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2015年3月27日金曜日

THE ORIGIN 24 特別編 - 安彦良和

The Origin を観劇するかは疑わしい。安彦良和の作品を見る楽しみは、安彦良和が作画したものを見る喜びと思っている節があるから。

巨神ゴーグやクラッシャージョーには物語としても面白さはそう感じなかった。どちらかと言えば普通。とはいえ全ての作品がそういう評価のわけではない。古事記は面白いぞ。明治時代も面白いぞ。ゴールデンカムイより地味だけど深みはあるぞ。それは知っている。知ってはいるけれど、安彦良和だから読んだという節もある。安彦良和が描いた陸奥宗光の印象が上書きされる事はたぶんない。

三河物語もそうだが、この人はどうも冷静に見えてしまう。心底ではふつふつと煮えたぎっているのに、つい忘却してしまう。たんたんとしているからつい気が緩んでしまうのだけど、読み進めていくうちに、なんだこれ、そんな程度で済むもんじゃないじゃんか、という所にまで連れてゆかれる。飯でもどうというから付いていったら銃殺刑の広場に連れて行かれたようなものだ。

漫画ならいざ知らず、アニメーションに関してはこの人は監督より俳優だと思う。安彦良和の絵はそのまま演技なのである。この人の絵以上に演じられる俳優は日本にはいない。視線の上げ下げ、顎の動き、眉の吊り上げ、ちょっとした仕草で演技ができる。体の動きも演技する。作中のセリフなど演技のついでに過ぎない。僕はアニメーションでの話をしているのではない。演技する全ての俳優を念頭の話をしている。

俳優たちが誰もここから演劇を学ぼうとしないのは不思議である。この人の作品を見るとは俳優を見るのと同じだ。そういう類のアニメーションである。この人の作画でなくっちゃ。僕は安彦良和という俳優が見たいのだ。この人が出演しているかどうかが重要なのだ。この人が出演してないのならどうして見よう。この人でなくっちゃ。

カイの話がいちばん気に入った。ミハルに触れていたから。ミハルという人がたった数話なのに、今でも大きな影響を与えている。これはとても不思議な存在感である。ララァよりも重要かも知れない。ガンダムにはそういう逸話がたくさんある。ククルスドアンとか。

ガンダムには社会があって組織がある。人間は必ずコミュニティに属して生きる生物である。サイド7を失った人たちはコミュニティを破壊されたが、それぞれの場所を見つけようと避難民さえ生きた。アムロはそのコミュニティから飛び出し、そして戻った。作中ではシャアだけが属するコミュニティを持っていない。求めてさえいないように見える。

僕たちはガンダムから組織での立ち振る舞いを学んだ。大人になって分かってきたものもある。今の自分を、その役割と立場からガンダムのキャラクターと重ねている。勝利も敗北も屈辱も喜びも絶望も希望も。今の自分はあのキャラクターと同じなんだと思い、その人物が口にしたセリフを口に出す。

だからガンダムという物語はフレームワークになれるのだ。彼や彼女たちは本当に存在していた人(was)なのだ。僕たちと一緒に世界を生きている。この背景がある限り、その延長線上にある作品は幾らでも生まれる。

アムロのエピソード。最終ページのアムロの顔。これは僕の顔だ、ページを読んだ瞬間、そう思った。こんな不思議な体験は初めてだった。見事な演技に魂ごと持っていかれたんだろう?

この人を見たことがある。二人でサインをもらいに行った時、広島、アリオンの頃。

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