顔淵問仁 (顔淵、仁を問う)
子曰、克己復禮爲仁 (子の曰わく、己れをせめて礼にかえるを仁と為す)
一日克己復禮 (一日己れを克めて礼に復れば)
天下歸仁焉 (天下仁に帰す)
爲仁由己 (仁を為すこと己れによる)
而由人乎哉 (而して人によらんや)
顔淵曰、請問其目 (顔淵曰わく、請う、其のもくを問わん)
子曰 (子曰わく)
非禮勿視 (礼に非ざれば視ること勿かれ)
非禮勿聽 (礼に非ざれば聴くこと勿かれ)
非禮勿言 (礼に非ざれば言うこと勿かれ)
非禮勿動 (礼に非ざれば動くこと勿かれ)
顔淵曰 (顔淵曰わく)
囘雖不敏 (回、不敏なりと雖ども)
請事斯語矣 (請う、斯の語を事せん)
人には相手を思いやる心が備わっている。この相手を思いやる心というのは勿論、人間だけが持っている能力ではない。それでもネアンデルタールとホモサピエンスが残した石器を見比べれば交流の違いが分かるそうである。
(ネアンデルタールは未来の我々だ)
相手を思いやる心のその能力は如何と問えば獲物を捕らえたり相手から逃げる為の能力と考えられる。これは未来を推測する能力であって鰯の大群が捕食者から逃げるのも捕食者が追い駆けるのも方向を予測して行っている。
この能力が極めて発達したのが人間の脳なのかも知れない。それを得るために我々は心を必要とした。心があるから相手の気持ちを個々別に管理できる。こういう気持ちでいるだろう、こう考えているだろうと仮定を生み出すものが心であろう。
この能力があるから見知らぬヒトとも交流できるのだろうし、その交流が新しい交流を生み出す事もできる。これはヒトが繋がる力に違いない。と同時にこの能力を使えば巧みに誰かを騙したり陥れる事もできる。この未来を見通す力、誰かから逃げる力、誰かを襲う力は生き抜く上で非常に強力な能力だと思う。
これはそのまま性善説や性悪説にも繋がる気がする。これらは思いやる心が備わっているから起こる現象であってそれを分別するのは社会側からの要請に過ぎない。何が善であり何が悪と決めるかの前にそういう働きをヒトは持っている。
この思いやる心というものはだから全て幻想である。思いやるとは自分側からの推測に過ぎないし、未来は全知不能である。この能力が世界像を己の中に構築する能力である以上、己の中で完結するしかない。推測が当たっているかどうかは分からない。相手との関係を確かめてみないと分からない。幾ら思いやったとしても相手がそうであるとは限らない。擦れ違いもある。本質的には一方的な世界像である。
個々人が作り上げた世界像は決して交わる事はない。それぞれが独立している。それでも人の集まりはこの世界像を重ね合い幻想としての共有を己の中にマークする。
こうして作り上げた世界像は強力である。ヒトは現実と仮想空間を同一視しながら訂正を繰り返す。仮想現実とは別にコンピュータが作り出した世界ではない。初めから我々の中に既に存在している、と言うよりも仮想世界を持っているから我々はヒトで居られる。
ある日この仮想現実が自分自身を襲い始める。まるで免疫システムが自分の体を攻撃し始めるかのように。自分の中にある世界から攻撃され非難され始める。その世界が自分に敵対し終には自分自身を押し潰そうとする。それは現実の世界が攻撃してきた訳ではない。自分の中の架空世界の暴走である。誰かを思いやる心が自分に牙を向いただけなのだ。
ストレスやプレッシャーが切っ掛けになるであろうし、誰かに抱く恐怖であるとか重圧の仕事であるとか様々な抑圧が何かを切っ掛けにして自分を攻撃するのである。過ストレス社会と言えるかも知れない。それは人の性善に頼り切ったが為に起きているとも言える。誰もが大きく誰かに寄りかかり寄りかかられている。その中で行使される権力の濫用に人は弱いものである。善意を権力で支配しようとする関係性は本当は破壊されるべき関係性であるのだ。
論語では礼こそが最も大切な考えだと思う。儒教は礼によって完成する。
礼は我々が漠然と知っているような礼儀であるとか、礼節であるとか、儀礼や作法の取決めではない。お互いの間にある取決めの了解を礼と呼ぶのではない。それらは礼の表現であって、礼を重ねてゆく内に自然と出来たお互いの了解であるとか、手続きの簡素化に過ぎない。お互いに分かりあった上で形式化するのは礼の簡略化であり、それはフォーマット化された手続きであり、礼の上に立脚したものではあるが礼の法ではない。
礼とは行為ではなく心に添う。では礼とは何か、礼の法とは何か。礼を必要とする理由とは何か。それは人とは基本的に恐れる生き物である事を理由とする。
我々生物は常に生命の危険に晒される。他の生命からも同じ生命からも。私たちが身に着けた思いやる心は誰かと繋がる力であると同時に誰かを疑う力でもある。我々は極度に恐れている、人間そのものを。
ストレスがあり、プレッシャーに晒され、暴言を吐き、誰かを罵倒する人々がいる。何かを嘲笑し自分の優位性を確認したい人々がいる。よく見れば彼らは恐怖から行動している。彼らは恐怖の感情をどうにかしようとしている、それは野生動物を彷彿とさせる。
彼らに礼はない、何故か、自らのストレスに気付かずそれに打ちのめされているからだ。
我々は生きようとする。それは恐怖の中に於いても変わらない。自殺でさえ前向きに生きようとする手段である。危機に立ち向かう事も逃げる事も生きる事である、同じように誰かを襲うのも生きる事に違いない。恐怖は暴力に、劣等感は侮蔑に、嫌悪は軽蔑も、嫉妬は優越感に、抑圧は解放に、心の複雑さは意識に昇らない危機までを感知しそこから逃げ出そうとする。
罵倒する者達は確実な者だけを標的にする。それが安心だからだ。そうしていれば不安に苛まれない。つまり彼らは不安に苛まれているに違いない。罵倒する人は不安と格闘しているのだ。なぜ確実なものだけを叩くのか。確実でないものは不安を呼び覚ますからだ。自分は確実に優位性を保持したい。優位であることが生き残る確率を上げると知っているから。
相手を低い場所に貶める。相手と十分な距離を取って安全性を高める、近付き過ぎると危険性が増す。あと一歩近付くと不意な反撃で致命傷を負いかねない。そうして安全を見極めた上で彼らは不安から脱出しようと罵倒を始める。不安の根がどこにあるかを分かっていようがいまいが関係ない。そうする事が気持ちいいのだ。他人を叩く事で心のバランスが得られる。強いストレスがある程に気持ちよくなる。つまり彼らは別の場所で叩かれているヒトだ。
強い心があればそうならなくて済むであろうか。だが強い心とは何であるか。どこにも見た者などいない。自信があれば強い心になれるだろうか。だが自信とは未来に対する心持ちの状態である。絶対であるわけがない。たんに不安に打ち勝つ為の心の持ち様に過ぎない。根拠に裏付けされる必要はない。
自信があれば何かが起きた時でも冷静でいられる。それだけの事だ。落ち着いて行動すれば対処できる可能性が高まる。その為に必要なのが自信であり、慌てても碌な事にならない。自信があるから慌てないのではない。逆だ。慌てないようにと自信を持っておく、手放したら死に至るから必死で握っておく。自信とはそういうものだ。そうやって困難の前で己を律するものである。
であれば困難と対峙していない時の自信など不要であるしそれは強い心とも言えない。誰かと相対する時に相手が見ず知らずの人であれば恐怖を感じるのは当たりだ。落ち着いていようがいまいが相手を思う心がどんどんと相手の虚像を造りだす。それは色々な状況に対応できるようにとアラームを上げている状態に違いない。それに押し潰されないように如何すればよいか。礼とはこの恐怖に打ち勝つ手順だ。傷つく心を隠さず守り抜く己を律する方法でありその行為でありそれを律する心の持ち様である。
人同士が接すれば傷付け合うものである。それを避けるなど出来ないし失くす事もできない。礼とは其れを私が受け入れる為にある。傷付く事を知ってもなおヒトは誰かと結び付くのだ。
この恐怖と立ち向かう為に礼がある、もちろん勝利は約束しない。それでも相手を罵倒する必要はない、蔑む必要もない。
罵倒する人は相手を貶める事で逆に相手から蔑まれる。そのような敵対関係を結ぶ事でお互いが近付き過ぎないクッションのある関係を築く。そう見れば罵倒する者は実は優しい、彼らでさえその関係性の間に知らぬ間に優しさを挟み込んでいる。気に食わなければ俺を憎んで良い、お互いを疎遠にする事でそういう態度を取る事が出来る。罵倒でさえお互いの協調性が存在する関係性が築かれているのである。ヒトとはそういう関係性にさえ最悪を避ける方向で解決しようとする。
人間は笑顔では人を刺せないと言う事をよく知っている。その点で彼は基本的にやさしい、罵倒する相手に憎まれるように仕向ける。そうである理由は実は相手に興味がないから、彼は己の心の危機から己を救いたいだけだから。それは礼によって人前に立てる様になるまで止む事はない。
己を救うためには罵倒ではなく、礼によって相手の前に立つ事である。その結果、相手が理解してくれなくとも、相手から罵倒されようとも、自分は礼を尽くした、その思いが自分を救う。それ以上に己を救う手段などない。礼を尽くせばそれを理解しない人がいて理解する人がいてそれが世界になる。
たとえ無力であろうとも礼を尽くす。
(訳)
顔淵が仁を問うた。
子曰わく、己れの弱さを知り礼で接する事を仁と言う。
一日でも世界に礼を尽くせば
この世界は仁の心が溢れていると知るであろう。
仁を為すのは個々人に属する行為である。
どうして他人に強制できようか。
顔淵曰わく、もう少し教えて。
子曰わく
礼がないのなら相手を視ていない
礼がないのなら相手を聴いていない
礼がないのなら相手に言ってない
礼がないのなら相手と接していない
それまで待ってあげるべきだ。
顔淵曰わく
私にそれが出来るかは分かりませんが
礼で人と接し相手の礼を待ちます。
0 件のコメント:
コメントを投稿