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2015年3月30日月曜日

行動という大げさなものはいらない、ただ隣と繋げるだけでいい

6人いれば世界中の誰とでも繋がる。Six Degrees of Separation 自分には解決できない何かも、世界中の誰かならば解決できるかも知れないという可能性。

その可能性にたった6人の隔たりで辿り着ける。その可能性の大きさに対してとても小さなコストで実現できそうな Small World。これを逆に言えば、誰にも解決できない問題は世界と如何に繋がろうが意味はない、である。

では、誰が解決できないと決めるのか。それが絶望の正体か。絶望は可能性がない事ではない。ないと決めてしまった事、繋がりの放棄。

可能性を信じる限り、自分ひとりで問題を抱えなくていい。自分の目の前の仕事を精一杯するだけでいい。手に負えない問題は誰かに繋げればいい。絶望するのはこの世界の全員が絶望してからでも遅くない。

行動するだけでは抽象的すぎる。どう行動すればいいのか具体性が見えない。行動に移そうと言われても漠然とし過ぎて立ち止まるしかない。そうではなく、可能性を残したいのならば、隣にいる誰かとまずは繋げよう。

繋がるのは怖い。繋がりが切れたり繋がっていても壊れる事もある。途中で捨て去ったり無視して途絶える事もある。攻撃される事もある。誰も助けてくれなくて自分ひとりで足掻いて潰れてしまう事もある。

助けて欲しいと言う必要はない。困っていると打ち明ける事もない。相談でさえない。この問題はどうすれば解決できるだろうかと聞く。

Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.
もう一度いいます、あなたは未来を知ってから何かを繋げることはできない。あなたが繋げたものはどれもすべて過去に置き去られてゆきます。ですから、あなたは信じるしかない、その繋げた何かが自分の未来を切り開くという事を。
スティーブ・ジョブス スタンフォード大学卒業式辞 日本語字幕版

誰も始点ではない。誰もが受け取ったものを次に渡す中継点である。それは全ての生命が如何なる形であれ未来に繋げて来たものと同じだ。まず最初に命があった。未来に何かを託す必要はない。ただ繋げるだけでいい。誰も居らぬけれど一隅は照らす。

自分が誰かの直接の救助者になる必要はない。誰もがヒーローになる必要もない。ヒーローだって食事はする。それを提供する人が居なければヒーローだって餓死をする。ならばそこを支えるだけで誰かを救ったひとりだ。

自分の仕事が誰かと繋がる。6人の手を通じて誰かに届く。一生懸命したレジ打ちが6人を通じて世界の誰かに届く。自分が一生会う事もない誰かがこの世界に居る。自分でも知らぬうちにその誰かを救っているかも知れない。

たとえその殆どが誰も救わず、誰にも届かず消えて行くとしても。むなしく消えてゆく声だとしても。誰も解決できず自分に戻ってくるとしても。

さあアフリカにある問題を解決しよう。

2015年3月27日金曜日

THE ORIGIN 24 特別編 - 安彦良和

The Origin を観劇するかは疑わしい。安彦良和の作品を見る楽しみは、安彦良和が作画したものを見る喜びと思っている節があるから。

巨神ゴーグやクラッシャージョーには物語としても面白さはそう感じなかった。どちらかと言えば普通。とはいえ全ての作品がそういう評価のわけではない。古事記は面白いぞ。明治時代も面白いぞ。ゴールデンカムイより地味だけど深みはあるぞ。それは知っている。知ってはいるけれど、安彦良和だから読んだという節もある。安彦良和が描いた陸奥宗光の印象が上書きされる事はたぶんない。

三河物語もそうだが、この人はどうも冷静に見えてしまう。心底ではふつふつと煮えたぎっているのに、つい忘却してしまう。たんたんとしているからつい気が緩んでしまうのだけど、読み進めていくうちに、なんだこれ、そんな程度で済むもんじゃないじゃんか、という所にまで連れてゆかれる。飯でもどうというから付いていったら銃殺刑の広場に連れて行かれたようなものだ。

漫画ならいざ知らず、アニメーションに関してはこの人は監督より俳優だと思う。安彦良和の絵はそのまま演技なのである。この人の絵以上に演じられる俳優は日本にはいない。視線の上げ下げ、顎の動き、眉の吊り上げ、ちょっとした仕草で演技ができる。体の動きも演技する。作中のセリフなど演技のついでに過ぎない。僕はアニメーションでの話をしているのではない。演技する全ての俳優を念頭の話をしている。

俳優たちが誰もここから演劇を学ぼうとしないのは不思議である。この人の作品を見るとは俳優を見るのと同じだ。そういう類のアニメーションである。この人の作画でなくっちゃ。僕は安彦良和という俳優が見たいのだ。この人が出演しているかどうかが重要なのだ。この人が出演してないのならどうして見よう。この人でなくっちゃ。

カイの話がいちばん気に入った。ミハルに触れていたから。ミハルという人がたった数話なのに、今でも大きな影響を与えている。これはとても不思議な存在感である。ララァよりも重要かも知れない。ガンダムにはそういう逸話がたくさんある。ククルスドアンとか。

ガンダムには社会があって組織がある。人間は必ずコミュニティに属して生きる生物である。サイド7を失った人たちはコミュニティを破壊されたが、それぞれの場所を見つけようと避難民さえ生きた。アムロはそのコミュニティから飛び出し、そして戻った。作中ではシャアだけが属するコミュニティを持っていない。求めてさえいないように見える。

僕たちはガンダムから組織での立ち振る舞いを学んだ。大人になって分かってきたものもある。今の自分を、その役割と立場からガンダムのキャラクターと重ねている。勝利も敗北も屈辱も喜びも絶望も希望も。今の自分はあのキャラクターと同じなんだと思い、その人物が口にしたセリフを口に出す。

だからガンダムという物語はフレームワークになれるのだ。彼や彼女たちは本当に存在していた人(was)なのだ。僕たちと一緒に世界を生きている。この背景がある限り、その延長線上にある作品は幾らでも生まれる。

アムロのエピソード。最終ページのアムロの顔。これは僕の顔だ、ページを読んだ瞬間、そう思った。こんな不思議な体験は初めてだった。見事な演技に魂ごと持っていかれたんだろう?

この人を見たことがある。二人でサインをもらいに行った時、広島、アリオンの頃。

2015年3月22日日曜日

物語の基本形と組立て

プロットの基本形。
  1. 困難があって
  2. それと対峙する勇気があって
  3. 戦いを挑み
  4. 挫折して
  5. でももう一度立ち上がるきっかけが起こり
  6. 再び挑む
  7. 続編があるなら、少しだけ謎を残す。主要人物の生死不明とかね。

組立て手順。
困難困難を定義します。
  • 物語の背景であったり(地球が滅びかけているとか)
  • 状況、シチュエーションであったり(山で遭難しているとか)
  • 人物であったり(敵がいる)
ジャンルジャンルを決めると同じ困難であっても終点が変わります。
  • 恋愛(ふたりが結ばれれば OK)
  • 犯罪(犯人が見つかれば OK)
  • 冒険(どこかに到着すれば OK)
  • スポーツ(試合すれば OK)
時間時代、地域を決定すると物語が制限されます。
  • 太古(かなり自由、高度文明が存在してもOK)
  • 古代(服飾、建物、文化、歴史的制約を受けますが自由度は高いです)
  • 中世(服飾、建物、文化、歴史的制約を受けます)
  • 近代(更に歴史的制約を受けますが現代的テーマを描きやすくなります)
  • 現代(逆に歴史公証が不要で制約がありません)
  • 未来(時代考証は不要ですが科学整合性が必要になります)
最初の戦い負けます。この敗北は読者に物語の情報を提供できる重要なきっかけです。ここで世界を詳細に説明できます。

ここで重要な事は負ける以上は何かの理由が必要という事です。この理由付けをするのに、この情報を知らなかったから主人公は負けたという状況を作り出す事は、負ける理由として説得力があり、かつ世界観を読者に説明するのに違和感がありません。
  • 恋愛(振られる、すれ違う、誤解、離れ離れ)
  • 犯罪(犯人が違う、次の犯罪、迷宮)
  • 冒険(撤退、遭難、消失)
  • スポーツ(敗北、けが)
挫折と復活絶望から立ち上がるには希望が必要です。つまり勝ち目が見える事です。

ダメと分かってもういちど突入するのは、よっぽどの理由がない限り行うべきではありません。仮にそういう状況にすると勝利するには余程の説得力が必要となります。それは創作の上で非常に困難なシチュエーションです。

情報不足を理由とすれば、その情報を入手する事で希望が持てるので物語に説得力も持たせられます。
  • 悲しみ、悩み、閉鎖、逃亡
  • 友人からの説得、別離、被害の拡大
  • 別の視点の気付き
  • 発見
戦い49対51、反目勝負、際どく勝ちます。それには戦いの最終にもう一度、押し込まれます。そこを機知を使って逆転するのです。物語の基本構造がフラクタルとして出現しています。
  1. 希望が見えてきたので戦いを始める(50:50)
  2. 相手を押す(60:40)
  3. 相手が知られていない手段で反撃する(50:50)
  4. 圧倒される(30:70)
  5. 機知で弱点を発見する(20:80)
  6. 相手を倒す (100:0)
エピローグ物語の印象にはこれが一番大切です。ここの爽快さが傑作の証しになります。カリオストロの城は最後の別離が決定的です。罪と罰もエピローグの春めいた描写が決定的なのです。エピローグは物語の途中を全て忘れさせます。余韻でしばらく読者は何も考えられなくなるのですから。

物語の主題は常に復活です。復活するためにはいちど倒されなければなりません。これが物語の構造です。それがシチュエーション毎に、時代ごとに、背景ごとに、主人公ごとに違いを生みます。作家のインスピレーションは細部に宿っています。

2015年3月18日水曜日

朝に道を聞かば夕に死すとも可なり - 孔子

巻二里仁第四之八
子曰 (子曰く)
朝聞道 (朝に道を聞かば)
夕死可矣 (夕に死すとも可なり)

道とは何であろう。聞くことよりも死よりも道である。果たして孔子は何であれば死んでもいいと言うのか。

朝に生きる意味が分かれば夜に死んでも構わない。それほど求めてやまない孔子の気持ちがある。だからこれは孔子の嘆きだ。そんなものが見つかるはずがないと。もし見つかるのであれば、朝に分かったら朝に死んでもいいではないか。道はそういうものではないか。朝に知り夕方まで何をしているのか。

曰未知生焉知死 - 孔子
あしたを誕生と例えれば、ゆうべは人生の終わりだ。生れて、死ぬ、その間にもし人の道を聞くことが出来たなら十分だ。

人は人生の意味を知りたがる。何故か。われわれは生きている。生きる意味とは何か。

それを知りたいと望むのは何か。形而上学へ行く理由は恐らく形而上にはない。この世界の、生きる原理を知りたい願望は極めて個人的な充実感に帰属する。それは思想の快楽と呼べるものかも知れない。

だとすればそれは人の生き死にを自由にするものではない。思想を見つけても誰の命も奪えない。生み出すこともできない。ただ死んでも後悔しないだけである。その自己満足に尽きる。そして朝に道を聞いても夕まで生き夕餉を食べ寝てまた翌朝を向かえるだろう。何も変わらない朝をそこまで求める根底にあるものは何か。

人生の秘密は恐らくこの世界のあらゆるものの根本だろう。根本なら人の生きる意義にも理由にも影響を及ぼすに違いない。そのようなものを手に入ればきっと世界も自由自在に操れるはずだ。つまり力の行使。つまりこれは実学である。

世界を変えるパワーを手にしたい。野心、夢、野望。これは世界と繋がる方法のひとつである。求めて止まぬ心。世界を求める心。人生の意義とは、世界を自由自在にする欲望だ。すると世界を自由自在に出来ても死んでは仕方がない。だからその延長線上には不老不死がある。

道を聞き、かつ死んでも構わないのなら、それは世界の秘密とは言えまい。道を手に入れて不死になるのなら、それはもう人の道ではない。

Why is there something rather than nothing?
ないのではなく、なぜそれがあるのだろうか。あるとは認識だろうか。あるのに理由は必要だろうか。では無がないとなぜ言えるのか。

世界は我々にとってひとつだろうか。ひとつだから違う世界を探しているのだろうか。その世界は形而上にあるのだろうか。この世界には自分の中にあるふたつのものが投影されている。光と影、明と暗、陰と陽。善と悪、女と男、縄文と弥生、直線と曲線、造形と輪郭。DNA が二重螺旋であった事には意味がある。一重ではこんなに感動はしなかったろう。

もし心に渇望があるならそれは感情と理知の不一致だろう。理性が正しいと訴えるのに感情がそれに同意しない。感情は満足しているのに理性が意義を唱える。何かが違っているのではないかという直感から逃れられない。その答えを別の世界を探す。つまり別の世界はなければならない。

われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか
Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?
P. Gauguin

なぜ目的地なのか。人生には最後に辿り着くべき場所があると信じているか。まだ見ぬ未来がある。それが人を不安にする。人は未知の出来事には備えるしかない。ではどう準備すれば最善か。生きる意義だけでは足りぬ。だが準備の役には立つのではないか。

未来を切り開くために人生の意義が知りたい。それは目的地ではなく自分を支える杖として。未来の洞窟からは獣が襲来してくる。それにどう立ち向かうか。不安とは獣への準備不足だ。不安が失くすには準備するしかない。安心を得るには十分な準備しかない。

それを人生の意義で行おうとする人がいる。生とは何か、死とは何か。根源から探ろうとする姿勢がある。それとは別に未来が分かるはずがない、それが自明なのだから頼りになる何もあるはずがない。そう見る人もいる。

この世界とは社会の事だ。脅威とは獣ではない。たとえ空から星が降ってこようとそれはこの世界の道理に過ぎない。つまり実学の範疇に過ぎない。漠然とした未来など考えても仕方がない。この世界とはつまりこの社会のことだ。それには意義など要らない。人生の実学があれば十分ではないか。どうせ死の役には立たぬのだ。

知恵とは別の方法を見つけ出す事だ。もしひとつしかなければ選べない。そう考えれば一神教の神様の住む世界でさえ、ふたつ目が必要になるのではないか。そして神の世界が不変であるなら、もうひとつの世界は変動でなければならない。そうでなければふたつの世界にならない。

巻六先進第十一之一二
季路問事鬼神 (季路[きろ]、鬼神につかえんことを問う)
子曰未能事人 (子曰わく、未だ人につかうること能わず)
焉能事鬼 (焉んぞ能く鬼につかえん)
曰敢問死 (曰わく、敢えて死を問う)
曰未知生 (曰わく、未だ生を知らず)
焉知死 (焉んぞ死を知らん)

生きる意味など知らない。生きているだけ十分である。その意味を知ってどうするのか。不老不死を目指すのか。明日の命さえ知らない。その後のことはもっと知らない。今日も飯を食い糞をひり笑い泣き、朝に出かけ夕に帰る。その繰り返しに不安があろうとも何の不満があるか。

分からないものと対峙した時に人の生き方が決まる。今はそれを科学と呼ぶ。それ以前には宗教があった。同根にあるものは未知に対する人間の態度だ。分からないものをどう保留しておくか。

この道しかない春の雪ふる

この道しかないただひとつ。そこに選択の余地はなく見える。決断するまでもない世界か。だがそのただひとつでさえ人には決断が必要だ。それをどう受け入れてゆくのか、それとも受け入れぬか。そこにふたつの世界が生まれる。人には立ち止まる権利がある。道を歩かぬ権利もある。我々は未来とどう歩くか。

思い出す光景がある。口腔に大きな一匹の虫歯菌を描いたポスターがある。その横に小さな沢山の虫歯菌を描いたポスターもある。絵がどれだけ稚拙であろうと、当時は気付けなかったが、そこに優越はない。当時は自分にないものを優れていると感じた。それは羨ましさであって優劣ではない。それが今になってはっきりした。

2015年3月9日月曜日

まちあわせ - 田中雄一

屋根裏部屋で見つけるしろ本屋で手に取るにしろ誰かの書評にしろ、本は誰かの手を通してやってくる。

吉田豪
『まちあわせ』っていうのはですね、かなりハード&ヘビーなSFマンガみたいなやつです。本当に、世間的には知られてないでしょうけど、買って損はないんでみなさん買ってほしいです。
ラジオ「上柳昌彦・松本秀夫 今夜もオトパラ!」 より

「まちあわせ」は壮大なラブストーリーだった。釈迦が50億年。それよりは近い未来だけど人間の存在など気にしない。火の鳥の既視感にも繋がる。あと何故かしら「千年万年りんごの子」を思い出した。

「箱庭の巨獣」の造形は独特だった。その独自性は、絵柄や造形が自分の感性と合っていないと敬遠しそうだ。しかし、もし特撮が好きならこれが実写化されればどうなるだろうと想像する楽しみがある。観客を呼べる映画になるかどうかは別にして特撮映画にしたい。

物語に最後にあるどんでん返しは本当に必要か。だが、このアイロニーは後からじわじわと効いてくる。

自分達の決断が裏目に出た時、人はどういう言い訳をするか。新しい世代は仕方がない。しかし古い世代の勝手さはどうだ。と考えざるを得ないキャラクター。人は運命から逃れようとして運命を受け入れたものを倒し、またその次の運命に倒される。その繰り返し。蓼食う虫も好き好き。

この造形は独特である。そして異形の存在は長く脳裏に残る。つまりインスピレーションを刺激する。