2021/09/20
カナリア諸島の噴火を見ている。夜中に煙りを立てて重力に引かれて溶岩が流れている。その表面は黒く冷えるが、その隙間からは赤い輝きが漏れだしている。これはどこかでみた光景だ。決して知らない風景ではない。
この風景の記憶は?夜、赤い光。そうだ、これは王蟲の攻撃色だ。群れとなって風の谷に押し寄せてくるあの景色だ。
この世界で災害は避けえない。太古のギリシャよりもずっと前から人は天災を受けてきた。それを神と例える日もあったろう。恐怖に襲われる前に死んでしまった人もいただろう。
生物は時に火山の噴火を、時に隕石の衝突を、時に氷河の浸食を、時に深海の地滑りを、時にオクロの核分裂を受けてきた。
最初に津波を教えてくれたのが宮崎駿だった。あの作品があったから堤防を超えてゆく津波を見てもたじろがなかった。その光景を知っていたから、大津波を見た日から、津波は見知らぬものではなくなっていたから。
その破壊力は自分の小さな想像力は超えていたけれど、あの日に見た光景を凌駕する程ではなかった。どのような津波であろうとそれは既知の現象だったのである。
彼のイメージがどこから来たのかは知らない。王蟲の攻撃色が溶岩から辿り着いたのか、それとも、高速道路の渋滞を眠気眼で見ていた記憶からなのか知らない。だが発想の起点の問題ではないのだ。それはどこかで見た光景からに違いない。それが人の間を順次繋げていった。
立ち向かうためこの1mmを踏ん張る力がいる。数多の作品があって初めてこの現実に狼狽しないで済んだ。それは過去ではない。来るべき未来だったのではないか。デジャブ、と呼ぶべき世界が到来した。
これが抽象化という働きなのだろう。それが再びこの視界の中で具象化する。たった一本の棒切れが空に投げられた瞬間に神話が紡がれ始めたのだ。その猿が見た青空は今と繋がっている。
空を見て巨大な雲が流れて行けばラピュタを思い出す。深い森の中を歩けばトトロを探す。古い民家に入る時にはまっくろくろすけに身構える。たいてはげじげじに違いないのだ。
嵐の中を傘もなく歩けばキキの姿に自分を重ね、砂浜でのんびりしたい気分の時は豚になる。角煮に食らいつく時も豚である。
太陽観測衛星ひのでが撮影した黒点を見れば、祟り神のうねうねもこもこに違いないと思う。太陽もいつか祟りに狂うのだろうか。
清水の流れを見れば、腐れ神を想う。夜空に轟音を聞けばハウルの街かと憂う。ハウルが飲み込んだものはきっと前人たちから引き継いだ種に違いない。それが花咲き種となり弾けて飛んで次の世代の胸の中に根付いた。
荒れ狂う海を見て飛び散る飛沫に走るポニョの姿を追い、サンゴの産卵に、水の中のたくさんの笑い声、たくさんの子らが海面に向かう姿が見えてくる。
瓦が飛び上がり地を走る。空中で分解する戦闘機。紙飛行機を押す上げる上昇気流。
宮崎駿は気流を描く。凪から大きな嵐まで。空を飛ぶとはこの地上に生きる事に等しい。必ず大地に着地しなければならないから。宇宙から帰ってくる物語はあるのに。なぜ宇宙へと向かう物語はないのだろう。
ふたりの巨人がいる。ひとりは星の上を歩んだ。
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