嫁殺しの男が嫁の復活を画策しゼーレの計画に注目する。楽園から追放された時に人類は別の生き物に変わった。もういちど元の生き物に戻ろうとするゼーレ。それを利用し嫁をサルベージしようとする男。
使徒:狭義ではキリストの12人の弟子、広義では「遣わされた者」。故に使徒は誰かに遣わされた者でなければならず、その背景にキリスト教の世界がなければならぬ。ここからユダヤ、キリスト教の原罪が物語を支配する。
従ってエヴァンゲリオンとは原罪から人間を救う物語でなければならぬ。人々を苦しみから救う。それが補完計画というキーワードの説得力である。
それが知らされずに計画されている。だから陰謀なのである。例えそれが正しいとしても、不信や盲目を生み出すだろう。そこに己のエゴからその計画を遂行しようとする男がいる。かくして様々な人間の業が絡み合い物語を複雑にする。
人が原罪から救われるために補完がある。この補完する力と使徒との間には何らかの関係がある。
- 原罪
- 使徒
- 補完計画
もし神が全能であるなら、人がリンゴを食べることも初めから知っていたに違いない。楽園から追放されるのもヒトが土に還るのも、最初から仕組まれていた事だ。人は原罪から逃れられない。それが神の計画であった。それを補完する。
「原罪の汚れなき、浄化された世界だ。」「かつて楽園を追い出され、死と隣合わせの地上という世界に逃げるしかなかった人類。」
人類は楽園から追放され、そこにはふたつの選択があった。神に許しを請い原罪を取り除いてもらうよう生きるのか、それとも神との関係を断ち自ら原罪を取り除くべく生きるのか。
- 神に許しを請う
- 神との関係を絶つ
もし知恵の実を食べたのが原罪ならば、知恵を返し善悪を知らない状態に戻ることもできたろう、それとは逆に善悪の向こう側に自ら辿り着くこともできるだろう。それが物語の方向性になるかと思う。
- 善悪を知らない世界に戻る
- 善悪の向こう側に行く
ジャイアントインパクトが人類を生み出した。ならばセカンドインパクトは何か。少なくとも太古の神話に使徒は登場しない。セカンドインパクト以降から使徒は地上に出現するようになった。だからセカンドインパクトを使徒の楽園追放と呼んでも差支えないのではないか。
- ファーストインパクト - 人の楽園追放
- セカンドインパクト - 使徒の楽園追放
新たに楽園を追放された使徒が楽園に戻りたくて人類を襲撃する。そしてネルフのセントラルドグマには何かがある。
アダム、われらの母たる存在、アダムより生まれしものはアダムに還らねばならないのか、人を滅ぼしてまで。うっ、ちっ、違う。これは、リリス!そうか、そういうことかリリン!」
使徒は楽園に戻るためにアダムを欲した。しかしそこにあったのはリリスであった。リリスは使徒を呼び出すための囮だった。リリン(人間)は何を計画していたのか。
なぜ使徒を誘き寄せ破壊する必要があったのか。そこに人類補完計画の中核がある。
- アダム
- リリス - 生まれながらに知恵を持つ
- イブ? - リンゴにより知恵を持つ
「ベン・シラのアルファベット」によればリリスは女として創造されたアダムの最初の妻である。イブのようにアダムの肋骨から生まれたのではない。そしてアダムに対等の立場を要求する。
リリスは誕生した時から知恵があったのである。しかしイブにはそれがない。無邪気にアダムとリンゴを食べる事でイブは初めて知恵を手に入れたのである。
楽園追放とはつまりイブの知恵に対するものである。なぜエヴァンゲリオンにイブが登場しないのか。そこに何か補助線がある気がする。綾波の無表情さは知恵の実を食す前のエバの姿ではないか。リリスとイブの対比がエヴァンゲリオンの物語ではないだろうか。
楽園から追放された人類に死が訪れた。それまでは人類も不死の存在であった。イブが知恵を手に入れた時に人は死にようになった。だから人は不死を求めるのである。楽園に戻るか、それとも手に入れた知恵で永遠の命を得る方法を見つけるか。これがゼーレの求めた考えと思われる。
人類補完計画とは人類を楽園に戻すための計画である。ではなぜその計画に使徒が必要なのか。
人類が楽園に生きていた頃、その楽園には他のものたちも住んでいたに違いない。その中に使徒も居たのではないか。人が楽園から追放された時、使徒から生命の実を少しだけ盗み出していたとしたら。これが人類の原罪ではないか。
- 人類の楽園追放 - 生命の実の一部を盗みだす - 原罪
- 使徒の楽園追放 - 生命の実を取り戻す戦い
生命の実を盗まれた使徒はどうなったか。使徒の生命の実は不完全になってしまった。そのため彼らもまた死の存在になってしまったのではないか。使徒にも死が訪れるようになった。彼らの生命の実は不完全になってしまったのだ。
楽園にいる間はそれでも死から免れられたのかも知れない。しかしセカンドインパクトで使徒は楽園から追い出されてしまった。使徒にとって死は受け入れがたいものであろう。だから人類が盗んだ生命の実を取り返そうとするのだ。
盗んだ生命の実がひとつに戻りたがっているから人は孤独を感じるのである。
人類は使徒を破壊する。使徒が居なくなった場所に人工的な使徒を配置する。そこで生命の実を返す。人為的に生み出された楽園の中で人は孤独を感じることなく永遠の命を手にすることができる。これを人類補完計画の骨子とする。
人には盗んだ生命の実を使徒に返す気などなかった。人類補完計画は使徒への贖罪でさえない。彼らを利用し己れの業で楽園を作り出そうとしているのである。
- 使徒の破壊
- 人工的な依代による人工的な楽園の生成
- 生命の実の統合
エヴァは生命の実を持つのだから使徒の抜け殻なのだろう。その抜け殻の中に人の命を貸し出したものがエヴァンゲリオンである。エヴァンゲリオンは人類が作った人工的な小さな楽園とも呼べる。エヴァに取り込まれる事がひとつの楽園である。
人はこの星でしか生きられません。でも、エヴァは無限に生きられます。その中に宿る人の心とともに。たとえ50億年たって、この地球も、月も、太陽さえなくなっても残りますわ。たった一人でも生きていけたら、とても寂しいけれど、生きていけるなら。
微かな楽園の記憶が現実よりも違う何かを望むのなら、この世界を捨てて別の世界に行こうとする人が居るのは当然だ。それは現実よりもインターネットの中にリアリティを感じるオタクのように。現実以外の何かを理想とすることを求道と呼ぶのではないのか。
エヴァンゲリオンからユイを取り戻すとは、ユイを楽園追放する事と同じである。ゲンドウの計画はここにあった。人類補完計画がエヴァンゲリオンを使って楽園の中に取り込まれる事なら、ユイを取り戻すのはその逆である。つまり人類補完計画の符号を逆にしたものがゲンドウの計画なのだ。
その符号の違いはリリスとイブを取り違える事で実現する。第二使徒であるリリスが実はイブであったという解釈も可能であるし、イブの死骸からエヴァンゲリオンを作ったと解釈してもいい。
そしてユイを楽園追放した時にユイの魂を受け入れる肉体が必要となる。それが綾波レイだ。
- ユイ - エヴァンゲリオンから楽園追放される
- 綾波 - 追放されたユイを取り込む存在
綾波は魂の容器だから人形の方が良かった。もし綾波が魂を持ってしまったら、それはイブが知恵の実を食べたのと同じ事が起きてしまう。ユイを取り込んだ後の綾波はどこに行けばよいのか。綾波が楽園から追放されてしまうのだ。
サードインパクトによって生命の実がひとつになる。その瞬間にユイをサルベージして綾波の中に取り込む。それがユイを取り戻すゲンドウの計画であり、ゲンドウは楽園など欲していなかった。
ゲンドウの行動はただユイを失った寂しさから、つまり全体ではなく特定の個とだけひとつになろうとしているのである。
- ゼーレ - 全体でひとつになろうとする、全員で楽園に帰ろうとする
- ゲンドウ - ユイとだけひとつになろうとする、個により楽園を得ようとする
どちらも原罪を乗り越えていない。どうすれば人は原罪を抱えたまま生きてゆく事ができるのか。そのためにはキリストが必要なのかも知れない。キリストというピースが欠落したままエヴァンゲリオンは終われるか。
- キリスト的な救い
このような多宇宙のような様々な解釈がなされた場所に多くの観客が立っている。誰もが自分なりの解釈で世界観を作り上げ、その結末を待っている。
- さらに広い世界が出現する、仏の掌
- 異なる次元や世界へ移動する、別次元
- 未来へ希望を託す、再出発
- 最初からやり直す、初めに戻る、輪廻
- 破滅、別れ、死、終末、絶望
物語には終わらせ方というものがある。観客が終わったと思うためには何かが必要である。それは何か。
疑問だらけであれ、意味不明であれ、謎解きがなくとも、終わりを見た時に観客はそれを受け入れる、または見放す。それが終わりというものだ。終わりを拒絶されたのがエヴァンゲリオンであった。「世界の中心でアイを叫んだけもの」に何が欠けていたのか。
一体この物語はどういう世界であったのか。これでは世界が完結していない。
あの最後の放り投げに満足したのはごく一部であった。この作品に庵野秀明を見ていた人は十分に満足したと思う。作品を見ていた人には足りまい。
この作品を終わらせないのは監督自身だ。物語を回収しないのは白黒結論をつけてしまうのを恐れているからではないか。
どのような物語であれ終わると陳腐になるものである。何も付け加える事ができなくなるから。物語の終わりには作家は死なねばならない。作品に生命の実を返すから。そして作家は違う世界へと行く。
作品がいつまでも終わらないのは作家が不死を願っているからだ。だがキリストは死なねばならなかった。蛹が死んで蝶は生まれるのである。死ぬからこそ不死である。
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