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2015年10月11日日曜日

ルワンダ中央銀行総裁日記 - 服部正也

読んでいると手塚治虫のグリンゴの絵が思い出された。本書中の写真は手塚治虫の絵に似ている。著者は昭和39年に国際通貨基金の要請により日本銀行からルワンダの中央銀行に出向した。

当時のルワンダは世界で最も貧しい国であり中央銀行も如何にも牧歌的である。人材の枯渇も甚だしい。それが彼らの今であり精一杯の向上である。

そこに登場した日本銀行マン歴25年。著者の能力は彼の地では異次元である。どいつもこいつも素人だ。ヨーロッパから派遣された連中でさえ素人だ。と著書の目には映る。

ここは確かに異質だし遅れているが、それは同時代の日本と比較するからであって、日本の敗戦期や明治維新の頃と比べればそう変わるものでもあるまい。時間を遡れば大同小異ときたもんだ。それが著者のアドバンテージである。かつて歩いた道だ、よく知っている。

著者はアフリカに抱く偏見に強く異を唱えるが、偏見が強いのはヨーロッパの人々ばかりではない。まず本書を書くきっかけとなった偏見が日本人の偏見である。それを著者は非常に強い口調で戒める。

私はこの評論家の国籍を疑った。明治のはじめ、および終戦直後において欧米諸国では、日本に対して同じような議論が行われたのである。
「まえがき」より

本書の最大の魅力は、著者の能力にある。状況を把握し、予測を立て、計算して数字を出す。計画は実行され、その結果はぴたりと予想と一致する。そこに何の不思議も疑問もない。これは科学なのだ。そういいたげな書きぶりである。

経済の舵取りはもう漫画にすべきだ。これがフィクションなら三流である。ノンフィクションならば一流である。これを描く著者の筆力がもう映画にしてくれ、漫画にしてくれと訴えている。

確かにこの仕事は著者でなければどうなるか分からなかった。しかし、著者が特別に優れていた訳でもあるまい。当時の日本銀行にはこれに匹敵する人材などごろごろしていたに違いない。特別でもなんでもない。神でもない。ただの日本銀行の職員であり一官僚である。

なるほど、だとすればだ、日本を復興しようとした人たちも、計算しまくったに違いない。あれがこうなれば物価はこうなる、さまざまな条件で将来の見通しを計算し尽くす。仮定が正しければ、結果はこの辺りに落ち着く。これは当然の帰結である。さらに想像をたくましくすれば、同じことは満州国でも起きていたに違いない。経済を計算し尽くし計画を立てていた官僚がいたに違いない。

我々はルワンダの虐殺を知っている。だから、この作品に登場する人々の未来が心配になる。それが読書中によぎる。この道はあの道へと続いているのだと思うと、著者の頑張りに少しの悲しみが帯びてくる。さすがに経済をよく知る彼でも、こんな未来までは想像しなかったに違いない。

とまれ、そういうドラマ的演出が正しい読み方であるか。歴史に責任は問えるのか。経済発展のゆきつく先に多くの動乱がある。それがどう起きるかは千差万別で分かりようがない。日本はそのような虐殺は経験せずに済んだ。

もし誰かの責任を問いたいのであれば30万年前に生まれた最初の人類の親を問えばいい。なぜその新しい種を君たちは育てたのか、なぜ死なせてしまわなかったのか。そうすれば、原子爆弾で焼かれることも大虐殺も起きなかったのに。

増補1にあるフランス軍の孤軍奮闘を読みヨーロッパにフランスがなければ随分と詰まらないだろうという思いを強くした。片方だけを信じるのは危険だ。

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