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2013年11月15日金曜日

海は悪くない - ヒーローについて

藤子F不二雄のウルトラ・スーパー・デラックスマン。不死身の体を持った小池さんの物語である。コミックに登場する多くのヒーローと同様に彼も正義のヒーローである。ただ小池さんは強すぎた。悪の軍団も国家も大企業も敵ではなかった。軍は核を以って排除を試みたが倒せなかった。この世界から悪は一掃された。訪れた世界は平和のはずだった。

ヒーローの正体を誰もが知っている世界。だが誰も言えない世界。知らない振りをする世界。生きるために。立ち向かっても意味がない。その時、敵を失ったヒーローはどうなるのか。ヒーローは悪を欲する。悪はヒーローを欲しない。一体ヒーローとは何なのか、悪とは何なのか。

聖書に登場する悪は神に聞く。神の許可を得てから行動する。悪の目的は分からない。純粋な好奇心か、神の退屈をまぎらわす相手なのか。試されるのは神の方である。その答えを人に託す。

ヒーローの条件とは何か。悪を決める事か。無償である事か。正義か。敵か。勝利か。ヒーローは観衆を盲目にする。思いを託し重ね合わせる。それがヒーローの万能感になる。誰かでなければ助けられない時、その場所にいた者がヒーローになる。

震災から二年以上が経過した。当初の勇者たちはどこかへ消えてしまった。彼らはヒーローであった。彼らが命を覚悟した事は誰にでも分かった。命を賭すことがヒーローの条件であろうか。彼らは確かにヒーローであった。彼らは戦った。命と引き換えにできる代償などない。あの震災で福島第一原子力発電所の事故と取り組んだ人がいた。津波の被害者を救おうと救助に当たった人がいた。

自らの命を顧みず危険の中に飛び込んで行った人たち。原子炉の暴走を押さえ込もうと踏んばった人、取り残された人を助けようと海に出た人、物資を運んで行った人、仕事を放り投げてボランティアに行った人、ボランティアに送り出した人、それらを支えた人。

誰も一人では立ち向かえなかった。物資があり、蓄積された経験があり、帰る家があって初めて現場に向かう事が出来た。訓練で鍛えぬいた日々があった。完全とは言えなくとも何もないよりかは遥かにましな装備だった。最悪の状況の中で、最悪の装備で立ち向かったがいた。

困難の中、挫けなかった人たち、挫けた人たち、支えた人たち、倒れた人たち、逃げた人たち、迎えた人たち、看取った人たち、100 年以上も前に津波の危険を伝えようと石に刻んだ言葉。刻んだ人たち。どの人が欠けてもこの世界は違っていただろう。今より良かったかも知れない。だが今よりもずっと悪い世界であったろうと思う。どちらしろ今さら引き返せる訳もない。

いまや日当は 15000 円だと言う。中抜きをする人がいる。その程度で十分だと予算を組んだ人がいる。政府に、東京電力に、その下請けに。彼らには彼らの言い分がある。とてもではないが資金が足りぬ。今ここでストップさせるわけにはいかない。彼らには彼らの、彼らが支えている場所がある。

その対価は命を削るにしては安い。とてもでないが命の対価にしては安すぎる。あの恐怖を忘れたか、100 万、200 万で十分と思ったか。それが命の代償か。彼らの決意への報酬がその程度か。これが彼らの仕打ちか。

過酷な作業に従事しながらも生活も心配しなければいけない。生活を支え、家族を支え、地域を支え、町を支え、国家を、この世界を支えるのはお金だ。そういう心配をしながら彼らは死地へと赴いた。送り出すのにその程度の金額か。

勲章は老人の為にあるのではない。彼らに勲一等旭日大綬章を授けばいい。「国家又ハ公共ニ対シ勲績アル者ニ之ヲ賜フ 」。もし勲章で足りぬなら、年金も呉れてやれ、10 年くらいは犯罪も見逃してやれ。特別扱いしてやれ。それだけの事はしたはずだから。

ヒーローには勲章を、そうでなければお金を。

最悪の事態の被害を考えれば、それを食い止めた彼らには、それ相応の対価を受け取る権利がある。

将来、働いていた証拠がないと言う理由で病気の治療を受けられない人も出るだろう。事故収束に携わった人が、お金がなくて苦労した、病気の治療が受けられなかった、では悲しい。

福島第一原子力発電所事故は国家の危機であった。国の壊滅を思った。あの時は想像を絶する最悪が待っている事だけは確かだった。

数万人への賠償が必要となった。東京電力は100年間で返す借金を背負ったようなものだ。もし彼らが 40 兆円のお金を持っているなら、これを 200 万人に配ればひとり 2000 万円だ。4 人家族なら 8000 万円になる。これだけ賠償すれば多くの被害者は許してくれるだろう。それだけ払えばインフレになるかも知れぬが。

東京電力は 2500 億円の賠償を上限とする約束で取り組んでいた。それを反故にされれば彼らにも言い分がある。貧すれば鈍する。賠償をしたくとも金が無ければ出来ない。次第に笑顔が戻った人から受け取るのは遠慮して欲しい、という話になってゆく。

原子力発電所には 40 兆円の保険が必要と考える。これを勘定しなければ原子力発電の電気代にならない。

東京電力は国策の当事者であった。事故の時、たまたま立っていた場所が悪かった。彼らだけの瑕疵ではない。想像力の欠如があった訳でもない。東京電力だけが背負えば済む話しではない。

この場所に発電所を建てた官僚や政治家は既に死んでいるか呆けている。推進した学者もいる。反対した者もいる。彼らに責任がないわけではない。事故が起きた時にどうすればよいかを十分に研究し準備してきた人など皆無であった。政府は手探りで事故収拾するしかなかった。

民主主義では誰も言い訳が出来ない。お互いで支え合っているから。特定の誰かの責任には出来ないし、自分にも責任がないとは言えない。それは等しく他の誰かに責任を押し付ける構造だ。誰かを憎んで先に進む。だれも自分が悪いと思っては生きて行けない。あれだけの事故を起こせば誰も責任を背負えやしない。それは最初から分かっていた。

あの事故は誰の責任か。

誰のものでも。

誰かを助けた人がヒーローになった。

誰かを憎しめば自分を責めなくて済んだ。

確かな事はヒーローも、憎しみを受けるのも

どちらも人間にしかできないと言う事。

誰かが悪いわけではない。

誰かに負えるものでもない。

誰かが解決するものでもない。

地震が来るのが早すぎたのだ。

それだけの事。

誰の責任か。

海か?

いいや海は悪くない。

答えは決まっている。

そうしなければ誰も生きていけないのだから。

自分以外の誰か。

そう、海は悪くない。

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