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2020年6月29日月曜日

Black Lives Matter

Matter

It doesn't matter 大したことないよ、別に問題ないよと訳す事から、BLM は黒人の命が大切、黒人の命は大切と訳される。黒人は問題の中を生きている、黒人が生きるのにこの世界には問題がある、タフである。

世界中を見渡せば、問題は沢山ある。個人的な理由、家族の問題、社会的な阻害、そして民族浄化まで局面は多様である。不条理に立ち向かうのに、歴史的にも生物学的にも地学的にも世界は容赦なく人を襲う。幸運な人はそれを思わない。不運な人がそれを思わないように。

どの時代も偶然が生き残りに影響してきた。だから偶然の中に何かの意図を読み取る。その偶然に信仰を見出しても不思議はない。

奈良時代の終わり、疫病や災害により国は荒廃する。それを立て直すのに当時の人々が選んだのは仏教であった。なぜ宗教か。当時はまだ有効な科学はなかった。優れた薬草の知識はあったろうが、それを工業的に流通させるシステムは完成していない。食器を小分けにするなど接触を避ける工夫はしたらしい。だが、有効な打つ手が殆どない中で、最終的に気の持ちよう以外、困難に立ち向かう術がなかった。

一人の人が多くの人を救うなどできない。最澄は「照千一隅」を唱えた。一隅を照らせば千里に届く。自分のいる場所で助け合う、仏はこの世界のあらゆる場所、あらゆる時間、すべての空間にいる。何ひとつ見落としはないし、それを信じていれば十分である。あなたが今いる場所で輝きなさい。その輝きは人の間を渡ってゆき必ず世界の果てまで届く。

もちろん、反論は当時だってあったに違いない。そんな力を持つ仏が、なぜこの疫病から私を救ってくれないのか。病を治す力もないのにどこに人を救う力があるのか。その薬指は今まさに薬を塗ろうとしている姿と言うが、あなたが薬を塗っている姿を私は見た事がない。

今ならばコロナパンデミックも防げない神を良く信じる気になれるなと言う所か。もちろん、それにも反論はある。神はすべての命を慈しんでいる。人間だけのはずがない。

差別の事

人間はものごとを区別する能力に長けている。違いを見分けるだけならば、人間以外の動物も優れた能力を持っている。ただ人間は異なるものの内に共通点を見つけたり、同じものの内に違う点を見つけたり、複雑であるものを単純化したり、単純なものを複雑にしてきた。この天然由来の能力に長じて、人間は社会を構築してきた。

当然70億人もいれば、全員が違うはずである。同じ遺伝子の双子でさえ命は違う。構成する原子は異なる。その違いを強調してゆけば、なにひとつ同じものはないという結論に至る。

全てが違うなら差別は起きない。起きようがない。同様に全てが同じなら差別は起きない。起きようがない。区別できるものがなければ差別は起きない。なぜ区別は差別へ繋がるのか。

人間は群れを作る。だから自然とグループを作る。そのグループの共通点は何でもよい。なくても良い。グループが共通点になるから。複数のグループが生まれれば、そこに区別が生じる。いじめさえグループがなければ発生しないのだ。

しかし、グループが異なるだけでは差別は起きない。グループ化は差別の必要条件だが、それでは足りない。何が差別まで繋げてゆくのか。

本当の所、人は違いを気にしない。ある部分を切り捨て、ある部分を強調する、その取捨選択に論理性はない。なんでも構わない。殆どの違う部分を無視しているくせに、ひとつかふたつの違いだけを殊更取り上げて「同じ」と「異なる」に区分けする。

黒と白の境界にグレーがあるとみんな信じている。その境界で問題が起きているのだと考える。だが、大部分がグレーなのである。その両端のほんの僅か少しにだけ黒と白はある。そのグレーの中に境界線を引き、白だ黒だと喚いている。

人は単純化を好む。部分を全体としたり、前提条件を無視しても気にしない。単純化は人間の脳の癖であろう。脳は複雑な事を記憶しきれないから簡単にする事で論理性と効率性を両立させる。そういう性癖は脳の諸元から生じた制約に過ぎない。単純化する事で論理的に考える事ができる。簡略にする事で効率よく高速に決定を下せる。

よって集団化とは集団をステレオタイプで区分する事だ。だから、差別はいつもステレオタイプを内包している。ステレオタイプにすれば深く考える事なく、世界を切り取る事ができるようになる。

この地球の70億人の中には次世代の類人猿と呼ぶべきホモサピエンスではない新しい進化した種が含まれている可能性がある。この違いさえ差別の理由になる。違い過ぎれば差別は起きない。牛と人間の間に差別という関係性はない。同じ過ぎるから差別は起きるのである。DNAが同じだから差別が起きるのである。何故なら、決して違いを排除するためではない。排除しないために差別するからである。

差別は集団同士の関係性のひとつである。ジェノサイドも関係性のひとつである。差別は相手を絶滅させない関係性に見える。近代国家というひとつの枠組みが差別を起こす。ひとつであるという幻想が差別を生む。互いに出会わなければ差別は起きなかった。

異なるものを同じと見做した軋轢が、同じものを違うと見做した軋轢が、差別にはある。理由は何でも構わない。人は群れを作る生き物である。群れに階層が生まれる。上下の関係性が生まれる。もし人間が虎から進化した生物なら差別はなかったであろう。別の問題で悩んでいるだろうが。

階級は人に何を求めるか、それは労働力である。差別の前に労働力の略奪があった。コストとベネフィットの最適解として奴隷は生まれる。すると差別とはその略奪を正当化するためのものではないか。

奴隷の事

奴隷制度は古くメソポタミアの頃からある。奴隷として生きた人は沢山いた。

もし現在社会が石油の代替エネルギーの開発に失敗すれはローマ時代に戻るだろう。機械を失った社会は労働力としての奴隷を必要とするだろう。奴隷の禁止など雲散霧消しよう。つまり奴隷を廃止するためには条件があったという事だ。我々は化石エネルギーと工業力によって奴隷を必要としなくなっただけである。

アメリカは大規模に奴隷制度を経済基盤に組み込んだ恐らく最後の国家である。奴隷廃止は、アメリカ経済の作り替えの過程で起きた。それは帝国主義の終わりを先取りしたものである。

帝国主義とは植民地を軸にした経済体制で、植民地の第一次産業を中心とした経済基盤である。アメリカの南部はこの経済システムを採用していた。イギリスなどが植民地でやっていた事をアメリカ国内でやった。原住民が足りないのでアフリカに住む人間を買っただけである。

北部は重工業を中心とした経済基盤、資本主義経済である。アメリカは The War によって帝国主義と資本主義の戦いを時代に先駆けて行った。そして資本主義が勝利した。世界がこれを後追いして決着するのは World War II である。戦後の植民地放棄と同じ事がアメリカでも起きたが奴隷たちはそのままアメリカに残った。黒人もアメリカ人である、この方向転換からアメリカは多民族国家への模索を始めた。

アメリカの建国の人たちが今のような多様性を考えていたか。恐らく否である。しかし彼らが描いた理念と理想を片手に辿って行けば、このような帰結をする事は想定していたろう。しかし、リンカーンでさえ奴隷たちを元いた大陸に送り返せば良いと考えていた。彼の人間の定義にインディアンは含まれていなかった。アメリカはまだ白人の国だった。

差別と殺戮によって過去を屠るなら、アメリカは必ずリンカーンを否定する日が来る。アメリカは自由と民主主義の為に生まれた実験国家であるが、そのアメリカの理想は人種差別を否定するが、どの様に解決すれば良いか誰も知らないし、扉がどれかも分からない。

奴隷が差別される理由は何もない。工業化によって奴隷から労働者に変わった。だから解放された。必要なのは奴隷ではない、労働者である。技能の蓄積が必要な労働力は略奪では維持できない。

アメリカの人種差別は奴隷制度の問題ではない。黒人の問題でもない。労働力の問題のはずである。

経済の事

アメリカの格差拡大はレーガン政権以降の問題であって、恐らく、平等に多くの人が貧困層へ向かった。この中間層を破壊した政策によって、あらゆる階層の人が貧困に至り、1%の富裕層が全資産の3割を保有する社会が到来した。

奴隷から解放された人々は不利な立場のまま自由競争に参加した。奴隷という鎖は断ち切られたが公民権運動まで激しい差別にあう。黒人は重りを身につけられたまま海に投げ込まれたようなものであった。それを泳ぐ自由を与えたと白人は考えていた。

資本主義が抱えていた人を平等に扱わないという性質はマルクスによって設計されレーニンによって実行されソビエト連邦によって失敗した共産主義という経済格差を是正しようとする彼の解答をもって解決を試みた。

ソビエト連邦の存在がアメリカを資本主義の略奪からよく守り、健全な市民を育んだ。図らずとも、冷戦構造によってアメリカの資本主義は大量の中間層を育て、強い労働者を供給し続けた。ソビエトが解体した時、資本主義は元の姿に戻る。マルクスが憂いた狂暴な姿。経済格差は更に拡大し、貧困がより厳しくなる。差別はより複雑になってゆく。恐らく公民権運動の頃と比べても状況はより悪くなっている。

ソビエトの崩壊が、格差拡大の切っ掛けか、それとも資本主義という工業が経済システムの中心でなくなりつつある事の証であるか。従来型の労働者の需要は減りつつある。重工業を基軸とする資本主義に変わる新しい産業が生まれつつある。この産業構造の入れ替えが経済格差の原因であろう。

経済格差を減らせば差別は減るか。たぶん減る。それは経済的満足が得られれば、より多くの不合理を許容できるようになるからだ。おい、くろんぼと呼ばれても、資産に余裕があるなら、相手を軽蔑すれば済む。必要なら相手を経済的に叩きのめす事も出来る。

しかし、お前は黒人だから、この程度で十分だと給与を減らされたらどうか。労働者は他に幾らでもいると言われたら拒否はできない。この僅かなお金を待っている家族がいる。ならば、どれほど悔しくともそれを受け取るしかない。受け取る時には笑っているように見えるだろう。それで正当な契約の成立である。これが、命の問題になるまで続いた。

なぜ、命の問題になるまで追い詰められるのか。それは、差別とは不要になった労働者を如何に扱うかという問題だからだ。余計なコストを払いたくない。ならば貧困に追い落とすしかない。こういう時に不要な労働力を虐殺しない所まで社会が成熟したと喜ぶべき所か。それともバックアップとして残す戦略なだけか。

かつて、肌の色や民族や性別は給与を下げるのに都合のよい理由となった。差別とは許容できない区別の事である。そう感じる人がひとりふたりなら差別とは呼ばれない。だから、多くの人が間違っているという声を上げるまで是正されない。

これらの属性は経済に影響するものではない、そう主張する事で初めて改善できる。経済に影響しない事項で区別する事が差別である、だから撤廃せよ。これは十分に正当な主張に見える。だから、能力によって給与が変わったり、学歴によって就職が左右される事は差別ではない。少なくとも今は、それらは差別とは考えられていない。それらが経済に直結する能力、競争を左右する能力と考えられているからだ。

銃の事

日本は刀の国であったから、後の先という考えが生まれた。これは剣の動きが人間の反応で対応可能なくらいに遅いからであって、銃にそんな余裕はない。銃は先手必勝。相手よりも先に撃つのが鉄則である。

この銃の性質が社会全体に影響する。警察官の行動も規定する。治安の悪い場所に行く時、警察官はその脅威と対峙する。恐怖に支配される以上、間違って撃つ事件は起きる。これはアクシデントではない。互いが自らの安全のために銃を手にする。起きて当然である。

銃という脅威が社会を覆い、経済格差が治安を悪化すれば、最前線にいる警察官には強いストレスがかかる。パトロールをする度に今日が最後の日かも知れない、そう思うのは杞憂ではない。

強いストレスに晒されれば、そこに出るのはその人が本来持つ人間性ではなく、生物が元来持つ野生である。攻撃的、扇動的、排除的、これらが強化されるのは群れが生存確率を高めるための自然な行動である。

加えてパンデミックが世界全体に高いストレスをかけている。だから人々が攻撃的になるのは自然なのである。このような不幸な状況である一人の男が George Floyd になった。その抗議はアラブの春のようにアメリカ中に広がった。

いつも革命は警察官の横暴さから始まる。そして強いストレスは、警察官もデモ隊も区別しない。発端となった警察官にも言い分はあろう。しかし、彼の意識は一度もブレーキを踏まなかった。意識しない限りブレーキは踏めない。彼は何も意識していなかった。その時、彼の心理に何があったのか、落とし穴にすっぽりと嵌った。

彼の中に差別する気があったかどうかは重要でない。確かなのは黒人は危険であるという極めて確からしい彼の経験である。それは全ての黒人にとっては偏見であるが、それが銃と固く結びついた時、脅威は真理である。先に撃つしかない状況では疑う余地はない。その脅威に支配されるには十分である。

奴隷制度と同じくらい、アメリカの建国と共に存在する銃が、人間の恐怖の限界を超えている。黒人はその射影にいるに過ぎない。

もちろん、銃を廃絶しても黒人への差別はなくなりはしないだろう。だが状況は好転する。そうと分かっていても、アメリカは銃を手放す事はできまい。アメリカの理念が強靭な鎧を纏って立ちはだかってくる。

体制の事、法の事

公民権運動によって法的にも制度的にも人種差別はアメリカには存在しないはずである。だが、制度をどう変えても差別はなくならない。アメリカはこれを証明してきた歴史である。行政や立法では差別を解決できない事を示してきた。だから差別は政治では解決できない問題である。かと言って恐らく人々の心の問題でもない。

全ての人が差別を止めようと思えば差別は無くなるのか。否。差別は人間の気持ちの問題ではない。誰もが差別をなくそうとしているのに差別はなくならない。我々の無意識の中に差別がある、そう考えた人たちは、それをひとつひとつ見つけては潰してゆけば差別はなくなると考えた。ポリティカルコレクトネスはそういう運動だろう。当然、差別は労働と密接に関係しているから、労働の在り方に注目がいくのも当然である。

しかし、我々には解明が足りない、あるべき理想形はこれじゃない。

黒人差別を撤廃するのに最も手っ取り早い方法は、黒人が白人を支配すればいいだけである。体制を変えれば黒人差別は確実に撤廃できる。だが、これでは別の差別に置換されただけである。体制を変える事は必ずしも社会を変革しない。

奴隷制度が差別の原因ではない。奴隷制度を始める前から黒人に人たちは人間でなかった。だから奴隷制度は成立した。そして奴隷制度の間、差別は存在しなかった。

偏見の事

差別されるのは黒人だけではない。白人同士でも差別はある。黒人同士でもある。アジア人への差別もある。

人は階層を作る。階級は体制によって固定化する。階級は労働力を確保するための仕組みである。差別は労働力が不要になった時に発生する。これは制度が失われる時に何かが始まるためだ。

感情は人間の極めて自然な所から湧き上がる無意識も含めた総合的な脳の信号である。だから感情が「起きない」ようにする事も「起きる」ようにする事も意識の自由にはできない。

湧き上がる感情はそれを認めるしかない。人の好きとか嫌いという感情も差別とは切り離せないはずである。病気への嫌悪も差別に繋がる。我々の中には誰にでもそういう感情がある。この感情が我々の生存確率を高めるための能力である事は確かなはずである。つまり、感情は人間から切り離せない。

すると、差別の感情はどこから発生するのか。制度がある時は特に差別しなくてもよかった。制度が人々の階層を決定していたからである。奴隷は常に奴隷であった。だから差別をする必要がない。見下す必要もなかった。

人は、生存に関して敏感であるから、自分の置かれた有利不利にも鋭敏である。すると、今まで下の階級に居る人と平等になる事は脅威である。それは今まであったアドバンテージを失う事を意味するからだ。もちろん、失う程度なら構わない。平等なら問題ない。そういう場合もあるだろう。しかし平等は、自分が下になる可能性を示唆する。

私も人間である、相手も人間である。今まで下だった人と平等になった。とするなら、明日は私が下になっても不思議ではない。そのような状況を受け入れる事ができるだろうか。否。そういう気持ちが人を見下したい感情を生むのは当然の心理である。差別は人々のこの感情が何層もの濾過を通って社会の表層に湧出してきた現象だろう。

この世界は闘争なのである。人々は常に争うのである。少しでも優位に立つ事で勝利する。勝利する事で生存率を引き上げる。この自然に備わった人間の性向は否定できない。人を見下すのは、相手に自分の立場を分からせるコストの小さな戦術である。相手がそれで引き下がれば十分に効果的である。鰯の群れのように全員が一斉にそう動く。

だが、人を見下す事は差別の原因ではない。階層を下に落としたくないという気持ちが差別の温床になる。落ちて貧窮するなら、より一層激しくなる。差別は経済に起因する競争として表現される。差別する事で有利に働くならば誰が使わないでいられよう。

危険になれば誰だった攻撃的になる。どれほど仲の良い二人であろうが、亀裂が入れば簡単に、黒人のくせに、所詮は白人よ、と互いを罵る事もある。それを本心と受け取ってはいけない。人は危険に合えば道端の石ころでさえ武器にする。

我々の差別は多分に動物的、本能的な振る舞いの連続として起きている様に見える。だから、変えたいと思っても変わらない。変わりそうにない。

何も利得もないのに自然発生的に残っている差別が日本にもある。分かっているけれど、他人の目が気になる、排除されたらどうしよう、そういう理由から経済的な組織的な差別として固定化されたものが世界中にある。古い共同体ほど偏見は意味もなく残るのだろう。伝統が生まれるのと同じように。そして偏見を利用すれば簡単にジェノサイドに至る(Both)のはユダヤ人の歴史や、偏見がなくともジェノサイドに至るのはボスニア・ヘルツェゴビナの歴史からも推測される。

我々は偏見からは決して逃れられない。思い込みや誤解と同じ、すべての知識体系も解釈も偏見の一種であると言って差し支えない。だから、多くの人にとって偏見を変える理由はない。少なくとも、この世界は、その方法ではダメだという結果を淘汰という方法でしか評価しない。ダメなら絶滅するだけである。この方法論を人間も深く受け継いでいる。偏見を取り除く理由がどこにあろうか。

信じる事

偏見には根拠も論理もいらない。ただ信じる以外の根拠がない。

偏見を奥底で支えているのは「信じる」という働きである。信じるとは前提条件の省略に等しい。人間は信じる事で効率的に高速に判断できる様になる。もし信じていなければ、いちいち検証しなければならなくなる。それでは遅い。他の星系の人たちは「信じる」以外の判断する仕組みを有しているかも知れないが、人類はこの方法である。

偏見は宗教と変わらない。人間の信じる力が支えている。我々は信じる以外に神と向き合う方法を知らない。偏見も信じる以外に存在する方法がない。デモをしている人はだから、これは偏見であると叫んでいるのだ。そうする事で、偏見をなくす事ができるからだ。

科学もそうやって始まった。慎重な臆病者が、疑問を抱え信じている事を疑ってみた。本当にそうか、ならば確かめてみよう。実験によって得られたデータと、それと結びつくであろう論理的帰結の確からしさを思う。この結果を信じてはいけない。常に疑う。疑う事を止めない事だけが確かさを支えている、これが確かなのは私が疑い続けているからだ、それしか私は方法を知らない。

常に立ち止まれと語りかける。それ以外の言葉は全て闘争の言葉だ。信じろとは闘争せよと同じ意味だ。人は闘争する生き物である。だから信じずにはいられない。人間は自分の生存率を高めるように行動する。だから、神を信じるのと同じように偏見も信じている。

だが、幸いにも偏見は決して差別の温床ではない。

敬意

人間は誰かを見下す事もすれば、誰かに敬意を感じる事もある。この働きは両立する。この自然由来の感情がどこから来るのか知らない。しかし、敬意を感じる相手を見下す事は少ないだろう。するとあのデモの更に根底にあるものは「敬意」になろう。

全ての人に敬意を感じよう、それがテーマである。

例え偏見があろうと敬意を持てば行動は変わる。更には偏見が敬意を生む事さえある。逆に敬意は偏見を生まない。恐らく一方通行だろう。敬意を持てば見下す事も少なくなるだろうし、見下している自分に気づく切っ掛けにもなる。見下さなければ差別は小さくなる。暴力も小さくなる。助け合いや話し合いは増える。

生存への不安から生まれる経済的動機が差別の温床ならば、経済的な補填で生存権を向上させる事は差別の対策になる。3万年前の社会ならこういう議論はできなかった。生き残る事はもっとシビアだった。マルクスが思った貧困のない社会は、現在とは違う社会を想定している。ならばマルクスの理想は別の方法で追求できる可能性がある。社会保障は差別を完全には解決できなくとも、対抗するのに有効な手段と思える。

不安を持たずに生きられる人間などいない。我々はあらゆる方法でその恐怖と向き合っている。神はその筆頭の理由であろう。偏見もまたその理由になろう。誰かを見下すのもその為であろう。差別も同じであろう。

日常のほんのひと時に青い空や涼しい風を受けてまどろむ時間がある、そういう時、心は穏やかだろう。この世界に差別は現存する、しかし差別のない時間は全ての人にある。その時間を長くする事以外、何ができようか。