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2014年9月28日日曜日

述べて作らず、信じて古を好む - 孔子

巻四述而第七之一
子曰 (子曰く)
述而不作 (述べて作らず)
信而好古 (信じていにしえを好む)
竊比於我老彭 (ひそかに我が老彭ろうほうに比す)

述べるとは、古人から伝わるものを伝えると言う事。作らないとは、そこに自分の言葉を継ぎたさないこと。国語辞典によれば、
古人の言動を伝え、述べるだけで、作り話はしない。天下の道理は、古人の論説中にすべて包含されているという意。孔子が学問に対する自分の態度を語った言葉。(大辞泉)

そういう孔子の言葉が残っている事は不思議だ。彼の言葉は残り、古の人の言葉を知る人は少ない。

孔子が信じたものは何だろうか。古人の言葉を信じているのか。古人の言葉をそのまま受け取るという自分の読み方をだろうか。彼は作らずと言う。しかしその古人の言葉の読み方は恐らく独特なのである。

述べるためにはその前に読む必要がある。孔子は古人の言葉を何度も読み返しただろう。読む度に様々な思いがありや発見があっただろう。どのような解釈も受け入れる強さが古人の言葉にはある。古人の言葉には何も継ぎ足さない。古人の言葉には何も継ぎ足す必要がない。私の読み方に表れたものは正しく古人の言葉の中にあるものだ。それを信じる。

孔子が読む古人の言葉は他の人が読む言葉と変わらない。それをありのままに読むことは難しい。何故なら作らずに読む事は出来たとしても、作らずに語る事は難しいから。誰も自分の考えから逃れられない。自分から逃れられない。誰もが読む。言葉は同じだ。その同じ言葉を述べる時、(この文も同様)、誰もが自由な解釈を、誰もが流布する解釈を、私を、述べる事になる。

述べる事は難しい。古の言葉を作らずに述べる事は難しい。それが孔子には出来たのだろうか。私にはできる、これはそういう言葉だろうか。ではそれが思い込みではなく、正にそうであると私が言えるのは何故だと思うか。それが何もないのだ。

私は古を深く愛する。私の読み方がどうであれ、世人とどう異なろうとも、確かに私は老彭と語り合えるのだ。きっと馬鹿だと思われるから他の人には言わないのだけれど。


君たちの言葉は作り過ぎだ。それは古人の言葉を述べるというよりも、自分の言葉である。自分の言葉を述べるのに古人を利用しているのだ。私は古の強さと美しさと正しさを、存在を信じている。それが好きである。だからそれを自分のために利用したいとは思わない。だから私が述べる時は人知れずただ(自分の中で)老彭と語り合う時だけだ。

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