進化は、世代間の変化の呼称であるから、良いも悪いもない。適者生存の言葉通り、生き残るためには、様々な変化をする方がいい。がらがらと振ってみては現実の環境に放り出す。それで生き残るか、滅びるか、はたまた形を変えてゆくかはやってみればいい。もし少しでも太陽活動が違っていれば、全く異なる結果になっていても何も不思議はない。試してみなれけば分からない、当然の話し。
形質の消滅は退化と呼ばれるが、別に落ちぶれたのでも、後退でも劣化でもない。過去に戻ったわけでもない。ただ環境に適用した結果であり、不要だから失われた。生物は不要な形質にエネルギーを投入する非効率を嫌う。個体毎に少しずつ形質を変えて、その結果の生存率を計測する。もし生存率に影響がないなら、少ないエネルギーで構成できる方が有利である。それ以外の場所にエネルギーを投入できるのだから。この余裕がある分だけ生存率は高くなる方へ傾くはずである。
進化は、だから、個体の運不運さえも内包している。個体の形質とは何も関係ない、偶々いた場所、時間、行動が、生存を支配する場合がある。生き延びた理由は、ただそこに居なかったから。そんな経験さえも進化は取り込む。形質の有利さだけが生き延びた理由ではない。それでも、その生き延びた形質が伝わってゆく。だから本質として生きているものは絶対に圧倒的に統計的にも運がいい。
急激な変化に対応するなど、個々の形質だけでは適わないはずである。何度かの絶滅期を生き延びた種と滅びた種の間には、はっきりとした理由がある。だからといって、それが形質だけの問題とは限らない。住んでいた場所の違いが決定的だったりもする。
進化という言葉の拡大。
- 進化 - evolution
- 革命 - revolution
- 改革 - reform
- 改良 - improvement
- 開発 - development
- 成長 - growth
- 進歩 - progress
- 鍛錬 - training
- 変化 - change
- 誕生 - birth
生物学的な意味を超えて、個人、組織、商品、思想などにも使われる。この流れが、日本国内だけなのか、世界的な潮流なのかは知らない。スカイラインの究極の進化形。iPhone がこの先どんな進化をするのか。この市場は日々進化している。進化した代表チーム。国家の進化を見据えて。宇宙の進化。
進化という言葉の持つニュアンスが、それ以外と一線を画す。進化という言葉に込められた特別な何かがある。一体、それは何か。
車は改良されモデルチェンジしてゆく。スポーツ選手は鍛練して成長してゆく。プログラムは開発されバージョンアップしてゆく。進化には、進歩、成長、改革などの語感が全て含まれいるように見える。そしてどれと置き換えても構わない。成長という言葉は進化という言葉で置き換えられる。その逆はなさそうである。なぜ進化なのか。そのように使える事は、決して使う理由ではないはずである。
そこには進化だけがもつ独特の響きがある。我々の時代性と言ってもいい。我々は「進化」という考え方を当たり前に受け入れた最初期の世代だ。人間は神が創造しずうっと同じ姿であった。長く人間はそう考えてきたのに、猿に似た動物から進化し、それが今の我々であり、将来には、絶滅しなければ、違う種に変わっていると認識した初めての大衆である。
そんな考えが当たり前になれば、個人が成長しようが進歩しようが、文化がどれだけ続こうが、所詮それは現生人類だけの話である。進化と比べれば、時間間隔があまりにも短い。歴史の幅が小さい。いつか我々が人類以外の種に変わっても進化なら止まることはない。
この時間間隔の違いが、他のあらゆる言葉を駆逐しつつある。それが進化という言葉に潜在するイメージだろう。付け加えるならば、我々はまだ進化は素晴らしい、珪藻類、ヒト以外のあらゆる種の名前で構わないが、それよりも進化した人類はずっと優れているという古い考えを持っている。
この優れているという思想が進化という現象と実に相性がよい。だから優生学というような悲劇を人間は経験したのだが、このような考えはじきに淘汰されるだろう。珪藻類も同じ時間をかけ、同じように進化してきた、という考えがメジャーになれば。進化は優れているものを決めるシステムではないという考えが常識になれば。
ステージアップ、レベルアップ、上位方向への「異なる種への」生まれ変わり、Re-Birth、Re-Incarnation、どれも進化でなければならない。個体の成長程度であってたまるか。そういう幻想が今の我々の中にはある。
これまでの自分とは違う自分がどこかにいるはずである。かつては覚醒とか悟りと言っていたのではないか。平安時代の人は自分探しの旅に出る変わりに出家した。農村から飛び出して武士を目指した人たちも、自分探しの旅と言ってよかろう。
昨日の自分と今日の自分が同じ自分でいられるのは、脳が時間を流れとして認識し、昨日の記憶と今日の記憶が連続するように編集できるからだ。そのどこにも欠落がないと自己認識できるからだ。
だが、進化を求める自分が昨日の自分と同じでは困る。今日の自分は昨日の自分よりも優れていないのは嫌だ。進化がもつ優れた形質という考え方がそんな自分の願望とぴったりくる。優れているのは現在の環境に単に適応したからではない。それ以上の意味がある。今の生活に慣れただけではないか?いや今の自分が新しく進化したからだよ。
別に自分の居場所を探す旅なら、今の若者を待つまでもない。ギルガメシュだってそういう旅をしたのだ。自分を探す旅なら、見つかればそこで終わり。旅はずっと続く方がいい。自分から自分が逃げるのは容易い。
だから、自分探しで見つけた自分は進化し続ける自分だった。そうでなくちゃ困る。これが成長だと大人になったら止まってしまう。その後に始まるのは老化だ。これは実によくない。
進化だけが止まらない。進化だけが先に続く。進化だけが時間を超える船、そんな切望がこの言葉の中にある。そういうニュアンスは、従来ならば神だった。科学によって神が退けられたから、変わりに進化という言葉を使っている。
この先も続いてゆきたい、そういう願いをかつては神に祈った。祈る変わりに進化というシステムに託す。正月に美味しいこぶを食べる(子孫繁栄を願う風習)のと根っこにあるものはそう変わらない。
優れていなくてもいい、五体満足ならば。この五体満足に進化は含むのか。進化など、していようがしていまいが構わない。我々には、新しい種を迎え入れる準備が必要なのではないか。生まれてきた赤ん坊が、人以外の種である可能性もある。我々はその新しい種となる子を育てる事ができるだろうか。もし新しい種でないとしても育てられる種であろうか。托卵された子でも必死で育てるホオジロのように。
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