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2020年11月27日金曜日

なぜ大正時代のロマンか

大正時代(1912-1926)を舞台とする作品、はいからさんが通る(1975)、帝都大戦(1985)、帝国華撃団(1996)、鬼滅の刃(2016)など、これらには独特の趣がある。これは大正時代が持っている独自の雰囲気、それが支えるリアリティに他ならない。逆に言えば大正時代には決定的なイメージがない。だから空想と相性がいい。


日本の近代は鎖国(1639-1854)の終わりから始まった。徳川家康(1543-1616)の慧眼がヨーロッパをどう認識していたかは知らない。しかし、地球の反対側から船を使い日本に到来する彼らの存在、銃の伝来(1543)、大砲という兵器を目の当たりにして、未来を思い描かなかったはずもない。


閉じた扉を開けたのはアメリカ(1776-)であった。だが、日本にとっての本当の脅威は北海道の北にあった。それはかなり早い段階から日本人に意識されていたもので、異文化の技術に震撼した日本人は世界を知るために明治維新(1868)を断行した。そして政府は早い時期に脅威を明瞭に自覚する。


日本の近代はロシアを跳ねのける為に大陸を意識する事に費やしたと言ってよい。日清戦争がその端緒であり、なぜ朝鮮半島が重要であったかと言えば、ロシアの南下を食い止めるには大陸に展開する橋頭保が必要だったからだ。豊臣秀吉にそのような明晰があったかは知らない。だが出兵は朝鮮半島から始めた。


維新以降の明治人たちはロシアを中心に全ての決断をした。鉄道を敷くのも軍艦を買うのも全てその為だった。開国の過程では多くの血が流れた。攘夷、尊王の思想から開国に移るには多くの人が揺れ動かなければならなかった。しかし最終的には圧倒的にロシアの脅威が全ての元凶である事に日本人の意識は一致してゆく。


貧しさや悲しさの中でも当時の人々は働いた。たった数隻の戦艦を購入するために。どれだけの多くの人が赤貧の中で死んでいったか。それでも誰もが新しい時代に希望を持ち、近代国家の国民としての熱狂の中、未来を切り開く実感を彼/彼女ら全員が実感していたはずなのである。明治を語る時、ロシアとの戦争が常に通奏低音として鳴り響いている。


そして日露戦争(1904-1905)で維新はひとつの結実をする。これが討幕の理由であった。これが多くの志士たちが無駄死ではない証明であった。これが多くの人が苦しんできた事への答えであった。明治に生き、死んでいった全ての者たちが誰一人として無駄死にではない事を、如何なる失敗も必要不可欠であった事を、この勝利は証明した瞬間であった。


ここで明治はその役割を果たした。ロシアを追い返した事で日本の中に空白地帯が生じる。もちろん、その程度でロシアという大地が滅びるはずもなくソビエト連邦(1922-1991)が誕生する。帝政ロシア(1721-1917)は倒れ、北の地で新しい建国が始まった。その脅威はいつか復活する。しかし、今ではない。


第一次世界大戦(1914-1917)を見た武官たちは戦争の推移を正確に予言した。技術は既に人間の限界を超えている。次に起きる戦争はどれほどの悲惨な戦場となるか、それは当時の人々の想像を超えていた。それでも昭和(1926-1989)の日本は、戦艦を国産化し、技術と工業製品で世界に匹敵する所にきた。


20世紀は他の世紀と変わらず世界が大きく変革する時期であった。それまでの経済の中心は農業である。大航海時代が開拓した海上輸送は、遠い世界から香辛料や綿や絹などをヨーロッパに運ぶ手段を実現した。


大規模に生産するには広大な土地がいる。大量の労働者がいる。世界の何処に行っても人間がいた。その事実を発見したヨーロッパ人たちは農場の経営に乗り出す。最初は交易から始めたようだが、買うよりも作る方が遥かに儲かる。何も不足しているものはない。あらゆる場所でプランテーションの運営が始まった。乃ち植民地の誕生である。


土地を確保し、そこに住む人々を労働者として集め、農場を経営する。これが帝国主義の姿である。生産したものをヨーロッパへ運ぶ。そうして莫大な利益を生んだ。その利益が国家全体に余剰な余暇を生みだす。余暇に興じる者たちの中から科学者や技術者が誕生するのは必定。この良いスパイラルは永遠に続くかに見えた。


しかし、科学技術の発展は新しい経済体制を必要とした。農作物よりも工業製品の方がより利益を生み出す。工場を運営するには農業とは別の方法が必要である。新しい労働者、新しい場所、新しい方法、工業が必要としたのは健全に発達した都市であった。


原料となる鉱物や機械を動かすには石炭が必要である。冷却の為に大量の水も必要である。設備をメンテナンスする技術者も必要である。工業を中心とした経済体制、これが資本主義の姿である。南北戦争(1861-1865)は、北の工業地帯と南の農業地帯の覇権争いであった。世界に先駆けて、資本主義と帝国主義が覇権を争った戦争であった。アメリカで起きた事は世界規模でもう一度起きる。資本主義と帝国主義の覇権争いが世界規模で WWII として起きた。


昭和とは、その闘争に帝国主義として参加し敗北する歴史であった。日本は常にロシアを見ており、ロシアに対抗するために中国大陸に橋頭保を築く必要がある。朝鮮半島の併合(1910-1945)も満州国の建国(1932-1945)も、全てソビエトに対抗する為であった。その恐怖は遂にアメリカとの戦争を始めるに至る。ひとつひとつには正当な理由があろうが、最終的には喜劇であろう。その結末は壮絶な惨劇であった。


昭和を思う時、我々は上空で光る情景を避ける訳にはいかない。これが昭和前半期の通奏低音だ。どのような作品もそれを避ける事はできない。自ら敵艦に体当たりする若者たちを避ける訳にはいかない。家がバチバチと燃える風景を避ける訳にはいかない。


第二次世界大戦(1939-1945)の結末により、それ以降の時代にはどうしても原子力という通奏低音が鳴り響く。どのような物語であれ、この音が鳴らないものにリアリティはない。科学技術の暴力的なまでの圧倒的発展は、人間の力でどうこう出来る範囲を超えた。制御可能といういささかな安心感がなければとっくに発狂している。


だから20世紀の物語は、架空の科学技術を登場させない限り、リアリティが構築できないとも言える。昭和を代表する多くの作品が科学技術の結晶であるロボットや宇宙船が登場する。そうしなければ子供でさえリアリティを感じる事ができない。


日本は戦争に敗れアメリカと同盟する事で初めてソビエトの脅威から解放された。明治以降、単独でやろうとした事が、アメリカと同盟する事で初めて実現できたのである。アメリカと同盟するために帝国憲法を廃棄するために必要な戦争だったと言い換えても良い。戦後の昭和史は、ソビエトの脅威から解放された自由を謳歌する時代である。この国で二度目の解放感を味わった時代である。21世紀の日本はそれを失いつつある。ソビエトの代わりに中国という脅威を意識せざる得ないからである。この脅威が人々の動向をこれからは決定するはずだ。


大正期はロシアの脅威から解放された最初の解放感で彩られた時代である。ソビエト連邦の脅威が現実化するまでの僅かな平和の時代である。そこに自由な気風がある。科学の急激な発展がある。相対性理論(1905,1916)と量子力学(1900-)の黎明から来る新しい時代の始まりでもある。


この新しい科学が大正期の独自のリアリティに参加する。と同時に過去も強調されて輝く。何時の時代も過去と未来の端境期であるが、過去と未来が交差する土壌である。魑魅魍魎な化け物や物の怪が野生の中で生きる事ができた最後の時代。スチームパンクに代表される科学技術が未来を純粋に信じていられた時代。科学で割り切れない存在に科学で挑むシナリオが可能だった時代。そして社会に通奏低音が何も響いていない時代、この時代には独特の真空がある。この浮遊感が物語を支える。


大正時代を平和な時代と仮に呼んでおく。文化は開花した。嵐の中、吹雪の中、花が開く事はない。それに近いのは第二次世界大戦後の開放感である。冷戦(1945-1991)は、日本人に経済と文化と自由の謳歌を与えた。冷戦が終了した時、これで世界は平和になるという幻想さえ見た。本当の未来はザクザクという別の足音を立てて我々を追い抜いた。コンピュータとインターネットが世界を開き、ITとAIが社会を変えようとしている。


大正デモクラシー(1905-1925)は将来に何も残さなかった。男子の普通選挙(1925)は実現したが、ソビエト連邦の台頭が治安維持法(1925)を成立させ、軍部が力を持ち、日中戦争(1937-1945)が始まり、国家総動員法(1938)が成立する。国防が第一義となり、多くの国民がそれに賛成だったかは知らないが、帝国議会が例え普通選挙で行われていようと結果は変わりはしなかっただろう。その夢を戦後まで見続ける服部卓四郎(1901-1960)というような者を産み落とした。


現代の物語に物の怪を登場させるにはそれなりの舞台装置が必要だ。端的に言えばジェット機やHIIロケットと共存できなければならない。テレビを見ている姿が自然でなくては成立しない。戦後の物語に登場する鬼太郎やうしおととらなどにあるリアリティは大正時代のそれと少し異なる。そして、この2020年は混乱期の始まりであるから、これからの時代はそれに相応しいリアリティが要求される。


中華人民共和国が世界に問う新しい共栄というものが、経済の新しい仕組みというものが、どのような結果を生むかは誰も知らない。しかし、中国共産党を中心とした国家というものがより広い範囲に安全保障の橋頭保を確保しようとしているのは、逆に言えば、彼ら自身の中に、崩壊の予感が強力になりつつあるからに違いない。彼/彼女ら自身がその体制を成り立たせるためには、経済と武力の両方で飽和しないように膨張しなければならない。


だが、明らかにこの時代の変化はインターネットの存在とそれに繋がるデバイスが齎したものだ。重工業は時代の中心ではなくなる。情報産業が取って代わろうとする、重工業がそれに抗う。だが、かつての時代とは異なり、勝敗は瞬間に決するだろう。速度が赤とんぼとサターンロケットくらいに違う。なら新しい時代は世界をどう変えるか。


仮想通貨は世界の在り方を決定的に変えるかも知れない。それは通貨がインターネット上で飛び交うという話ではない。通貨の信用を国家が保証する必要がなくなる未来である。国家の存在が、揺らぐ。情報産業が最も発展している中国大陸で起きている事はその余震ではないのか。危機感を強く感じるのは震源地に近いからではないのか。ならば次の闘争は、国家と情報産業の間で起きる。人々の信用をどちらが勝ち得るかという闘争になるはずだ。


どの時代でも人々の多くが予感しているはずである。何かが変わろうとしていると。アフリカであれアジアであれ、アメリカであれ、ヨーロッパであれ、ユーラシアであれ、どこであれ、これまでと違う世界が到来しつつある。そこで、人々は踏ん張って扉を開けようとするが、その開け方も、ましてそこから得られる富への嗅覚もそれぞれのはずだ。


その予感が、今の僕たちを大正時代へ誘っているのかも知れない。もうじき嵐が来るよと呟いたのはホームズである。今の我々はもっと大きな嵐を前に空を見上げている。幾ら目を凝らしても雨雲なんか見えない空である。


大正時代を生きた者たちは、その後に昭和を生きたはずである。数十年が経ち、壮年だったり老年になった主人公たちが、山に囲まれた山里で畑仕事をしている。鍬すきの手を止めて空を見上げる。その視線の先の遥か上をジュラルミンが飛んでいる。それを見上げる姿を想う。


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