ぶつぶつダメ。見ていると蕁麻疹がでそう。それを想像してさらにゾクゾク。
その理由を考えるに、恐らく皮膚病がある。この形質は皮膚病を連想させる。恐らく、このぶつぶつへの恐怖感の根底には天然痘がある。そう思う。
多くの皮膚病は接触により感染する。この接触への防衛機制が心理化したものが潔癖症だろう。潔癖症の人で、免疫学を真剣に学んだ人がどれくらいいるか。もちろん、その道の研究者でも潔癖症の人はいるだろう、心理的な屈折の見事な症例である。
これらが恐怖となる原因は病原菌が目に見えないからだ。目に見えないから、忌避するしかない。遠ざけ、遠ざかる、時にそれは国家単位での差別にまで昇華する。体の中は目に見えない。だから長く治療法は、手探りのようなものばかりであった。
これは盲目な戦いであり、居るか居ないかも分からない場所に向かって除菌剤を吹き付け、除菌シートで拭く。吊り革には触らない、触れるならハンカチで持つ。
もし病原菌が目に見えるなら、吊り革が揺れる度に細菌が空中に放り投げられるのが見えるだろう、空中を漂っている病原菌が、人の呼気であちこちから流れ込んでゆくを目にするだろう。ハンカチの布地の間からは病原菌がどんどんこぼれ落ちて手に辿り着いてゆく。
誰が触ったかも分からないから触れない。触ると病気になる。これは皮膚病に限定された恐怖だ。若しあらゆる病原菌から潔癖でいたいなら、そこまで重篤化すれば、潔癖症程度の症状で済むはずがない。
配偶者に強者を選ぶ観点で言えば、社会が複雑化すれば、選択肢は免疫の優劣だけではない。資産や地位だって重要なファクターである。皮膚が美しい、肌がきれい、が免疫的に優れているという直感と結びつく様に、見た目が美しい、整った顔に惹かれる、はDNA発現の理想という直感と結びつく、そういう相手を選ぶ背景には、何かしら戦略的な意図がある。
逆に言えば、病気になる事、特に、すぐに分かってしまう皮膚病、または皮膚に症状が現れる病気は、それだけに問題とされやすい。触りたくない、汚い、は、それだけで戦略上の不利である。もし自分がそうなってしまえば。その深層心理が皮膚病や美醜に対して徹底的な忌避を生む原因ではないか。
誰だって触れないものがある。子供の頃に平気だったカタツムリも、今や触れない。排泄物、嘔吐物、ナメクジなどの軟体動物、プラナリアなどの扁形動物、芋々した虫、足がウネウネした多足類。父がヤスデを触っているのには尊敬した。
これらの恐怖は、ユングの言う集合的無意識か、それとも DNA に刻まれた本能か、免疫システムからの激しい警報か。
だけれども、子供の頃から忌避物だったのではない。だから遺伝子レベルで獲得された本能とは考えにくい。もちろん、メチル化によってある時からスイッチが入った可能性もあるが、そんな切っ掛けより、どこかで見た写真を、忘却するほど記憶の底に封じ込めたにも関わらず、時に意識を超え、体全体に感情として出現する、その可能性の方が遥かに高い。
そういった感情の心底にあるものは何か。死への恐怖?致死性の高い病気、事故は他にも山とある。だから、そこには死以上の何かがある。それをコミュニティからの追放と考える事は易しい。
もし罹患してしまえば、コミュニティから追及される。その場合は、家族とも引き離される。その恐怖が、病よりも余程強烈に人の奥底に刻まれているのではないか。
そうなれば追放されても仕方ないと考える自分がいる。体の表面に出現したものによって、追放されてしまう理不尽な運命を受け入れるしかない絶望。いくら知識で覆いかぶせても、その恐怖は現実になるまで消えない。
恐怖の正体は病原体ではあるまい。外側にあるものに反応する自分がいて、それが心理の奥底に沈む。それはきっかけに過ぎない。どうしようもない恐怖は、自分の中にある何かと対峙している証拠である。追放は、それほどの恐怖だから、神話の多くが重要なテーマとして描いたのではないか。自分の敵は自分であるとはそういう意味だろう。
trypophobia、trypo はギリシャ語で掘った穴、フォビア phobia は恐怖症の意味。日本語ならつぶつぶ恐怖症。
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