作品は「浦沢直樹の漫勉」を見る前から知っていた。ここで見せつけられた線の美しさに彼女を再認識した。上杉謙信が女であるという説は知っていた。さもありなんと思うが興味はない。
女であろうが、男であろうが、上杉謙信という人、彼を取り巻く人々が変わるわけでもない。もしそうなら、そうと知って動いた人々がいた。もしそうでないなら、そうでないと知って動いた人々がいた。歴史は微動だにしない。
謙信を女とすることで作品は面白くなる。それは当然だ。本当はどうだったのか。DNAを解析すればはっきりすると思うだろう。だが生物はもう少し逞しい。彼/彼女は両性具有だったかも知れない。まぁ、そうなればそうなったで今度は両性具有の謙信を描けばよい。
歴史をどのように理解してゆくかは難しい、だから面白い。資料が示すことが本当にそうであったか。そんなもの分かるはずがない。それでも資料以外の何を頼りになぞればいいのか。誰も信長の最後の気持ちが分かるはずがない。仮に本人に聞いても、焼け落ちようとする建物の中での言葉など、本心でもなんでもない。
もし生き延びればまた別の感慨が浮かんだであろう。歴史とは過去への驚嘆である。歴史とは過去への畏敬である。合理と不合理の行き交う。どうして、なぜ。その不思議さに誘われて少しでも近づきたい。だからといってイカロスの飛び方が唯一の方法ではない。
漫勉の映像から受けたインプレッションと誌面を見比べては驚嘆し感嘆する。これは新しい漫画の鑑賞だと思った。何より驚いたのは、雪花の虎を読んで受ける東村アキコの印象と、漫勉から受ける彼女の印象は全く違う。当たり前だが、実際に味わって、改めて驚いている。
作家と作品は違う。そういう話なら十分に知っていた。画家の手紙と作品、作家とその生活。だからといって作品から得られる東村アキコを虚像と呼ぶ気はない。
なるほど確かに「生きている人は何をするか分からない」。だけれども、それもこれも作品の存在による。もし作品が詰まらければ、決してこのような話をしてはいない。
上杉謙信の肖像画
この肖像画は長年好きでなかった。気持ち悪いとさえ思っていた。何もかもこの髭を書いた人が悪い。
だからおひげを消してみる。これは。。。画家は女に寄せて描こうとしたのだけれど、家老が来て、頼むからもう少し男っぽくしてくれと懇願される。画家は断ったが、どうしてもと折れそうにない。どっかを手直しするのは嫌なので、髭だけを加えた。最初は少しだけのつもりだったのに、もっと濃くしろ、もっと濃くしろとしつこい。もう、どうとでもなりやがれ。そんな物語があったのではないか。で、これを見た幕府の人も大笑いをしているという。これが違和感の正体だったらいいなあ。
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