上映
作品に興じるとはどういう行為だろうか。映画館まで出向いて今までにない何かと出会う。そんな作品を生み出す人がいる。キョーダイン、マジンガーZ、アクマイザー3、デビルマン、火の鳥、ザンボット3、クイーンエメラルダス、地球へ、イデオン、ミクロイドS、ブラックジャック、様々な作品の地層がある。
先人から受け取ったものを誰かに渡す。バトンを渡すというより花粉を飛ばすという方が比喩には相応しい気もする。意欲に溢れた作品が今日もどこかで再生されこの繰り返しの尽きる日はない。未完成品としての作品が人の間に浮遊する。視聴者が見なければ完成に近づかない。しかしそれが完成でもない。
面白さとは何か。映像が感覚を励起する。最初は単純な生体反応であるから、暴力シーンを見ればアドレナリンを悲しければプロラクチンを放出する。これは純粋な原初的な反射的な生物的な反応に過ぎない。その反応を起こす事で映画は脳の回路を巡る事が出来る。
これは映画である、架空である、注意する必要はない、というのはその後の脳のタグ付けである。否定する事が、映画と現実を区別し、全体を覆うバイアスとなる。その上に音という連続刺激が加わり複雑な記憶として映画の上演中、蓄積され続ける。
現実ではないのに何かが迫ってくる。映像が持つリアリティを何と表すべきか。脳の中に刷り込まれ続ける描写が、過去の似た体験を探す。今まで知らなかった感情か、これはどこかで知っている体験か。映像を処理し続け脳は注釈付きの短期記録を作り続ける。
暗がりの中でバイクの音が広がる。血飛沫で打ち付けられる最初の五分でこれこれという感触に浸る。快哉。この先の展開に期待が膨らむ。どんな展開が続くのか。
ショッカーとの対決、国家政府との軋轢、これだけの力を持つ等身大のヒーローである。作家の思惑とは関係ない所で、自分勝手な妄想が膨らむ。どんな戦いが待つか、この先は作者の手中である。本編と自分の中で生まれる様々がもつれあうはずだ。
石ノ森章太郎
石ノ森章太郎の作品には人間でない(なくなった)主人公たちの苦悩がある。人間を超える力の手の入れ方には幾つ経路がある。その中で主人公たちが悩む。人間でない存在は「持たない者」として描かれる。持つ者は悩まない。人間でない者が主人公となり人間ではない者たちと戦う。その姿はまるでキリストが原罪を抱えているかの様でもある。人間の力を遥かに超えた力を持つ超人。そういう特殊な能力がなければ主人公にはなれないのか。運命に抗うには高い能力が求められるのか。ならば特殊な力を持たない我々はどうすればいいのか。
社会が人に能力を求めている。その対価として雇用がある。それが資本主義の原則である。キャピタリズムが求めるのは勤労である。能力がある事はその前提条件である。誰もこの流れから逃れてはいない。全ての人がこの圧力の中で泳いでいる。
だから存在価値がないと殺された人たちがいる。そんなもの家族には受け入れ難い。人間の存在意義は誰が決めるのか?他人に決められるのか、家族に決められるのか、人間に決められるのか、自然は淘汰する、決めてはいない。社会が人を選別し続けている。自然界ではこれを適者生存と呼んだ。
この星に誕生する生命はどれも特殊だ。他のどの星系にも存在しない。二兆年の宇宙の寿命の中で今この時間にしか存在しない。宇宙の全ての原子の組み合わせの中で、この瞬間のこの組み合わせは恐らくただの一度しか来ない。素粒子の総数が恐らく統計的にそれを裏付ける。
この宇宙の時間の流れの中で、どれひとつを取っても二度と同じ時間が訪れる事はないだろう。輪廻転生を訴えた仏陀でさえ恐らくそう考えていた筈である。宇宙の寿命が尽きようともこの100年の時間が失われる事はない。原子がそれを記憶していたら嬉しいのだけれど。
個々のミクロを集めマクロ視点で見れば標準偏差の平凡を示す。ガウスの能力は誰もが持っているわけではない。同時代にその才に嫉妬し苦しんだ者は幾らでもいる。サリエリこそが我々の手本とする生き方だ。とサリエリの能もない人が言う。能力は数値化され順序よく並べられ階層を形成する。
だから社会には疎外されたと感じる者が存在する。それは避けえない。特別と言われようが平凡といわれようが避けえない。その孤独は能力のせいではない。家族や友人からも得られない疎外感の中で今日も風が吹く。さて明日をどうしよう。
等身大の考察
等身大ヒーローが巨大ロボットと違う点はどこか。巨大ロボットはあくまで人間が主人公でいられる。幾つもの例外があるとはいえこの構造は同じである。なぜならロボットを失うと非力で平凡な人間に戻されるからである。巨大である事はそれだけで問題を解決する。巨大な破壊力を作中に持ち込めば何事も容易に解決できる。その前で人々は立ち向かう術を持たず、逃げ惑うしかない。
そういうシチュエーションに石ノ森章太郎はリアリティを感じなかったのかも知れない。それを拒絶したリアリズムはあくまで人間と人間のかかり合いの中で動かしたかったという気がする。
戦いは人間同士が行うものである。そこにヒーローが参加する。彼/彼女らに人間の運命を変える程の万能感はない。悲観的な結末が多いのも等身大ヒーローたちが問題を解決する存在ではないという宣言だと思う。ヒーローひとりふたりで解決できる問題ならとっくに人間が解決している。
子供の頃
自分が子供の頃に出会った作品は特別な存在で、当時のリアリティの基準は違うから、その時にしか得られなかった記憶となっている。だから生涯の大切な作品である。もし出会うのが今だったらきっと見向きもしなかったに違いない。特撮に物理学は欠かせない。リアリティは物理学が支えるからだ。子供なら100mでも1kmでも好きな高さまでジャンプするがいい。しかしニュートンの法則を知る頃には現実の軍隊について知るようになる。
ライダーキックの破壊力はジャンプして得られる自由落下にある。その破壊力は100kg程度の質量が得る重力加速度に等しい。そこにプラスアルファの何かを加えた所で桁数はたかが1か2の増加である。恐らくそれらを超える破壊力を人類は既に手にしている。計算はしていないが、戦場を走る戦車が撃ちだす砲弾の仕事量は恐らく仮面ライダーの自由落下より遥かに大きいと思われる。
米軍より劣る世界では特撮は成立しない。シン・ゴジラが米軍を相手に演じた戦闘はその限界点に近いであろう。あれ以上になるとリアリティが失われる。だからシン・ウルトラマンでは米軍を登場させなかった。宇宙空間での人類の技術はまだ特撮には馴染まない。それでも両者に十分な説得力があったのは主役が巨大だったからだと思う。
等身大は工学の範囲を超えられない。そこで与えられるリアリティは現実の延長線上に非常に近い。だから仮面ライダーは実在の世界の何も凌駕しない。だかがは少し凄い程度である。ウクライナのビルを破壊するロシアのミサイルより強力ではないし、戦場を走り回る医者たちの献身よりも何かを成しているとも言えない。
特撮に現実のリアリティを持ち込むのは難しい。だから作品は最初に宣言する。リアリティの基準を示す。観客も共犯者だから喜んでその約束事を受領する。そこからは互いのご都合主義で応答しあう。
様々なシーンの中に潜む矛盾も戦う理由も世界線も乗り越えて作品の行き先を見ている。どんなシーンがこの先に用意されているか。それが映画である。
あまりにも庵野的な
庵野秀明の作品ではアスカ的なものとシンジ的なものが交差する。シンゴジラ、ウルトラマンはアスカ的な作品であろう。仮面ライダーはシンジ的な作品であろう。アスカ的な作品は軽快さと颯爽さが立ち止まる事なく進行する。そこでは戦う理由は必要ない。目の前で起きている事に対応する。自然災害に悩む理由がない。映画は理由も意味も提示しないまま進行してよい。逃げる途中で立ち止まり自問していては生き残れない。疑問はいらない。ただ先へと進め。この感情がこの戦いが絶対に正しいと訴える。
シンジ的な作品は、戦いと戦いの間で立ち止まる。そして自問する。戦闘と葛藤の繰り返しの中で答えが見つからない。まるでそれが作品の主題であるかのように。作者は答えを拒絶する。この謎は解かれた試しがない。
シンジはどうやって戦いに参加するのか。戦いたくないなら拒絶すれば十分である。なぜ戦いに参加する破目になるのか。
レイがいたから。シンジはレイと出会ったから戦いに参加した。そう決意した。しかし、レイは戦いを始めた理由ではあっても、決して戦いの理由ではない。
シンジの戦いはレイによって起動したが、駆動を続ける理由ではない。アスカも戦いの理由は知らない。互いが主人公として戦いの渦中に放り込まれ、ひとりは戦いの理由を探し、ひとりは戦いに理由を求めない。
最初にアスカ的なものが戦いを始め、そこにシンジ的なものが投入される。シンジはレイ的なものと出会い戦いへと参加し、戦いを巡り、どこかを目指したいと感じる。
戦いの触媒であったはずのレイが、初期は謎として存在していたレイが、謎そのものとなり、次第に卵的な存在となり無垢無色の透明な所から孵化しようとしてやがて消えてゆく。そこにカヲル的なものが新しい触媒として投入され反応を更に進めてゆく。
正義の彼岸
人類補完計画もSHOCKER(Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling)も全く同じコンセプトから生まれている。という事は、これは作者にとっての重要な命題なのだろう。捉えられて逃れられない運命のようである。幸福を追求する。これを否定する思想はない。幸福の追求はアメリカ憲法にも記載された基本的人権である。だから幸福からは誰一人として取りこぼさない。全ての人を幸せにする事は正義である。
幸福から只のひとりも置いてきぼりにしない。誰も疎外などしない。全ての人が幸せになるべきだ。
現状では生ぬるい、もっと積極的に全ての人を幸福にすべきだ。これはとても菩薩的な考え方であろう。全ての人が救われるまでに私はここに残る。悟りよりも立ち止まる事を願う。
作中の組織はいつもこの思想を強制に施行する。何故かは知らないが全ての人を強制的に支配しようとする。全体主義的、強権的。人々を救うためには嫌でも連れてゆくしかないのか。拒否権はない。自由も認めない。それはもう強迫観念ではないのか。
そういう幸福の追求の仕方が作中に登場する。何故だろうか。ここを無自覚とは思えない。するとこの敵の在り方に本気でリアリティを感じている事になる。この世界をそう分析している事になる。
すると空気の強制力とか、この国に蔓延する閉塞感や疎外感、タモリが例えた新しい戦前という匂い、鋭敏な感覚の前ではショッカーの存在は決して架空なものではなく、この国のあちこちで幼少期から今に至るまで実際に散見されてきたリアルな体感だったのではないか。
悩むのは何故か。戦いに理由が必要か。なぜ敵は倒すべき存在なのか。なぜその当事者が自分なのか。自分が選ばれた理由は何か。まともならとうてい受け入れられない。太古の冒険譚ではそれを呪いと呼ぶ。
子供たちはみな大人の戦いに参加したいものである。参加を欲する。自分が選ばれればきちんと果たしてみせる。そういう想いが根っこにある。恐らくはこれは根源的な感情だろう。
所が作中の主人公たちは戦いを拒絶したがる。主人公である事を拒否したがる。そこから逃げ出したがっている。相応の理由がないなら戦えない。これは戦後の我々の命題なのだろうか。戦争が如何に簡単に嘘で塗り固められるか、我々はそれを良く知っているから。
そう考えると、作家にとって無条件に何処であれ何時であれ誰にとっても絶対に正しい正義がある事は救いになりそうである。それが仮面ライダーである。
ヒーローの運命
仮面ライダーの正義は絶対に正しい。そういう仮定でなければ作品は成立しない。果たしてそんな絶対的な正義はあるのか。正義の敵は悪である。だからショッカーは悪の組織である。よってショッカーから見れば仮面ライダーが悪である。一般的に正義は相対的である。だから正義と悪は立場を変えれば逆転する。敵が常に悪である。この相対的な関係から、正義の敵は常に別の正義であると結論される。そうなれば正義の意味は消失する。敵と味方の言い換えに過ぎない。
仮面ライダーの正義はそういう類の正義ではない。そうであってはならない。仮面ライダーの絶対的な正義は、敵味方の区別なくどのような視点でも常に正しいものでなければならない。敵には敵の正義があるだろう。そういう議論を仮面ライダーの正義は否定する。
よって、仮面ライダーが絶対に正しい正義であるためにはショッカーが常に絶対に間違っている悪でなければならない。
果たして無条件に正しい正義がこの世界に存在するのか。絶対的に正しい正義とは何か。それは絶対的に間違っている悪も存在しなければならないという事だ。仮面ライダーはそれを具現化する。どうやって。
正義の中に矛盾がある。絶対的な正義は存在しえない。なぜなら正義は相対的なものだからである。この矛盾をどう解決するか。矛盾は背理法により否定される。しかし仮面ライダーでは否定してはならない。どうやって。
仮面ライダーの側にこの矛盾を解決する因子は見つけられない。ショッカーもこの矛盾を解決する因子は有さない。すると仮面ライダーの正義の根源は対峙しているのはショッカーによって成立しているのではない事になる。ショッカーは単なる力の作用点に過ぎない事になる。
ならば仮面ライダーの正義を成立させうる敵とはどういう存在か。それは矛盾を封じ込める存在でなければならない。唯一解決できる存在は神である。それも一神教の神である。神が敵である場合だけ絶対的な正義は成立する。この場合だけ矛盾が発生しない。
なぜか。神は全知全能である。全能であるとは何事も可能の意味である。つまりA=BとA≠Bが同時に両立させられる存在である。よって神を相手に掲げた正義だけは矛盾が発生しない可能性がある。神は全能だから発生させる事もできる。しかし発生させない事もできる。これにより絶対的な正義は成立した。
仮面ライダーの正義は自分の運命を巡る神への問い掛けに等しい。仮面ライダーの正義は神との戦いの時にのみ成立する。そのような正義を掲げてショッカーと戦っている。よってショッカーとの戦いに正義は必須ではない。
神と対話しつつ日常を送る。何の事はない、これはごく普通の生き方である。
なぜシンジは悩むのか、運命とは拒絶可能な他者的なものであると理解しているから。なぜアスカは悩まないのか、運命とは自分の一部と理解しているから。レイがこのふたつの間にあって、傷ついても負けても、存在を見つめている。見つめられていることに意味がある。
マフラーを巻かれるとはそういう意味だろう。
作品をありがとう。
オマージュ
ショッカーが幼稚園を襲う。世界のテロ集団に育成した兵士を供給する為だ。学校を襲撃し誘拐し人身売買、臓器売買、兵士育成というビジネスを展開する。それを世界中で展開する。その存在がニュースでも報道されている。そんな非合法なビジネスが成立するのは賛同者が居るからだ。世界は混乱で溢れている。悲しみ、不幸、不正義に溢れている。権力闘争があり資源争奪戦がある。対立する場所に介入するには武力がいる。資金は欠かせない。
ショッカーが目指しているのは世界統一による世界平和であり、それを優れた科学技術と結びつけて直接的な武力闘争で目指している。なぜならそれがもっとも近道だと信じられるからだ。
対立が起きている場所でその解決を図る。争いの当事者たちを排除し、ショッカーから執政官を派遣する。現地に優れた者がいれば改造する。それで後進国や最貧民国から救ってゆく。経済発展の中で人々をショッカーの思想で染めてゆき新しい経済圏を構築する。
世界統一は人類の夢であろう。本当にそれは素晴らしい世界か。それは分からない。独占が起きる時、必ず一方的な支配が始まる。どのような者であれ寡占状態は人々から自由を奪い、資本を奪い、思想を奪う。
もし世界統一を目指すなら何らかのカウンターを設ける必要がある。仮想敵を作らなければ統一を維持する事は不可能である。仮面ライダーはその目的でショッカーが作り出した仮想敵である。仮面ライダーという敵が存在する事でショッカーの武力統一は野心ではなく人類の希望的理想であり続ける事が出来る。
どのような組織も外部に敵が必要である。それが同胞の力を結集し自分たちの理念を際立たせる。ショッカーが仮面ライダーを欲する時、仮面ライダーもまた欲しているのである。
特撮ヒーローは警察官の延長ではない。治安維持の官吏でもない。子供らに法治国家や徳目を修身させる存在でもなく、理想的に完成された道徳的完成を前にして、この者を見よと語るためのものでもない。敵がいなければ成立しない理想がある。
仮面ライダーに改造された本郷を逃がしたのは緑川博士であった。それはある意味ではショッカーの計算通りだったのである。それが組織を利すると考えたのである。AI的には用意周到である。この裏切りが怪人たちの団結力を強め、更に計画を邁進させると考えたからである。
クモオーグは緑川ルリ子を誘拐して連れ帰ろうとしたが、それはショッカーのアジトを見つけて潰してしまおうとする緑川の策略に嵌ったものであった。其れを知ったクモオーグはルリ子の行動に失望する。
この失望を救うために仮面ライダーが登場する。互いに説得を繰り返すが、分かり合えない。結局生き残れるのは二人のうちのどちらかだけになった。
仮面ライダーの存在に気付いた政府は接触を命じる。仮面ライダーとの共闘を目論むが、その背景には既にショッカーに取り込まれた政治家たちの存在があった。信用できる僅かな者たちだけと接触するように決め本郷と緑川は独自に行動すると決めた。
独自に行動する緑川と本郷は首都圏で最大勢力であるハチオーグが支配している都市に侵入する。
ハチオーグが振りかざした刀身でライダーの腕は切り落とされる。ニヤリとするヒロミ、その瞬間に仮面ライダーはヒロミの心臓部を刀で突き抜いていた。やめてと叫ぶ声の向こうで、崩れ落ちてゆくヒロミを抱きかかえる、その泣き顔が見たかったの、と言い消えてゆく。
しかし、この戦いで首都圏に甚大な被害が出たために政府はふたりをテロリストに指定し追跡を開始する。その背景にショッカーのバッタオーグの策略があった。
政府支配を排除すべく単身で乗り込む1号、そこで2号との戦闘を開始する。緑川によって洗脳を解かれた2号であるがカマキリオーグも参入して戦いは更なる激戦状態に入る。
戦いには勝利するものも、政府がショッカー支配から抜け出す事は簡単には出来なかった。共闘を約束した者たちにかくまってもらいながら、逃走を続ける1号と2号は遂に首都圏での最終決戦を決意する。
そこには群生相である飛蝗をモデルにしたショッカーライダーが待っている。彼/彼女らは団結して空中戦を得意とする点で、1号、2号ライダーの能力を遥かに凌いでいた。空中戦での不利な状況から地上戦に持ち込もうとするが、数の連携の前で次第に押されてゆく。
あわやという瞬間に辛うじて6人キックを避ける。この時の接触によってダブルライダーも群生相の飛行能力を獲得し、空中戦でショッカーライダーと対応の戦いに持ち込む。遂に同士討ちをさせた事で仲間意識が強いショッカーライダーは各人が暴走状態に陥り、孤独相であるダブルライダーが躊躇なく各個撃破してゆく。
アジトの乗り込んだふたりはそこでV3ライダーとまみえる。これが最終決戦となるであろう。最後の戦いが始まった。
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