中間報告 / 最終報告
技術者の視点から、なんとも残念だ。政府事故調の中間報告にあった基本方針は削られた。それは残念と思う。この報告書が示したものは、この国にある科学とか論理性の欠落だ。
事件の責任者を糾弾するのが目的ではない。もう一度同じことが起きた時に、次はもっと上手く動けるかを検証するのが目的ではなかったか。
責任者を追求しても仕方がない。何がどうなったのか、その過程でどう判断されたのか。間違った判断や行動が問題ではない。その判断の根拠を詳らかにする事が重要である。同じ根拠なら次も同じ判断を下す可能性が高い。そこで違う振る舞いが出来るようにするにはどうすればよいか。
技術者たるもの、時系列に並べ、ひとつひとつを検証するしかないのである。それ以外のどのような方法もない。棋士が棋譜を一手ゝ前に戻すように事象を前に戻して行く。
技術者ならば、技術的な対策しか見つけられない。人間の判断ミスが致命的であるなら、そうなってしまうシステム設計に問題がある。果たして、技術者から見てどうしようもない状況だったのか、それともまだ何か手があったのか。もちろん現場の人たちは懸命に打てる手を探し打ち出したのである。
リベンジするなら次はもっとましにしたい。それが大切だと思うのである。それは人の気持ちや心構えではない。それは工学による技術的な指摘でなければ意味がない。これだけ古い機械ならば、答えは単純である。最新式ならば同様の状況でどうなっていたか。それを検証するために何が起きたかをまず列挙しなければならない。
事故とは状況の変化に過ぎない。
- 事故は被害を生じる
- 被害とは物理的現象である
そこから事故を分類する。
- 人間では回避不能な物理的破壊を起因とする
- 人間から対策でき回避可能と思われるもの
堤防は被害を回避するための対策である。そこで堤防の高さや強度が足りないのは、回避可能と思われる。だがそれは無限の予算が有ると仮定すればの話しだ。現実的に高さが足りなかった事をどう考えるのか。そして堤防を超えられた時に、二の矢、三の矢が準備されていたこと、それが有効に動いたかをどう考えるかである。
対策にはふたつある。
- 事故の起きる前に打てた対策は何か。
- 事故の収束中に打てた対策は何か。
誰も前もって有効な指摘はなかったし、指摘したが無視された勢力も起きた時への準備も研究も皆無なのである。誰もがするかしないかのふたつしか考えていなかった。
問題を認識しながら対策がなおざり、お座なりになる事は十分に考えられた。結局は限られた予算に問題がある。無尽蔵の予算なら対策も出来たろう。だが現実は予算は限られており事故には間に合わなかった。自然に対して反論するなら地震が起きるのが早すぎたのである。
さて、我々はどうすればもう少し良い対策が打てただろうか。それを妨げた人間を見つけだし戦犯とすべきだろうか。見せしめか。結局は、変わらない。記憶が薄れ世代が変われば同じ事が発生するに違いない。故に終わる事のない改善の連続だろう。それが停止してしまう方がおかしいのである。
- どうすれば発見できたか。
- どうすれば対策できたか。
我々はこれだけの巨大な津波でなければ十分に対策してきたのである。数百年前なら何千人も死ぬような津波にも粛々と対抗し有効に対策してきたのである。だから突破された時に被害が甚大化するのは当然であろう。
- 今後の装置はどうすべきか
- 今後の装備はどうすべきか
- 今後の運用はどうすべきか
委員長所感に書かれているものはエンジニアの根底であろう。恐らくエンジニア魂を伝えたいのであろう。この事故は我々エンジニアの敗北なのである。それは前の大戦と同様に。我々は二度も繰り返してしまったのだ。
- あり得ることは起こる。あり得ないと思うことも起こる。
- 見たくないものは見えない。見たいものが見える。
- 可能な限りの想定と十分な準備をする。
- 形を作っただけでは機能しない。仕組みは作れるが、目的は共有されない。
- 全ては変わるのであり、変化に柔軟に対応する。
- 危険の存在を認め、危険に正対して議論できる文化を作る。
- 自分の目で見て自分の頭で考え、判断・行動することが重要であることを認識し、そのような能力を涵養することが重要である。
問題は限られた予算の中で取られた行動は、最大の効率と効果の交点である。問題の検証とは、自分が同じ立場ならまさにそう行動したであろう、その理解を得るまで追求する事である。
原子力発電分野では“ありそうにないことも起こり得る(improbable est possible)、と考えなければならない”と指摘された。どのようなことについて考えるべきかを考える上で最も重要なことは、経験と論理で考えることである。国内外で過去に起こった事柄や経験に学ぶことと、あらゆる要素を考えて論理的にあり得ることを見付けることである。発生確率が低いということは発生しないということではない。発生確率の低いものや知見として確立していないものは考えなくてもよい、対応しなくてもよいと考えることは誤りである。
さらに、「あり得ないと思う」という認識にすら至らない現象もあり得る、言い換えれば「思い付きもしない現象も起こり得る」ことも併せて認識しておく必要があろう。
「あり得ない」と叫ばないような技術者など信頼に値しない。しかし、有り得ないという理由から起きないと判断する技術者も信頼に値しない。全ての技術者の仕事は「あり得ない」と叫んだ所から始まる。
「あり得ない」と叫ぶには根拠が居る。根拠があるから「あり得ない」と叫ぶ事ができる。技術者はこの根拠を頼りに問題と取り組む。根拠があって初めて間違いに気付ける。
「ありそうにない」ことは「ある」。「ほとんどない」ことは「ある」。「あり得ないと思う」は「ある」。「起きえない」ことは「ある」。数学的に「ない」を正しく証明しない限り「ない」とは言えない。
我々のやる事には必ず失敗がある。絶対に誤動作しないシステムなど存在しない。だから技術者はその確率を 0 に近づける事しかできない。だから事故の可能性は常に「ある」。有り得ない事が起きる事を防ぐ手立てはない。
原子力は津波が来た時点で敗北は確定していた。そこからはどれだけまともに負けられるかの勝負であった。ならば勝負は地震が起きる前に決まっていた。あの規模の地震が起きればそうなるしかなかった。孫子のいう、戦う前に勝つ状態になっていなかった。
にも係らず、懸命に努力した人々が押さえ込んだ。もう一度おなじ事が起きたなら、今と同様であるか、もっと良く対策できたか、それとも悪くなるか。この経験は必ず次に生きる。そう感じる人々が今も動いていると信じる。
これらの報告書を読みながら、僕には今川義元の桶狭間の戦いを検証しても同じような報告書が出来るのではないかと言う感想がしつこく湧き上がった。結果が出た以上、何んとでも言える。答えを知っているものは常に傲慢である。過去を上手に検証するとは如何に難しいか。
この事故調査はファインマンのチャレンジャー号(ファインマン氏、ワシントンに行く)よりも遥かに難しいものであったに違いない。なのに政府、国会、民間ともこの論文ほどの面白さがない事を残念に思う。技術者を育てる良書が生まれなかった事を残念に思う。
この事故は我々の何も変えない程に小さいものだったのだろうか、大海の荒れ狂った波が引いてしまえばいつもの小さな波に戻るように、この事故も忘れられて平穏を取り戻してゆくのだろうか。それとも、我々はこの傷口からまだ目を背けているだけなのだろうか。
だが確実にこの事故を境にして新しい技術が生まれている。新しい取り組みを始めた人がいる。私たちは確かに、今もこの事故を受け止め続けているのである。
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