真夜中のメッセージ
彼女が優れた歌い手であるかを僕は知らない。でもこの楽曲には心地良さがある。声は人それぞれで違うものだ。声は良いでも悪いでもなければ好き嫌いでもない。声とは自分の人生の記憶そのものだ。顔を忘れても声は忘れない。この曲は前期アルバムの中で一番いいかも知れない、と何度も何度も何度も繰り返し聞いた。高価ではないスピーカーで十分だ。過去の時間に凍結されているものが再生される。どうあらがおうとも過ぎ去ってゆく時間の中で、そこに立ち止まる事さえ出来ないのに、音は残る。この曲は今でも聞かれていると思う。少なくとも僕が。
あなたを愛したい
「あなたの夢でふと目覚めた夜明け」という歌詞が「あなたの胸でふと目覚めた夜明け」と聞こえる。これは良く似た言葉を使った連想だと思う。この連想が、あなたの胸に抱かれていた夢から目覚める、という印象を与え、夜明けという時間が暗示をより強くする。もちろんこれは狙った効果であろう。この曲のもつ艶めかしさと清廉の同居はこうやって生み出された。それに加えて、先にある悲しみの予感。この曲の編曲はとても素敵だと思う。南野陽子の声を生かしたのは萩田光雄という人だ。何かのストーリーの中に存在しているかのような歌。この頃に彼女の声が変わったように思われる。星降る夜のシンフォニーから夜明けまで来た。
涙はどこへいったの
歩いてきた道がひとつの頂点へ達する。終わりの姿に辿り着けばそれは最後の始まりだ。これまでの路線が遂に来た場所ではないか。この曲のあちこちにこれまでの断片が思い出のようにある。曲がり角からここまで来た。僕にはこの曲が映画色の雨 (GELATO) から連綿と続くその最期にあるように聞こえる。
トラブル・メーカー
この意識的な題材はパッシングを受けていた当時の苦境とは裏腹に心地よい曲に仕上がっている。歌詞も曲もコミカルに楽しく聞いていると笑ってしまう。これはトラブルメーカーである彼女が自分達を笑おうとしているのではない。彼女たちが視聴者に笑ってもらおうと投げかけた曲だろう。そんな製作者たちが集まった風景が見えてくる。ぜんぜん悪くない。明るく楽しく踊っている現場の笑い声が想像されるような感じだ。
瞳のなかの未来
水、夜、月、雲、砂、演劇の舞台。砂漠の行進曲か SF のシーンのような賑やかさ、流れてゆく。何かの始まりのようだ。透明感のある歌声がある。なにかしら母性さえ感じられる。少女漫画であるかのようだ。
メリークリスマス
この曲の魅力は歌詞にもあるしストリングスの響きにもある。世界の成りたちには哀しみがある、それだけを込めた曲だ。だがメッセージと音楽の間には何もない。語感やリズムが言葉の意味を溶かして行く。歌詞の意味は音楽の力で空に溶けてゆく。クリスマスの日にふいに目にとまったテレビの映像。飢えた子どもたちに思いを馳せる。パーティに行くまでの途中の姿。この曲の魅力は、ポップスがこの様なテーマとどう向き合うかを問いかけた編曲、萩田光雄の姿だと思う。テーマ云々よりもこのようなテーマを乗せてどう音楽が進行するかに対する作り手の答えとしてこの曲は楽しい。
メッセージではなくそれに戸惑う女性の姿がいいのだ。楽曲としてポップスを選ぶことが前提にあったんだと思う。ポップスはどうやって世界と向き合うかというこのチームとしての答えなんだろう。テーマを乗せたストリングスが心地いい。これらの曲には歌手の姿よりもチームとしての姿が見えてくる。どのようなテーマであれ彼ら彼女たちを駆り立てのはいつもと同じように仕事をしようという揺るがない姿だと思う。神様への問いかけでも問題の提示でもなくただ祈りのひとつの形として。
6pm. 24. DEC
きよしこの夜という曲を悪戯した。
僕らのゆくえ
ドラマのような景色の曲で彼女が表現するのは感動ではない。彼女は虚構の世界の演者にはなり切れない。彼女はいつでも自分でしか居られない。その彼女の声の透明感が彼女の母性そのものだ。その透明感に風が似合う。彼女の中にあるものが風の形になる。
ダブルゲーム
幼さがを覗かせる情念をどう歌おうとも曲が求める姿は表現できまい。この歌でも彼女は彼女自身でしかいられない。どう歌おうとも彼女自身にしかならない。どうやってもドラマにならない。虚構の世界の人が演じられない。だから彼女の中からは感動が生れない。彼女は風にしかなれない。それは彼女そのものであり、それがいい。
へんなの!!
発表された当初は顰蹙を買ったのだろう。誰もがイメージの違いからびっくりし離れてもいった。みっともない、というのが当時の彼女の姿であった。だが、そういう周りの事情が流れ去ってしまえばこれ悪くない曲だ。歌い方が変幻で面白く決して悪い印象はない。当時の僕にはこれを聞くための準備が出来ていなかった、変わったのは彼女ではなく、受け入れる側の勝手だった。
当時の商業的な失敗など関係ない。今や失敗も古くなってしまえば新しい。当時はなんとも痛々しく感じたものだった。決定的に彼女の終わりを告げた曲とも言えるだろう。そんな中でも彼女は手探りの中で幾つもの顔を披露した。当時は虚像と実像の間でただひとり演じていたのだろう、誰も足を止めなかったにも係らず。それだけの事じゃないか。虚像は流れ去りもう関係ない。歌というものは楽曲としてだけではなく関係性の中でも存在する。その関係性が失われて今はただ聞く。
耳をすましてごらん
どちらかと言えば母を訪ねて三千里。
夏のおバカさん
年齢というものがよく出ている。大人だけどわずかに幼さが残る女性。これからどうすればいいんだろう、それが分からず立ち止まっている女性。明日には歩き始めるのだけど今日は立ち止まる。そんな声だと思う。彼女はここまで来た。彼女が最後に見せた姿に決して嫌な感じはない。この透明感は好きだな。誰かと何かの共感を生むわけではないけれど自分の足跡だと思えばとっても大切なものじゃないか。良い事も悪い事も忘れるしかないじゃない、忘れられないだろうけど。だからそっと取っておこう。
思いのままに
彼女の母性は気付かない。この世界は彼女に母の姿を望まなかった。だれも透明なものは見えないと思っている。そうして彼女の母性を見なかった。彼女の姿はどこへ行くのだろう。不意にナウシカ的な母性というものが思い浮かんだ。不思議だ、なぜ彼女は最後まで幼さを残していたのか。それは何かの偶像であろうか。
彼女の中にある幼さがもしなかったら、これらの歌を今日まで聞いてきたか疑わしい。彼女はこういう音の楽器だったのだ。どのような音色を出そうとも楽器以外の何者でもなかった。幾つもの可能性が消え去って残ったものがこれだ。それでもう十分じゃないか。
過ぎ去った時間に立ち止まったまま
君の歌声が変わらない
怒ったり笑ったりを忘れてしまっても
君の歌声だけは覚えている
もしも遠く彼方に消えてしまっても
またどこかで君に会えるかな
君と同じ時間の中に生れたから
探す事も別れる事もできたんだ
ガラスの中で君の姿を探してる
君が置き忘れたものを探してる
こうして遠くに時間が流れている
そうして僕はすぐ側にいる
遠くから聞こえる歌を聞いている
君が残したものを僕は聞いている
こうして遠くに君が消え去っても
それでも僕のすぐ側にある
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