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2014年7月26日土曜日

凡人ということ

異様な名前をつけられたお蔭で、一命を失った人間もある事は、「ジゲム、ジゲム」の語るところだが、平凡な名前も面白くないものである。小林も平凡、秀雄も平凡、小林秀雄で平々凡々という事で、今までずい分人にも迷惑をかけ、人からも迷惑を蒙っている。
同姓同名

凡人という言葉は難しい。誰もが持っている感性を凡人と呼ぶなら、それは他と簡易に置き換え可能である。其れが自己の存在意義を乏しく感じさせる。人が自分らしさを希求するのは特殊性の希求である。それは他との置き換え不可能性の希求に等しい。これは多分に社会が人間に均一化を要求する事への自然な反応であろう。

社会、環境からの要求に対して人が反発する。人は己の存在を感じなければならない。ではなぜ特殊性を望むのか。個性として他人と違う事を求めるのか。

だが差別を見よ。肌の色の違いにさえ社会は寛容ではない。我々の世界が宇宙人と出会えないのも、異なる姿かたちの彼らと出会うには未だ早いからである。今の我々は出会えば必ず差別する。我々は誰かと比較しなければ自己を存在させられない。それが社会からの要求への反発かも知れない。

現代社会でセックスが重視されるのもまたセックスの要件が相手が自分を必要としている確認にある。相手に必要とされている事を知る。その為の行為である。現代とは順位付けの時代である。セックスも順位付けのひとつである。

順位付けは社会からの要求への反発である。社会からの要求は、人間が均一であり、高品質になる事である。これは商品に求めるものと全く同じである。もし人間が精神を有したいならそれでも構わない。精神を失う方が要求に叶うなら、それも可能である。社会は人間に労働力という純粋な商品である事を要求する。よって次第にその役割がロボットに取り換えられるのは自明である。ロボットよりも優れた労働力を人間は持たないからである。

この動きは当然である。生産社会が求めるものは生産性に帰結する。我々の社会は、生産社会と購買社会の混合であるが、人間に求められるものはふたつの社会で異なる。

生産社会で人間の存在価値はどこに残るのか。これはギリシアの太古から論じられた話であって、太古、労働は卑しいものであった。対価を得ないものが貴いと見做した。近代資本主義は労働が信仰になり人間の生き方を変えた(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 - マックス・ヴェーバー)。そして、現在は労働から人間を駆逐しようとしている。

凡人を語る上で、これらの社会から希求は切り離す事ができない。凡人とは社会が個人に貼る属性である。それに対抗する人間側からの様々な働きかけが組み合わされて世論は形成する。

資本主義は民主主義ではない。人間を商品として扱えば、安価で高品質な人材を求めるのは明白である。そこに人間性が欠如する事を最初に発見したのはカールマルクスであったと思う。彼は人間性の回復の帰結が共産主義と喝破した。しかし 20 世紀が提示した共産主義の本質は強烈な競争と禅譲であった。

ビッグデータの動きは購買層全体を解析する新しい手法である。これは人の流れをひとつの商品と見做す。資本主義は効率を求め、それは生産者だけでなく購買者も商品として扱う。個々の顔を見る必要はない。お金の動きという現象に注目すれば何かが見えて来る。それを数学で扱えば十分だ。資本主義は数値の操作に集約する。

資本主値は企業のグローバル化を進め、社会から人間性を取り除き、労働の純粋な商品化を求めた。それによって投資家や資本家だけが勝者となるのか。人間的な生活は彼らだけのものになるのだろうか。恐らく資本主義はそれも許さない。購買者も労働者も資本家も商品として流通しなければならない。富の集中と格差が起きても停滞は許さない。

資本主義は人間の証明を求めない。21世紀はそれを証明するための戦争も起きるだろう。世界を覆い尽くす資本主義は、いつか国家からも独立するだろう。自らセキュアを求め、警察、軍隊と類似したものを保有するだろう。その先に企業と国家の戦争が起きても不思議はない。

21世紀の企業は新しい帝国主義になる。国家の帝国主義の代わりに企業の帝国主義が始まる。グローバル化とは国家と企業を巡る新しい世界の覇権であろう。19 世紀の帝国主義が海と大陸の覇権なら、21世紀の帝国主義は、情報の覇権であろう。その先に人はどのような理念を見出す事ができるのか。

これまで国家に属していた企業は次第に自分達の活動を害する国家とは対立するだろう。人々は国と国家を異なったものとして扱うだろう。誰もが生まれ育った土地への愛着はある。それが国を愛することである。

しかしそれが直ちにその時の政府、国家を支持する事にはならない。この考えを延長すれば人は国には属しても国家に属する必要はない。出自の国を大切に思う事とどの国家、体制に属するかは分離できるのである。企業には自分達の活動に不利益な国家とは対立する選択がある。

もし統一政府というものが生れるならそれは国家間の協調からではなく、企業からの要求からではないだろうか。自分たちの活動する環境をより安定した世界にしたいという要求から生れるのではなかろうか。

こうして世界が統一された時に、人間に画一化を求める資本主義は、それ故に人材が枯渇し衰退する。画一は停滞する。画一は革新しない。それを食い止めたければ人間に多様性を求めるしかない。多様性を生み出すには様々な文化や歴史の違いが必要だ。離しておけば勝手に変わってゆくという性質を生物は持つ。グローバル化は同じなろうとする力である。エントロピーからすれば、世界統一が自然の流れである。比して負エントロピーが生物の多様性である。


我が国は先の戦争に負けた。なぜ負けたのか。そこには量と質の二面性があった。質は可視化しにくいが量は可視化しやすい。我々の兵器は、零戦や大和は、質では負けていないと思いたくなる。量に対抗するには、という反省が戦後の強迫観念になった。持たぬものは質に飛びつくしかない。それが戦前であるなら、戦後は、そこに生産性が加わった。高品質を保ちながらの大量生産が可能となった。

そして今では経済効率以外の理念は存在しない。経済効率の前では不快さを排除する事も正義になる。それが生産活動の効率に叶うならば。効率以外の行動原理に何があるか、と問う。あるのかないのか。あるなら、本当にそれは必要か。

小泉純一郎をきっかけにこの国は変わったように見える。あの時からはっきりと経済効率こそが正義であると決定されたように思われる。この効率を正義とする原点には先の敗戦がある。言い替えるならば今の効率至上とする流れは先の敗戦に帰結している。我々は未だにあの敗戦を引っ繰り返そうと戦争を継続している。全てがあの時に集約しているはずである。

世界の全体が大きな変化に直面している時に、我々は今一度、あの敗戦へと立ち戻る必要がある。なぜ負けたのか、負ける戦争をする愚かさを誰も止められなかったのは何故か。何が足りなかったのか、どうすればあのような惨めな敗戦をせずに済むか。この答えを未だ誰も手に入れていない。それにケリと付け教科書に書けるようにする必要がある。


凡人が居れば天才が居る。天才とは何か。どのような天才も理解者を必要とする。他人から理解される事が天才の要件である。遠すぎれば見つけられない。近すぎれば凡人と変わらない。ちょうどいい距離に居るものだけが天才になる。

子供の可愛さは親が一番よく知っている。他人には理解できないくらいに。ならば誰だって自分の子供に対しては天才である。しかしこの天才は単なる親ばかである。同様にある分野で天才である事が、他の分野でも天才である根拠にはできない。天才は万能ではない。およそ多くは凡人だろう。

ならば、どのような人も凡才と天才の混在である。さて、天才とは周りが決定するに過ぎない。その多くは社会が要求する。均一で高品質の価値観の最上位に過ぎない。天才は発掘される。発掘されない天才もある。なぜこの天才を見つけられなかったのか。

誰も気付けなかった。気付けたのなら運が良かった。気付けた事の不思議さに、気付いた者が驚く。気付く事に凡才も天才もない。そこまでは誰もが同じ場所に居る。そして気付いた後に、どう動くか、ここが決定的な分かれ目か。

2014年7月13日日曜日

陸軍における歩兵補助ロボットの研究

オリンピック記録がパラリンピック記録に追い抜かれるのは時間の問題であろう。生身の足よりもバイオニクス義肢の方が速く走れる。遠くに飛べる。それはテクノロジーであるから人間を追い抜くのは自明である。

走り、登り、踊ることを可能にする新たなバイオニクス義肢


軍需で研究する事にはメリットがある。
  1. 失敗に寛容である。軍需は民間よりも失敗に寛容である。
  2. 民間よりも予算の投入がしやすくベンチャーがチャレンジしやすい。
  3. 民間へのフィードバックが多大である。

これは発注元が倒産する恐れがない事による。軍需への研究をしないばかりに ASIMO は 10 年以上のアドバンテージをあっという間に抜かれてしまった。世界の目を開いた功績は ASIMO にあるがそれを継いだ者たちは HONDA ではなかった。世界中の軍需でありそれに予算を出した陸海空軍の官僚であった。

そして福島第一原子力発電所の事故が二足歩行のロボットの必要性を現実のものにした。その研究には多大の予算が必要でありそれが提供できるのは軍需と思われる。

軍需に大量の予算を投入する国が世界をリードすると言う考えはそう外れていまい。恐らく日本が民間の歩みで築いたアドバンテージは中国が大量に投入する軍需により追い抜かれるであろう。

さて有る時、自衛隊の隊員が演習をしているのをテレビで見て、これらの活動には人工外骨格、パワードスーツがあれば面白い事になると思った。そういう補助により出来る事がずっと増えるはずである。

陸軍は歴史の始まりからその最後まで歩兵(普通科)を捨てられない。人工外骨格、パワードスーツは人間を補助し、移動距離を延ばし、荷物の量を増やし、安全性を高める。人の体に装着し、歩き、体への負担をなくし、バランスを自律して取る装置である。

軍事利用
  • 従来では使用できない重い兵器、兵装を使用できる
  • 防弾チョッキをつけての行動を可能とし安全性を高める
  • 100kg超の荷物を背負い長時間の山中行軍が可能となる
  • 輜重部隊の荷積み、荷卸し能力が向上する
  • 10m の高度からロープ無しで飛び降り安全に着地できる

民間へのフィードバック
  • トラック内に補助装置を搭載し荷積み、荷卸しで使用する
  • 介護業務での負担を軽減する
  • 障害者、負傷者の自立をサポートする
  • 警察、消防での使用
  • ゲリラ、テロリストの使用