あるつぶやきがある。
牛や鳥を大量に殺処分して、命を粗末にしていることに宮崎の大地の神様が怒り猛っているように感じる
2011-02-04 00:33:24 河上みつえ
命を粗末にする。その考えが既に勝者なのだ。粗末にしようがすまいが人間は殺して来た。過去から今まで、そしてこれからも。滅びるまで殺すことを止めない。どう考えようと殺した側と殺される側の関係が入れ替わらない限り命は粗末にされるのだ。農家は命を粗末にして成立している。
要らない草は抜く。産まなくなった鳥は締める。育った牛や豚は屠畜する。羊など肉が臭くないから生後一年で殺す。ああ、美味しいお肉よ。
僕らの繁栄は命を粗末にした上に成り立っている。アフリカの餓えた人たちの上に繁栄がある。彼らの命を繋ぐ一口の食べ物と引き換えに彼らの手から堅い炭素の固まりを受け取る。それを店頭で買う。生まれ落ちた場所がラッキーかどうかだけで人生も決まる。だがどうであれ人生ならば幸せもある。命を粗末にし搾取し誰かを死ぬ目に合わせて今の生活がある。会った事もない奴の命など知るもんか。
誰かを愚弄しなければ気持ちよくなれない人がいる。愚弄する人は同時に愚弄される人でもある。鳥の中でウィルスに対する抗体が活動している最中に人は鳥たちを殺し焼く。感染の拡大を怖れ。コロスものはまたコロサレルものである。いつかどうかで。命を育む仕事はまた命を奪う仕事でもある。
この国は瑞穂国と呼ばれてきた。神代の時代から。それを親から子へと伝えてきて今がある。それもこの世界の大きな変化の前で変わってゆくようである。人の口を満たしてきた農業は、しかし産業としては終わりかも知れない。
TPP (Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement) を代表とする自由貿易はこの国の今の農業を破壊するだろう。山岳と丘陵ではコストであれ生産性であれ戦いになるまい。品質や工業化や高級路線で生き残る人々もいるだろうが。
なぜ産業として成り立たない農業を止めてはならないか。それはこの国の風景として農業が必要だからだ。砂漠の国には砂漠の、森林の国には森林の、原風景がなければ国家とは言えまい。この国の原風景は豊かな自然ではない。農業の姿だろう。次第にこの国も風景も都市化されていくと思う。それでもどこかで躓いた時に戻るべき場所としての農業が必要だ。今は石油文明の終焉でもあるし、また繋がろうとする世界がもたらす次のステップへの前兆かも知れない。どう世界が変ろうとも人類は変わらないのか。農業の在り方もまた技術的特異点の一例かも知れない。
産業としての農業が立ち行かなくなっても、環境としての農業がある。環境という視点から農業を見直す。田圃は水を保水し自然を保全する。畑は豊かな土壌を生み出す。森林は川、海を富ます。海を豊かにする事が国を豊かにする。国土をどう設計するか見直す時期に来ている。日本列島改造論から変わる頃だ。あれではこれ以上先には進めない。状況は変わった。農業を環境に組み込むのは悪い話ではないと思う。
農水省は産業としての農業を担ってきた。それを環境省に移管する。同じ予算でも産業ではなく環境という視点からの国家事業にする。そのうえで生産したものは売ればよい。国内だろうが海外だろうが売る。環境の視点で生産されたものなら悪くあるまい。産業としてやっても勝ち目はないが環境なら生きる道がある。
その方法は簡単だ、農林水産省を潰して農業を環境省の管轄にする。それだけでいい。
TPPの対象からも外れるし。
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