。だが君が苦しい時に助けを差し伸べてくれない人間がどうして今後の人生で必要になるでしょう。

苦しさに耐えられるのは目標がある時だけです。目標があれば計画が立てられます。どうすれば出来るか、何時までにやるのかと長期的な継続的な思考が必要になります。今やれば済むことなど小さな話です。周到に用意してください。戦略を練りなさい。それが君を救うのです。

最期にひとつだけ。やり返すのは等倍返しまでです。倍返しではありません。自分がされた事に見合うだけをやり返しなさい。正義があると人は無制限にやり返してしまいます。自制しなさい。赦しなさい。どこまでが等倍返しであるかをよく見極めなささい。そうしなければ君がダークサイトに落ちてしまいます。

では君の成功と敵の破滅を祈ります。

2013年9月25日水曜日

ルパン三世 カリオストロの城 - 宮崎駿

プロットチャートというものがある。プロットの雛形を定義しておき、そこに具体例を記入してゆく事でひとつの物語を作成するものである。テンプレート、パターンという考えで作られている。

物語、または映画は、音楽とよく比例される。これは時間芸術という表面的な時間が流れる側面の類似だけでなく、テーマと展開、音楽ならば和音やメロディが展開されひとつの音楽をなし、物語なら登場人物や事件が展開してひとつの映画となるように構造上の類似を持つからである。

基本的なプロットチャートは以下のものである。ここではルパン三世 カリオストロの城を具体例として展開する。ルパン三世 カリオストロの城は物語を作る人の教科書である。このプロットチャートも正しくはカリオストロの城から抽出したものである。

プロットチャートはフラクタル構造である。全体の構造と各場面の構造が同様なのである。プロットチャートの階層構造もその次で示す。小さなプロットチャートを並べ(加算)たり、順序を入れ替えたり、省略したり、ふたつを同時進行(スレッド化)させるなど応用と工夫により物語は構成されている。

プロット類似説明
1背景風景、景色時代、地域、地理
2人物顔、身体、制服男か女か若いか年寄りか。
3状態仕事、能力、地位、立場、階級、組織いま何をしているのか。考えているのか、戦っているのか、歩いているのか。
4事件、事故、問題、疑問、秘密異変、トラブル、問題、悩みが起きる。
5窮地不利益、失敗、敗北、ピンチ、絶体絶命将来が分からない状態に陥る。
6脱出逃走、撤退、脱出、救助、交換何かを交換、提供する事で窮地から脱する。
7再起対策、新生、特訓、出発再起を図るために行動を起こす。
8対決対峙、決闘、決戦、告白再び問題と相見える。
9解決勝利、敗北、和解問題に決着を見る。
10結末後日譚エピローグ。残った伏線の解決など。

プロットは物語の推移を示すが、不足しているものもある。観客の視点、キャラクターのセリフ、細部などである。当然ながら細部を埋めていくうちに全体のプロットが変更される事もある。このようなチャートを実際に作るかどうかは別として、必ず頭の中にこういうものがあって、それを使って仕事をするはずである。プログラムのフローチャートや頭の中の碁盤などと同様である。

プロットカリオストロの城
1背景ルパンがゴート札と出会いカリオストロ公国に入る
2人物ルパン、クラリス、伯爵
3状態クラリスを助けようとする
4伯爵がなぜクラリスと婚約しようとしているのか、ゴート札の秘密、指輪の謎
5窮地ゴート札の秘密を掴むもルパンが撃たれる
6脱出指輪とクラリスを奪われるかわりに脱出に成功する
7再起ルパンとクラリスの関係を告白
8対決大司教に化けてクラリスと指輪を救出
9解決指輪の謎を解き、伯爵は時計台にて死亡する
10結末なんて気持ちのいい連中だろう

細部にも同じ構造が成立する。

例えば冒頭シーン。
プロット国営カジノ
1背景現代社会
2人物ルパン、次元
3状態国営カジノから大金を盗む
4ルパンが急に黙り込む
5窮地お金が偽札と気付く
6脱出お金を全部捨てる
7対策
8対峙
9解決タイトル
10結末

例えば物語の前半。
プロットルパンが撃たれるまで
1背景カリオストロ公国に入る
2人物ルパン、次元
3状態クラリスの逃走に出くわす
4追っている連中の強さ
5窮地クラリスを助け出すが気絶する
6脱出指輪を受け取るがクラリスを奪われる
2人物影に急襲される
3状態カリオストロ城に潜入する
4クラリスがどこに捕らわれているのか
5窮地クラリスに指輪を返すが地下に落とされる
6脱出クラリスに渡した指輪は偽物
3状態城の地下
4ゴート札の秘密と地下の関係
5窮地地下からどうやって脱出するか
6脱出指輪を奪い返しに来られるのを逆襲
3状態偽札工場
4
5窮地工場に火をつけ混乱を起こす
3状態オートジャイロ
4
5窮地クラリスの救出に向かう


キャラクターの造成
キャラクター説明
1主役主人公。話しの中心を占める。ルパン
2ヒロイン女性の主人公。クライス
3敵役敵対する、対立する。カリオストロ伯爵
4仲間主人公の窮地を救う。次元、五右衛門
5ライバル敵と味方の中間に存在する。銭形、不二子
6ガイド/コンパスリアリティを統べる者。
物語の世界観、常識を成立させる。
銭形、次元

キャラクターの中でも注意すべきが物語にリアリティを与える存在である。リアリティは物語を成立させる肝である。物語は虚構であり、観客は物語の導入部から虚構の中に入り込み、何時しか虚構である事を忘れるのである。その忘れるために必要となるのが物語の中へ連れ込む役割をするナビゲータである。物語に観客がのめり込む事ができるのは導線となるそれらのキャラクターが常に観客の側に寄り添っているからである。

虚構の世界においてリアリティの基準となるモノ、その世界の常識を体現するモノが存在する。そのキャラクターが当たり前と受け止めるものを観客も当たり前と受け止め、彼/彼女が驚く所を同様に驚く。その世界における正常と異常の基準となり、判断基準になり、虚構の中のリアリティを指し示すコンパスの役割を担うガイドとしての存在、その世界のスタンダードとなるナビゲータがいる。

ルパン三世でその役割を担うのは次元と銭形である。次元がいるからルパンという人間の虚構はリアリティに変換される。そして泥棒という立場にリアリティを与えるのは銭形である。個人としてのリアリティと社会におけるリアリティのふたつを与えている。このふたりが当たり前に振る舞うことによって観客はルパンのリアリティを疑いもしないわけである。

どのような現実であろうが、虚構であろうが、リアリティを与える人、モノ、組織、が存在する。その人物が登場した瞬間に世界はリアリティとなり、観客をスクリーンの中に誘うのである。ピーターパンだけではただの虚構だが、ウェンディに見えるものは観客にも見えるのである。

マジンガーZのリアリティは兜十蔵であり、その役割を弓教授が継ぐ。このマッドサイエンティストにリアリティがあれば物語はリアリティに変ずる。宇宙戦艦ヤマトのリアリティは冥王星沖海戦である。あの海戦がリアリティならば物語は成立する。ダンバインのリアリティは、最初はバイストンウェルを走る HONDA GOLDWING が支えた。その先でマーベルが中心となって担った。

これらのキャラクターが虚構の世界の案内役だ。観客が味わう違和感や疑問に回答する役割を担う。彼が、彼女が、受け入れているのならそういう世界なんだと観客に納得させる仕事を担っているのである。


物語の思想性
物語は往々にして作者のメッセージを持つ。それは着想であったり作者の見たシーン、始まりであり終わりにくるべきもの、それを見たから物語を思い立ち、それを観客に見せる事で終焉するという、物語の動機そのもの。

それはプロットチャートが語るものではない。だが人間たるもの、優れた音楽家は野辺の石ころでさえ楽器に変えるであろう、風の音でさえ音楽たらしめるであろう。作家たるもの、どのような物語にでも想いを投じられない訳がない。

それは言葉で語れない。言葉に出来るなら人は言葉で残す。そうできないから音楽も絵画も映画も漫画も小説も詩も存在する。

さて映画のラストである。

なんと気持のいい連中だろう

何が気持ちのいい連中なのか、それが言葉で説明できないのである。

2013年9月9日月曜日

分数の掛け算は足し算にできるか?

掛け算は足し算にできると習った気がする。いや逆か?足し算は掛け算に出来るだったか。

5 * 3 の場合

例えば 5 と 3 を掛けるは、5 を 3 回たす事と言える。

5 * 3 = 5 + 5 + 5 = 15

1/5 * 3 の場合

分数でも同様だ。

1/5 * 3 = 1/5 + 1/5 + 1/5 = 3/5

1/5 * 2/3 の場合

では分数同士の掛け算はどういう足し算だろうか?

1/5 * 2/3 = ????? = 2/15

分数の掛け算の意味は何だろうか。2/3 を掛けるのは、2/3 を足すという意味ではない。2/3 回たすの足し算はどんな形の足し算になるのだろうか。

5*1 の場合

5 * 1 の掛け算は 5 を 1 回たすことである。1 回たすとは 5 を足すことではない。0 を足すことである。5 + 5 は 5 * 2 である。

5 * 1 = 5 + 0 = 5

5 * 0 の場合

5 * 0 の掛け算はどういう足し算になるだろうか。

5 * 0 = ????? = 0

5 * 0 の掛け算は次の足し算と結果が等しい。

5 * 0 = 5 - 5 = 0

1/5 * -2 の場合

0 を掛けるとは、5 を引くことである。つまり 0 より小さい数の掛け算は引き算になる。

1/5 * -2 = (1/5 - 1/5) - 1/5 - 1/5 = 0 - 1/5 - 1/5 = -(2/5)

掛し算と足し算の関係

5 * -25 * -15 * 05 * 15 * 25 * 3
5-5-5-55-5-55-55+05+55+5+5
3回ひく2回ひく1回ひく1回たす2回たす3回たす
掛け算は 0 の位置に、足し算は 1 の位置に 0 が出現している。こうしてみると1未満になった所、0と1の間、から引き算に変わっているようだ。

引き算と足し算の関係

なお、引き算は次の足し算に出来る。
(1/5) + (-1/5) + (-1/5) + (-1/5) + (-1/5)

足し算の形にする利点は前後をひっくり返しても答えが同じ点が挙げられる。引き算の 5-3=2 と 3-5=-2 は違う答えだが、5+(-3) と (-3)+5 は同じ答えである。

分数の掛け算

分数の掛け算に戻る。

例えば 1/5 * 1/3 は 3 回足したら元の数になる数と言える。

1/5 * 1/3 = x とした時、x + x + x = 1/5 となる値である。

この x を足し算で求めるにはどうすればよいだろうか。掛ける数とは足す回数を示す。だから 2/3 とは 2/3 回だけ足すことである。それをイメージすることは難しい。だが 2/3 回だけ足すなら、どこかに 2 と 3 が出現する足し算のはずである。そして 1/5 * 2/3 は 次の足し算で記述できる。

1/5 * 2/3 = (1 + 1) / (5 + 5 + 5) = 2 / 15 = 2/15

分数の掛け算は分母と分子をそれぞれで足し算にする。これは整数の掛け算も同様だ。

5 * 3 = 5/1 * 3/1 = (5 + 5 + 5) / (1 + 0) = 15/1 = 15

分数の分母と分子

分数の分母と分子は別々で扱うのである。なぜ分母と分子は別々に掛けて良いのだろうか。

それは (1/5) * (2/3) のような掛け算と割り算は、頭から順序良く計算しても結果が同じだからだ。
(1/5) * (2/3) = 1 / 5 * 2 / 3 = (1 * 2 / 5) / 3 = 2 / (5 * 3) = 2 / 15

これが計算順序を変えると一致しない。
1 / (5 * 2) / 3 = 1 / 10 / 3 = 1/10 / 3 = 1 / 30 = 1 / 30

A/B という形は、ひとつの分数であり、割り算であり、掛け算でもある。2/3 を掛けるとは、2 を掛けてから 3 で割ると考えてよい。これは 2 を掛けてから 1/3 を掛けると同じである。つまり、全てが掛け算の形になる。

1/5 * 2/3 = 1 * (1/5) * 2 * (1/3) = 1*2 / 5*3 = (1+1) / (5+5+5) = 2/15

分数とは

分数とは、掛け算、割り算が混合しても頭から計算すればよいように記述された形と言える。

(A/B) = A / B = A * (1/B)

これは A / B * C / D を AC / BD としても良いことを示す。これで割り算を掛け算に変換できた。これらの操作は掛け算の順序は任意に自由に入れ替えても良いから出来ることだ。

AC / BD = (A * C) / (B * D) = A * C * (1/BD) = A * C * (1/B) * (1/D) = A/B * C/D

割り算 24 / 12 は 24 / 12 = (4*3*2) / (4*3) = (4*3) * 2 / (4*3) = (4*3) * 2 * (1/(4*3)) = (4*3)/(4*3) * 2 = 2 のように掛け算に変換できる。

これらのことから分数とは、掛け算の中に上手に割り算を隠す方法のひとつと理解できる。

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2013年9月3日火曜日

方丈記 - 鴨長明

あはれさを時代のスタイルとみ、これを人の連綿と続く力強さとして私訳す。

行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかき卑しき人の住まひは、代々をへてつきせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

あしたに死し、ゆふべに生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。又知らず、仮りの宿り、誰がために心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじと住みかと、無常をあらそひ去るさま、いはば朝顏の露にことならず。

或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

川は絶えることなく流れる。その水は同じではないけど。よどみのうたかたは、消えては生れ同じものはふたつとない。これは僕たち人間の姿だ。人もその生き方も同じものはふたつとしてない。

摩天楼の都会の中にビルが聳え立つ。ステータスを高めようと競い合う人がいる。いつの時代も裕福な人も貧乏な人もいる。その移り変わりは激しく、貧乏な人が金持ちになったり、金持ちが没落したり、そんなの驚くに当たらない。街は移り変わってゆく。移り変わっても街はそこにある。人も街もともに移り変わる。昨日いた人が今日は消え、昨日いなかった人が今日はここにいる。

人が死に、生まれるのは自然の習わしであって、まるで川のうたかたのようだ。生きている意味など誰も知らない。自分がどこから来て、どこへ行くのかなど。宇宙から見ればこの星で起きていることなど一瞬の出来事だろう。そんな世界で、誰かのために頭を悩まし、映画を作り、ほんの少しの笑顔に生きる。まるで朝顔についた露のようだ。

露は消え、花だけが残るかも知れない。花が枯れ、露だけが残るかも知れない。そんなあはれではかない存在に見える。しかし。例え夕べには消えさるとしても、生まれ、生き、誰かと繋がり、誰かを支えている。それを連綿と人は続けてきた。川のように。川は今日も流れている。

およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋を送れる間に、世の不思議を見ることややたびたびになりぬ。いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きて静かならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で来たりていぬゐに至る。

はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよが程に、塵灰となりにき。火本は樋口富の小路とかや、病(舞?)人を宿せる仮屋より出で来けるとなむ。吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇を広げたるが如くすゑひろになりぬ。

遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら炎を地に吹きつけたり。空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつつ移り行く。

その中の人うつつ心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。

七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。そのつひえいくそばくぞ。このたび公卿の家十六焼けたり。ましてその外は數を知らず。すべて都のうち、三分が二に及べりとぞ。男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ辺際を知らず。人の営みみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶を費やし心を悩ますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。

40 年以上も生きていれば、いろいろな事に遭遇する。安元 3 年 4 月 28 日には、風が激しく吹いて不安の続く夜があった。20 時ごろに都のたつみの方角から出火し、いぬいまで燃え広がった。

ついには、朱雀門、大極殿、大学寮、民部省まで燃えてしまい、一晩のうちに塵灰へと変わり果てた。火元は、樋口富の小路にある病院かららしいが詳しくは知らない。吹きすさぶ風でとにかく広がって、扇形に末広で広がった。

遠くにある家も煙に巻き込まれ、近くにある家には炎が地面を這って襲ってきた。空には火の粉が舞い上がり、火の光りが煙に映り紅色に町を染めた。風が強く炎が千切られて、飛ぶようにして町に降って行った。

火事に巻き込まれた人は、ほんと生きた心地はしなかったろう。煙に巻かれて倒れた人もいるだろう。炎から逃れられず焼かれた人もいただろう。あるいは、命は助かったけれども全財産を焼かれた人もいるだろう。

美術品も文化財も記念品も全部が灰燼に帰した。どれだけの損失になったんだろう。公家の家も例外ではなく16は焼け落ちた。ましてやそれ以外の民の家はゆうに及ばず、都の三分の2は焼け落ちたそうだ。男女で死者は数千人以上、牛馬も際限なく死んだ。

人が生きていればこういう事故はいつ起きても不思議はない。そんな世界で明日は灰になる身ながら愚かしくも世俗の価値に一喜一憂して生きるのはバカらしく見えるかも知れない。それでも。僕たちはそこに家を作り、バカバカしく飾り立て、また心を悩ませて生きてゆく。こうして人々の手により力強く復興してゆくのだ。

2013年8月13日火曜日

罪と罰 (下) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー

第四編
ラスコーリニコフはスヴィドリガイロフと対話した。それは近況を報告する他愛もない話であった。スヴィドリガイロフとは金を持ち、遊惰と淫蕩の人間であった。ラスコーリニコフとは対比にあった。

あれはスヴィドリガイロフだ。妹が家庭教師を務めているとき、侮辱を加えた例の地主さ。あいつが妹の尻を追い廻しやがったために、妹は細君のマルファ・ペトローヴナに追い出され、あすこの家から暇を取らなきゃならなくなったんだよ。そのマルファ・ペトローヴナは、あとでドゥーニャに詫びをしたんだがね、今度とつぜん頓死したんだよ。P29

夜になってラスコーリニコフはラズーミヒンと共に母プリヘーリヤ、妹ドゥーニャの元を訪れた。そこでマルファ・ペトローヴナがドゥーニャに 3000 ルーブリの遺産を残した事、これでお金の心配がなくなった事を告げた。しかしルージンとラスコーリニコフの対立はどうしようもなかった。

「僕に言わせると、あなたなんかのありったけの美点を掻き集めても、あなたがいま石を投げているあの不幸な娘の、小指だけの価値もありゃしない。」
「するとあなたはあの女をご母堂や、ご令妹と一座させるだけの決心がおありですな?」
「それはもう実行しましたよ、もし知りたいとおっしゃれば申しますがね。僕は今日あの娘を、母とドゥーニャと並んで座らせましたよ。」P45

対話が続きルージンの本性が露わとなり、それを知った妹ドゥーニャは婚約を解消する。

「お前これでも恥ずかしくないのかい、ドゥーニャ?」とラスコーリニコフは訪ねた。
「恥ずかしいわ、兄さん。」とドゥーニャはいった。「ピョートル・ペトローヴィチ、とっとと出て行って下さい。」彼女は憤然にさっと蒼褪 (あおざ) めながら、彼の方へ振り向いた。P47

ルージンは去った。ドゥーニャとプリヘーリヤはラズーミヒンと話が弾んでいた。

「ちょっと僕どうしても行かなきゃならないいんだ。」自分のいおうとしたことに動揺を感じるらしい様子で、彼は漠然と答えた。P61

それはラズーミヒンと家族の温かさに当てられたのかも知れない、自分の罪が彼らに及ぼす影響を考えたのかも知れない。ひとつの問題が片付いたので安心したのかも知れない。いずれにしろ暫く会わない事をそこで家族に伝えたのである。

廊下は暗かった。二人はランプの傍に立っていた。一分ばかり、彼らは黙って互いに顔を見合っていた。ラズーミヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。ラスコーリニコフのらんらんと燃える刺し貫くような視線は、あたかも一刻ごとに力を増して、ラズーミヒンの魂を、意識を貫くようであった。P63

ラズーミヒンは家族を託された。ラスコーリニコフにはまだ病気の治療が必要だといい、ラズーミヒンは家族を慰めた。

「あなたでしたの、まあ。」ソーニャは弱々しい声で叫び、釘づけにされたように立ち竦 (すく) んだ。P64

ラスコーリニコフはソーニャの部屋を訪れた。

「僕はお前の不名誉や罪悪に対してそう言ったのじゃない。お前の偉大なる苦痛に対していったのだ。」P78

『彼女の取るべき道は三つある。濠へ身投げするか、瘋癲病院へはいるか、それとも最後の方法として、理知を眩しい心を化石させる、淫蕩のただ中へ飛び込むかだ。』最後の想像は彼にとって最も忌まわしいものであった。P80

ラスコーリニコフはソーニャがこのままでは金銭的理由から堕落してゆくという現実を目の当たりにした。

『これが解決だ、これが解決の説明なんだ。』貪るような好奇心を抱いて、しげしげと彼女を見ながら、彼は一人で心に決めてしまった。P82

ソーニャの部屋にはリザヴェータが持ってきた聖書があった。ラスコーリニコフはラザロの復活をソーニャに朗読してくれるようお願いした。ラザロの復活。イエスが「ラザロよ、出てきなさい。」と言うと死んだはずのラザロが復活した。これはイエスを通して復活の予兆として語られてきた物語であった (この話しはカラマーゾフの兄弟へと続く)。

「イエスはまた心を痛ましめて墓に至る。墓は洞にて、その口のところに石を置けり。イエスいいけるは、石を除けよ。死せし者の姉妹マルタ、彼に言いけるは、主よ、彼ははや臭し、死してより既に四日を経たり。」彼女はことさらこの四日という言葉に力を入れた。P88

ラザロの復活を聞く事でラスコーリニコフの心性に何かが起きた訳ではなかった。しかし彼は話したくて堪らなくなった。

「僕はきょう肉親を捨ててしまった。母と妹を。僕はもうあれ達の所へは行かないのだ。あっちですっかり縁を切って来た。」

「今の僕にはお前という人間があるばかりだ。」と彼は言い足した。「一緒に行こうじゃないか。僕はわざわざお前のところへ来たのだ。僕らはお互いに詛 (のろ) われた人間なのだ。だから一緒に行こうじゃないか!」P89

それがふたりを繋ぐと感じたのだ。そして告白することを予告してそこから立ち去った。

「まぁ一体あなたは誰が殺したのか、知っていらっしゃるの?」P92

翌日、質草の説明をするためにラスコーリニコフは警察の予審部を訪れ、そこでポルフィーリイと二度目の対話をする。そこで自分に嫌疑がある事をはっきりと知る。それは人間がぎりぎりで騙し合う戦いであった。

思いがけない贈物は、そら、あすこに、扉の向うのわたしの住いの方にいますよ。へ、へ、へ!(と彼は自分の官舎へ通ずる、仕切り壁に設けた閉った戸口を指した)。逃げて行かないように、鍵をかけて閉じ込んどいたのです。」P125

「貴様は嘘ばかりついているんだ。おれに尻尾を出させようと思って、人をからかっているんだ。」P126

この贈物とはラスコーリニコフに向かって「人殺し」と言った者に違いなかった。何故ならその者こそが決定的な目撃者に違いなかったからだ。しかし、扉の向うから出てきたのは違った。ニコライが飛び込んできて告白を始めたのだ。

「悪うございました!あれはわっしの仕業なので!わっしは人殺しでございます!」と不意にニコライは、いくらか息をはずませてはいたが、かなり高い声でいった。P129

ニコライはせき込みながら、前から用意しておいたらしくこう答えた。
「ふん、やっぱりそうだ!」と憎々しげにポルフィーリイは叫んだ。「肚にもないことを言ってるんだ!」と彼は独り言のように呟いたが、不意にまたラスコーリニコフが眼についた。

「あなただって思いがけなかったでしょう。ほうら、手が、こんなに、震えている!へへ!」
「それにあなたも震えていらっしゃいますね、ポリフィーリイ・ペトローヴィッチ。」
「わたしも慄(ふる)えていますよ。あまり意外だったもんですからね!」P131

ラスコーリニコフは真っ直ぐ家に戻った。考え事をしているラスコーリニコフの所にあの男が扉を開けて入ってきたのである。彼はラスコーリニコフに詫びた。彼はたんにラスコーリニコフに腹を立て嫌がらせをしていた事を詫びた。そしてポリフィーリイの所で昨夜あったことを何もかも話していた事も告げた。つまり、贈物とは彼の事だったのである。彼の憂いは何もかも消え去った。

ラスコーリニコフはソーニャの父親の葬式へと道を急いだ。


第五編
ルージンが大家のレベジャートニコフに頼んでソーニャを呼んでもらった。訪れたソーニャに対して、ルージンは義金募集をすればどうかと勧める。さらにそれについてもっと詳細な話をしたいと申し入れ、それに先んじて自分もわずかながらといい十ルーブリをソーニャに差し出すのであった。レベジャートニコフはその行為に感動して次のように言った。

「わたしは何もかも聞きました。何もかも見ました。」特に最後の言葉に力を入れながら、彼はこう言った。P167

カチェリーナは夫マルメラードフの葬儀の後に法事を開いた。そこには幾人もの人が集まってきていて、ラスコーリニコフもそこに加わった。法事が進むにつれてカチェリーナと大家で客であるアマリヤとの間に口論が起きた。彼女たちは父親や自分達の素性などで激しい口論を戦わせた。これはソーニャの仕事に対する偏見や嫌悪などが原因としてあるものらしかった。

その口論の最中にルージンが訪れた。ルージンはソーニャが百ルーブリを盗んだと主張し始める。

あなたがお尋ね下すったすぐ後で、わたしの所有にかかる百ルーブリ紙幣が、わたしのテーブルの上から一枚なくなったのです。もしどうかしてあなたがそれをご存じで、それがいまどこにあるか教えて下すったら、わたしは名誉にかけて、またここにおられる皆さんを証人として、あなたに誓っていいます。が、ことはそれで済んでしまうのです。

「わたし存じません。わたし少しも存じません」やっとソーニャは弱々しい声で答えた。P193

ソーニャが無実を訴えようとポケットの中身を全て出そうとした時、紙切れが落ちた。ルージンが拾い上げてみるとそれは百ルーブリ紙幣であった。誰もが彼女が盗んだと思った。

憐れな肺病やみの母親カチェリ―ナだけが彼女の無実を信じ訴えるが、誰も説得できなかった。ルージンはそこに同情するように次のように言い放った。

皆さん!わたしは何です、いま個人的に侮辱まで受けたのではありますが、同情の意味でまあ赦して上げてもかまいません。いいですか、マドモアゼーユ、今のこの恥辱を将来の教訓になさるがいい。P202

ルージンはラスコーリニコフの方をちらと見た。彼は燃えるような眼差しで彼を見つめていた。

なんという卑劣なことだ! P203

と戸口の所で叫んだ者がいた。レベジャートニコフであった。彼はルージンを卑劣と呼び、悪党と呼び、下劣と呼んだ。彼はルージンの目撃者であった。彼は言う。

僕が見たんだ、僕が見たんだ!

あなたが紙幣をそっと押し込むのを。P204

ルージンはラスコーリニコフにとって大切と思われるソーニャを貶める事で、彼と妹を仲違いさせ、ドゥーニャをもういちど手にいれようと画策したのであった。その計画は潰えた。母プリヘーリヤと妹ドゥーニャをペテルブルグに連れてくるという役を与えられたルージンはこうして物語から退場する。

その日の夜遅くソーニャの元をラスコーリニコフは訪れる。

さあ、ソフィア・セミョーノヴナ、ひとつ見てみようじゃありませんか、今度はあなたが何をいい出すか!P216

ソーニャと二人きりになって、そこで彼は聞く。もしルージンの企みを知っていたなら、ルージンを破滅させるべきか、それともそれを見過ごしソーニャが監獄に入るべきか。残された家族は破滅し死に至るとしたらどうすべきか。あなたならどうしますかと。

ソーニャは其れに答えていう。

たってわたし、神様の御心を知るわけに行きませんもの。

誰は生きるべきで、誰は生きるべきでないなんて、いったい誰がわたしをそんな裁き手にしたのでしょう? P221

泣き始めた彼女を見つめていた。そこには憎悪があり愛があった。彼は呟いた。

何だって僕はお前ばかりを苦しめに来たんだろう? P223

彼はなぜソーニャに告解しようとしたのだろう。ラスコーリニコフはアリョーナを殺しそれを隠した。しかしソーニャに予告し、いま告白したのだろうか。それをラスコーリニコフの意識から知ろうとする道は閉ざされている。彼の意識を通してそれは理解できない。彼はなぜ語りたかったのか、ただ語る事で己を理解しようとした、としか言い様がない。

ラスコーリニコフはソーニャの味わった屈辱を知っていた。その屈辱が彼を告白へと誘う。彼はソーニャの苦しみを試してみたかった。それが彼女と苦しみを分かち合う事だと知らずに。彼は告げる。老婆を殺害したのは自分であると。ソーニャはそれを聞き、慄いたがすぐにラスコーリニコフを抱きしめた。少なくともラスコーリニコフは二人きりであったから秘密を共有できたのだ。

「ええ、ええ。いつまでも、どこまでも!」とソーニャはいった。「わたしはあなたについて行く、どこへでもついて行く!おお神様!ああ、わたしは不幸な女です!なぜ、なぜわたしはもっと早く、あなたを知らなかったのでしょう!なぜあなたはもっと早く来て下さらなかったの? P228

飢えていた為に殺したのだとしたら、ナポレオンになるために殺したとしたら、学費のために殺したのだとしたら。ラスコーリニコフは幾つもの思い付く限りの理由をソーニャの前で語った。渇きを癒すために殺した。

僕は今、ついたった今、昨日お前をどこへつれて行こうといったのか、はじめてわかったよ!昨日ああいった時には、僕自身もどこかわからなかったんだ。僕が頼んだのも、ここへやって来たのも、目的はたった一つだ。P231

『人間は虱かどうか?』などという問いを自ら発する以上、人間は僕にとって虱じゃない、ただこんな考えを夢にも頭に思い浮かべない人にとってのみ、何ら疑問なしに進み得る人にとってのみ、初めて人間は虱であることを、P240

俺はふるえおののく一介の虫けらか、それとも権利を持つものか・・・」
「人を殺す?人を殺す権利を持ってるんですって?」P241

自分が虱であることを証明するために人を殺した。その試験をするためだけに犯行に及んだと告白する。そしてラスコーリニコフはソーニャに対して問う、僕はどうしたらいい?と。彼に対してソーニャは謂う。

お立ちなさい。すぐに今すぐ行って四つ辻にお立ちなさい。そして身をかがめてまずあなたが穢した大地に接吻なさい。それから世界中四方八方へ頭を下げてはっきり聞こえるように大きな声で。P242

そこへレベジャートニコフがソーニャを訪問し母カチェリーナの発狂を告げた。カチェリーナは往来で発狂したかのように子供達を踊らせている。それは踊り乞食になろうとする哀しみであった。そこへスヴィドリガイロフがやってくる。彼はソーニャの子供達を金銭面で援助することを約束した。

往来で倒れたままソーニャの母カチェリーナは死んだ。死を看取った部屋の隅でスヴィドリガイロフはラスコーリニコフにソーニャへの告白を盗み聞きした事を告げる。


第六編
ラスコーリニコフは混乱していた。ふたりの秘密がそうではないと知ったから。ラズーミヒンが訪れてポルフィーリイから犯人が捕まったと聞く。彼は急に霧が晴れたように気になった。

ポルフィーリイのところでミコールカの一件を見て以来、おれは出口もない狭くるしい中で、息がつまりそうだった。ミコールカ事件の後で、同じ日にソーニャのところでも一番あった。おれはその一幕を、予期したのとは全然ちがった結末にしてしまった・・・つまり瞬間的に、急激に心が弱ったのだ。P285

一人になったラスコーリニコフのもとへ不意にポルフィーリイが来訪した。これが最後の対決だった。

そりゃあなたが殺したんですよ。ロジオン・ロマーヌイチ。P303

あなたは今ちと空気が足りない。空気が、空気がな。P310

あなたはいつ僕を逮捕するつもりです?
さあ、まだ一日半か二日くらいは、あなたに散歩させて上げましょう。P311

二人は話しを終え別れた。ラスコーリニコフは勝利を確信していたが、確かめなければならない事があると考え、自分の有罪を決定的にする事ができるスヴィドリガイロフを訪れた。スヴィドリガイロフはその秘密を誰かに話す気など毛頭ないと告げる。

あなたが何者かですって? P327

彼は秘密をある事に使う計画を企てていた。

シルレルよ、シルレルよ、わがシルレルよ。P349

ラスコーリニコフは彼が妹に何かをしようとしている事に気付いた。

さあ、あなたは右へ、わたしは左へ。でなければ、その反対かな。とにかく、adieu, mon plaisir. (さらば、わが喜びよ) またお目にかかりましょう。P350

スヴィドリガイロフはエラーギン島に行くふりをしてラスコーリニコフを撒いた。そしてまんまとふたりきりでドゥーニャと密会したのだ。兄ラスコーリニコフの秘密を使ってドゥーニャを自分のものにしようと画策した上での行動だった。自分はこれでドゥーニャに愛されると彼は信じ込んでいた。

あなたが、わずかあなたの一ことで、兄さんは救われるんです!P369

しかしドゥーニャはそれと対峙し決別しはっきりと別離する。

したけりゃ告訴するがいい。一歩たってそこを動いたら!撃ってしまうから。お前は奥さんを毒殺したじゃないか、わたしはちゃんと知っている。お前こそ人殺しだ。P372

拒絶されたスヴィドリガイロフは茫然とする。

もし仮にそれが真実だとしても、それもお前のためなんだ。P373

ドゥーニャはスヴィドリガイロフに向かって銃を撃つ。

「じゃ、愛はないの?」と彼は小声に訊ねた。P375

はっきりと悟ったスヴィドリガイロフはドゥーニャを帰した。ふたりの間には何の秘密もなかった。

中にはまだ弾丸が3つと雷管が一つ残っていた。いま一度撃てるわけだ。P377

スヴィドリガイロフはその夜にソーニャを訪れた。彼女の金銭面での問題を解決した事を告げる。

なあに、アメリカまで行こうというものが、雨を怖れていてどうしますか。P382

そういって雨の中に出て行き一晩飲み明かした。そして最後の夢を見る。それは5つの女の子を助けようとする夢であった。しかしその女の子は絡み付くように彼を締め付けた。

何かしらずうずうしい挑発的なものが、まるで子供らしくないその顔に光っている。それは淫蕩である。それは娼婦カメリアの顔である。P395

スヴィドリガイロフはその夜を苦しんで過ごした。

夜が明けた。スヴィドリガイロフは陽気に通りに出た。

スヴィドリガイロフはピストルを取り出して、引き金を上げた。

いい場所じゃないか。もし聞かれたら、アメリカへ行ったと答えときなさい。P398

彼は引き金を下した。そのピストルだけがドゥーニャと彼とを結ぶ唯一つのそして絶望の中に残った最後のものであった。彼は死んだ。


ラスコーリニコフは母親を訪ねた。そこで彼は母への愛の告白をする。

僕はね、お母さん、僕がいつもお母さんを愛していたことをはっきり知って頂くためにやってきたのです。P404

旅に行くんです。P405

ドゥーニャに告げる。

僕はこの恥辱を逃れるために身を投げようと思ったんだよ。もしおれが今まで自分を強者と思っていたんなら、今だってこんな恥辱を怖れるものかってね。P409

罪?一体どんな罪だい? P410

僕は人類のために善を望んだんだ。P411

「実はね、僕はこの女を相手に度々あのことを話し合ったんだよ。ただこの女ひとりだけと」P413

この女とは熱病で死んだ下宿のお主婦の娘である。

この女もお前と同じように同意はしなかったよ。だらか僕は、あの女がいまいないのを喜んでいる。P414

思い出に中にいる彼女だけが彼を愛したただひとりの人かも知れなかった。

なぜ今そのほうへ進んでいるのだろう? P415

ラスコーリニコフはソーニャの部屋を訪れて言う。

俺はやくざな卑劣漢だ、卑劣漢だ!P421

日が明けた。ラスコーリニコフはソーニャが言った言葉を思い出しその通りにする事に幸せを感じた。

土の面に頭をかがめ歓喜と幸福を感じながらその汚い土に接吻した。P423

それから警察へと入った。そこで自首しようとした時に、しかし自分に気付かぬ警察に彼はまだ助かると思い警察から出てきた。そこで

死人のように真っ蒼な顔のソーニャが立っていて、何とも言えない恐ろしい目付きで彼を見つめていた。P432

それを見つけたラスコーリニコフは

彼はしばらく立っていて、やがてにたりと笑うと、また階上の警察へと引返した。

そして自らの犯行を警察に告げたのである。


エピローグ
シベリアで 10 年の刑を受けたラスコーリニコフの後を追ってソーニャも刑務所の近くに居を構えた。彼女はラスコーリニコフの近況を手紙でドゥーニャやラズーミヒンに書き送っていた。

突然、彼の傍らにソーニャが訪れた。P455

彼女はついに悟った。男が自分を愛している。しかも限りなく愛しているという事は、彼女にとってもう何の疑いもなかった。ついにこの時間が到来したのである。

突如としてエピローグは小説史上でもっとも甘美で美しく終わる。作者はここで勝った、とそう叫んでいるはずである。

しかしそこにはもう新しい物語が始まっている。P458

罪と罰 あらまし - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 (上) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 - フョードル・ドストエフスキー, 米川正夫訳


(退屈かと問われれば退屈、だがこのエピローグは小説史上 No.1)

2013年8月9日金曜日

もし7月に敗戦したりなば

ソ連の参戦と原爆投下がなかったら…その後の世界はどうなっていただろうか。

原爆投下もなくソビエト参戦もなかった世界。原爆はどこか他の場所に落とされ、満州国は失われ、樺太、北方四島は日本の領土として残り、台湾、朝鮮は独立した世界。今と大きく変わらない気もするし、全く違う世界になる気もする。

1945 年 7 月よりもっと早く、カイロ宣言の前に講和が成立していたらどうだっただろうか。帝国憲法はそのまま残り、戦前の欠陥が是正されないまま続く。憲法改正はされず、民主化も今と異なり、女性参政権もなく、農地改革も行われず、財閥解体もない世界。GHC がこれらの戦後のレールを敷いた。それが戦争の原因と考えたからでもある。そうならず天皇の統帥権が独走し、機関説を排除し、特別高等警察が取り調べをする世界が続いていたとしたら。そのような社会体制で戦後の経済成長が可能であったかは疑わしい。

早期講和により国際連合には加盟してもアメリカとは同盟せず民主主義も構築できず軍部の統帥権を巡る争いが空軍の参加で更に激しくなる。そんな国は遅かれ没落したであろう。経済疲弊を起こしアメリカに軍事基地を置いてもらい発展途上国として生きる道しか残されない。アメリカと敵対を続け、膨れる軍事予算と人員の損失で経済発展のできない国になる可能性もあった。

早期講和では日本の中にある問題が何ら変わらず、再び中国大陸に派兵した可能性さえある。軍部を統帥しきれずにクーデターが起きた可能性もある。いずれにしろ戦後の世界に対応できず、経済発展もできず、古い統治システムからも脱却できず、兵装も次第に古くなり、核兵器の開発に苦労して着手するしかなかった可能性がある。

戦後の経済発展はアメリカを巨大市場とした結果である。それはアメリカと同盟を結び軍備を解体し西側の橋頭堡としてアジアに存立したから可能であった。それに幾つもの幸運が重なった結果である。焼野原を見た日本人は 100 年は二等国として生きていく覚悟であった。復興など遠い先だと実感していた。

中国大陸の状況はどう変わるだろうか。講和により軍部が中国大陸から撤退できたとすれば、国共内戦の行く末は分からない。日本が作り出した中国大陸の均衡に真空地帯が生まれ、そこに中国の人たち、中国国民党か共産党かの争いが入り込む。

この戦争によって中国に東西の境界線が引かれ、自由主義の中国と共産主義の中国が生まれた可能性もある。そこには東西ドイツを遥かに超える巨大な冷戦の壁が築かれる。朝鮮半島はすべてを共産圏に取り込まれてしまうだろう。大陸に西側の防波堤にたる国が誕生した以上、朝鮮半島に西側の拠点を築く必要はなくなった。任那と同様に半島の先だけに存在する国家を維持するのは困難だ。アメリカは中国大陸と日本を橋頭堡として東と対立する。

この大陸に生まれた資本主義国家中国はアジアでも重要な中心的な役割を演じる。日本は発展途上国となりアメリカの援助を受ける立場に没落してもおかしくない。ソビエトを封鎖する目的でアメリカは北海道に基地を置く。このシナリオでは、中国に生れた巨大な資本主義市場がアジアの戦後経済を牽引する。現実の世界ではこの架空資本主義国家中国の代わりに日本が発展した。


だがこのシナリオは空想すぎる。そんなに早く講和する事はないし、軍部の撤退も不可能であった。それが出来るくらいなら支那事変も起きず、アメリカと対立もせず、仲良く中国の利権を山分けできた。

7 月に講和をしていたとして変わらないものがある。GHQ の占領も東京裁判も行われる。帝国憲法は改憲され支配地域も失う。中国には共産党政権が誕生しただろうし、冷戦構造が変わらぬ以上、朝鮮戦争も勃発する。日本は、戦争放棄と経済への特化により朝鮮特需の恩恵を受け取れたであろう。

しかし原爆が日本に使われていなかったので、その後のどこかで使われるのは確実であった。その可能性は朝鮮戦争にある。広島長崎よりも遥かに徹底してどこかの戦場を破壊しただろう。だが世界にその悲惨さを訴える人たちは登場しなかったかも知れない。戦争において核兵器の有効性が証明される前例になったかも知れない。それは遠からず冷戦を第三次世界大戦へと導いたかも知れない。少なくとも「はだしのゲン」は生まれなかった。


日本という小国は、ロシアへの恐怖から逃れるためにアメリカと戦争をした。地政学的にロシアへの恐怖があり、アメリカと戦争をし敗戦する事で、日本はアメリカと軍事同盟を結んだ。それによって初めてロシアの恐怖から解放された。アメリカと同盟するために日本は敗戦したさえ言える。

日本は常にロシアへの恐怖に怯え日露戦争の勝利も問題の解決に至らなかった。アメリカとの戦争も根っこにはロシアへの恐怖があった。軍部の独走もロシアへのヒステリーであった。

もし日本が早期講和を出来たのならクーデターの可能性を排除できていたという事である。4 月に発足した鈴木貫太郎内閣もそこに腐心した。そこにだけ腐心した。一番警戒すべきは陸軍であった。

アメリカと講和するなど何ら難しい話しではなかった。クーデターさえなければ。クーデターを起こさずそこまで持ち込む事が非常の困難であった。当時の日本にとって講和でさえ外交問題ではなく、内政問題であった。あの戦争は日本からすれば単なる内政問題の延長でしかなかった。

もし軍事クーデターが起きていれば講和は出来なかった。その時に天皇、政府がどうなっていたか分からない。その後の歴史も全く違う。独立さえ失われている可能性だってある。

このような狂信的な行動を 20 世紀のアジアで最初にやったのは日本である。おまえら滅びる気か、としか思えぬ中で困難な舵取りをしたのが鈴木貫太郎とその内閣であった。彼は首相に就任してそうそう、ルーズベルトの死去に対して哀悼の意を表する海外向けの放送を行った。と同時に国内に向けては、戦争継続、一億火の玉を語っていたのである。

何故か。彼らは軍部によるクーデターだけを恐れた。それに死を賭した。その暴走さえ押さえ付けられるなら、沖縄で何人が死のうが、広島長崎で何人が焼かれようが、どこそこで空襲があろうが構わなかった。それらの悲しみもクーデターよりは耐えられた。彼らはアメリカと戦争をしていたのではない。軍部のコントロールに躍起になっていた。その片手間で戦争をしていたのである。

2013年8月1日木曜日

姦通の女 - 罵倒すること、無視すること、権利について、正義とは何か

ヨハネによる福音書第8章
彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

なぜ人々はイエスの前から去って行ったのか。誰も石を投げる資格がない事を自覚したからか。ならばなぜイエスの言葉を待っていた人たちまでもイエスの前から去って行ったのか。誰もイエスの言葉を待っていなかったのか。いずれにしろ、イエスでさえ、群衆の思う所を変えることはできなかった。ただ石を投げるのを留めただけだ。

戦後、フランスでは何人もの女性が丸坊主にされた。フランス人自身の手によって。「戦争に負けたお前たち男が悪いんじゃないか、負けたお前たちの後始末をして生きてきただけじゃないか。」

正義を無条件の善と見做すことは危険だ。しかし正義がないのも危険だ。では何をもって正義と呼ぶべきか。

(これからの「正義」の話をしよう - マイケル・サンデル)

空の高い所に木の枝が伸びている。それに人類の誰か一人でも触れる事ができたなら、人類は新しいステージに進む事ができる。

人は一生に一度だけその枝に触れようとする事ができる。失敗すれば命はない。その枝に向って飛び上がってみるのだ。もし触れる事ができなければ崖の下に落ちて必ず死ぬ。

昔から理想を追うものは死を厭わず枝に触ろうとした。まだ誰も触れたものはなく、多くの人は飛び上がろうともせずに、ただ生きた。そういう人たちは理想を追わぬ敗北者であろうか。

いいや彼等は自分ではそれに触る事ができぬと知っている。自分で枝に飛びつこうとする代わりに、静かに石を積み上げている。自分達では届かぬとしても、次の子へ、また次の子へと託そうとして。

もし不幸にして子が持てぬ者も、社会の中で、誰かの子に触れ、静かに石を積み上げている。いつか、誰かが枝に触れる。それが自分である必要はない。

人は自分を悪人と信じて生きて行けるものではないし、不満を抱えて生きて行けるものでもない。だから罵倒には必ずその根底に正義が潜んでいる。

罵倒、侮蔑、誹謗中傷の特徴は、他人への強制にある。全ての罵倒がそういう構造をしている。罵倒は意見でも議論でもない。

考え方が人の間で異なるのは当たり前だが、違うと表明するには、違いを説明する必要がある。異なる意見には、そう考える根拠や前提がある。経験から得られた理念が違えば、考え方は異なりうる。

違うとか間違えているとか言いたいのであれば、説明がいる。自分の方が正しいと言いたいのであれば、聞く方に分かるように伝える必要がある。どうして違うのか、何が違うのか。それを相手に推測せよと強制しても、理解が通ずるとは限らない。自分は理解してもらえると信じる事は、寂しさかも知れない。

何かが気に食わない、そう思うなら、そこから始めて何かを語るならば、それは自分自身を語る事だと気付くはずである。


マスコミはこのニュースを流す時に、最初は躊躇していた。どう世論が反応するか分からないというスタンスであった。世間はこれを拒絶するのか受け入れるのか。だから世論の動向を見て、自分達の立ち位置を決めようとした。マスコミの仕事は権力の監視ではない。可能ならば誘導してでも、世論を最大に増幅する事だ。マスコミは世論の増幅器である。幾つもの反応を見ながら、より巨大な増幅器であろうとする。

その時のとっかかりになるのが敏感過ぎるセンサーな人たちだ。それは例えば火災報知器のようなものだ。もしそれが煙草を吸っただけで反応するなら役に立たない。台所で天ぷらを揚げているだけで警報が鳴っては使い物にならない。50 ベクレルの放射線量で避難しなければならないなら実の用を成さない。

そういう敏感すぎるセンサーな人に注目する (逆に鈍感すぎる人もいる)。そういう人の反応がどれだけ広がるかに注目する。その広がり方で方針を決めるわけだ。どのような事も最初は小さく始まる。それがどれほど巨大な流れになるか、ならないかは誰にも分からない。それでも最初の警報を見逃さない方がいい。どうなるかは分からなくとも。

耳をすまし、まだ対応する必要はない、何故ならこういう理由があるからだ、と説明できる態度でいる。聞かなければならない、無視してはならない、だが鵜呑みにしない。

(歴史は「べき乗則」で動く - Mark Buchanan, 水谷淳)

我々は誰かを奴隷とするような権利を持っているだろうか?もちろん権利はある。したければしてみるがいい。そのためには現在の法制度と世論と非難を封じ込めるだけの財力や武力があればいい。それだけの話しである。誰かを奴隷にすることは決して不可能ではない。そういう立場にある者は、その権利があると言って良い。

われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信じる。
アメリカ独立宣言

基本的人権は無償で我々に与えられたものか。もちろん否である。だから「信じる」と書いてある。生れながらにして有している権利とは、トマス・ホッブス (Thomas Hobbes, 1588 - 1679) の唱えた自然権であるとか、

自己保存のために暴力を用いるなど積極的手段に出ることは、自然権として善悪以前に肯定される。ところで自己保存の本能が忌避するのは死、とりわけ他人の暴力による死である。この他人の暴力は、他人の自然権に由来するものであるから、ここに自然権の矛盾があきらかになる。
トマス・ホッブズ

ジョン・ロック (John Locke, 1632 - 1704) の自然状態や

自然状態下において、人は全て公平に、生命、健康、自由、財産、所有の諸権利を有する。誰もが自由であり、誰もが他の者の諸権利に関与する権限はない。
ジョン・ロック

ルソー (Jean-Jacques Rousseau, 1712 - 1778) の自然状態への考察

人々が互いに道徳的関係を有して闘争状態に陥る自然状態は既に社会状態であって自然状態ではないとした。ルソーは、あくまでも「仮定」としつつも、あらゆる道徳的関係(社会性)がなく、理性を持たない野生の人(自然人)が他者を認識することもなく孤立して存在している
ジャン=ジャック・ルソー

で明白にされた考えだ。これは大切な概念であるが権利は無償ではないし無制限でもない。

例えあらゆる権利が無償で無条件に与えられているとしても、その権利の行使までが無償で無条件ではない。権利はあってもそれを行使するには対価がいる。それが払えなければ行使できない。社会契約や抵抗権があっても無償で結果を得られるものではない。もし権利を行使するために国家が必要なら税を払い選挙を行い社会を営んでゆかねばならない。

(リンカーン - Doris Kearns Goodwin, 平岡 緑)

では子供を産む権利はどうであろうか。この権利も無償ではないし制限がある。生まれてきた子供が有する権利も無償ではないし無制限でもない。あらゆる権利には、対価が必要であり、それを払わねば行使できない。もっとも簡単な対価は、食べる事だろう。権利があっても食べ物がなければ死んでゆくしかない。

では誰が誰に対して払うべきものか。子供を産む産まないは地球に生まれた生物が獲得した能力であって、どこの馬の骨とも分からない男と子供を作って、のら猫のように子供を産む、という話しは枚挙に暇がない。まぁこれが正解。妊娠、出産というものは、基本的にそういうものだ。太古おそらく 5 億年も続いた生命のシステムである。人間の自由にはならない。

それをコントロールすべきと主張する人がいる。もちろん、自分がそう考え、そう行動するのは自由である。それは権利である。それに対して払う対価は自分の人生である。

だが、他人に対してそう主張したければ、その権利の行使にはもっと多くの対価を払う必要がある。彼女に対して、どういう代価を払う事で罵倒する権利を得ているのか。彼女は有名人であり、私達の応援で生計を立てている、それを言う権利があるはずだ、彼女には税金が投入されている、それを払ったのは私なのだから。

なぜその程度の代価で、彼女の出産や新しく生まれた子供を罵倒する権利があると思えるのか。それは 100 円を払ったらどんなものでも買えると信じているのに等しい。それでは罵倒の対価を払っていない。

そう考えると罵倒というのは、必要な対価を払わずに権利を行使していると言える。それは窃盗だ。対価を払わずに権利を行使しているのだから。罵倒する人がいる。彼等は自分の感情をコントロールできず、相手の主張も理解できず、今後の人生で罵倒した人と交わる事さえ想像できない。

対価を払っていない以上、それは正義とは言えない。逆に言えば、正義とは対価によって決まると言えるだろうか。正義とは代価を払った権利の行使であると。

それでも罵倒する人は、まだ優しい人だ。どういう形であれ、誰かとコミットメントしようと努め、どういう形であれ繋がりを持とうとしている。人はあくまで社会的な動物であるというひとつの現れと思われる。

興味がないも権利の行使である。そこに代価を払う価値を認めないと言う事だ。ところで無視もまた対価を払う必要を認めていない。興味がないは行使しないという選択であり、無視は行使を拒絶する選択だ。無知は無視でさえない。そして無知である事は悪人にならぬ優れた方法である。

誰かが子供を産もうが生むまいが、誰の子であろうがあるまいが興味はない。彼女の子供と同じ日に生まれた子が世界中に何人いるのか。そのひとりひとりに、父と母がいる、そこにある関係が幸せなものとは限らない。

無視は恐ろしい。だが、無視もまた人の繋がりである。罵倒の傲慢さは恐ろしい。だが、誰かとそれでも結び付こうとする優しさがある。

イエスでさえ誰かの考えを変える事は出来なかった。それでも彼は対価を払えと言ったのだ。そう言ったのだ。

2013年7月26日金曜日

分数の割り算はなぜひっくり返して掛けるのか - 比や引き算で考える

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割り算 In this Site

割り算は引っ繰り返す

割り算は引っ繰り返して掛け算にして求める事ができる。

2 ÷ (3/4) = 2 * (4/3) = 8/3 = 2(2/3)

2


3/4


2 + 2/3


比で割り算する

割り算を比で考える。比の計算規則は内側の積と外側の積は同じである。

2 ÷ (3/4) を比の形で記載する。

2 : 3/4 = x : 1

2 ÷ (3/4) は 2 : 3/4 = x : 1 を求めるのと同じである。 2 : 3/4 = x : 1 は 2 = 3/4 * x に変形できる。よって両辺に 4/3 を掛けて 2 * 4/3 = 3/4 * x * 4/3 とでき x = 2 * 4/3 = 8/3 と求まる。

比の意味は、3/4 を 1 とした時に 2 はどのような数値になるか、または 2 の中に 3/4 が何個あるか、と言い換える事ができる。このふたつは違うようで同じ意味である。

引き算で割り算する

次に 2 ÷ (3/4) を引き算によって求めてみる。

なお 2 = 8/4 であり 3/4 + 3/4 + 2/4 である。

2 - 3/4 =
8/4 - 3/4 ⇒ 1 余り 5/4
5/4 - 3/4 ⇒ 1 余り 2/4
2/4 = 1/2

2 (全体の数)


5/4 (3/4 を引いた余り)


2/4 (さらに 3/4 を引いた余り)


この 2/4 を 3/4 を 1 としたときの値にする事に注意。3/4 を1 にするなら 2/4 は何になるか。 2/4 は 1 : 3/4 = x : 2/4 の比として記述でき、内側と外側の積は 3/4 * x = 2/4 であるから x = 2/4 * 4/3 = 2/3 となる。

3/4 は 3/4 を 1 とした時の 1 であるから、3/4 + 3/4 + 2/4 は 3/4 を 1 とすれば、 1 + 1 + 2/3 となり、求める値は 2 + (2/3) となる。

3/4


1/2


この図から見えるように 1/2 とは 3/4 の 2/3 である。

割り算とは

さて割り算の形について一般的に考える。

1/2 と 3/4 の割り算にはふたつの形がある。
  1. (1/2) ÷ (3/4)
  2. (3/4) ÷ (1/2)

それぞれの式の意味を適切に考える事ができるだろうか。どういう時にどちらを選べば欲しい答えを得る事ができるだろうか?

比では次の形はどちらも同じ結果になる。
a : b = m : n
a : m = b : n

どちらも an = bm になるからである。掛け算は前後の順序を変えても結果は同じになる。

(1/2) ÷ (3/4)

3/4 を 1 とした時の 1/2 の値を求めるには、(1/2) ÷ (3/4) である。なぜこちらの式なのだろうか?それには 1 ÷ (3/4) の意味を知る所から始める必要がある。つまり (1/2) ÷ (3/4) は次のふたつの式として考えられるのである。
  1. (1/2) ÷ (3/4)
  2. 1 ÷ (3/4) * (1/2)

3/4 を 1 とするのを 1 ÷ (3/4) で求める。これが計算上の単位になって、その 1/2 を求めればよい。

1 - 3/4 =
4/4 - 3/4 ⇒ 1 余り 1/4






3/4 + 1/4 は 1/3 の 4 倍である事が分かる。1 ÷ (3/4) は、3/4 : 1 = 3/4 : 4/4 = 1 : x の比になる。1 : 3/4 の比は 4/4 : 3/4 の分子の比と同じである。分数の比は、分母が同じ時の分子の比と見做す事ができる。

分数は、分母が同じ時に、分子だけの比として考える事ができる。

よって分数の割り算は次のように求める事ができる。

1 / (3/4) の分母を揃える。 ⇒ (4/4) / (3/4)
分子の数字だけを抜き出す。 ⇒ 4, 3
そのふたつを割り算にする。 ⇒ 4 / 3

例題

(1/2) ÷ (3/4) は
(2/4) ÷ (3/4) ⇒ 2/3

2 ÷ (3/4) は
8/4 ÷ 3/4 ⇒ 8/3

(4/5) ÷ (2/3) ÷ (1/2) は
(24/30) / (20/30) / (1/2) = (24/20) / (1/2) = (24/20) / (10/20) = 24/10 = 12/5

この方法は (面倒であるが) 分かり易い。

(4/5) ÷ (2/3) ÷ (1/2) を通常の求め方をすれば、(4/5) * (3/2) * (2) = 12/10 * 2 = 12/5

こちらの方が覚えてしまえば圧倒的に簡単だ。

2 ÷ (3/4) の展開

  1. ⇒ 2 : 3/4 = x : 1 [比の形する]
    ⇒ 2 = 3/4 * x [内側と外側の積は等しい]
    ⇒ x = 2 * (4/3)
    = 8/3
  2. = (8/4) / (3/4) [分母を揃える]
    ⇒ 8/4 = 3/4 + 3/4 + 2/4 [割る数の足し算の形にする]
    ⇒ (1 ÷ 3/4) * (3/4) + (1 ÷ 3/4) * (3/4) + (1 ÷ 3/4) * (2/4) [3/4 を 1 の単位とする]
    = 1 + 1 + 2/3
    = 8/3
  3. = (8/4) / (3/4) [分母を揃える]
    = 8 / 3 [分子だけの割り算にする]
  4. = 2 * (4/3) [引っくり返す]
    = 8 / 3

なお C は D の特殊系と言える。

(8/4) ÷ (3/4) を分子だけの形にして 8 / 3 とするのは、

(8/4) * (4/3) により分母が通分されて消えたのと同じ。

2013年7月24日水曜日

不賢を見ては内に自ら省みる - 孔子

巻二里仁第四之十七
子曰 (子曰く)
見賢思斉焉 (賢を見てはひとしからんと思い)
見不賢而内自省也 (不賢を見ては内に自ら省みる)

優れた人を見たら、そうなりたいと思う。
失敗した人を見たら、その過ちに学ぶ。

優れた人を見たら、そうなりたいと思う。
優れていない人を見たら、自分がそうならないように考える。

優れた人を見たら、そうなりたいと思う。
劣った人を見たら、実は自分もそうではないかと振り返る。

賢な人からよりも、不賢な人からの方が学ぶことは多い。もし自分自身が不賢であっても、自分自身を見て、自ら省みる事が出来るようになれば立派な事だろう。

それが出来ぬから、不賢な人を見る必要がある。

所で、私には誰かを賢と不賢にするだけの見識はあるんだろうか?

私が賢とし、私が不賢とする人が、本当にそうであるとどうやって決めるのだろう?

私がもっとも不賢であるかも知れないのに。

この不賢とは私自身の事だ。

私一人が不賢ならばそれで十分なのだ。

2013年7月23日火曜日

機動戦士ガンダム - 富野喜幸

機動戦士ガンダムは一年戦争から 32 年、宇宙世紀 0112 年に上映された映画である。この映画の監督もサイド 7 からの避難民である。当時 7 才であったと聞いたことがある。彼が避難している間、私はそのすぐ外、つまり宇宙空間にいたのだから、不思議な巡り会わせである。

この映画は 1 年戦争を題材とした作品で、発表された当時から話題となり、今も繰り返し上映され、リメイクされ、アナザーストーリー、スピンオフも多く生まれている。本作は史実を基に作られているが、当たり前ではあるが、映画として商業的な都合から、監督の映画への思い入れから、多くの脚色もある。その幾つかは史実からの挿話である。また史実ではない挿話もある。そしてこの映画の影響力が大きいため映画で書かれた方が事実として膾炙している。

私はその間違いを指摘したり修正したい訳ではない。我々人類(スペースノイドであれアースノイドであれ)は全く正しい歴史認識に辿り着けるものではない。それぞれの立場もあれば利益とする所も違うのである。利害の異なるもの同士がこの太陽系の中を生きているのだから。

私がここで書きたいことは、映画で描かれた事と実際の史実(実際に私が参加した作戦もあるし、体験したもの、仄聞したものも含め)その違いを披露することである。その違いは面白い話だとは思うし、その違いを知る事がガンダムをさらに魅力深いものにすると信じている。

演出上の描写や史実との違いを知ればもっと想像力が膨らむのではないだろうか。史実と物語の違いを考えることは新しい創作に繋がるのではないだろうか。なにより知る事は楽しい。それと私がジオンにいたからという訳ではないが映画では悪役として描かれたザビ家の人々に対する誤解も解きたいと思っている。

悲惨であり、哀しみもあるあの戦争に、人類の歴史に刻まれた確かな一ページに多くの男と女が参加した。誰もがその中に放り込まれた。その中には私の部下も上司も戦友も含まれている、そして私の敵の立場であった人も。考えも立場も陣営も違えども、みなそれぞれ気持ちのいい連中であった。死んだ者も生き残った者もみなあの時代を同じく生きたのであるし、その中の幾人かは幸運にもまだ生きている。これからも子を産み育てそして死んで行く。

それが描かれているから機動戦士ガンダムはこれだけ愛されているのだと思う。私がこれから披露する挿話もそこに付け加えて欲しいと願っている。これはガンダムの史実である。

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機動戦士ガンダムは宇宙世紀 0079 年に起きたジオン独立戦争を題材としている。今でもかつてのサイド 7 宙域に行くと当時の残骸が散在しており、未だに民間人の渡航は禁止されている。監督はこのサイド 7 の残骸をドキュメンタリーに撮った事がある。この風景を見てインスピレーションを受けたと聞いた。

映画の演出上の嘘として有名なものにムサイの艦橋がある。実際の写真と見比べればわかる事だが、戦闘艦の艦橋は全面ガラス張りではない。全面ガラス張りでは危険すぎる。実際のムサイの艦橋は小窓が幾つかある程度だ。宇宙船はどちらかと言えば船より潜水艦に似ている。映画で一面をガラス張りにしているのは、宇宙の方から中の様子が映せるようにするためだ。これは演出上の都合であり、こうしておけば外から映すシーンに人影が写り印象的に見えるわけだ。

ホワイトベースが大気圏航行するシーンも嘘である。物語の舞台が宇宙だけでは起伏に欠けるためだろう。しかし実際はあれだけの巨大なものを地球で飛ばすのは技術的に難しい。地球、宇宙の両方で飛行可能な航空機は工学的にも課題が多い。現在の我々が持っている動力炉では未だそれだけのパワーを得る事が出来ない。

宇宙では地球を飛行するための機構は無用の長物である。地球では宇宙で必要な機構は無用の長物である。どちらにおいても余計な荷物を背負った状態で飛行する事になる。それが効率の悪さを生む。より軽量で高速で機敏に動ける方が戦闘艦に相応しい。これらの理由から宇宙と地球のどちらでも使える船は十分な性能が出にくい。その両方を装備しても問題ないくらい高出力のエンジンが開発されない限り難しい。

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ホワイトベースの羽根に見える部分は大気圏を飛行するための翼ではない。あれは宇宙空間で使用する光学観測装置 (ステレオスコープ) の取り付け場所である。その先端にカメラが付いており両端にあるカメラの画像をコンピュータ処理することで太陽の光りを受けて反射する艦船を探すのである。宇宙ではどの船も翼のように広くなっている部分を持っているが、そこには光学観測機器が取り付けられている。

ガンダムには機銃を撃つシーンが幾つもあるが宇宙では弾丸を撃つことはまずない。それは地上と違って撃った弾丸は何処までも飛び続けるので危険な為だ。一週間以上も前の戦闘で発射された弾丸に味方の艦隊が撃沈される事故もある。大気圏に落ちる事が確実でない限り弾丸系の武装を使用することはない。敵艦への攻撃は主にトマホークなどを使って船の動力炉や艦橋を破壊し戦闘力をなくすのが一般的だ。その場合も爆発を起こさないように注意しデブリが発生しない様に注意を払っている。爆発で発生したデブリはどこを汚染するか分からない。

サイド 7 の廃棄はこのデブリが原因で起きた事故だ。この事故をジオンが人工的にデブリを発生させサイド 7 にぶつけたと言う人もいるが、私の知る限りそのような事実はない。どの戦闘で発生したデブリが原因になったかは既に調査され解明されている。

デブリ群と衝突したためにサイド 7 からは住民の避難が必要となった。その事故を聞いて私は V 作戦になんらかのアクションが出ると考えた。サイド 7 に急行するとタイミングよくホワイトベースが出航していた。ホワイトベースと遭遇した事で連邦の新兵器を間近で見る事ができた訳だ。

サイド 7 追撃戦で初のモビルスーツ格闘戦を実戦で行ったんだけれども、私はモビルスーツの開発テストの時に何度も格闘戦を経験している。だからザクでどのような格闘戦ができるかは知っていた。相手が試作機であることは塗装の色などを見れば明らかだったから最初は確実に拿捕できると思っていた。初の格闘戦というより私からすれば相手機体を拿捕しようと接近したという方が実情に近い。所が拿捕は適わなかった。相手のモビルスーツの性能が格段に良かった。

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V 作戦はモビルスーツの開発ではなくソフトウェア開発の名前であるという事は聞いた事があると思う。試作機であるガンダムは各種兵装の装着が可能で、データ収集や性能チューニングのための実験機として使われていた。ここで得られた成果が順次ジムにフィードバックされていった。実際の処、ジムの性能は次第によくなって行き、戦争末期ではまったく歯が立たなくなっていった。戦争後期のジムの性能の高さは V 作戦の結実だと思う。

で、ガンダムの開発陣はどうも格闘戦を想定したチューニングも行っていたようだ。そのソフトウェアが搭載されていた機体を相手に私はザクで格闘戦を挑んだわけだ。実は危なかったのは私の方だった。なにせザクはもともと格闘戦を想定した機体ではないからね。素人がプロのボクサーに殴り合いを挑んだようなものだ。それほど高いソフトウェアを開発したのだから、連邦の技術力はかなり高いレベルにあったと思う。しかし、この格闘戦用のソフトウェアがジムに搭載されることはなかった。要塞攻略を主目的としたジムには格闘戦用のプログラムは不要と判断したんだと思う。

ガンダムを拿捕しようとした時にガンダムは白い塗装が施されていた。連邦の白いモビルスーツと確かに報告書に記載している。この塗装は試作機では一般的だ。動きを観測しやすいようにするためだ。ジオンでも試作機は白く塗装していた。サイド 7 から出港した時のホワイトベースも戦闘色には塗料されていなかった。ルナツーで急遽塗装したんだと思う。ルナツーから出航した時には一応戦闘色になっていたからね。

私の乗るザクが通常の三倍の性能と言われているけれどこれは間違いだ。私の機体も普通のザクとまったく同じだ。三倍のスピードで移動できると言われたけれど、これは高パワーな為ではない。私が他のパイロットよりも効率のよい運動をザクにさせているだけの話しなんだ。

私は目的地に到着するまでに殆ど進路変更をしない。最初に与えた加速だけでかなり正確に移動する事ができた。多くのパイロットはは優れた人でも 4 回か 5 回は小さな進路変更を必要とする。この進路変更に燃料を多く使うと活動時間が短くなる。移動の時に速度を上げると進路変更に必要なエネルギーも比例して多くなる。私は多くても 3 回だ。だから私は移動速度を上げる事ができた。そして多くの燃料を残したまま戦場に到着していたわけだ。

私は最初に目いっぱいの加速をする。あとは慣性飛行のまま戦場に到着する。他のパイロットが途中で何回も軌道を変えている間にね。軌道変更が多すぎて戦場に着いた時にはガス欠状態になっていたと言うのは、新米ではよくある話だ。これは私の天性の才能なんだろう。これに関しては私は未だに何かの記録を持っているらしい。

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V 作戦の追撃戦の最期に大気圏近くで攻撃を仕掛けたのは史実だ。私は飽くまでもガンダムを捕獲しようとしたんだ。でもガンダムは迎撃に出て来なかった。彼等はガンダムを大気圏に向って廃棄したんだ。彼等は私に奪われるくらいならと試作機を捨てる方を選んだんだね。仮に捕獲できたとしてもハードスペックはジムと大差ないだろうと思っていたが。コンピュータシステムは物理的に破壊されていただろうし。もちろんガンダムに大気圏突入能力なんかはないのでそのまま燃え尽きてしまったよ。

アムロ君はガンダムのテストパイロットだが、その後はジムに載って戦場に出ていたらしい。マグネットコーティングなどなくてもジムの性能は試作機のガンダムより数段に優れていた。映画ではガンダムに乗り続けた事になっているけれどジムは悪い機体じゃない。強敵だった。実際の写真を見れば分かるとおりジムは映画で描かれているものよりずっとスマートな機体だと思う。

アムロ君と対面できたのはこの映画のおかけだ。映画の関係者がセッティングしてくれたんだ。もちろん彼は映画に出てくるような少年ではなかった。髭面の細面の人だった。彼が打ち捨てられたガンダムを操縦したのも創作だ。彼は正規のパイロットだ。ガンダムのテストパイロットとして、私とモビルスーツの格闘戦をした相手だ。

スタッフの人たちが調べてくれたんだけど、どうやら戦争全期を通じてアムロ君と私が同じ戦場にいたのは二回らしい。V 作戦の追撃戦とアバオアクウ防衛戦だ。確かに私もアバオアクウ防衛戦の戦場にいたから、どこかですれ違っていたかも知れない。私達はともにエースパイロットだけれど、映画のように私がアムロ君を追い続けたという話しはないんだ。

映画のスタッフがセッティングしてくれて私たちは会ったんだ。私はその時が初対面であると思っていたのだが、どうやらサイド 6 で既に会っていたらしい。私はそれを全く覚えてはいない。アムロ君が言うには私は女性を連れていたらしい。どこかのバーか何かでかな。そのころ既に結婚していたからね、奥さん以外という事はないと思う。

彼とは映画についても話あった。私はお面を被ったり赤い軍服を着させられたり、アムロ君は脱走までしている。あれが本当なら彼は銃殺だ。

ララァは映画では少し知恵遅れのように描かれているんだけれど実際は違う。普通の主婦だし、私の奥さんだ。彼女は戦争中はサイド 6 に住んでいた。私は休暇の度にサイド 6 の彼女に会いに行ってたんだ。もちろん今も生きている。パイロットでもないしね。監督が初対面の時に非常に気に入ってくれて作品に登場させてくれたんだ。彼女も自分の名と同じララァというキャラクターが気に入っていると話しているよ。

*脚注
シャアはルウム戦役で戦艦五隻を撃沈した。V 作戦傍受の頃は情報部の活動に従事しており、その後はジャブローに侵入しジムの情報を入手、最期はアバオアクウ防衛戦で前線指揮官として終戦を迎える。戦争中の撃墜数は戦艦 8 、モビルスーツ 12 である。

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ソーラーレイは実在した兵器ではない。物語中の架空兵器である。映画ではソーラーレイによって両陣営の無数の艦隊が消えてしまった。しかし実際に戦争中にジオンが保有していた軍艦は戦艦 26、巡洋艦 32、連邦は戦艦 22、巡洋艦 23 隻を保有していた。モビルスーツはジオン 516 機、連邦 382 機。当時の国力からいえばジオンは国力をはるかに超えた戦力を維持していた。ジオンは地理的状況から短期決戦しかできない内情を抱えていた。だから連邦をはるかに超える戦力で例え経済が疲弊しようとも短期決着を目指すしかなかった。

あの一年戦争というのは、最期はアバオアクウ要塞の陥落で終わるのだけれども、その前に行われたソロモン要塞攻略戦でほぼ戦争の趨勢は決まったと言える。ジオンは短期決戦を目指しておりソロモン要塞戦で一方的に連邦の戦力を叩く事を戦略としていた。宇宙での覇権を得るには連邦との戦力比を 10:6 にする必要があった (戦争前の戦力比は 10:9 )。そうすれば宇宙での行動に制限がなくなる。ジオンは相手戦力を一方的に叩く事に戦略と戦術の全てを賭けていた。しかし思った程の打撃を相手に与える事は出来なかった。

当時の宇宙軍では要塞攻略にはふたつの方法があった。ひとつが要塞閉塞戦であり、これは重要施設を外部から破壊し、要塞の機能を停止させ降伏させるか、または無力化する。もうひとつは要塞内に上陸し内部から破壊する。後者を要塞上陸戦と言う。

連邦はソロモンを閉塞戦で早く片付けた後、アバオアクウでは上陸戦を仕掛けて来た。これをジオンの作戦部はまったく予想していなかった。上陸戦はお互いに悲惨な戦闘になりやすい。それでもこの要塞を完全に破壊しておくのが連邦の戦略だったようだ。

連邦軍は要塞上陸戦をするには艦艇が圧倒的に不足していた。だがそこに小型のコロニーまで投入して補った。私たちは連邦の突破力を押し返す事ができず、アバオアクウを守りきる事も出来なかった。この作戦で連邦軍は殆どの戦力を消耗したんだけれど、ジオンの被害も甚大であった。連邦は身を切ってジオンの骨を断った。両者は戦争の遂行能力を失った。この後にサイド 6 の仲介もあり講和が成立したんだ。

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グフという青い機体があるだろ?あれは実際は戦闘用のモビルスーツではなくてモビルスーツを運搬する作業用の重機なんだ。右手に付いてたのはヒートロッドではなく運搬時に荷物を固定するためのワイヤーなんだ。私は乗った事はないんだが、作業している光景は良く見ていた。戦闘に用いる機体ではないんだけれどアバオアクウの工事には大量に投入されていて、そのまま武装を取り付けて簡易的な固定砲台として使われた機体もあるんだ。

アバオアクウで投入されたゲルググは戦争前に私がテストパイロットとして開発に参加した機体だ。戦争に投入されたのは戦争末期だったけれど私はあれが最高のモビルスーツだと思っている。戦後に連邦軍で模擬戦を行い一機のゲルググで五機のジムを圧倒した記録もある。そういう記録が残っているはずだ。まぁそれはパイロットの腕の差かも知れないが。この機体は迎撃能力は優れているんだけれど活動時間がとても短い。そのため戦後のモビルスーツの主流にはなれなかった。ゲルググは良い機体だったよ。

モビルスーツというのはもともとは月や小惑星での資源採掘作業を行う土木作業に使われる機械だった。それを最初に軍用に転用したのはジオンがコロニー攻略をするためだった。コロニーの外側にある施設に取り付き、段差のある場所を移動する。腕でパイプを掴んだり、段差のある場所を移動するには人型で二足歩行が適していたらしい。ザクはコロニー攻略するための機体だ。ザクの肩に付いている盾は最初は宇宙空間に漂うデブリから機体を守るために取り付けられたものだったんだ。

ザクの塗装は宇宙で目立たない深緑と決められていた。隊長機も暗闇に溶け込む深紅と決められていた。ほら深海魚に赤い色の魚がいるだろ?あれと同じで暗やみで目立たない色なんだ。機体はどちらも同じもので塗装だけが違う。赤いザクの方が 3 倍性能がよいというのは伝説だね。ザクとゲルググを比べても 3 倍の性能比はないからね。まぁ何を 3 倍というのかだが。赤い機体は隊長機である印に過ぎない。角に見えるのは通信装置だ。隊長機は他の機体とリンクして情報処理する必要から大型のアンテナを採用していたんだよ。ただ戦争が始まってから製造された機体は全て緑色だった。赤いザクは戦争前に製造された機体で、戦争中は製造工程の問題から全て緑で塗装されていた。

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宇宙での戦争というのは戦艦から発進したモビルスーツでコロニーに取りつき、コロニーを占領するのが主な戦いだった。だけど映画にサイド 7 の中にザクが進入したシーンがあるが、あれは嘘だ。モビルスーツはコロニーの中では満足に動けない。立ち上がることさえ出来ない。

だからコロニーの中でのモビルスーツの戦闘というのは起きない。ガンダムとザクの戦闘も、ギャンの戦闘もないんだ。ガンダムもコロニーの中で歩く事はできない。

月面で使われるモビルスーツには二足歩行のものもあるけれど、1 G の場所では二足歩行は難しい。月面作業のほどんとの機体もキャタピラが主流だ。ガンタンクみたいなね。私がコロニー内でモビルスーツを使う実験をした時は、立ち上がる事も出来なかった。モーターが焼き切れてしまうんだ。

地球でモビルスーツが使われる事もない。もし地上であの巨大なモビルスーツが立ったら辺りから丸分かりで遠目からでも目標にされる。そしてあっという間に戦車や携帯ミサイルで破壊されてしまうだろう。今でもそうだけど、地上での戦闘の中心はやはり戦車と航空機だよ。重力というのは未だ人類の大きな制約なのだ。戦争にも大きな影響を与えている。ただ水中作業用のモビルスーツを何機か試作したという話は聞いた事がある。ズゴックみたいな機体があればいいけど。

ジャブローと言えば、映画の中でザンジバルが地上から打ち上げられたシーンがあったね。あれは実話だよ。ザンジバルは地球で最初の組立をしていたからね。途中まで組み立ててから宇宙に打ち上げていたんだ。もちろん打ち上げのために軽くしなければいけないから武装も装甲も施されていない。ある程度の組立をしたらロケットを取り付けて打ち上げていたんだ。打ち上げたザンジバルを宇宙空間で受け取って組立工場のあるソロモンまで曳航する。だからザンジバルは実際の機体も空気抵抗が考慮されたスマートなデザインになっているんだ。

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ガルマは作品では坊ちゃんに描かれていたけれど、彼は本当に聡明に人だった。私とは兵学校の同期であったが、彼は本当に優秀な人だった。映画ほど若くはないしドップに乗って実戦に出たりはしないけど。彼は北米方面の参謀のひとりだ。

ガルマが連邦との講和を模索していたと言う話しは今では有名になったけれど当時は秘密裡に研究していたようだ。ガルマの日記には講和へのプロセスや障害が詳細に記載されていたそうだ。これを読んだデギン・ザビにも大きな影響を与え、政府首脳陣はこれをベースに講和準備を始めたようだ。まぁ講和に動こうとしたガルマをシャアが特命で暗殺しようとしたという説が今も残っているがね。

ガルマの死後、イセリナは男の子を出産した。彼女はガルマの愛人だ。これが公表されたのはその子が 20 才を超えてからだ。醜聞を恐れたイセリナの父が隠していたらしい。

ガルマの死によって、北米におけるジオンの勢力は急速に縮小した。この事からも彼の能力は高く評価していいだろう。私もその意見に全面的に賛成する。彼がどれほど有能な軍人であったか、彼の死がどれほどジオンに痛手であったか。私にとっても良き戦友であったし戦後のジオンにとっても何らかの貢献をしてくれる人だったと思う。

北米の勢力が縮小した事で連邦はオデッサに大規模な攻勢をかける事が可能になった。ガルマの死が結局はジオンのオデッサでの敗退を決定づけたわけだ。連邦は北米の兵を大量にオデッサ作戦に投入できたんだから。これが戦争の趨勢を決定づけたと言ってもいい。だからガルマの死を持ってジオンは敗戦したとする見方もできる。

ガルマが戦死した戦場に私は居なかった。私は地上に降りガルマの処で数週間を過ごしてから南米に渡った。ジャブローへの潜入の為にね。彼の戦死は確かにおかしな事故なんだ。前線への視察の時に流れ弾に当たるでもなく、爆撃に巻き込まれた分けでもなく、単に塹壕に落ちて死んでしまったんだから。それがいっそう彼の死への疑念として残っているんだろう。ジオンの人にとっては余りにも残念すぎるんだ。

ククルスドアンと言うジオンの脱走兵が連邦やジオンの区別なく孤児達を養っていると言う話は一部でのみ知られていた話だ。彼の上司だった男が機密費の一部を彼に渡していたと言う。それで彼の活動を支援していたそうなんだが、これを聞きつけた情報部がこの話しを捜査しようとした時、偶々聞いたガルマが捜査を中止させたという話は聞いた事がある。

身よりのない子供を育てていた売春婦が連邦にスパイ容疑で逮捕され惨殺されてしまった事がある。この時に残された孤児たちをガルマが孤児院に入れた。この時の話はジオンの報告書に残っていて、それで戦後になってから表に出て連邦軍は遺族(子供達)に正式に謝罪しなければならなくなったんだ。たしかその売春婦の名前がミハルって名前だったはずだ。

オデッサ作戦の敗北でジオンの劣勢は決定的になったんだけど、その時にマ・クベさんが核兵器を発射した事になっている。あれは史実ではない。ジオンはそもそも核兵器を保有していない。マ・クベさんはオデッサ降伏後に要塞の引き渡しをして事務手続きが完了した後にそのまま捕虜になっている。戦後は地球で美術史家として余生を全うしたんだよ。

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スペースコロニーで最も重要なのは水の確保であった。当初は地球から運搬していたけれど効率も悪く量も少なかった。氷の小惑星帯が火星の内軌道に見つかった事で巨大コロニーの建設が実現できたんだ。コロニーに水を運搬する船に対しては戦争中と雖もジオンも連邦も攻撃をしたことはなかった。

地球連邦は地球の統一政府と思われがちだが実際には地球にある複数の国家連邦のひとつに過ぎない。地球連邦は地球上の 4 割の地域とスペースコロニー群で構成された国家ネットワークだ。ジオンはこのうちの月地域を管轄するコロニー自治区だった。

ジオンは戦後に地球連邦から独立している。世界で初めて宇宙に首都を持つ国家の誕生だ。その後に幾つかのコロニーが独立する。コロニーは気候の変動がなく安定した太陽エネルギーが受け取れる。水のコストや放射線対策を必要とはするが、農業や工業に向いている。宇宙では運搬費用も安い。コロニーにないのは漁業だけだ。

映画で描かれた選民思想は別として、思想家としてのギレン・ザビは重要だと思っている。彼の地球人への危機感が私には一番正しいように思える。彼の地球に対する危機感、地球の資源が枯渇する事への危機感、それを浪費して平気でいる人々への危機感、彼は新しい世紀においてヒトとしての未来を考えた政治家だと思う。

昔の人が化石燃料の枯渇を経験したのと同じように、宇宙に進出しても人類は別の資源争奪戦を繰り返すだけであった。何時かは地球にある全ての資源が枯渇する。宇宙に新しい資源を求めて人類が進出したとしてもその根っこが同じならば何時かは太陽系の全て資源を食いつぶすだろう。何かが変わらなければならない。そういう問題意識がギレンにはあった。

ギレンの語る人類への問題提起が作品の重要なテーマだ。これは正面から語られはしないが物語に通奏低音として流れている。ジオンの理はそこにある。しかし物語ではザビ家はアムロたちの敵であり、アムロたちの倒すべき敵として描かれた。ジオンは単なる独立の為に戦争を起こしたのではない。宇宙にある資源を我々はどう使ってゆくかという問題を提起したのだ。

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ザビ家を倒すべき悪としたからガンダムはここまで続いたとも言える。悪でないものを悪として描く事が矛盾となって、どれだけ解いても証明できない定理のように、作品に終わりをもたらさない。ガンダムの全てはザビ家が悪である事を証明しようとする。だが本当にザビは悪なのか。どこかでザビ家をきちんと扱った作品が必要だと思う。彼等の声が描かれる事を願っている。

機動戦士ガンダムにおいてもっとも人間らしいと云えるのはザビ家に人達かも知れない。彼らだけが政治を語っているように見える。

キシリアは映画の中では脱出時に私に撃ち殺されてしまうのだけれど、実際は要塞陥落時に爆発に巻き込まれて死亡している。狙撃される方が印象的だし作品の最期を締めくくる重要なエピソードとは承知しているが、彼女の名誉のために少しだけ付け加えるなら、実際の彼女はあれほど冷酷な女性ではなかった。そのことを私はよく知っている。

ジオンはザビ家の独裁国家ではない。きちんとした共和国であり議会も開かれていた。当時のジオンで重要な地位を占めていた一族のひとつではあるが、そこは誤解されて欲しくない。

ザビ家は革命の功労者ではあるが特別に優遇されていた訳ではない。デギンはジオンの最高政治責任者の地位にあったが大戦末期にサイド 3 への移動中に行方不明となった。戦後に遭難した船が見つかっている。

ギレンは政治家になったが他の妹弟は軍人になった。ドズルとキシリアは要塞司令の要職には付いた。キシリアはアバオアクウで、ドズルはソロモンで戦死した。既にガルマも地球で戦死していた。

ひとり残ったギレンはアバオアクウ陥落後に本国の執務室で自殺したのである。

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本書がガンダムというプラットフォームの中に新しい視点を開く一助になれば幸いである。


地球、地福。

2013年7月7日日曜日

七十而從心所欲 - 孔子

巻一爲政第二之四
子曰吾十有五而志于学 (子曰くわれ十有五にして学に志す)
三十而立 (三十にして立つ)
四十而不惑 (四十にして惑わず)
五十而知天命 (五十にして天命を知る)
六十而耳順 (六十にして耳に順う)
七十而従心所欲 (七十にして心の欲するところに従えども矩をこえず)
不踰矩

(訳注)
まだ 70 を経験していないのでこれは単なる想像である。

(訳)
若い者には想像もつかないだろうが、70 も超えると足はよぼよぼ、体力もナッシング。

次第に何事からも興味を失ってゆくし、食べるものにも五月蠅くなくなる。

この体に残っているのは、昔からやって来た幾つかの事が、それだけが何も考えなくても出来る様になっている。

私の生涯で、この体に残ったものと言えば、矩をこえずだけだ。

もういまから新しい事を始めようとしても、よそさまに大した迷惑をかけることもないだろう。

もはやよぼよぼのじいさんである。

赤子の手にさえ捻られるというものだ。

いまや若いやつからの拳固ひとつで十分、この世とおさらばだ。

若い弟子たちはよく世話をしてくれる。

それはありがたい。

もう心の中から湧き出てくるものが、単に人に迷惑をかけないでいよう、というだけの所に成ってしまったのか。

心の欲する所が矩を越えないんじゃないんだ。

矩を超えようとしたってもう出来ないんだ。

自分が偉くなったからでも、人間として成長したからでもない。

もうこの体ではこえたくたって越えられやしないさ。

長く、長く生きて来て、到達した所がここだなんて、君たちにはまだ想像もできまい。

私は老いたのだから。

社会の中でひっそりとなら生きて行ける。

私はそんな人生を生きてきた。

心の欲するところが矩をこえぬ、そうなってしまった。

みなはそれが私の満足であると思うのだろうか。

2013年6月16日日曜日

ゾンビの医学的考察

1. 要約

ゾンビは接触感染によるウィルスまたは病原菌、寄生虫(以下、ゾンビ菌とする)を起因とする人特有の感染症である。

2. 序論

ゾンビの医学的考察をこれから述べるが、彼等は映像資料でのみ確認されていて、捕獲例は世界で一件もない。それでも映像から確認できる事実がある。それは恐らくこうであろうと推察できるものが幾つもあるのである。これからそれらの映像記録から推測される事を報告する。そのためこの考察には誤りも含まれる可能性がある事を予め断っておく。

本論の主なテーマは次の3つである。「感染および感染経路」「感染から発症まで」「ヒトを襲う理由」。

3. 本論

3.1 感染および感染経路
ゾンビの記録映像には必ずゾンビに感染していない者がいる。彼等は最期まで発症せずに記録を終えるし、また映像公開の記者会見の場でも感染した形跡は見当たらない。ゾンビ菌が空気感染するのであれば、生き残ったとしても保菌者である可能性は高いはずだし、保菌者であっても抗体をもち発症していないとしても、他の人に感染させることはあるだろう。しかしこれまでそのような発症例は報告されていない。だからゾンビは空気感染ではないと考えられるのだ。

多くの記録映像からゾンビを発症するのは死後であり、かつゾンビに噛まれる事に起因する。その事からゾンビ菌は口中に生息していると考えられる。腕をつかまれたくらいでは発症しないため、噛まれた時の唾液を介しての感染と思われる。

唾液だけでゾンビ菌に感染するなら彼等の口中から飛び出す飛沫によっても感染する可能性がある。しかし感染するには以下の条件が必要と思われる。
  • 強く噛まれないと感染しない。
  • 感染すると死亡する。
  • 死亡してから発症する。

強く噛まれた時 (肉の一部を噛み取られるくらい) の発症率は100%のようだ。しかし唾液に触れる程度では感染しない。これは感染経路としてある程度以上の大量の病原体が必要なためと思われる。一度に大量のゾンビ菌が血液に入らなければ感染はしないと考えられるのである。だからゾンビ菌の血を吸った蚊に刺されたとしても感染するとは考えにくい。

ゾンビの死体を焼却した場合に感染力はまだ残っているものだろうか? 焼却後の灰が人体に取り込まれるケースを考慮してみる。もしその程度で感染するようならそれは空気感染である。しかし多くの事例から空気感染は否定されている。だからゾンビを焼却すれば感染する危険性はなくなると考えられる。これは一度に大量の病原菌と接触する危険性がなくなるためか、それとも焼却によってゾンビ菌が死滅したために起こった事かは断定できない。それでも焼却する事で感染する可能性が極めて小さくなる事から、ゾンビ菌は狂牛病の原因であるプリオンのような物質ではなく何等かの有機体である可能性が高い。

そのため焼いたゾンビを食べる事は強く推奨しない。どの程度の焼却でゾンビ菌が死滅するか、または感染力を失うかは不明だからだ。

ゾンビの記録では他の多くの動物、昆虫、植物は発症していない。犬、猫、鹿はおろか、人間との間に多くの人獣共通感染症をもつ豚にさえ発症した報告がない。これはゾンビがヒト以外の動物を襲わない為か、または襲ったとしても発症していないものと思われる。この事からゾンビは人特有の感染症であると思われる。

3.2 感染から発症まで
ゾンビ菌に感染した場合、どういうメカニズムかは不明だが人は 2 ~ 3 日で死亡する。その死亡した直後から動き出す事からゾンビ菌はヒトの神経組織を乗っ取っていると思われる。これはハリガネムシに近いものがある。しかしどうやって乗っ取るかは不明である。ゾンビ菌がなんらかのホルモンを出しているのか、それとも神経に直接寄生しているのかは分からない。

ただ死亡するまでに感染者の多くが発熱、悪寒などを感じる事から抗体が激しく反応している事は明らかである。おそらく神経組織に取りつき、そこで繁殖してヒトを死に至らしめるものと思われる。

他の病原菌と異なり死亡後に動き出す事から、ゾンビ菌は神経伝達を阻害するだけではなく、ヒトの死後も必要な生命活動を維持している事は間違いない。特に歩行に関する運動系、目を開き噛み付く事から顔の一部の運動系、および視神経をコントロールしていると思われる。

ゾンビ菌は神経繊維に潜伏し運動神経から電気信号を発生させ歩行していると思われる。また視神経にも潜伏しそこから得られる情報を使って空間認識しターゲットを補足していると思われる。これは恐るべきメカニズムである。ここのゾンビ菌の情報を全ての菌で共有するのは、コンピュータの分散コンピューティングに近いものがある。またこの情報の共有による遅延がゾンビの動きの遅さの原因とも思われる。

このようにゾンビ菌は複数個所に同時に潜伏しなければならない。これがゾンビが一度に大量の菌を感染させなければ発症しない理由と思われる。またゾンビ菌は神経組織を乗っ取るために、主に脳に感染していると思われる。それとは別に新たに感染するために口中でも繁殖しなければならない。つまりゾンビ菌は役割分担をする菌と思われる。これらの役割分担、つまり運動の獲得と繁殖するための分化は、アリやハチのような集団を形成する極めて珍しい感染症である。

ゾンビ菌が筋肉を動かすためのエネルギーはどこから得ているのであろうか? 筋肉に栄養を送る為には血液の循環が必要である。これには心臓を動かす必要があり、ゾンビ菌は心臓にも潜伏していると考えるのが妥当である。おそらく動きの緩慢さや傷口から血が流れ出ない事から、一分間に一回程度の最低限の運動により循環器を維持しているのだろう。

しかし食料がない状況でどのようにエネルギーを得ているのだろうか? 最初は血液中に残っているグリコーゲンを使用していると思われる。しかしそれは直ぐに消費されるであろう。

そこで注目すべきはゾンビの多くが皮膚が腐りかけたようになっている事だ。あれは死亡による腐敗とこれまで思われてきたが、これこそが彼らのエネルギー源ではないかと考える。つまり、彼らは活動に必要のない体の部位を消化し、それをエネルギー源として利用 (再利用?) しているのではないだろうか。

恐らく最初に溶かされるのが脳の不要な部分と思われる。脳は神経を乗っ取た後は殆ど必要ないので運動に関する部位などを残して、おそらく大脳皮質などは溶かされてエネルギーとして使われているだろう。また内臓の多くも不要とある。ゾンビの多くは内臓を刺されても活動を停止する事はない。これは行動するのに既に重要でなくなっているからであろう。

3.3 ヒトを襲う理由
ゾンビ菌は生命維持をするための食糧を必要としない。犬や猫などの動物、動きが緩慢で捕食できないなら昆虫などを食べてエネルギーを得ているとも思われない。植物を口にする事もない。もしこれらを捕食し消化するとなると多くのヒトの機能を動かし続けなければならない。死後に体を動かすのは非効率である。もしヒトを食料としているのならばゾンビ同士の共食いも目撃されてしかるべきである。動きの速い人間よりもゾンビの方が食料としては容易いからである。

だからヒトを襲うのは唾液を経由しての感染と繁殖のためであろう。もし単なる繁殖だけであるなら性病として進化する道もあったはずである。虫歯菌と同じように口中の常在菌として生き残る道もあっただろう。これらの戦略を取れなかったのはゾンビ菌が恐らく生きた人間の口中に入っても、常在菌によって死滅させられてしまうからではないだろうか。菌としての生命力、競争力は極めて弱いと思われる。ヒトが死亡し常在菌が弱まってから口中で繁殖すると思われるのである。

これらの事由からゾンビ菌がヒトを襲うのは繁殖のためと断定してよい。

ではヒトだけを襲うのは何故か。これも死亡した後に体を動かす必要性があるためと思われる。おそらく発症するためには大量のエネルギーが必要なのである。そのためには重要となる部位がヒトの大脳であろう。猿では脳が小さすぎて感染してもそのあとの行動が維持できないのだ。

恐らくゾンビ菌はヒトに感染したらまず脳に取りつき、必要な部位だけを残し、それ以外はエネルギー源として使うものと思われる。これが十分でないとその後に新しい感染主を探す行動ができなくて死滅するものと思われる。

4. 結論

ゾンビには生きた(?)発症例がない。しかし生き残った者たちがおり、彼らには若しかしたらゾンビ菌抗体があるかも知れない。これをどのように取り出すかは今後の研究に待たれる。もし抗体があるならば噛まれても発症しない可能性がある。

我々は来る日、ゾンビパンデミックに備えて今後も研究に邁進する必要がある。

5. 参考文献
Dawn of the Dead - George Andrew Romero

罪と罰 (上) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー

第一編
ある計画に憑りつかれた大学生ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフが物語の主人公である。ラスコーリニコフはアリョーナ・イヴァーノヴナの元を訪れ質草を入れる。これも彼の計画のうちであった。その帰りに酒場に寄ったラスコーリニコフはマルメラードフと出会う。マルメラードフは家族が貧窮にしているにも係らず給料を飲み代に使ってしまうような人間であった。そこでラスコーリニコフはマルメラードフの妻カチェリーナと娘ソーニャ (ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードヴァ) の話しを聞かされる。

マルメラードフを家まで送り宿へ戻ったラスコーリニコフは宿の女中ナスターシャから一通の手紙を受け取った。それは母プリヘーリヤからの手紙であった。妹ドゥーニャが働いていた先でスヴィドリガイロフとの間でトラブルが起きた事、それがスヴィドリガイロフの方に非があり誤解も解けた事、そしてドゥーニャがルージンと婚約する事が書かれていた。母と妹はルージンの援助によりペテルブルグへ引っ越す事とも書かれていた。手紙を読み終わったラスコーリニコフはルージンという男の魂胆を見抜き、妹への婚約には反対の立場を取る事を決めた。

「でなければ、ぜんぜん人生を拒否するんだ!」突如、彼は狂憤にかられて叫んだ。P74

次の日、ラスコーリニコフは出かけた先の公園で酔っ払いの女を介抱し警官に引き渡す。その後、友人のラズーミヒン (ドミートリイ・プロコーフィチ) を訪問する。その日の晩に彼は印象的な夢を見た。まだ幼少の頃、父親と一緒に祭りに行った時の出来事であった。酔っ払いたちが痩せた馬に重い荷馬車を引かせ面白おかしそうに鞭打つ場面であった。

鼻っつらをひっぱたけ、眼のうえを、眼んとこを喰らわずだ!P92

ラスコーリニコフは馬のそばから走って行った。彼は前の方け駆けぬけて、馬が眼を、眼の真上を打たれるのを見た!彼は泣いた。心臓の鼓動は高まり、涙が流れた。P93

「息の根を止めろ!」とミコールカは叫びながら、無我夢中で馬車から飛び降りた。同じように酔っぱらって、真っ赤になった幾人かの若い者も、鞭、棒、轅 (ながえ) と、手当たり次第のものをつかんで、息も絶え絶えの牝馬の傍らへ駆け寄った。ミコールカは脇の方に位置を定め、鉄槓で馬の背中を滅多うちに打ち始めた。痩せ馬は鼻面をさしのべ、苦しげに息をついて、死んでしまった。P95

それは不安の象徴だったのだろうか、それとも父性からのメッセージだったのであろうか?彼は己の中にある計画を独白する。

一体おれは本当に斧をふるって人の脳天を叩き割る気なんだろうか P96

しかし偶然にもラスコーリニコフはアリョーナの妹リザヴェータが明日の夜 7 時きっかりに家に居ない事を知ってしまう。それは将校たちの会話を偶々盗み聞いてしまったからであった。それは計画を実行するのに二度とない程の好機であった。見知らぬ将校と大学生の冗談まじりの会話が続く。それこそが彼がまさにそうあろうとした事であった。それが啓示であったとしても不思議はなかった。

「風変りの味だね。いや、それより君にひとつ話す事がある。僕はあのいまいましい婆あを殺して、有金すっかりふんだくっても、誓って良心に恥ずるところはないね。」と大学生は熱くなって言い足した。P104

「僕がいったのはむろん冗談だ。が、いいかい、一方には無智で無意味な、何の価値もない、意地悪で、病身な婆あがいる、誰にも用のない、むしろ万人に有害な、自分でも何のために生きてるかわからない、おまけに明日にもひとりでに死んで行く婆あがいる、いいかい?わかるかね?」
「うん、わかるよ」熱した友達をじいっと見ながら、将校は答えた。p105

彼はあくる日の 7 時にアリョーナのもとへ斧を隠し持って訪れる。そして計画通り斧をアリョーナの頭部めがけて振り下ろすのだった。しかし、そこで計算違いが起きる。そこにはいないはずのリザヴェータが帰ってきたのだ。彼はリザヴェータも殺害せねばならぬ羽目に陥った。ラスコーリニコフはリザヴェータも殺害し、それから物取りの犯行に見せかけるために幾つかの質草を奪いその場からの逃走に成功するのである。


第二編
すべて何もかもが、記憶や単純な判断力までが、自分を見捨てようとしているのだと確信すると、堪らないほどに苦しくなってきた。『どうしたんだ、もうそろそろ始まってるんだろうか?これはもう罰がやって来てるんだろうか?』P142

『あれはただの熱病性の衰弱だ。ちょっと熱にうかされただけだ。』p142

翌日昼近くに起きたラスコーリニコフに警察からの出頭命令が届く。それを伝えに来た女中ナスターシャはラスコリーニコフを元気づけるように昼食を用意した。疑心暗鬼に駆られながら警察署を訪れたラスコーリニコフはそれが債権取り立ての話しである事を署長のニコジーム・フォミッチから聞かされて安堵するのであった。

『もし訊ねたら、おれは言ってしまうかもしれない』と彼は、警察へ近付きながら考えた。P147

ラスコーリニコフはそれでも自分の置かれている状況に危機感を覚え例え警察に家宅捜査されたとしても問題なきよう急ぎ家へと戻りアリョーナから奪った質草を隠すのであった。

この石の下を探そうなんて考えが、いったい誰の頭に浮かぶものか。P170

それから大学時代の友人であるラズーミヒンを訪れる。ラスコーリニコフは体調が悪化し始めていた。彼の精神状態も熱病にうなされているかのように傍から見ても尋常ではない状態になりつつあった。

『ああここにあの男が済んでいるんだ、この家に』P173
「君は一体、脳炎でもやってるのかい。」P177

ラズーミヒンの家から飛び出し、ラスコーリニコフはネヴァ河のほとりに佇んむ。

彼はこの瞬間ナイフか何かで、自分というものを一切の人と物からぶっつり切り離したような思いがした。P180

それから夕方になって家に戻ると彼は倒れた。

黄昏の色がすっかりと濃くなった頃、彼は恐ろしい叫び声でわれに返った。P181

ラスコーリニコフは警察の副署長であるイリヤープト・ペトローヴィチが宿の主婦を打っているのを聞いた。

「誰も主婦さんを打ちゃしないよ。」とナスターシヤはまたもやいかつい、きっぱりとした調子で言いきった。P184

それは強いストレスのせいであろうか、深層心理からの働きかけのせいであろうか、ラスコーリニコフは熱病で数日間も寝込んでしまったいた。熱病で倒れていたラスコーリニコフを看病したのはラズーミヒンであった。ラズーミヒンはゾシーモフという医者を連れてきてラスコーリニコフを治療してもらったいたのだった。

ザミョートフは警察の事務官でラズーミヒンの友人でもあった。看病の甲斐あって回復したラスコーリニコフはラズーミヒンとザミョートフと会話しアリョーナ殺害事件のあらましを聞く。ラスコーリニコフは病気で寝込んでいた時に余計な事をうわごとで言っていないかを彼らに確かめながらそれを聞いていた。実際は警察が逮捕したのはペンキ屋の二人ミトレイとニコライであった。

「僕なにか戯言 (ざれごと) を言ったかね?」P199

そこにルージンが挨拶にやってきた。妹ドゥーニャのフィアンセであるルージンと会話をするうちにラスコーリニコフはとうとう我慢が出来なくなってルージンと妹との結婚に反対する事を告げた。

「僕は病気じゃない」とラスコーリニコフは叫んだ。
「ではなおさら・・・」
「とっとと出て行け!」P244

ラズーミヒンらも帰ってひとりになった後、ラスコーリニコフは外出をする。

あれは何で読んだのだったかな。一人の死刑を宣告された男が、処刑される一時間前にこんなことを言うか、考えるかしたって話だ。もし自分がどこか高い山の頂上の岩の上で、やっと日本の足を置くに足るだけの狭い場所で生きる様な羽目になったら、どうだろう?周りは底知れぬ深淵、大洋、永久の闇、そして永久の孤独と永久の嵐、この方尺の地に百年も千年も、永劫立っていなければならぬとしても、今すぐ死ぬよりは、こうして生きている方がましだ。P254

人間は卑劣漢に出来ている。またそういった男を卑劣漢よばわりするやつも、やっぱり卑劣漢なのだ。P254

酒場で偶然にもザミョートフに出会ったラスコーリニコフはは何故か秘密を打ち明けたい欲求が抑えきれなくなる。それはもちろんザミョートフにもラスコーリニコフにも冗談と聞こえるのだが、ラスコーリニコフの中に何か話さずにはいられないものがあるのだった。

「ねぇどうです。もし僕があの婆さんとリザヴェータを殺したのだったら?」と彼はだしぬけに口を切って、はっと我にかえった。
ザミョートフは気うとい眼つきで彼の顔を見ると、布きれにまごうばかりの真蒼になった。その顔は微笑でゆがんだ。
「一体そんな事があっていいもんか?」P265

ザミョートフと別れたラスコーリニコフはふと自殺を思うのだが、アプシーニユシカの投水自殺の未遂場面と出くわす。そしてやはり自殺は取るべきでないと思い直すのであった。

そのあとラスコーリニコフは殺人現場を訪れる。犯人は殺人現場に戻ってくるというのはこういう事かとばかりに、そこに何かを忘れた訳でもないのに。

その帰りに彼はマルメラードが馬車に轢かれる事故現場に出くわす。虫の息のマルメラードの家まで連れて行ったがマルメラードはソーニャの腕の中で亡くなってしまう。ラスコーリニコフは持っていたお金をマルメラードの家族に渡した。そこに来た警察との立会で彼は次のようにうそぶくのであった。

「それにしても、君はだいぶ血まみれのようですな」ランタンの明かりで、ラスコーリニコフのチョッキに生々しい血痕をいくつか見つけて、署長 (ニコジーム・フォミッチ) は注意した。
「ええ、汚しました・・・僕は血だらけです。」何かしら一種特別な表情をして、ラスコーリニコフはこういった。それからにやっと笑い、ひとつ頷くと、階段を下りて行った。P299

次の日も来ることをソーニャ達に約束し家に帰ると、母プリヘーリヤと妹ドゥーニャがペテルブルグに到着していた。


第三編
母プリヘーリヤ、妹ドゥーニャのいる家にラズーミヒンが訪れ、妹ドゥーニャに恋をしてしまう。ラズーミヒンは彼女ら母娘のために医者であるゾシーモフも連れて来てラスコーリニコフの看病をするのであった。

髪は兄よりいくらか明るみの勝った、黒みがちの亜麻色をしていた。眼はほとんど真黒で、プライドにみちた輝きを放っていたが、またそれと同時に、どうかすると瞬間的に並はずれて善良な表情になるのであった。色は蒼白かったが病的な蒼白さではない。彼女の顔は新鮮味と健康に輝いていた。口はやや小さすぎる方で、鮮やかな赤い色をした下唇は、顎と一緒に心もち前へ出ていた、それがこの美しい顔に指摘される唯一の欠点であったが、でもこの顔に一種の特徴、とりわけ傲慢らしい影を添えている。

この顔には微笑がまことによく似合った。 P327

人の良い、善良なラズーミヒンは許嫁のあるドゥーニャに魅かれる自分に戸惑いながらも、彼女らの面倒を見た。翌日の朝、彼らはラスコーリニコフの家に再び集まった。そこで互いの近況を報告しあうのであった。マルファ・ペトローヴナが死亡した事もそこで知った。

「あらまぁ、スヴィドリガイロフの奥さんのマルファ・ペトローヴナさ。ついこの間の手紙で、あんなに色々と知らせてあげたじゃないか」P365

ドゥーニャはマルファ・ペトローヴナの家に家庭教師として入っていた。そこでペトローヴナの夫であるスヴィドリガイロフが不作法を働き窮地に陥ってしまう。その時に救ってくれたのがルージンであった。彼女はルージンと結婚する事を決意する。それはラスコーリニコフの反対を押し切ってのものであった。

おまえはまた何を赤くなるんだい?お前は嘘をついている。お前はわざと嘘をついているんだ。ただ女らしい強情で、おれに我を張り通したいもんだからさ。お前はルージンを尊敬することなんか出来やしない。僕はあの男と会いもし、話しもしたんだよ。してみると、お前はお金のために自分を売っているのだ、してみると、いずれも卑劣な行為だ。僕はね、お前が少なくとも赤くなれる、それだけでも喜んでいるよ。P374

その夜八時に、全員でルージンを交えて会う事を約束していた時である。ルージンの手紙に『いかがわしき生業を営みおる女』と書かれていたソーニャが訪ねてきたのであった。それは前日のお礼に来たのであるが、計らずしも、ソーニャとドゥーニャはそこで出会う事になったのである。そして明日の葬式に参加して欲しいとの言付けた。

碧い眼が透きとおるように澄みきって、それが生き生きして来ると誰しもつい惹き付けられてしまうくらい、顔の表情が何とも言えず善良で無邪気な感じになってくるのであった。そのうえ彼女の顔にもその姿ぜんたいにも、ひとつ際立った特色があった。それは彼女がもう十八というにも係らず、その年頃よりもすっと若く、まるでほんの小娘、というより子供のように見える事であった。P384

母プリヘーリヤ、妹ドゥーニャは家へと戻り、ソーニャとスコーリニコフとラズーミヒンだけが残った。ラスコーリニコフとラズーミヒンはラズーミヒンの親類であるポルフォーリィ・ペトローヴィッチに会うために出かけた。二人と途中で別れたソフィアは何故か心うかれるのであった。

「ただ今日だけはいらっしゃらないように、どうぞ、今日でないように!」まるで小さな子供が怯えた時に哀願するように彼女は胸の痺れるような思いで呟いた。「ああ、どうしよう。わたしのところへ、あの部屋へ、あの方がごらんになる。ああ、どうしよう。」P393

彼らはポルフィーリイ・ペトローヴィチを訪ねた。部屋にはザミョートフも居た。そこで彼らはラスコーリニコフの論文を巡って犯罪について語り合った。犯罪には『環境に蝕まれた』ものがある。しかしそれ以外の犯罪もある。凡人は法に服従しなければならぬから法を犯すのは犯罪である。しかし非凡人はそれを越える権利を有している。非凡人であればそれは犯罪にはならない。それは歴史が、リカルガス、ソロン、マホメット、ナポレオンなどがしてきた事だ。人類の恩恵者、建設者は非凡人であるがゆえに、凡人では犯罪となるものをやってきたではないか。このような観念の語り合いの中でその裏でポルフィーリイとラスコーリニコフは老婆殺しには関する駆け引きをしていたのである。

「じゃあなたは何と言っても新しきエルサレムを信じていらっしゃるんですか?」P423

「ねぇ、君、もし実際それが真面目なら、そりゃむろん君の言う通りだ。これは別に新しいものじゃない、我々が幾度となく読んだり、聞いたりしたものに似たり寄ったりだ。しかし、その中で実際の創見、まぎれもなく君ひとりにのみ属している点は恐ろしい事だが、とにかく君が良心に照らして血を許している事だ。P427

この良心に照らして血を許すということは、それは、僕に言わせると血を流してもいいという公の法律上の許可よりも恐ろしい」P427

「良心のある人間なら自分の過失を自覚した以上自分で勝手に苦しむがいい。これがその男に対する罰ですよ。懲役以外のね。」P429

予審判事であるポルフィーリイは確信しているに違いない。しかしそれを示す証拠はどこにもなかった。

「先週、わがアリョーナ・イヴァーノヴナを斧でやっつけたのは、本当に何か未来のナポレオンとでも言ったような者じゃないかな?」と出し抜けに隅の方からザミョートフがずばりと言ってのけた。P432

ポリフィーリィの疑念を退けて二人はそこを出た。家に戻ったラスコーリニコフを町人が訪ねて来た。彼はラスコーリニコフが予想もしなかった事をただ口走り去って行った。

町人も今度は眼を上げて、気味の悪い陰鬱な眼差しで、じろりとラスコーリニコフを見やった。
「人殺し!」と不意に男は低いけれど明瞭なしっかりとした声で言った。P442

「お前が人殺しだ。」P443

ラスコーリニコフはぐったりとして恐怖を感じた。それは彼の理性の外からきた一打ちであった。彼は家の中で横になって自問を繰り返す。自分はこれを予感していただの、果たして自分はナポレオンであろうかだの、人類一般の福祉を待っていられるかだの、取り留めのない出鱈目な考えが渦巻いた。

エジプトに大軍を置き忘れたり、モスクワ遠征に五十万の大兵を消費したりした挙句、ヴィリナでは一切をしれのめして平気でいる。しかも死んだ後ではみんなで彼を偶像に祭り上げるんだからなぁ。して見るとすべては許されるんだ。P445

おれだってやはり生きたかろうじゃないか、ええっ、俺は美的虱だ。それっきりさ。P446

月は今きっと謎をかけてるんだ。P450

彼はソーニャの事を思い出しながら眠りに落ちてしまった。夢の中でラスコーリニコフは死なない老婆に向かって斧を振り下ろしていた。その苦しい夢の中でふと人の気配を感じ目を覚ます。そこには見知らぬ男が立っており、彼はラスコーリニコフに向って自己紹介をした。

「わたしはアルガージィ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフですよ。」p452

ドゥーニャに不作法を働いた当人であり亡くなったマルファ・ペトローヴナの夫であった。

罪と罰 あらまし - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 (下) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 - フョードル・ドストエフスキー, 米川正夫訳

2013年6月4日火曜日

反省と責任と被害者と

そうかもう倫理なんか死んでいるんだ。なのにその亡骸を抱えて話し始めたりするからどうしようもない。もう死んでいるよ、とはまだ言えなくて、まだどこかに生きているんじゃないかと、そんな振りしていれば僕だってどこかに探しにも行きたくなる。

疑えば脆くなり疑わなければ強固になる。それが心を安寧にする。だが安心する事は安全とは違う。安心に、根拠はいらない。安心でなく安全であるように。だが安心を望む心が強固だ。目を瞑れば暗闇がある。安心とは暗闇の中で目を瞑り暗いのは目を瞑っているからだと思う事に相違ない。眼を開ければ不安になる。

反省というものは内証の働きであるから、それが他人に知られる事はない。反省したかどうかは当人以外が知る事はない。しかしそのどうしようもないものを知りたい欲求が他人にはある。だから反省は行動で示す必要がある。行動を反省と見做す。そこに根拠はない。証明でもない。しかしそれで反省している者を強要しているのであるならば、その間は反省は成立している。そいつをコントロール下に置いているからだ。そういう性質を反省は内在しているのである。

反省とは二度としない事の確約だろう。それを他人に保証する事だ。弁明であれ謝罪であれ二度と起こさない事を他人に納得させる事だ。すると必然的にそこに内証は不要になる。内証などなくていい。行為の問題だからだ。

だから反省したように見えない、という言葉はもともと行為にしかフォーカスしていない。心の中など無意味だ。裁判で被告人は反省しており、と言うセリフが滑稽なのはそのせいだ。反省などなんとでも繕える。それでも何人かのひとりが真摯に人生をやり直してくれるなら。そういう願いと祈りで判決を決めているのだろうと思う。

行為から心の中が見えると思うから誤解する。人は単純な生き物ではない。思う事と行為が逆になる事も良くある。だから反省を強要する。それは服従である。変わるかどうかも分からぬ当人の心に期待するよりも服従せよと命令する方が話は早い。だから服従ではなければ反省と見做さぬ。それが最も確実な、二度と起こさないを保証するからである。

中国、韓国と日本の対立にもこの反省という考えが介在している。彼等は二度と起こしてくれるなと言う。日本は二度と起こさぬと言う。言動を見て本当に反省しているのかと問う。我々は心の中で十分に反省したと思っている、だがそれは後悔しただけかも知れぬ。いつ、二度と起こさぬと言ったか、それにどう答えたか、何をどうすれば二度と起こさぬと言えるかを一度でも世界に向かって説明したか。

反省とは個人の中にある自問ではない。誰かに対する応答である。応答が正しければ反省と見てもらえる。それに答える自分の中にも反省のように見え隠れするものがある。それも人は反省と呼ぶ。反省には全く異なるふたつのものがある。

責任を取れ、もまた服従の強要である。責任を取れと怒鳴っている人に、どうすれば責任を取れますか、と問う馬鹿はいない。それは怒りに油を注ぐだけだ。だが、その答えを返せる者もいない。取れと怒鳴られている方は、服従せよと言われているに過ぎない。その意を示せば終わる。責任を取れとは原状回復が不可能な時に現れる言葉だ。二度と元に戻せないのは自明だから責任を取れと言うしかない側の気持ちも分かるのである。それは感情的な興奮を鎮める為の言葉であろう。言う側にも重圧なストレスがありそこから解放されたがっている。

失った者、被害者には微かな望みがある。その望みが決して叶わない事、失ったものは決して戻らない事も知っている。だから責任を取れとは、俺の本当の望みを教えてくれという言葉でもある。加害者が提示するしか方法がない。だから加害者こそが左の頬も差し出す事が出来るのである。それが出来るまでは私は奴隷として仕えますと言うしかない。

多く、反省せよ、責任を取れ、このふたつの言葉は現代の呪文である。それはやり場のない怒りを鎮める呪文だ。反省と責任、どれほどの問題がこの言葉によって救われ、そして有耶無耶のうちに消えていってしまったか。

反省(reflection)はするものではない、するのは後悔だ。責任(responsibility)は取るものではない、執るものだ。どうしようもなくなった感情をどう処するか。加害者に向かって被害者は反省せよというしかない。責任を取れとゆうしかない。誰もそれが見えない。誰かが反省をしようが済まいが、責任がなんであろうが、それを誰も見る事が出来ない。敢えて見せろと言うならもう体を切り開いて見せるしかない。

己の中にある反省とは刀を研ぐようなものだ。そうして何度も振り返る。何故そうなったかを知りたいと深く思う。それが見つかるとは限らない。それが言葉になるかも怪しい。何度も自省して、同じ失敗は二度と起こさぬと言えるなら幸いだ。例えどれほど長く振り返ろうと分からぬ事はある、不運としか言い様のない事もある。もしあの時、ああしていればと、たった一秒が、と言えるのなら、それは反省ではなく後悔だ。

被害者意識というものがある。お客様は神様だと言われたら絶対的に正しいのだと思う。絶対的な正しさが被害者を加害者にする。だから目には目を、歯には歯をという法を必要とした。法が無ければ留まる事を知らぬからだ。それ程までに己が被害者であるという意識は強い。その根底に絶対的正義がある。だがそれを行使したならば次の加害者は自分自身だ。だから人はそれを法で制限しそこまでを許容してきた。人はそれを神に預け手放した。神が絶対的正義なら、人は神ではないのは自明である。人は絶対的正義から解放されるのに神を必要とした。

いずれにしろ日本の敗戦がもたらしたのはこの被害者意識だと思う。誰もが戦争に負けた瞬間に加担者から被害者になった。そうしなければ敗戦と向き合う事は出来なかったのだろう。己を悪人と思って生きていける者など一人もいない。同様に敗者として生きる事も認められなかった。ましてや敗戦に加担した間抜けとなって生きてゆく事など出来ようはずもなかった。誰の責任か、と問うのに都合の良い相手が軍部に多く居たのである。

被害者になる。それが社会的な強者を生む。誰もが己の中に正義の萌芽を持っている。それは絶対的正義という立場に立つことで鎌首をもたげる。被害者である事が、自分には何の落ち度もない、悪いのは相手であるという正義の立場を生ずる。福島原子力発電所事故もまた同様の被害主意識を生み出した。その多くは直接の福島およびその近郊に居た被害者ではない。

自民党の公約に騙される。昔からそうだった。上手に騙されたならば、誰も被害者面を晒す訳にはいかない。それは自分の間抜け面を晒すだけだからだ。誰も自分が間抜けとは思いたくない。だから騙されていない事にする。結果が出れば恭順するのが世の習わしだ。

上手に騙された者こそが支持者になるのである。民主党は騙し方が下手だった、それだけの違いである。そういう心理で支持は起きるものである。騙された者は、己が騙されていないという状況を作り上げたい。自分に嘘を付く事は難しい。だが人は変わる事が出来る。自分の中を覗けばどのような予感も好意も見つかるものだ。わたしは彼等をはじめから支持していたのだと。

被害者が加害者に変わる。そうしなければ精神が保てない。カウンターパートとしての揺り戻しが起きる。弱いものが更に弱いものを叩くは誰が見ても慧眼なのである。そこに対立がある。加害者と被害者が一瞬で入れ替わる。もちろん最初の加害者を許してはならない。罰するべきだ。だが加害者の反省とは何だ。そして反省せよと迫る者は、新しい加害者になりたいだけなのか。その何れも絶対的正義と対峙するのであろう。もし反省というものが、自分の中に絶対的正義を宿したくて、それで安心したいだけなのであれば、それにどのような意味があるだろうか。神のものは神に返すべきである。

僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。必然といふものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさへなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性といふものをもっと恐ろしいものと考へている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいぢゃないか。

君のいう意味がはっきりしないが、必然性というものは図式ではない。僕の身に否応なくふりかかってくる、そのものです。僕はいつもそれを受入れる。どうにもならんものとして受入れる。受入れたその中で、どう処すべきか工夫する。その工夫が自由です。僕の書いたものは戦争中禁止された。処が今だって出せるかどうかあやしいものだ。出ないものは出ないで一向構わぬ。

小林秀雄 百年のヒント コメディ・リテレール P136

手の隙間からこぼれ落ちた砂粒が取り返せないように、壊れた花瓶が戻らないように、時間は止まらぬ。私の中で反省は時間を遡りその時間をもう一度生きてみる事だ。反省を他人に求めるとは時間を元に戻そうとする事だ。全く違う。

手に触れて曲線をなぞってみる。もう一度なぞってみる。その手の動きが反省だとすれば、それは誰のものにもならない。反省とは時間を止める事ではない。巻き戻す事でもない。其の出来事を抱えて未来を生きる事だ。それは誰もが今を生きる、そのものだ。

2013年5月22日水曜日

この国の農業

舌を抜かれた正助が裏切り者にされる。襲い掛かるかつての仲間たち。自らの手でリーダーを追放する人々。これは仕向けられた陰謀だ、それに気付かない憐れな人々。為政者の策略が彼等の未来を奪う。

あるつぶやきがある。

牛や鳥を大量に殺処分して、命を粗末にしていることに宮崎の大地の神様が怒り猛っているように感じる
2011-02-04 00:33:24 河上みつえ

命を粗末にする。その考えが既に勝者なのだ。粗末にしようがすまいが人間は殺して来た。過去から今まで、そしてこれからも。滅びるまで殺すことを止めない。どう考えようと殺した側と殺される側の関係が入れ替わらない限り命は粗末にされるのだ。農家は命を粗末にして成立している。

要らない草は抜く。産まなくなった鳥は締める。育った牛や豚は屠畜する。羊など肉が臭くないから生後一年で殺す。ああ、美味しいお肉よ。

僕らの繁栄は命を粗末にした上に成り立っている。アフリカの餓えた人たちの上に繁栄がある。彼らの命を繋ぐ一口の食べ物と引き換えに彼らの手から堅い炭素の固まりを受け取る。それを店頭で買う。生まれ落ちた場所がラッキーかどうかだけで人生も決まる。だがどうであれ人生ならば幸せもある。命を粗末にし搾取し誰かを死ぬ目に合わせて今の生活がある。会った事もない奴の命など知るもんか。

誰かを愚弄しなければ気持ちよくなれない人がいる。愚弄する人は同時に愚弄される人でもある。鳥の中でウィルスに対する抗体が活動している最中に人は鳥たちを殺し焼く。感染の拡大を怖れ。コロスものはまたコロサレルものである。いつかどうかで。命を育む仕事はまた命を奪う仕事でもある。

この国は瑞穂国と呼ばれてきた。神代の時代から。それを親から子へと伝えてきて今がある。それもこの世界の大きな変化の前で変わってゆくようである。人の口を満たしてきた農業は、しかし産業としては終わりかも知れない。

TPP (Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement) を代表とする自由貿易はこの国の今の農業を破壊するだろう。山岳と丘陵ではコストであれ生産性であれ戦いになるまい。品質や工業化や高級路線で生き残る人々もいるだろうが。

なぜ産業として成り立たない農業を止めてはならないか。それはこの国の風景として農業が必要だからだ。砂漠の国には砂漠の、森林の国には森林の、原風景がなければ国家とは言えまい。この国の原風景は豊かな自然ではない。農業の姿だろう。次第にこの国も風景も都市化されていくと思う。それでもどこかで躓いた時に戻るべき場所としての農業が必要だ。今は石油文明の終焉でもあるし、また繋がろうとする世界がもたらす次のステップへの前兆かも知れない。どう世界が変ろうとも人類は変わらないのか。農業の在り方もまた技術的特異点の一例かも知れない。

産業としての農業が立ち行かなくなっても、環境としての農業がある。環境という視点から農業を見直す。田圃は水を保水し自然を保全する。畑は豊かな土壌を生み出す。森林は川、海を富ます。海を豊かにする事が国を豊かにする。国土をどう設計するか見直す時期に来ている。日本列島改造論から変わる頃だ。あれではこれ以上先には進めない。状況は変わった。農業を環境に組み込むのは悪い話ではないと思う。

農水省は産業としての農業を担ってきた。それを環境省に移管する。同じ予算でも産業ではなく環境という視点からの国家事業にする。そのうえで生産したものは売ればよい。国内だろうが海外だろうが売る。環境の視点で生産されたものなら悪くあるまい。産業としてやっても勝ち目はないが環境なら生きる道がある。

その方法は簡単だ、農林水産省を潰して農業を環境省の管轄にする。それだけでいい。

TPPの対象からも外れるし。