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2020年11月5日木曜日

真似する事とコピーする事

似た製品が出るのは車のデザインでは頻繁である。走る機構は殆ど同じと言ってよい。殆ど同じをエンジニアの言葉では全く違うと言うが、それでも基本的な物理法則まで違う訳ではない。創造は細部に宿る。少し似るが全く違う場合もあれば、全く違うが殆ど同じ場合もある。

模倣は人間の最も基礎的な能力の一つで、この能力によって人類はこの星の広範囲に存在領域を拡大した。石器時代の革新も広範囲に伝達されたと言う。これはネアンデルタール人には見られない特徴だと。どうやって当時の人々は考えを伝達していったか。

我々の予想を超えた交易が既に確立されていたのか。それとも同時多発的に発生したのか。インカ帝国に車輪はなかったと言うが、それでもあのピラミッドを作るのに困りはしなかった。ユングはシンクロニシティの存在を想い、シェルドレイクは共鳴仮説を提唱する。量子脳という考えで情報の伝達を考察する人もいる。生物が量子的現象を自らの生命活動に利用しないと考えるのは余りに浅はか過ぎる。

状況が似ていれば、その後の展開も似たようなものである。それは想像に難くない。コップに既に溢れる程の水が注がれていれば、ほんの少しの振動でも水はこぼれ落ちる。同じものを見て、同じものを聞き、同じものを味わい、同じ不便さを感じる。人々は違う感想を持ち、違う感情に揺れ動く。これを敷衍すれば、人の数がそれなりに増加すれば、同じ事を感じ同じ事を思う人も当然ながら出てくるという事である。

ならば、それを理解する人も同時に登場するはずである。そういう発想はなかったと感嘆する人も、その発想が理解できなかったというケースは少ない。受け入れる準備も十分に整っていれば自ずと拡散する。拡散から何を思っていたかの逆算も可能だ。

例えば、フランス革命の自由、平等、友愛。17世紀のヨーロッパで開発された「民主政」。これらはあっという間に世界を席捲したが、その範囲は西洋を超え異なる歴史を持ち異なる統治思想で政治を磨きに磨いてきた東洋をも巻き込んだ。それを知る前から既に知っていたと考えるべきだし、それが到来する前から殆ど同じだったから可能だったと考えるべきだ。人間は自分たちが思うよりも全然違っていなかった訳である。そうでなければこんなにも短時間で世界に拡散できるはずもない。ベースが同じ。

逆に考えれば、違うと考える事が悲劇の始まりか。神が違う、肌が違う、歴史が違う、言葉が違う、細部を見れば全部が違って見える、横を向けば全く同じに見える。その違いがどれほど同じらしいか、どれほど違うらしいか。原子は全部同じに見えるかも知れない。どれもが違う場所にあるかも知れない。おとめ座超銀河団のどこかから宇宙を見れば、この銀河は、この星系は、何か特別だとは思えないはずだ。せいぜい辺境地区に左遷された神様の嘆息か。

違って感じる為には、それに見合う大きさが必要なのだろう。そこから外れれば同じに見えたり違って見えたりする。だったら動くな、という事になる。そこから動かなければ、何も変わらないであろうから。

我々の進化は一匹のサルから、だた一匹の新しい種が生まれて広まったと言うより、ある状態に置かれた群れの中で複数の固体が複数の新しい種を一斉に同時に生み、どんどんと置き換わっていったと考える方が自然だと思う。遺伝子が十分に変化しやすい状態にあれば、新しい種が次々と生まれるのに不思議はない。

ただ一つの本物があると仮定するから、それ以外の違いが許せなくなる。その一つのものが揺るぎようのない確かなものなら、どのような視点からでも唯一のものでなければならない。そんなに確かなものならば、誰かに侮蔑されたくらいで貶められるはずがない。そう信じられないなら、自分の中に揺らぎがある。

新しいものが登場すれば、それを真似るのは当然の事である。そうするしか人間は理解する方法を知らない。世界を脳の中に取り込む事でしか人間は世界を知る事はできない。

つまり、我々は誰もが世界を脳の中にコピーしているのだ。ならば、模倣だけがコピーなんかじゃない。岸和田のふぐ博士がふぐを解剖するのも、音楽家が楽器を叩いてみるのも全て脳へのコピーだ。そうやって始めて人は世界を知る、少なくとも知ったと信じられる。

すると模倣とは脳の中にコピーしたものを外部にアウトプットする行為になる。3Dでスキャンしてプリンタで印刷するのと何も変わらない。それを人間の肉体を使って行っているに過ぎない。模倣する以上、コピーは既に終わっているのである。真似るはアウトプットの出来不出来の程度に過ぎない。入力が同じでもアウトプットは様々な条件によって変わるだろう。元来、如何に真似ようとしても違ってしまうものなのである。

しかも、絵を描いた当の画家さえ自分の絵を完全コピーする事などできはしない。同じ絵をもう一枚描けと言われても不可能である。作者でさえ自分の絵をコピーできないのに何故他人なら可能だと思うのか。それは他人だからである。そこにアウトプットの技術がある。

中途半端に真似れば冷笑され、本物に匹敵すれば犯罪者になる。贋作家でさえそっくりに描くのにどれだけ慎重を要するか。本物を越えるには、別の本物になるしかない、違っている事が重要か、目の前にある本物と一体何が違うのか?

遠い昔の壁画に色を塗り野牛を彩り豊かに描いた人達にオリジナリティという意識はあっただろうか。表現のどうしようもない発露があったと信じたいが、その人たちの思いというものはただ空想するしかない。しかし、どのような表現であれオリジナリティなど勝手に付いてくる、吐く息の如しだ。それが嫌で捨て去ろうとした作家だって居たはずで、詫び寂びとはオリジナリティという俗世を掻き消した手の跡ではないか。

この世界の事象は全て一回しか起きないはずである。全く同じではないから本人にさえ同じ絵は描けない。時間の流れは再現不可能な方向に進んでいるようなのである。全ては一回しか起きない世界だから古い方に権利が着くのか。ならば、いつか人類のあらゆる創作物は既に誰かがやったコピーになってしまう。この世界が有限であるなら、論理的にはそういう結論にしかならない。

近くにあるもの、遠くにあるもの、同じもの、違うもの、その間にあって、眺める者、調べる者、模倣から始めて、新しい何かを生み出そうと努める者、この星の生物が進化で編み出した有性という方法は、真似が最も有力な戦術である事を証明している。基本は同じ、少しだけ違う、これが模倣の基本戦術。

その基本を繰り返せばあっと驚くほど違って見えてしまう。なぜ少しずつでいいのか。大きく変えると絶滅するリスクが高いからである。変えるリスク、変えないリスク、元に戻すリスク、少しずつ対応する方が確実である。

一歩ずつ前に進めば、時間経過によって莫大な場所に到達する。真似をしてはいけないと言う物理法則はこの世界に存在しないし進化上の制約もない。人類がこの星で大きな顔をしているのは、生物学的に絶滅過程に入っておらず、技術的に脅威となる競争相手がいないだけの事。

また同様に、細胞分裂という方法を40憶年続けてきた微生物たちの存在も忘れてはならない。その基本設計の確かさに驚愕し、決して変化を拒んだのではない仕組みに驚嘆し、ただ緩やかに変化するだけで十分であるという現実の前に、ひれ伏せばよい。彼/彼女?は他の種を生み出すベースとしてずうっと今も残っている。この生物種さえ残れば、地球はもう一度くらい最初からやり直す事が可能なのである。模倣は決して唯一の方法ではない。

最初に世の中に出た時には革新であったものが、みんなに影響を与え模倣され、広がって、いつかその独自性はありふれた普通に変わり、社会に浸透し刷新されてゆき、古い世代にとっての革新が、次の世代にとっては普通となり、新しい世代には陳腐で凡庸な退屈に変わる。そういう繰り返しの中にも発見がある。

孔子はそれを遠来の友と例えたのではないか。この世界の中にある当たり前のどれほどに、誰かが命を賭し火あぶりにされても貫いた意地や理念や理想が後世に伝えたものがあるか、今は想像するしかない。

人間にとってアウトプットは、社会や国家の先行きに直接的に影響する。入力が同じであって、アウトプットが違えば大きく異なった所に辿り着く。そしてよく考えれば、入力と呼ぶものは、次々と伝わる以上、誰かのインプットは、誰かのアウトプットだったのである。その信号の連続が脳の中に蓄積され、ループバックしてゆく。

虎に食べられそうになった猿が死ぬ思いで、みっともなく糞尿を垂れ流しながらも逃げきったから今の人類がある。

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