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2013年12月29日日曜日

信なくば立たず - 孔子

巻六顔淵第十二之七
子貢問政 (子貢、政を問う)
子曰 (子曰わく)
足食足兵 (食を足る兵を足る)
民信之矣 (民これを信ず)
子貢曰 (子貢曰わく)
必不得已而去 (必にしてやむを得ず去らば)
於斯三者 (その三者において)
何先 (いずれが先きや)
曰去兵 (曰わく兵を去る)
曰必不得已而去 (曰わく必にしてやむを得ず去らば)
於斯二者 (その二者において)
何先 (いずれが先きや)
曰去食 (曰わく食を去る)
自古皆有死 (いにしえより皆な死あり)
民無信不立 (民に信なくば立たず)

民に信なくば立たず、これを国民の信頼を得なければ政治はできない、と解釈する人がいる。だが果たしてそういう言葉であろうか。

民の支えがあるから政治が成り立つという解釈はいかにも民主主義によく合う。だが少し日本的過ぎるかも知れない。民主主義の根幹は信ではない。社会契約説が訴えるように、民主主義の根底には自然状態があり、その上に合意がある。だから民主主義は革命権を当然の権利として内包しており、その権利の穏やかな行使が選挙であり政権交代であろう。

易姓革命と民主主義は構造は似るが演者が異なる。
項目易姓革命民主主義
合意した両者天と王人民と為政者
根拠を与えるもの合意 (契約)
正しさの根拠天の支持なし
統治される者人民
倒す権利を有する者天に変わっておしおきする者人民
倒し方武力投票

孔子曰く。食があり軍があれば民はその政を支持する。例え領土を失おうとも政を支持する。餓えて死のうとも政を支持する。民が支持するから政には意味があるのだ。これは政治を国に置き換えても問題ない言葉に思われる。しかし神に置き換えるとおかしい。

食があり軍があれば民は神を信じる。例え領土を失おうとも神を信じる。餓えて死のうが神を信じる。民が信じるから神に意味がある。これでは何かおかしい。神を天に変えても同じだ。

ならば神への信仰と政への信は違うものか。たぶん、そうであろう。

子貢が政について問い孔子が答える。政について教えてください。子曰わく。

どれかひとつを取り除くとしたらどれですか。3つあります。どれが最も大切ですか。子貢の問いの意味は分かっている。彼の質問の愚かさもよく知っている。どれが大切かではない。私が語ったものと政がどう関係しているのか。それについて分かった気になっている。当然だと思い疑わない。だから彼はその中でもっとも大切なのはどれだろうと疑問に思うのだ。よし、ならば答えよう。だがその質問が既に違うのだ。これを政治の大切な要素だと思っていては足りない。

必要なのは信であって民ではない。民は置き換え可能なのだ。餓えぬともどうせ民は死ぬのだ。それが真意だろうか。

人の死よりも人の信を重視すると言う話は、神風特別攻撃隊を思い起こさせる。あの時間の人々は信なくば立たずであった。命を引き換えにしてさえ。それに人々は耐えられただろうか。それは今も自爆テロという形で世界を覆う。

信なくば立たずとは人々の支持を為政者が受けるという話ではなかろう。現実的な利益よりも、信という、幻想とも架空とも呼びえる、目に見えないもので人々を繋ぐ事ができる。その不思議さや恐ろしさであろう。

孔子はこう言う事も出来た。

政治で一番大切なのは信じさせることだ。領土を失おうとも飢え死にさせようとも、信じ込ませる事は出来る。それさえあれば、彼らはどこまでも付いてくる。政治とは信じさせる事だ。

それで餓えて民が死に絶えたらどうなるのか。本当に信なくば立たずであろうか。民なくば立たずではないのか。政は民を必要とするのではないか。為政者こそが民の信を必要とする。民に信は必須でない。だから立たずなのではないか。

信を運搬する者は民である。民が絶えた時、政はどうなるのか。信を失えば食も軍も意味はないかも知れない。だが民を失えば信も失われるのではないか。

信とは何か。

信用とは失敗を許さない事、信頼とは失敗を許す事。

信用は失敗がない前提、信頼とは失敗を許容する前提。

どちらも始める前の心構えに過ぎぬ。

信用している時に「やっぱり」はありえない。信頼しているなら「やっぱり」はある。

信用している時に「まさか」はある。信頼しているなら「まさか」はありえない。

一般的に信頼は強い。信用は脆い。

一般的に人は生れた国を信頼する。隣りの国を信用する。

一般的に人は家族を信頼する。他人を信用する。

信用も信頼も生れた時間や場所から始まる。

人はそれを足場にして信頼や信用を拡げてゆく。

信用と信頼の違いが、同じ言葉を違った色にする。同じ行動を違った意図にする。信用だけでは足りぬ、信頼だけでも足りぬ。どちらも心構えだから、それは安穏と安心の根拠にならない。

一度失ったら取り戻せないものがある。それだけは疑いようがない。

なぜ孔子にはそれが信であったのか。

人はパンだけで生きるものではない

と同じ話がここにある。パンだけで生きるものではない、しかしパンなく生きてゆく事もできぬ。ならば、パンとどちらかしか、と問われればなんと答えるか。問われたのがパンでなかったから答える事ができる。もしパンなくば人は如何と問われれば、答えることなぞ出来やしない。ケーキを食べればいいのにと言うわけもいくまい。

食と信だから信と答えた。その逆はない。食のみで生きるものではないと答える代りに、どうせいつか人は死ぬのだ、と孔子は答えた。どちらも言っている事は同じである。

兵も食もある事が前提なのである。パンが有る事が前提なのである。それでも失えばどうなるか、と問う。架空である。石をパンに変えよ、架空の話しならば何とでも答えられる。偽ならば真。論理包含である。だがそう答えなければ満足せぬ人の心がある。

人はパンによって生きているのだ、当たり前じゃないか。それでは満足できぬか。何を探しているのか。

その当たり前が霞んでゆく。信よりも食に決まっている。だが食は目に見える。信は目に見えない。分かりやすいのは食である。その当たり前な平凡に納得できない。だから信の理由を語ってやらねばならない。そうしなければ立たない。

孔子は答えを拒絶した。

孔子が民に信なくば立たずという時、この民は既にシャレコウベとなって亡霊として立っているのだ。

民に信がある為には生きてなければならぬ。生きている民の信を得たいならば、軍も食も必要であろう。死んでも構わぬと言うか。民に死ありではない、皆死ありである。誰が民が死に絶える事を望むか。

信があれば民はいらぬと言うか。政はそうなり易いのだ。その恐ろしさを知っているか。

信がある。だが民に信を求め始めれば民を見まい。

民と信、子貢はなぜいずれが先かと問わなかったか。

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