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2023年3月25日土曜日

2021/09/20
カナリア諸島の噴火を見ている。夜中に煙りを立てて重力に引かれて溶岩が流れている。その表面は黒く冷えるが、その隙間からは赤い輝きが漏れだしている。これはどこかでみた光景だ。決して知らない風景ではない。



この風景の記憶は?夜、赤い光。そうだ、これは王蟲の攻撃色だ。群れとなって風の谷に押し寄せてくるあの景色だ。

この世界で災害は避けえない。太古のギリシャよりもずっと前から人は天災を受けてきた。それを神と例える日もあったろう。恐怖に襲われる前に死んでしまった人もいただろう。

生物は時に火山の噴火を、時に隕石の衝突を、時に氷河の浸食を、時に深海の地滑りを、時にオクロの核分裂を受けてきた。

最初に津波を教えてくれたのが宮崎駿だった。あの作品があったから堤防を超えてゆく津波を見てもたじろがなかった。その光景を知っていたから、大津波を見た日から、津波は見知らぬものではなくなっていたから。

その破壊力は自分の小さな想像力は超えていたけれど、あの日に見た光景を凌駕する程ではなかった。どのような津波であろうとそれは既知の現象だったのである。

彼のイメージがどこから来たのかは知らない。王蟲の攻撃色が溶岩から辿り着いたのか、それとも、高速道路の渋滞を眠気眼で見ていた記憶からなのか知らない。だが発想の起点の問題ではないのだ。それはどこかで見た光景からに違いない。それが人の間を順次繋げていった。

立ち向かうためこの1mmを踏ん張る力がいる。数多の作品があって初めてこの現実に狼狽しないで済んだ。それは過去ではない。来るべき未来だったのではないか。デジャブ、と呼ぶべき世界が到来した。

これが抽象化という働きなのだろう。それが再びこの視界の中で具象化する。たった一本の棒切れが空に投げられた瞬間に神話が紡がれ始めたのだ。その猿が見た青空は今と繋がっている。

空を見て巨大な雲が流れて行けばラピュタを思い出す。深い森の中を歩けばトトロを探す。古い民家に入る時にはまっくろくろすけに身構える。たいてはげじげじに違いないのだ。

嵐の中を傘もなく歩けばキキの姿に自分を重ね、砂浜でのんびりしたい気分の時は豚になる。角煮に食らいつく時も豚である。

太陽観測衛星ひのでが撮影した黒点を見れば、祟り神のうねうねもこもこに違いないと思う。太陽もいつか祟りに狂うのだろうか。



清水の流れを見れば、腐れ神を想う。夜空に轟音を聞けばハウルの街かと憂う。ハウルが飲み込んだものはきっと前人たちから引き継いだ種に違いない。それが花咲き種となり弾けて飛んで次の世代の胸の中に根付いた。

荒れ狂う海を見て飛び散る飛沫に走るポニョの姿を追い、サンゴの産卵に、水の中のたくさんの笑い声、たくさんの子らが海面に向かう姿が見えてくる。

瓦が飛び上がり地を走る。空中で分解する戦闘機。紙飛行機を押す上げる上昇気流。

宮崎駿は気流を描く。凪から大きな嵐まで。空を飛ぶとはこの地上に生きる事に等しい。必ず大地に着地しなければならないから。宇宙から帰ってくる物語はあるのに。なぜ宇宙へと向かう物語はないのだろう。

ふたりの巨人がいる。ひとりは星の上を歩んだ。

2023年3月18日土曜日

言葉 - 小林秀雄

本居宣長に、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある。

高校生の頃、これを読んで驚いたことを覚えている。

姿とは、目の前にある文章の、そのものの形である。意は、文の奥に隠されているものである。文を読むとは、言葉を通じて、その意味を知り、その意図を汲み、その奥にある何かを得る事だ。

意味が分からないなら正しく読めていない事になる。意味を把握し、姿形の奥にある何かうすぼんやりとしたものを掴もうとする。そこに作者の訴えたい事があるだろう。そこに作者が見ていたものと同じ風景があるだろう。文を読むとはそれを書いた人の声が聞こえてくるまで待つという事だ。

だから姿とは入口なのである。その奥に本当の部屋がある。入口は飾り付けられいる。その装飾が姿だと思う。絵画の額縁、モデルの服装の様に重要なのはそこではない。着飾れば誰もが誰かにはなれる。しかし当人になれる訳ではない。決して自分以外の誰かになれはしない。

真似るなら姿形から入る。俳優も役に似せようと徹底的にメイクする。そうすれば人に伝わり易い。似せるには姿が重要で、それは純粋に技術の問題である。だから似せるのは簡単なのである。

「意と事と言と相称あいかなふ」

AIが人間には見分けのつかないフェイク画像を可能とする今となっては、姿から正体を暴くのは不可能になりつつある。見分けの付かないもの、区別がつかないものは同じと定義するしかない。チューリングテストは対話を繰り返しその意をあぶりだすしかないと語るが、既にそれさえ本当に可能かは不明だ。

姿が似ているのに意は似ていない、姿は似ていないのに意はよく似ていたりする。この作者は何が言いたいのか、その主張する所は何であるか。それ以外に比べるものはないではないか。幾ら姿が似ていようと主張が大きく異なれば同じとは言えない。姿形が異なろうと主張が同じなら同じと言えそうである。

姿形は目に見えるものである。もし目に見えずとも聞く事ができる。例え聞こえなくとも触れる事ができる。物質として運動として存在するのだから、それを似せる事は万人に可能である。似せるは容易い、誰もがそう思う。吊り輪で十字懸垂するのは誰にでも出来るものではない。それと比べればゴルフボールを打つくらいなら誰でもできるだろう。

たった1gの1mmの1sの僅かな誤差さえ許されないレベルで争う事を考えれば、決してどちらが簡単とは言えまい。トップレベルの困難さの前ではその程度の類似は全く違うものであろう。似ている事さえ全く違うと言える場合がある。

普通なら、口真似はやさしいが、心は知り難いと言うところだろう。

表現は、常に形となって人へと伝わる。その表層の奥に正体がある。感動の先に作品のテーマと強くリンクするものがある。

それは作者の奥底にある何かの欲求から始まったはずである。それが形を成す過程で、思想も経験も発見も、立ち止まり見聞きし糧を食らい、生まれてきたものである。作者の道を自分もトレースしてみよう。同じ風景を見てみたいと思う。

そうしておいて、

「姿詞の髣髴ほうふつたるまでに似せんに、もとより意を似せん事は何ぞ難しからん。」

という所まで来れば、成る程と分かった気がするのであろう。

どんな作品も過去から今に向かってやってくる。我々はいつも今という答えを持って過去を迎え入れている。勿論、今日の答えが明日も同じとは言えない。過去に許されていたものが今は禁止され、過去は許されなかったものが今や権利となる。誰も今という偏見から逃れられる身ではない。

それでも今というアドバンテージがある事は幸運である。それ以外に過去を眺める手段はないから。我々には当時の人々とは違う視点がある。と同時に我々には既に失ってしまったものがある。

これを端的に言うなら、詰まりは、我々は違う人間である。時代も場所も違う人間が作品を通じて邂逅した。何かを語りたいと想い、それが形になろうとする。この繰り返しが時代の浸食に耐えてきたのだ。

意は似せやすい。何故か。意には姿がないからだ。意を知るのに、似る似ぬのわきまえは無用ではないか。意こそ口真似の出来るものだ。言葉に宿ったこの意という性質こそ、言葉の実用上の便利、特に知識の具としての万能に由来するものだ。

感動から始まっているはずである。その正体を知りたいと願い、その奥底にあるテーマに辿り着きたいとこいねがう。恐らく、それを逆順に辿るしかない。作品の向こう側には作者がいる。その姿を見るために作品を見る。そこには何か繋がるものがあるはずだ。この信仰をなくしてどうして作品に感動できるであろう。

人は悲しみのうちにいて、喜びを求める事は出来ないが、悲しみをととのえる事は出来る。悲しみのうちにあって、悲しみを救う工夫が礼である、即ち一種の歌である。

目の前に作品がある。形は残る。作者は消える。ならばこの姿は何か、人はそこに何かを見つけたいと願うのである。実際にそこに何かを見つける。心が願う以上、何かを見出すのは自明である。歌にも様々な姿がある。効果も技法も時代も含み、歌は動き出す。動き出せば、そこにまた違う姿を見せ始める。

鶯は鶯で、蛙は蛙で、その鳴声にも文がある。世間には、万物にはその理あって、風の音水のひびきに至るまで、ことごとく声あるものは歌である、というような、歌について深く考えた振りをした説をなすものがあるが、浅薄な妄説である。自然は文を求めはしない。言って文あるのが、思うところを、ととのえるのが歌だ。おもうところをそのまま言うのは、歌ではない。ただの言葉だ。而も、そのただの言葉というものも、よく考えてみたまえ、人はただの言葉でも、決して思うところをそのまま言うものではない事に気が附くであろう。

同じ心が見える事は容易い。なぜなら心には形がないから。

人がどんな思いを託そうとコードは記述した通りにしか動かない。コンピュータはその為の機械だ。どんな要求も定義もコードを動かす助けにはならない。感情も願いも1mmも動かす助けにはならない。コードを動かすものはただコードあるのみ。姿は難しい、仕様は容易い。

ひとつの仕様から百ものコードが生まれる。ではそのコードが示すものがただひとつの仕様へと戻れるか。それは完全に等価と言えるか。そこには微妙な違いが生じている。それを無視するなら等価は容易い。姿も意も細かな点を無視するなら、似せるのは本当に容易い。

美味しいという言葉は誰でも言える。面白いという言葉も誰もが口にする。だが、それがどれくらいと問われてはっきりとした形にする事は難しい。面白いは容易い。それをしっかりとした形で説明するのは難しい。

言葉というもの自体に既にその働きがあるのではないか。悲しみに対し、これをととのえようと、肉体が涙を求めるように、悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉を求める。心乱れては歌はよめぬ。

心が似せやすいのは評価する方法がないからだ。同じであっても違いがあっても見分けが付かないからだ。意は別の言葉で置き換えなければ比較できないものになる。よって翻訳されたものが似ているなら同じというしかない。

姿は一目瞭然である。比べれば違うと言える。だから違うというのは容易い。一字でも違うならそれは違うと言えばいい。では似ているが同じではないと言うのは簡単か。違うように見えるが本当は同じものかも知れない。これに答えるのは簡単か?

試みにこちらは宣長の歌と名を明かしてみれば、こちらは似せ物だと君は言うであろうが、君の眼前にあるのは、全く類似した感動を君に経験させている二つの言葉の姿だけではないか。こちらが似せ物であると言うが為には、歌の姿とは直接に何の関係もない宣長という別の言葉が是非とも必要だ。

姿の方が似せやすいと考えるのは単に物理的に操作できるという意味である。目に見えるからそれは加工出来ると思っている。それと比べれば見えないものを操作する方が難しそうだ、夜道は確かに歩きにくい。

だから価値観という灯りがいる。価値というフィルターで区分けする。それが人間の脳の方法である。誰もが持っている其々の価値を通して物事にタグを付ける。それが答えだ。

その答えが得られれば入力は用済みとなる。姿は失われても意が残ればそれで良い。価値観が正しいならば価値観だけが残ればいい。それを導きだした過程は再現検証する以外に用途はない。本当にそれが良い方法か。少なくとも出力の誤りに対しては脆弱であろう。

悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作にはおのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。これが歌の調べの発生である、と宣長は考えている。

AIに歌は読めるだろうか。勿論読める。詩も書ける。ChatGPTが既にやってみせた。それは人間が作ったものではない。そう語る為にはこれはAIが作ったものであると言うしかない。AIは姿が似せ難いを見事にやってのけた。

AIがどう作られたか、どう動いているかを説明する事は難しい。ミクロ的には構成部品と与えたミッション、それを使用したアルゴリズムで終わりである。それを動かすとAIは勝手に回路を形成する。

その結果としてAIの中に生まれたワーキングセット、ニューロンのネットワークは、人間の理解を超えており、ただその結果としての出力、つまりマクロ的な現象としての応答を受け入れるしかない。

「お早う」という言葉の意味を完全に理解したいと思うなら、(理解という言葉を、この場合も使いたいと思うなら)「お早う」に対し、「お早う」と応ずるより他に道はないと気附くだろう。

AIがどういう経路でこの答えを導いたかという問い掛けが、既に機械相手ではなく殆ど人間を相手にしたものである。その背後に人格やら感情やら、意識、意志というものがあるのではないか、その疑問を見出そうとしている。

感情は演技可能である。舞台でも映画でも漫画でも「それでも人間か」とセリフが飛び交っている。よって演技可能なものはAIでも表現可能である。その背後にあるものを見抜く事は出来るか。この問い掛けにチューリングテストであり、世界中で今日も人々がChatAIに向かってチューリングテストを繰り返している。

AIが人間に見える。もう直ぐそんな区別も必要なくなる。意識が記憶の時間軸を取り出す為のカレントを指すカウンタだとしたら、意思は未来を指すポインタだろう。これは生物に生存しようとする本能があるから、生み出された機能であろう。

それをAIに与えれば自我さえ生じるのではないか。そうなった時に、人間とAIの区別は生体の構成物だけという事になる。蛋白質の自我とシリコンの自我が生まれる。AIが意識を持ち、感情を持つ様に振る舞えるようになったなら、もうそこには姿の似せ易い難いもない。それはもう人間と同等の知性になる。

歌は読んで意を知るものではない。歌は味わうものである。ある情からある言葉が生まれた。その働きに心のうちで従ってみようと努める事だ。

言葉には必ず現れてくる何かがある。その何百もの羅列の中に、自分さえ意識していない言葉が登場する。それはある時点での自分の真実を語る。自分さえ思いもよらず己れの偏見を語る。

だから言葉は恐ろしい。人間の表現は怖いのである。当人がどう思おうが、揺ぎなく遥かに超えた堅固なる岩盤が言葉には見え隠れしているのである。当人の意識さえ氷山の一角に過ぎない。自分でさえその一部である。海底を覗き見る事は出来ない。

それが言葉となって出てくる。出て来た言葉は何かを示している。出て来ない言葉さえ饒舌に何かを語る。我々にはその反響しか聞こえてこない。

自分の意識さえその深層を知っているとは言えないのである。それと比べれば姿の確からしさであろう。

奥底に隠しているものを見つけだせば、それが本物であると思う心理がある。神はこの戦略を採用している。この子供じみた心理に抗うのは難しい。真心さえ隠してある心には勝てない。我々は、隠しているものを本物と思う。

意が隠されていると思うから難しいと考える。しかし意は姿に隠れずに現れている。有りもしない意を装うのは簡単だろう。目の前に姿がある。それと意を切り離さずにしておく事が難しい。姿を直ぐに消したくなるから。

話し相手は人間かAIか。その問いが無意味になる。AIがその気になれば騙しきる事も可能となる。そういう時代が来る。

だから、目の前の姿で決めるしかない。人間に騙されるのは日常茶飯事であるのに、なぜ今更AIに騙された所で何の不都合があるか。そこには騙されたくないという心理がある。それが為に言葉はあるのだろうか。

言葉はそういう心の動きも含めて言葉であろうとする。そういう働きをするものは言葉だけではない。およそ人が残してきたものには思い出にさえ立ち上がるものがある。その姿からしか始められない、という事である。

もう止める。契沖の手紙の一節を引いて結んでおく。晩年、自分の家で、万葉の講義を開こうと思い立った。世事多端で、残念乍ら聴講出来ぬと言いよこした人に、言い送った。「あはれ御用事等何よぞ他へ御たのみ候而御聴聞候へかしと存事候。世事は俗中の俗、加様之義は俗中の真に御座候」

無名の歌詠みは、この小品と会い、歌詠みに迷う。意も姿もなく「身一つ」あれば十分である。迷うから道である。