子貢問 (子貢問う)
師與商也孰賢乎 (師[子張]と商[子夏]とはいずれかまされるや)
子曰 (子曰わく)
師也過 (師過ぎたり)
商也不及 (商及ばず)
曰 (曰わく)
然則師愈與 (然らば則ち師はまされるか)
子曰 (子曰わく)
過猶不及也 (過ぎたるはなお及ばざるが如し)
そのふたつしか選択肢がないとすれば足りないよりも過ぎた方がましだと考える。ことわざにも大は小を兼ねると言う。それを違うんじゃないかと言う。過ぎたのも及ばないのも同様と孔子は言う。
もちろんこの世界にぴったりと調度いいものは少ない。多かれ少なかれ足りなかったり多かったりする。孔子はどちらも同様と語ったが、では及ばないと過ぎたるではどちらがより及ばないかを語らない。
帯に短し襷に長し。使い道が悪い事のたとえだ。この世のほとんどは過ぎたるか及ばざるかなのだから、どれもこれも使い勝手は悪いものだ。そう思っていれば、盲信も少なくなる。
どちみち及ばざるならば、現状維持もある。優れていると考えるから人はもっと優れたいと考える。それで止まらなくなる。過ぎたれば留まれず。ここでよい、ここが調度よい。そんな場所が分からない。
そういう危うい場所を孔子は中庸と呼んだ。中庸が困難な場所であるならば、過ぎたるは猶及ばざるが如しとは、過剰も不足も両方とも足らないではない。過剰は不足よりもたちが悪いとなる。
人は足りないよりも過剰の方がましと考える。何故なら過剰から不足へは物理的に可能だが、不足から過剰へは不可能だからだ。そういう可能性の問題として過剰は不足よりもましな状況と思う。
それを孔子は否定する。確かに物理的な状況としては過剰の方がよい。しかし過剰は中庸で立ち止まれなかった。そういう人が踵を返し不足へと向えるはずもない。
過ぎたものは中庸を通り過ぎた。及ばないものも中庸を過ぎるかも知れない。しかしそこで留まるかも知れない。可能性がある。
及ばないなら不足しているのだ。それは誰もが分かっている。だから良い。しかし過ぎたものは中庸を超えたのだ。もしまだ及ばずと思っていたら、どうやって立ち止まれようか。
孔子は弟子の優劣を明言しない。及ばず、過ぎたると優劣の問題は関係ないと言いたいのかも知れない。中庸の難しさを思えば、及ばずも過ぎたる同様なのだ。
子貢が聞きました。
子張と商ではどっちが優れた人材でしょうか。
孔子は言いました。
子張は行き過ぎる。
商はまだ足りない。
子貢がそれを聞いて言いました。
それなら子張の方が優れていますね。
孔子がムッとして答えた。
子張はもう方向が定まっている。商にはこれからの可能性がある。どっちがいいと決めつけるなよ。
人を見ずに言葉で決める事を戒めたのだ。
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