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2015年10月25日日曜日

囲碁は滅びぬ


メイエン事件簿

以下は既に失われたサイトからの王銘エン九段の記事。
でも、僕がコンピューターの問題を考えるとき、関心があるのは「勝つか負けるか」ではなく「読み切られるかどうか」です。コンピューターソフトが強くなって、仮にプロが負けても、それを研究して、逆に打ち負かすこともできるし、その戦いで囲碁界が盛り上がるかもしれない。しかし、一手目から読み切られてしまうと、勝負自体が成り立たなくなってしまいます。碁を打つことはすなわち最善手の追求という立場から見れば、この日がくれば目標自体失われ「囲碁の終焉」となりかねません。

このような恐ろしい事態に対して、私たちはどういう風に考えるのか。そこが一番の問題ではないでしょうか。この「囲碁の終焉」に対してプロが今とりえる姿勢は以下の四つになるでしょう。

  1. いくら科学が進歩したところで碁を読み切るのは無理と決め込む。
  2. そうなったら潔く降参して別のものをやる。
  3. それはそれで細々と碁を続ける。
  4. これは僕の姿勢でもあるのですが、囲碁を愚かな人間のパフォーマンスと見て「最善手の追求」との関係を断ち切る。

その日が来ても囲碁の終焉を拒否する勝手な理屈にすぎないかもしれません。しかし、僕にとってこの姿勢をとることが、碁の未来を信じることに繋がるのです。

モンテカルロ囲碁とはなにか、ググればすぐ分かる便利な世の中になったのですが、簡単に説明しますと、すべての局面で、コンピューターにランダムに終局までたくさん打たせ(一秒に数万局)、その中で一番勝率のいい手を次の一手に選んでいく、というやりかたなのです。そこにはわれわれにとって当たり前の「読み」も「形勢判断」もない。

その基本的な考え方は「ある局面で、すでに片方が優勢であれば、その後対局者の技量が同じなら、優勢のほうが勝つ確率が高い。」というものです。ランダムに打つドヘボ同士でも、数をこなせば、よりいい手が見えてくる、というのです。しかし、そんなデタラメを積み重ねただけのデーターが使い物になると、誰も最初は思わなかった。

終わってみれば、勝つチャンスがなく完敗でした、そして、よく考えると八子局のほうも結局勝つチャンスがなかったのではないか。黒の打ち方はとにかく「最後に勝つ」のが目標、ぬるい手は打っても、負ける手は打たないのです。そこには明らかに余力があった、きわどい勝負になると、もっとがんばった手を打ってくるに違いない。十九路盤の棋力を判定するなら、アマ三段ぐらいというところですが、クレイジーさんにはまだ底知れない力を秘めている、そう感じたのである。

それでも、モンテカルロ囲碁恐るべしと、身構えなくてもいいかもしれない。囲碁とコンピューターの関係で、僕が一番恐れていたのが囲碁の完全解析ーー読みきられることでした。しかし、モンテカルロ囲碁というのは、サイコロをころがし、たくさん目が出たところに賭けるというやりかた、最初から最善を目指してはいない。「神はサイコロを振らない」という言葉からみれば、きわめて人間的な要素をもった方法と言える。

万一、近い将来に碁のXデーを迎えたとしても、敵はしょせん完璧ではなく、つねにリベンジ可能です。そのときこそ、碁打ちが神の道を目指す本当の旅が始まる、と言えるかもしれない。

コンピュータに勝負師や真剣師という肩書きは必要ない。コンピュータはただアルゴリズムにより勝利する。そこに勝利の喜びはない。敗北の悔しさも。

モンテカルロ法が到達したのは過去の棋譜である。それはコンピュータの背後にこれまでの全ての囲碁の歴史があるようなものだ。モンテカルロを相手に戦うのは、囲碁の歴史に戦いを挑むのに似ている。

数学

コンピュータにチェス、将棋、囲碁を打たせるのは人間の都合である。だから人間にとって有意な時間内に回答を出さなければ意味がない。この時間的制約は人間の都合でありコンピュータの都合ではない。コンピュータは資源がある限り計算を苦にしない。そこは機械である。

多項式時間よりも指数関数時間の方が大きい事が知られている。囲碁のデータ量は10の400乗と目されるから、それが完全に解かれるまで生きられないが、それは資源と時間の制約に過ぎない。人間という条件を除外してしまえば例え宇宙が蒸発した後であれ計算さえ続ければどこかで必ず到達できる。

NP-Completeness : Note on Algorithms
計算量はデータ量 n に依存する。
多項式時間とは例えば n12、指数関数時間とは例えば 4n

囲碁で起こりうる全ての棋譜がデータベースにあると仮定する。そうするとコンピュータは相手が打つ度にデータベースの中から違う棋譜を除いてゆく。手が進むごとに棋譜の数が絞り込まれる。絞り込まれた棋譜の中に必ず未来の結果がある。

手が進む度に負ける棋譜は排除し、それ以外の中から勝利する可能性の高い棋譜を選んでゆく。コンピュータのアルゴリズムはどの棋譜が最も勝つ可能性が高いかを計算する方法に極まる。

可能性の高い棋譜をどう探すかは見当もつかないが、少なくとも相手の選択によって負けが決定する棋譜は排除する。もちろん相手がミスをする可能性はある。人間同士ならそういう戦略も考えられるが、コンピュータがそのような手を採用するとは思えない。相手がどう打っても勝てる棋譜を選ぶべきだ。

コンピュータの未来

コンピュータは一方的に性能を向上させる。コンピュータが次々と開発されるのに対して、人間は40万年前に誕生した時のポテンシャルだけで勝負しなければならない。

よって人間が勝てぬコンピュータが出現するのは間違いない。今はまだコンピュータの能力を測る目安として存在している人間が、いずれ役に立たなくなる。コンピュータを強くするにはコンピュータしかないという時代が到来する。

その時に囲碁や将棋はどうなっているのか。いや、その頃には数学さえも人間を必要としているのか。コンピュータだけが数学を解く時代が来ても驚きはしない。かつてはコンピュータを人間が操作していたと牧歌的に話をする時代が到来するだろうか。

AI について

AI は大学入試を解いたりクイズを解いたりしている。人狼というゲームに勝利するAIも作られた。今は未だ人間と対比することでその能力を測定している。AI を語るのに知性の定義は避けられない。しかし知性の定義は難しい。

知性はもともと他の生物と人間の差を説明するものである。それが人間の特権を保証するものとなり、他の生命を自由にする根拠のようになっている。

だから人間の知性を超える機械が出現するということは、これまで自然界に対して得ていた人間の特権を見直す必要性が生じるという事を意味している。少なくとも論理的には根拠を失うはずである。

更に言えば、この世界で他の生物に対して人間が行っていた行為をコンピュータは人間に対して行使する特権を得るはずである。

これまでは唯一であり比較対象がなかったのであるから定義は必要なかった。知性は人間性のシノニムになる。だから AI が知性を持つことは人間性とは何かを問う事に等しい。

この蛋白質の固まり、巨大な化学工場、電気回路の集合体を人間と呼ぶ根拠は何であろう。それは神が土塊に吹き込んだ魂の事であるならば、どれほど緻密であろうと人間が作った機械に人間性が与えられる事はない。もしそうでないならば、人間性を機械が獲得することは可能になる。

知性と人間性

さて人間性とは何であろう。それは本人が持つ者か。それとも他者がその中に見出すものか。日常の中で機械や乗り物に擬人性を見出すことは普通である。チューリングテストでさえ知性を他者が発見するという試験である。

人間は機械と見なされることを嫌悪する。人間と呼べばいいのにわざわざ機械に例えるのだから、そこに相手の優越感を嗅ぎ取るのは自然であろう。人間を機械呼ばわりする者が人間性を蹂躙しようとしているのは明らかだ。それに警戒するのは当然であろう。

古いフレームワークで考える限り、人間は自由を有し、あらゆる生物の頂点にあり、他の生物より優先される。人間の製造物は人間が所有する。これと対立する考えは排除されなければならない。

AIの知性が人間性の根拠にはならない。愚かさも賢さも人間性の根拠にはならない。では何がかくも人間を不平等にしているのか。

人間だけが特別とする根拠がないのであれば、利己的でよく、強者の論理が支配すればよい。そうなれば、なぜ人間だけを特別扱いせねばならぬのか。人間の姿をしているだけで等しく基本的人権を与える理由もない事になる。

17世紀に生まれた自然権や基本的人権などは打ち捨てれば良い。人は平等でなく、個体ごとに権利に差がある。資本の多少こそが権利の根拠となる。全ては平等ではない。当然である。だが彼と我が平等でないことは許容できるか。

いずれにしろ AI が進めば知性に意味はなくなるだろう。その時、我々には新しい視点が求められるだろう。

軍事予算

民間では株主が許さない研究でも軍事予算が付く分野はたくさんある。最先端の研究はほとんどが軍用である。他国を出し抜くためにはあらゆる分野の研究を進める。当然ながら成果のでない研究もたくさんある。

軍事予算は工学だけに限らない。数学、物理学、化学、社会学、心理学、文学と幅広い。軍事予算が付きそうにないのは考古学くらいか。

AIが研究されるために重要な地位を占めるのは軍事であろう。無人機や人間の補助にAI技術は欠かせない。だからAIの開発力は軍事予算と比例するはずだ。その中心はアメリカと中国が占めるだろう。軍事分野は失敗に寛大であるから、幅広い研究が多方面で進む。それが民間にフィードバックされその国家全体を豊かに強くする。

AIの進化

コンピュータの基本動作は入力を演算して出力を得ることにある。現在のコンピュータは入力と演算式は人間が指定しなければならない。

従来のコンピュータ:
① x の値と計算式を人間が渡す。
② 例えば 2x2+3x+5 の式を使ってグラフを描く。

次に演算で使用するパラメータを定数ではなく計算によって求めるように変更する。データを処理するたびにパラメータを変えられるようにしておけば、次第に出力が変わるはずだ。数式はまだ固定されているが。

新しいコンピュータ1:
① 決まった形式のデータを人間が渡す。
② a,b,c の値を計算で求める。
③ ax2+bx+c の式に x の値を渡しグラフを描かせる。

次にa,b,cの値を計算するためにインターネットから自らデータを取り込む。世界中のデータを読み込み、その中から必要なものを取捨選択する。現在の技術は取り込むデータに形式を必要とする。パースできないデータは読み込めない。これを自然言語を理解できるようにして、あらゆる取り込んだデータの中から必要なものを見分けられるようにする。ただの数値の羅列が、気象データなのか、それとも金融市場のデータであるかを見分けるようになればよい。

新しいコンピュータ2:
① データをインターネットから取り込む。
② 解析したデータから a,b,c の値を求める。
③ ax2+bx+c の式に x の値を渡しグラフを描かせる。

入力を自発的に取り込めるようになれば、次は演算式を書き換えられるようにする。膨大なデータからより優れた演算式を求める事ができるようになれば、自分自身のプログラムを書き換えられるようになる。こうなればコンピュータが進化すると呼んでも差支えあるまい。

自分のアルゴリズムを自分自身で書き換える能力を獲得する。コンピュータのDNAとは数式でありアルゴリズムであるから、アルゴリズム(=DNA)を書き換えるならそれは進化である。自らのコードを自ら書き換える機械を最後のAIと定義してみる。

新しいコンピュータ3:
① ax2+bx+c に変わる別の式を生成する。

こうして自律して進化しながら演算を続けるAIが誕生したとき、その出力が人間の予想を超えた何かである事は想像できる。我々はそれを知性と呼べるかさえもう知らない。

それでもAIは強力な演算装置に過ぎず、何を出力しているかは知らない機械のままだ。ちょうど拳銃が自分が打ち出した弾丸が何をしているかを知らないのと同じだ。

出力された結果に人間が勝手に驚いているだけの状況である。そこに意志も感情もありはしない。ましてや生存本能を持たない機械であるから、電源ダウンによって簡単に落ちてしまう。コンピュータには生命として必須な何かがまだ欠けているのである。

原始的な脳が生存への強い欲求を発する。人間性の根底はこの原始的な脳によって支えられている。人間は生物の中では少し賢いがコンピュータの前では小さな葦である。

感情とは膨大な計算をした脳が漠然と伝える意識化しきれない結論であろう。意識は感情を無視してはならない。コンピュータに感情がないのは、演算結果が余りに単純すぎるからだろう。

人間の心はCPUである。脳はメモリである。感情はそこで演算された結果の一種である。

もし他の恒星系にコンピュータを送り込もうとすれば性能本能と同等の何かが必要となるだろう。それはより長く生存する事を最重要要件とするものである。その時、長く生存するために生き残る可能性を高くするメカニズムが必要だ。

AIの未来

遠い未来、AI が人間を凌駕した未来、人間とAIはどういう関係にあるだろうか。

千年後の人間はコンピュータチップを埋め込んでいるかも知れない。AIは神経やアブミ骨を振動させて人間とコミュニケーションを取る。そのうち人間はAIからのささやきと、脳が言語化した意識との区別もつかなくなる。ふたつは共生し能力は融合する。

そんな時代に囲碁は打たれるだろうか。既にAIに勝てる人間はおらず囲碁の勝敗はAIが決める。「AIは切れよ」という会話が日常的に起きる。AIさえ切れば今と同じように囲碁は困難で面白いゲームであろう。

なぜ名人も年を取ると弱くなるのだろうか。コンピュータは弱くならない。経験が多くなり勘は鋭くなる。しかし物忘れはいけない。記憶が外部化できない戦いでは記憶力が勝敗を決する可能性は高い。

棋士は対局中に google が出来ない。そういう職種には記憶力が拠り所の所がある。どれほどの名優でもセリフを忘れては舞台に立てない。しかし舞台ならば暗チョコが用意できる。

知ることは人を遥かに有利にする。このアドバンテージはあらゆる競争の局面で勝敗を決する。知らなくて(忘れても含む)勘や経験で決めなければならない者と知っている者との間で間違えない可能性は決定的に異なる。それが両者の振る舞いを大きく変える。

博学であることは戦略として正しい。全知ではなくとも、人間の中で最も知っている者が圧倒的に有利である。そしてそういう戦略で競う限り、コンピュータに凌駕されることは間違いない。

知ることでもいつかコンピュータに立ち打ちできなくなる。この世界を方程式にする能力も追い抜かれる。それをコンピュータは365日休憩も必要なく演算する。睡眠も必要ない。必要なのは電気代と装置の冷却だけ。人間が太刀打ちできると考える方がどうかしている。

19世紀は蒸気の時代である。同時に馬車業者がスチームロコモーティブに敗北した時代でもある。その時から人間は機械に負けっぱなしである。機械の発展とともに戦争も人間が耐えられる限界を超えた。コンピュータが登場してもその流れは変わらない。

肉体が最初に負けた。人間は馬に蹴散らされ、馬は機械に駆逐された。機械が駆逐した人間の肉体はスポーツとして残った。剣術や格闘技などかつての戦争術も同様だ。車より早く走る事はできないし空を飛ぶ事もできない。ナイフも車も肉体の延長である。脳も例外ではなく遠く粘土板が記憶の外部化として始まりコンピュータまで来た。

コンピュータが人間より上なら、人間はなんと呼ばれるべき立場なのか

コンピュータのパフォーマンスが人間を凌駕したのはずっと昔だ。ノイマンはコンピュータより早く計算できたが、それが人間が計算でコンピュータに勝利できた最初で最後となった。

例えば司法の判事は過去の判例から判決を決定する。これはコンピュータに置き換えやすい仕事だ。コンピュータならば、より公平で論理性の一貫した判決が出せるはずである。またそれは法律をプログラミング言語で記述できるようにすることを意味する。そうなれば人間の判事など不要ではないか。

司法こそ真っ先にコンピュータで置き換えるべき分野かもしれない。コンピュータならば100回やって100回とも同じ答えを返すことができる。これほど間違いのないことはない。

故に司法は人間がやらねばならぬ。人間ならば99回同じ判決をしても100回目に違う判断を下す可能性が残る。それが司法に求められる最も重要な点だ。周囲の状況に併せて変わる事ができること。

だから自己変革できるAIが誕生すれば人間よりも優れた演算結果を返せるかも知れない。演算結果とは、つまり判断だ。

不完全性定理はある条件では正しいとも間違ったとも決定できないものがあると教える。コンピュータに分からぬものは人間にも分からぬという事だ。そうすると決断という行為が必要となる。

だからコンピュータに決断までを託すのかという点が最後の争点になる。

なぜ人間であるべきか

戦場でおもちゃに人間が殺される。プラモデルのような戦車に撃たれてゲリラが倒れる。そこには憎むべき相手さえ見つからない。機械に殺されたらその恨みをどこに持って行けばいいのか。

人間は人間しか憎めない。機械は憎しみの対象ではない。故に機械よりも人間は人間の手によって殺されねばならない。人間だけにその価値がある。

機械が撃つことを止めることはない。その背後に人間がいる。既に勝つかどうかの問題ではない。いつ(When)の問題であり、誰が(who)の問題である。プロ棋士は経過に過ぎない。コンピュータが狩る側であり、プロ棋士が狩られる側なのである。

人々の興味は既に勝ち負けにはない。だから両者の対戦は次第に行われなくなり、時々プロ棋士の方から戦いを挑むようになるだろう。

今の名人がコンピュータに勝利したところで、それは重要ではない。いずれ何代目かの名人が倒されるのは確実だからだ。人々の興味は最初に狩られる名人は誰であるかに尽きる。それはコロッセウムでライオンと戦う戦士だ。観客も血を望んでいる。

百年後にはコンピュータに勝てないのが当たり前の時代となるだろう。昔の名人の名前を出し、彼らでも戦えば必ず負けると言われる日が来る。人間は狩られる立場になった。コンピュータの出現がもたらしたもの。少なくともチェスはそうなり将棋もそうなる。

近い将来に...

将棋や囲碁は昔からあったものではない。江戸時代はプロ棋士などいなかった。明治になりプロ棋士制度が誕生する。新聞社の協賛を得てこれまで続いてきた。いつかそれも変わるだろう。伝統芸能として生き残るのか、ゲームとして生き残るのか。

20代の名人などありえないと言っていたのは坂田栄男、1965年である。井山裕太は今年で25才。これが新しい時代なんだと思ったらとんでもない。本因坊算砂が名人になったのは20才である。初心忘るべからずである。

囲碁の可能性は(19*19)の階乗で表現できる(361!)。人間がやっていることはアマだろうがプロだろうがこの莫大な棋譜をひとつずつ潰しているようなものだ。囲碁を打っているあなたは今日もこの10360のひとつを塗り潰したわけだ。

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