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2019年1月20日日曜日

なおきを以て怨みに報う - 孔子

巻七憲問第十四之三十六
或曰(あるひと曰わく)
以徳報怨(徳をもって怨みに報ゆる)
何如(いかん)
子曰(子曰わく)
何以報徳(何をもって徳に報いん)
以直報怨(なおきをもって怨みに報い)
以徳報徳(徳をもって徳に報いる)

負の連鎖を断ち切るために、私は相手を許したいと思います。それを徳と呼びたいのですが、如何でしょうか。

その怨みはあなただけのものである。私は、その怨んだ相手のこともあなたの気持ちも理解していない。だからあなたの行動についてとやかく言えることはない。

だが、もしそれを徳で決めたと言うのなら、それは社会的な正義に基づいて決めたと言えるはずだ。あなたはその正義に殉じようとしている、そう言って構わないだろう。あなたはその恨みに正義で報いた。これは一見すると、まったく正しい行動のように見える。

だが、その正義は社会があなたに強いたものである。その強いたことについて、社会はあなたに何も報いない。そのことをあなたは知っているだろうか。あなたが正義と信じるものがいつか、あなたの心を蝕まないでいられようか。

怨みは二回、三回とこの先も繰り返すだろう。そうなったとき、あなたの心はどうなるだろう。あなたはきっと正義に見返りを求めるはずだ。その時、それはもう徳という姿をしていない。あなたは見返りを必要とするのだから。

あなたは一時的にはその正義に満足できただろう。だが、徳はあなたを無限に満足させることはできない。あなたはいつかきっと誰かを許せなくなる。

徳はあなたに問いかけている。その問いかける力が徳の力であるが、その問いかけに答えを要求するものではない。あなたがどう答えるかを徳は求めていないはずである。あなたはそれで納得したつもりになっているかも知れない。

あなたは正義のために、あなた自身を売り飛ばした。そう考えてみることもできるだろう。あなたの中にあるはずの徳と感応する部分は、恐らく、あなたの行動を何も決めはしないはずなのだ。併せてあなたの怨みを慰めることもしないはずなのだ。だから、このふたつは共にあなたの中に残っている。

あなたは素直になってあなたの恨みと向き合うべきだ。それがどれほど醜いものであっても、それに正直である方がいい。徳のせいにして、見失わない方がいい。あなたの直き心は、決してそれを見逃したりはしないから。

徳とはどういうものであるか。徳はあなたに何も強いたりはしない。あなたに何かを与えもしない。徳はそういう働きをしないのだ。徳に報いるとは、なにひとつ報われないという意味だ。それでも構わないと思うときにしか徳はその力を発揮しない。

何があなたの正直さを支えているのだろうか。親を思いやる心か、社会に対する貢献か。どのような世界が、あなたのその心もちを作り出したのだろうか。正直は水のようなものだ。姿かたちを簡単に変えてゆく。正義という器に注がれればその形を作る。

心の中にある痛み以外の何を頼りに向き合う事ができるだろうか。嘘をつかないなど容易い。自分を欺くなど容易い。自分を騙すなど容易い。自分に正直であると、誰もがそう思っている。あなたは自分が正直者と呼ばれる事を喜ぶ。その声はあなたの声もかき消す。あなたは何に対して正直なのだろうか。

アントワーヌ・レリスという人は2015年11月13日に自分の妻を襲ったテロリストに対して、次のような言葉で答えた。
金曜の夜、君たちはぼくにとってかけがえのない人の命を奪った。彼女はぼくの最愛の妻であり、息子の母親だった。

だが、ぼくは君たちを憎まないことにした。

君たちが誰か知らないし、知りたくもない。君たちの魂は死んでいる。君たちは、神の名において無差別に人を殺したが、もし神が自らの姿に似せて人間を作ったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾のひとつひとつが神の心の傷になっているだろう。

だから、決して君たちに憎しみという“贈り物”をあげることはない。

恨みに対して、どう行動すべきか、その問題は孔子の心を捉えなかったようである。憎しみの連鎖が続く、そんな当たり前のことを知らなかったはずがない。相手を殺すことによってしか癒せない心情がある、と知っていたに決まっている。それでも、恨みとどのように戦うかは人の心だけある。それを支えるものはその人の中の素直さにしかない、と見ていた。

徳というもので胡麻化してはいけない。徳にはそういうものを解決する力はない。私は、だれかの徳に対しては、ただ徳で報いたい、そう思う心の働きを信じる。

巻一爲政第二之三
子曰 (子曰わく)
道之以政 (政をもってこれを道びき)
齊之以刑 (刑をもってこれをととのえれば)
民免而無恥 (民は免れれば恥なし)
道之以徳 (徳をもってこれを道びき)
齊之以禮 (礼をもってこれをととのえれば)
有恥且格 (恥ずべきを知りかつただしい)

孔子ほど徳に捉われた人はいない。そう思う。徳というものが好きで好きで、その考え方を一から推し進めた人だと思う。彼は徳を思想の真ん中に据えた。それが万能でないこともよく知っていたが、徳から逃れられなかった人である。

孔子が徳を捉えたのではない。それは逆であって、徳が孔子という人を選んだ。孔子は選ばれた事をとても深く自覚していたに違いないが、自分がなぜこうも徳というものに魅かれるのか。その疑問だけを頼りに思想を重ねていった、そういう人だと思う。

社会が正直者を好むのは理解できる。嘘のない社会ならきっと住みやすいに決まっている。嘘を暴く必要も、騙される心配もない。そんな社会があるとは信じられないから、法が必要だと人々は考える。

法があれば嘘を罰することができる。その結果、法に違反していない限り私は正しい。人はそう考えるようになる。嘘をつこうが騙そうが法に触れない限り、私は正しい。ならば、自ら進んで親を告発するのに正直さなど必要はない。ただ禁止する法がなければいい。

そこに徳は必要ないだろう。そのうち、彼らは法さえも軽んじるようになる。法に頼る方法は、最後は法を破るのが平気な人々を生む。徳に頼れば決してそのような事は起きない。私はそういう世界を理想として掲げる。その理想の姿と比べれば、法のなんと抜け道の多いことか。逆に言えば、法によって社会を統べるにも、その根底に徳を必要としているではないか。

君たちは理想を笑う。そういう君たちの思惑は何だ?