刑事裁判を考える:高野隆@ブログ:「裁判所の電気」使用禁止処分(4):特別抗告棄却決定
事の起こり。
刑事裁判を考える:高野隆@ブログ:「裁判所の電気」使用禁止処分
考えるに
裁判官景山太郎が裁判所内での弁護士の電気の使用を禁止した。この電気の使用とはパソコンの電源であって、当然ながら電源なしではパソコンはそのうち使えなくなる。電気が発明された1900年初頭ならこの禁止も分からないではない。しかし今は2021年である。その電気代を払うのは裁判所でありその予算からである。それを部外者に使用させる訳にはいかないという主張は、もちろん、裁判所の運営に関する指摘である。
国家は裁判においては公平な裁判となるよう必要な措置をしなければならない。それなくして司法の独立は維持できない。もし国家がそれを疎かにする事で公平な裁判が望めないなら、それは司法の危機である。その現状に裁判官が屈服する姿は見たくない。
少しでも裁判所のコンセントを解放すれば、見境なく全員が電気を使用するようになるだろう。なかには必要もないのに私用の携帯の充電まで行う人間が出現する。よって、裁判官、弁護士、検察の如何なるものも裁判所のコンセントから私用の機器の充電は許すべきではない、それが適切な予算の使用である。この主張は決して間違ってはいない。少なくともひとつの大切な視点である。この主張をするのがもちろん行政の人間ならば。
裁判官の判決は全てを自らの良心に依る。それが憲法が求めるものである。よって自ら行政の犬に成り下がる裁判官がいたとしてもそれが彼/彼女の良心ならばそれを咎める事は出来ない。クーデター政府でさえその妥当性を認める裁判官を必要とするのと全く同じ原理である。
令和3年(し)第885号この定型文が意味するものは、上告は405条に該当しないである。憲法違反、憲法解釈の差異、過去判例との差異のいずれとも該当しないという判決である。
本件抗告の趣意は、憲法違反をいう点を含め、実質は単なる法例違反、事実誤認の主張であって、刑訴法433号の抗告理由に当たらない。
よって同法434条、426条1項により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。
令和3年10月27日
裁判長裁判官:岡村和美、裁判官:菅野博之、三浦守、草野耕一
電気使用禁止処分特別抗告棄却決定20211027
刑事訴訟法
第405条(上告のできる判決、上告申立理由)
高等裁判所がした第一審又は第二審の判決に対しては、左の事由があることを理由として上告の申立をすることができる。
憲法の違反があること又は憲法の解釈に誤があること。
最高裁判所の判例と相反する判断をしたこと。
最高裁判所の判例がない場合に、大審院若しくは上告裁判所たる高等裁判所の判例又はこの法律施行後の控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断をしたこと。
第433条(特別抗告)
この法律により不服を申し立てることができない決定又は命令に対しては、第405条に規定する事由があることを理由とする場合に限り、最高裁判所に特に抗告をすることができる。
前項の抗告の提起期間は、5日とする。
第434条(抗告に関する規定の準用)
第423条、第424条及び第426条の規定は、この法律に特別の定のある場合を除いては、前条第1項の抗告についてこれを準用する。
第426条(抗告に対する決定)
抗告の手続がその規定に違反したとき、又は抗告が理由のないときは、決定で抗告を棄却しなければならない。
抗告が理由のあるときは、決定で原決定を取り消し、必要がある場合には、更に裁判をしなければならない。
例えば、裁判官が脅迫されている場合、検察官、弁護士が十分な意見を述べられない場合、提示された証拠が無視される場合、それは明らかに司法の信用性を失墜させる。それを無視する事は司法の崩壊と等しく、相手がどのような武装勢力、革命軍、内乱であってもこの原理は揺るがない。
すると、パソコンの使用を著しく制限する事は、司法の存続にとってどれくらいの問題であるかと言う話になる。必要なら予備のバッテリーを幾つでも持ち込めば良い。それは誰もが経験する日常茶飯事である。大事な会議や発表会がある時は、機能性パンツを履いて挑む人もいる。準備とはそういうものだ。
よってパソコンのコンセント使用は、本当に裁判の遂行上必須であるかという話になる。停電したから弁護できませんは、少し情けない。
コンセント禁止が司法の独立性を激しく傷つけたとは言えないのは自明だ。これが今回の高裁、最高裁の判断になる。
電気を禁止する裁判官が次に弁護士の発言までを禁止する事はないだろうか。あらゆる主張を無視して自分の都合をよい判決をしないだろうか。その危険性はあるのか、ないのか。
もちろん、検察には許可して弁護士には禁止したという話ではないだろう。
裁判は、裁判官と検察と弁護士で作り上げるものである。裁判はこの三者の一種独特な協力関係がないと成立しない。誰かが誰かを不信に感じたり、裏切ればその時点で裁判とは呼べない儀式に成り下がる。
では、電気使用の禁止は不信の行為にはならないのか、という結論になる。もし禁止するなら何故予め通告しなかったのか。もしそれをしないなら、それは裁判所の無能である。なぜ無能な裁判官に裁判を託す事が許容できるのか。ならば決して看過できない事例ではないか。無能と告白した者に裁判を託す正当な理由は人類がこの先一万年を生きようとあり得ない。
なぜ裁判官には電気の使用を禁止する命令を出す権利が有するのか。もちろん、裁判官にはの裁判を進行する権限がある。それを著しく阻害する場合は必要な措置を取る事も許されている。そこには全員の良識と合意があるはずである。
では、コンセントの使用を禁止する職能的な権限はいつ国家が裁判官に与えたのか。どの法が与えている範囲に入るか。コンセントの使用が裁判の進行に何らかの支障を来すとは考えられない。電気を使用されて困るのは裁判官ではない。その裁判でもない。裁判所を運営している人たちである。
もし裁判所の事務員たちが困る、辞めてくれというのなら話は分かる。それは行政上の問題であり、使用したい人と使用させたくない人との間で実務的な協議を行い、最後は金を払うから認めてくれ、それならこれくらいの請求で、辺りに落ち着けば何も問題はない。
つまりこの裁判官は司法の範囲を超えているのではないか、という疑念である。彼が指摘したのは明らかに行政に係わる問題である。なぜ司法の者が司法の場で行政に関する命令を出せるのか。
もし裁判官が自分の権限を越えて命令したのならばこれは看過できまい。裁判官が有する自由は無限ではない。この命令の根拠はどこにあるのか。その妥当性は何によって支えられているのか。この権限の範囲に関する闘争になるはずである。裁判官だから国家には敵しないはずがない、は夢想であって、国家の崩壊は必ず司法から始まる。
裁判官がもし司法の範囲を超え行政官の行動に出たのならこれは三権分立への重要な挑戦であり、国家として看過できるはずがない敵対行為である。なぜそのよう疑念ある行為が最高裁で争わずに済むと考えられるか。
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