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2019年4月29日月曜日

「かわいい」の用法研究

「かわいい」が持つ意味は大きく変わった。そこに古い世代は違和感を感じるが、これまでにないニュアンスが新たに込められたのだから仕方がない。

昔なら、他の言い方をした。所が、今やどれもこれも「かわいい」である。かわいいが持つニュアンスは瞬く間に広がった。が、その意味はどうもあやふや、抽象的である。

けれど、「かわいい」にはオールマイティの強さがあり、便利で、使い勝手が良く、場所を選ばぬ汎用性と、伝播性を兼ね備え、非常に重宝されている。天皇陛下に対して使っても決して失礼に当たらぬ意味性もある。

何故「かわいい」が使われるようになったのか。おいしい、きれい、すばらしい、ではダメで「かわいい」ならいいのか。

「かわいい」という言葉が持つニュアンスを敏感に嗅ぎ取り、絶妙の使い方を開発したのは若い女性たちであった。バブルと呼ばれた時代、あらゆる物が手に入った時代があった。

女性たちは祭り上げられ「これ、おいしそう」「これ、いいなぁ」何か口にすれば何でも手に入る時代があった。「おいしそう」も「いいな」も、これが欲しいという意味である。彼女たちの言葉はすべて、それを私の所に持っておいで、という意味だった。

だが直接的に「欲しい」と言ったのではない。ただ、素敵と呟いた。その言葉を聞き、深読みし、気を利かせ、プレゼントを持ってくるのは、私ではない誰かである。その善意を断る理由はない。私は欲しいとは言ってない。そこにどんな契約も束縛もなかった。彼女たちは駆け引きに勝利した。

これくれるの、本当に、嬉しい。これが欲しかったんだ、よく知っているね、ありがとう。

これは一種のゲームでもあった。先を読む嗅覚、深読みをする鋭敏さ、裏読みをする経験、そして資産、それを手にした者が勝利する。どんな時代にも完成された美しい作法がある。何かを手に入れるにも淑やかな手続きがある。健全な膨張する欲求が発露していた。

1992年、バブルは弾けた。ゲームも終わった。何もかもが手に入る時代の終焉。萎縮した経済が、何もかもを吹き飛ばした。それまでと違う状況が始まった。

だが人間がそう簡単に過去から脱却できるはずもない。自分たちが次は主役になると待っていた世代がいた。彼女たちにとって迷惑な話だ。この国を好き勝手にし挙句に没落させた世代の、なぜ私たちが犠牲者にならなければならないのか。後始末もせずに次世代へ不良債権を押し付ける世代が許されて、私たちは何も許されない。

冗談ではない、私達にその責任はない。乗り遅れた失望と取り残された屈辱の中で、彼女たちは活路を見いだす。何もせず手に入れる時代は終わった。ならば対価を払う戦略しか残ってない。少なくともそうすれば手に入るのだ。この国に物はまだ溢れている。失ったのは金だけだ。

何を躊躇する必要があるものか、誰も責任を取らない混乱が到来したのだ。私たちだけがなぜ健全でなければならない。ショーケースの中にあるものを盗んだ連中よりはずうとましである。彼らは盗んだ。私たちは盗まない。正当にそれを手に入れている。

どの時代も前の世代とは違う自分たちに誇りを持って健気に歩く。もし曲がっているように見えるなら、それは空間が歪んでいるからだ。誰もが戦略に長けた誇り高き世代なのである。何も恐れず、堂々と、歩く。

幾時代かがありまして
茶色い戦争がありました

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

経済の停滞が20年も続けば、物を得るという価値観も廃れる。この世界は前の世代の人たちがいうほど悪くはない。慎ましくしていても、ささやかでも素晴らしいものはたくさんある。

私たちの価値観からすればバブルの方が馬鹿馬鹿しい。物と金で熱狂した世代、危険に気づかずバブルに浮かれた世代、その後始末は今も続いている。失われた時は戻ってこない。ならば、私たちはリアルな今を生きる。

バブルを知らない新しい世代にとってバブル時代に使われた言葉は汚れきって使えない。きれいといえば、プレゼントされるし、おいしそうといえば、店に連れて行かれる。その対価を当然のように求めてくる。こんな言葉ではどんなコミュニケーションも適わない。

私たちは欲しいなら欲しいという。欲しくないならいらないと言う。彼女たちにとって、どのような言葉を選ぶかは切実なコミュニケーションの重要課題であった。勝手にプレゼントをされるのは困る。その対価を求められても知らないよ。

そうじゃないんだ、私たちはただ自分の思った事を自由に表現したいだけなんだ。欲しい時は欲しい、欲しくない時はいらない。ただそれだけの事なのに、なぜ勝手に勘違いするのか。「おいしそう」は奢ってという意味じゃない。

何を言っても物欲しげと思われては適わない。何を言ってもお金の匂いがするなんて勘弁してほしい。プレゼントの対価としての自分などごめんだし、金銭で結ばれる関係なら、構築したければ、そんな方法、幾らでも知っている。

バブルで殆どの言葉が使いものにならなくなっていた。バブルの後始末は、借金だけじゃない。何かないか。汚れていない言葉は何かないか、自由に使える言葉は何かないか。

これは素敵ですね、だからと言って欲しいと言っているのではありません。あなたと寝たいという意味もありません。あなたのそれは美しいですね、だからと言って譲って下さいという意味はありません、あなたと寝てもいいという取引でもありません、いちいち、そんな言い訳をしなくちゃいけませんか。

「かわいい。」

子犬に対して使う、子犬をかわいいと言う。バブル期になら犬をプレゼントしてという意味はあったかも知れない。だけどそう簡単に犬は飼えないよ、当時だって恐らく迷惑だった。赤ちゃんに対して使う。赤ちゃんをかわいいと言う。でも、それは赤ちゃんを下さいという意味ではない。

かわいいに欲しいというニュアンスはなかった。取引しようという含意もなかった。誰も貶めはしない、馬鹿にする言葉でもない。褒めているし、肯定もしている。そして、見返りを求めない。

彼女たちが「かわいい」というとき、ただ気に入った、好きだ、好みだ、という意味になる。それだけ。深読みも裏読みもしないで。駆け引きする気などないよ。だけどいま心を動かされているんだ。

自分の気持ちを素直に言う言葉が初めて手に入った。だから、あっという間に広がった。何もかもが「かわいい」と表現されるようになった。

今は、次のフェーズに入りつつある。「かわいい」だけでは飽き足らなくなるのは当然である。もっと表現の幅を拡張したい。次のステージは、かわいいだけでは表現しきれない私たちの多様な感情を取り戻す事にある。

激おこ、テヘペロ、マジ卍、新しい言葉が次々と発明される。意味は不明でもフィーリングで通じる。分からない人には何を言っても通じない。イニシアチブは私たちにある。分からない人たちは勝手にリブートしてて。

「かわいい」から始まった新しい表現の獲得は、「おいしそう」「すてき」を使えなくなった彼女たちが自分たちの表現を再獲得するための闘争であった。言葉の裏にある物品や性の交換という約束事を排除したコミュケーションの獲得。言葉の繚乱。

古いコミュニケーションは新しいコミュニケーションの一部となり、新しいコミュニケーションは、次のコミュニケーションによって古くなる。どの時代も言葉は刷新され、常に新しくもあり、古くもある。繰り返し、螺旋、革新、懐古、どうやら新しい世代は新しい言葉を発明せずにはいられない。

だとすれば、人類が初めて言葉を獲得した時も、言葉の前にコミュニケーションがあって、言語の発見は新しい世代による新しい表現の獲得のひとつだった。それでは表現できない、そういう渇きが当時の若い人たちにもあった。そう思う。

世界は今日も言葉を殺し合いの理由にする。それと比べると「かわいい」を獲得した彼女たちのなんという不屈、誰も傷つけないという信念に基づいた行動であるか。

川に流れるうたかたを、こうしてひとつふたつすくっている。