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2013年12月21日土曜日

罪と罰 - フョードル・ドストエフスキー, 米川正夫訳

へ、へ、へ、不思議な話しですな。罪とは何ですか、罰とは何ですか。

ええ、この退屈な小説を読み進めるのは苦痛以外の何ものでもありませんでした。どうしようもなく退屈です。そして訳がまた古い。初版が昭和 26 年とありますからそれも仕方はありますまい。

この訳はもう絶版です。もう古典と言っても差し支えない代物です。確かに 1866 年の世界はこうであった、そう思えるくらいに古い訳です。

もしドストエフスキーが現代に生れていたら。この小説を読みながらそういう考えが浮かびました。きっと彼は小説家ではなく映像作家になっていたと私には信じられるのです。

この小説を読めば分かろうものです。描写が映像的なのですから。ドストエフスキーは映像を目の前にしてそれを写し取っているのではないか。その映像的な手法で人間の心理を文字にして描写してゆきます。

建物の汚れた描写はそのまま心理の暗さを暗喩します。それは人間の気分です。風景に感情が投射されて描かれているのです。彼が長々とした心理描写を始めたら要注意です。何かが起きる前触れです。

何故でしょう。彼は人間の心理など全く信用していないように思われます。にも係らず小説は心理描写によってぐいぐいと引っ張られ、先へ先へと進み、読者を引き摺り込みます。

まるでこの小説に登場する誰もが水の流れに浮かんでは消える水の泡です。彼らの意志は誰かの何気ない言葉で浮かびあがり、捕えられ、実行され、そして沈んでゆく。それが多くの人間で織り成される風景です。

その織り成された風景のひとつが、たまたま聞いた言葉が、それだけがラスコーリニコフに階段を昇らせる理由になるのです。

誰もが行動を己の意志の結果であると信じています。しかしどうやらそれは疑わしい。

その意志と思われるものは波紋かも知れません。河に石を投げて生まれた波紋と変わらない。誰かの言葉が波となり、川面を揺らすように誰かを揺らし、心に干渉して腕が動く。そういった人間の中で起きている化学反応のようなもの。どこから来たのでしょう。

罪と罰もひとつの事象に過ぎないのです。同様の物語はこの世界のあちこちにあるはずです。更に言えばキリストさえも。

ソーニャがもし日本に生まれていたならば彼女はきっと聖書の代わりに阿弥陀仏を唱えていたことでしょう。

南米のどこかの街に生まれていたのなら別の物語になっていた事でしょう、そういう物語があるはずです。

それは世界のどこにでも。宗教も民族も超えた所でも人が居る所には何かがあるのです。ええ、罪と罰はその表層に生まれた物語のひとつなのです。罪と罰は水面に現れた波紋です。

この小説で語られているどんな思想も、一杯のウォッカの価値もありません。そんなものは全て氷山の先の氷の1粒に過ぎません、それがどれだけ人の心を打ったとしても、注目すべきは、見えていない、その奥の奥の海の奥に沈んでいるあの大きな塊の方でしょう、そうお思いになりませんか。

キリストなどたまたま目の前に現れた小石に過ぎません。私は賭けてもいいですけど、ドストエフスキーという男はキリストなんてこれぽっちも信じちゃいなかった。彼はイエスに石をぶつける者でしょう。そういう自覚が彼には十分にあったと思います。彼の前で無条件に跪くなど考えられやしなかった。彼には聞きたい事が山ほどあった。逆に言えば、それほど本気でキリストという男の存在を信じていたのです。

一度も罪を犯したことのない正しき者だけこの女性に石をぶつけなさい。

罪と罰で注目すべきは、最期に罰を法に委ねた事でしょう。罰が、良心の問題ではなく法の執行なのです。これはどう解釈すればよいのでしょうか、我々はここにも注目しなくちゃいけません。

ラスコーリニコフは最後まで自らの意志にではなく誰かの言葉に振り回され続けました。それは最初から、物語の最後まで、ずうっと。ずっとです。

殺人という思い付きでさえ始めから彼の中には存在しなかった。どこかで読んだか聞いた話しが彼の中で成長したのです。彼はそれを自分のオリジナルと信じていたのだけれど。

もう一度読んでみてください。何かが彼の心を捕えたその瞬間を。ラスコーリニコフがそれを決行したのも誰かの言葉があったからじゃないですか。その言葉を聞かなければ彼はあの階段を昇る事もなかったのに。

なぜラスコーリニコフは告白したのですか。一見簡単そうなこの問いの答えが悉く間違っています。彼は自分がヘーゲルのいう世界史的人物でない事に気付いたのでも、超人思想の誤りに気付いた訳でもありません。

ましてや己れの罪に気付いたからでもありません。彼は物語の最期まで、本当に最後まで老婆については何も語ってはいません。可哀そうなアリョーナ。

なぜラスコーリニコフはラザロの復活を必要としたのか。なぜソーニャから聞きたかったのでしょう。この美しい描写が示すのは、この説話によってラスコーリニコフは死者に成れたのではあるまいか。だからソーニャによって復活する、そのとき、彼が初めて口にする言葉は何であるべきでしょう。

罪の告白とは自分が生まれ変わる事に違いない。告白により人は新しい自分に生まれ変われる。決別した昨日の自分の罪だから、告白ができるのです。ならばラスコーリニコフが望んだものは復活であったのか。

いいえ、ラスコーリニコフはそんな事を自分の本心として望んだのではありません。彼はソーニャを試そうとして、ソーニャの言葉を聞いた。ソーニャへの蔑視、同情、憐憫、驚愕、彼にはそれに見合うものが必要だったのです。このお人よしは無償でさえ人に与えるのです。何かを受けたらそのお返しが必要だったのです。

それが彼の中には殺人の告白しかなかった。もしソーニャと出会わなければ彼は告白もしなかったでしょう。その時はラスコーリニコフはどういう人生を歩んだのしょう。

彼はいつでも引き返す事ができた、逃げることもできた。しかし、ソーニャの顔を見た。だから引き返せないのです。だから踵を返したのです。

彼に自分の意志などなく最後まで人の中で翻弄され続けたのです、聡明なラスコーリニコフが、です。

ふむ、賢いあなたはそれを彼の孤独さに求めるかも知れません。社会とのかかわりの問題と言うかも知れません。

しかしこの小説を読んでゆけば、次第に全ての登場人物が梅毒に脳をやられた狂人ばかりに見えて来るかも知れません。もしそうでないならこの小説の中に幻想を見ているのです。ほらどちらにしても脳をやられているのはあなたではないですか。

この小説のプロットは実に単純なものです。幾つかの印象深いが取り留めのない日常の出来事が起きます。難しいトリックも複雑な起伏もありません。しかしなぜこれほどまでに印象深いのでしょう。

重要な二人の人物がもつれ合います。それが二組あって二重化します。# (井桁) のような構造です。ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフ、ソフィヤとドゥーニャ。この四人が対比します。マルメラードフとラスコーリニコフの父親の思い出が導入部にあり、目を打たれる馬の話しはなんとも幻想的です。

ポルフィーリーとラスコーリニコフ、ウラズミーヒンとラスコーリニコフ。この軸で殺人事件を支える。ここでルージンという役者の存在が面白くありませんか。

この物語を途中で強制退場させられる都合の良い人物はしかし物語を成立させるリアリズムを支えています。物語の中で金銭的な問題を浮き彫りにする彼に与えられた役割は、散らばった演者達をある時期にある場所に集める。そういう役割です。それが物語を始めるのに必要だったのです。

初めからその場所に全員が居たのでは成立しない物語でした。これが映像的な時間と空間の広がりです。

これら四人の二重構造が交差し絡み合いラスコーリニコフとスヴィドリガイロフのふたりに集約します。この二人の対照的な、そして小説的な終わり方が、商品として必要でした。

誰があんな自殺を信じますか、あれは史実ではありませんよ、脚色です。ドストエフスキーの悪乗りです。筆が滑ったのです。つまり、あの時点でドストエフスキーは言いたい事は全て書き切っていたのです。

登場人物の中で、初めから終わりまで真っ当な人物がいます。ナスターシャの善良さ、ラズーミヒンの友情、ポルフィーリィの常識。これだけの真っ当さで描かれた人物が物語の軸として必要でした。

ヘーゲルの世界史的人物という思想、歴史的超人という思想は、恐らく当時の人々にとっては深刻な解決すべき問題だったのでしょう。同じように今の人にとっても解決しなければならない問題があります。どんな思想がではないのです、そういう思想がある事が肝心なんでしょう。

ラスコーリニコフが論文に書いた非凡人思想も、ソーニャのキリストへの信仰も、物語を進めるための駆動輪に過ぎません。それらは代替え可能でしょう。読み進めればキリストへの信仰でさえ心理描写を転調するためのきっかけでした。長い長い心理描写が始まれば読者はそれが行動を起こす前触れと知るのです。

何が罪なのか、何が罰なのか、それは語られる事なく物語は最後まで行きます。しかし、最後まで読んだ人なら微かな思いがあるでしょう。

この作品の全ては次の三つに集約します。ドストエフスキーが本当に書きたかったのはその三つだけと私は思うのです。

僕が殺したのです。

あなたが殺したのですね。

そして殺したんでしょう!殺したんでしょう!

行い、告白し、そして指摘される。これが物語のコアになります。ここが罪と罰なのです。ドストエフスキーの思索の後は次第に消えてゆきます。そして心理描写だけが残ります。

ここまで言えば、もうお分かりでしょう、ええ。みなさんが読んでいるのは雰囲気なのです。ドストエフスキーはそんなものを書くのに苦労したんじゃありません。

誓ってもいいですが、ドストエフスキーがこの作品をだらだらと書いたのは、毎月の掲載枚数を埋める為に過ぎません。それ以外のなんの理由もない。ええ、この際ははっきり言いますがね。薄っぺらいのですよ、貴方たちの読み方は。

誰も自分の事を善良でない人間と認める事はできないものです。もしそう口に出す人がいたとしても、それは嘘です。本人も気付かぬ嘘です。どれだけ懺悔しようと後悔しようと心の奥底にはどうしても壊せない小さな粒子が振動を続けています。それが私は善良な人間ですと言い続けているものです。

もう一度問うてみようではありませんか。罪とは何か、罰とは何か。罪とは生きていること、罰も生きていること。それ以外は考えられません。罰が人に降りかかります。だから人は罪を思うのです。罪がある、だから罰を受けるのではないのです。それは後から気付く因果関係に過ぎません。もっと言えば、そうやって安心したに過ぎない。罰がある。だから罪を探すのです。

思想も金も妄想も罪にはならない。罰でもない。生きているから罰がある。生きているから罪がある。では死ねばいいのか。死ねば罪は消えるのか、罰はそこで終わるのか。いいや、そうではありますまい。

罪も罰も人間が生きる本質には何も関係していない。

はっ、はっ、はっ、そう思いませんか。

あなたはドストエフスキーのエピローグを読みましたか?

これがこの小説の全てでありましょう。そして読者の誰もがここで騙されてしまいます。

このエピローグこそはドストエフスキーが読者を前にしてほくそ笑んでいる所です。君たちが望む気持ちのいい恋愛話なら私はいつでも書けるのだ。何の疑問もいだかなくて済む話を書くなど簡単な事だ。

だが私はそれを書かない、だから此処まで付き合ってくれたあなたたちに少しだけサービスをしよう。

エピローグはまさにそういう話ですよ。

それは救いでもなんでもないんですよ。かくも格好よく終わるなんて容易いものだと読者を前にして優越感を味わっている作者がいます。その姿が見えて来るじゃないですか。全ての読者がここで敗者になるのです。

罪と罰 あらまし - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 (上) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー
罪と罰 (下) あらすじ - フョードル・ドストエフスキー

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