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2026年7月5日日曜日

第一話の類型

導入部

超電磁ロボコンバトラー(1976)の第一話は無敵超人ザンボット3(1977)の第一話と同じだと気付いた(時制は逆)。バイクを駆って移動しながらキャラクターの性格を活写する。そして敵と相対する。それがロボットに導かれる理由になる。この流れがとてもよく似ていてデジャヴである。

いかに主役メカへ搭乗するか。この導線が作品のコアになる。マシーンに乗る事は明らかだしそれは来るべき未来だ。それは作中の人物にとっても視聴者にとっても。だからどんな経路でそこに至るのか、そのシチュエーションに全力を注ぐ。

第一話の類型は何種類かある。最初から訓練を受けている。呼び出されて搭乗する。偶然みつけて搭乗する。用意された物体は博士が作ったものか、遺跡か、異星人からの贈り物か。

マジンガーZ(1972)は祖父の莫大な財産から生まれた遺産を受け継いだ。鋼鉄ジーク(1975)は出自がロボットであった。コンバトラーは知らぬ間に選抜されていた。ザンボットは祖先の財宝であった。機動戦士ガンダム(1979)は偶然乗り込んだ。小説では最初から軍人だった。聖戦士ダンバイン(1983)は異世界から召喚された。

作品の数だけ導入部がある。基本的な構成は直ぐに尽きた。その先に七転八倒が待っていた。これまでにない初回を捻りだす事。

子供が社長(無敵ロボトライダーG7(1980))、宇宙の水戸黄門(最強ロボダイオージャ(1981))、孫悟空(SF西遊記スタージンガー(1978))、何かが新しい。何周も回って何が面白いか分からなくなりそうだった。

後継作品

その点で後継作品はコンセプトを再利用できる利点があった。グレードマジガー(1974)は最初から訓練を受けていて不自然さはない。超電磁マシーンボルテスV(1977)は訓練から始まっても違和感はない。どうせせうなるのだから。

後継作品には制約がある。ロボットの存在は疑わなくていい。前作とはここが異なりますと宣言するだけで始めてよい。説明から宣言へ、これが後継作品の利点であり、つまり短所。

読者は作品を早く動かせと要求する。それが後続作品を見るものたちの特権がある。分かり切ったものの説明は不要。その代償として、主人公たちの存在感が弱い。後継作の人物は前作の焼き直しで十分だから。前作の主人公を超える事が難しい。その必要もない。

最初の主人公に持っていた好感を後継作品の主人公が超える必要はない。剣鉄也の兜甲児への嫉妬は後継作品が抱える問題点を吐露している。ストーリーとしての嫉妬ではない。後継作品が抱える構造的に不可避な状況に対するいらだちでもある。

ガンダムとリアルロボ

ガンダムがリアルロボットを切り開いた。そしてその他をスーパーロボットと再定義した。

リアルロボットであるための要件は何か。

軍隊およびそれに類する官僚組織の存在、太陽の牙ダグラム(1981)、超時空要塞マクロス(1982)、装甲騎兵ボトムズ(1983)、銀河漂流バイファム(1983)、機動警察パトレイバー(1988)。どれも官僚組織によってロボットという暴力装置が運営されている。ある意味で視聴者は破壊の罪悪感を感じなくてよい。それは命令だから。

次に工業製品。メーカの製造品。ザンボットには自衛隊は登場したが、メーカーが製造した機体ではないためにスーパーロボットに分類される。

伝説巨神イデオン(1980)も異星人の遺跡からの出土品なのでスーパーロボット。最終的には現代技術(の延長)では作れそうにないという感覚がある。

そしてロボットを運搬する装置も工業品である事。どれほど優れたデザインであってもビアルI世は現代技術では作れそうにない。

これらの条件がロボットの世界観をふたつに分類した。

マクロスとクラシック作品

マクロスの第一話には衝撃を受けた。その興奮が何であったか。それ以前のロボットをクラシックにしたという解釈(山下いくと)にはハッとさせられる。

何が新しいのか。その正体はよく分からない。デザインか、変形か、軍の新しさか。あの第一話の何に圧倒されたのだろう。

F-14ベースのデザイン。格納庫からの発進する空母のメカニズム。空母が主役となった初めての作品だった気がする。宇宙空母ブルーノア(1979)は空母の顔をした戦艦だ。

マクロスと比べればガンダムも戦艦が登場する作品である。マクロスで初めて空母が、それも現代の米軍ベースの兵器が登場した。

戦艦中心の世界観から、空母中心の世界へ。それが意味するのは戦艦による第二次世界大戦の踏襲から、空母による戦後への切り替え。敗戦を抱えていない初めての軍だったのではなかろうか。

マクロスがジェット戦闘機であるのも戦後的。宇宙戦艦ヤマト(1974)の旧帝国海軍の匂いがない。ガンダムでさえジオンというナチス的な連想が残っている。

マクロスの世界観は戦後の米海軍がモデル。主力が空母、ジェット機。ロボットアニメに投入された初めての戦後。なおダグラムのコックピットもAH-1コブラで戦後的だった。ただ作品がゲリラ的なので連想させるのはベトナム戦争時代。マクロスはそれよりも時代は未来的な感じがする。

ガウォークの変形は造形的に新しいと思った。勇者ライディーン(1975)のゴッドバードだって新しかった。無敵鋼人ダイターン3(1978)の変形だって新しかった。大鉄人17(1977)の変形もそれなりにリアルだった。その意味では造形が新しかった筈はない。しかし動きが新しい。速度が早い。それだけでこれまでの陸軍から空軍の速度に変わった。

そういう初めのての試みだったと思う。航空機という概念が主題としてあったから、デストロイドなどの対空兵装がとてもリアルで近代的に見えた。

それでもマクロスは途中で見なくなった。そのテーマが戦争と文化という極めて攻めたものであったにも関わらず、面白いとは感じなかった。その理由は恐らくは戦闘シーンが宇宙を舞台にしたからだ。それはもう従来の作品と似かよったものに戻った。宇宙空間の戦闘はマクロスを新しいものにはしなかったと思う。マクロスの斬新さは海軍でありジェット機だった。地上では斬新だったのに宇宙空間では平凡だった。

マクロスの超合金は他を圧倒する完成度の高さだった。この変形は子供だましではなかった。これを超えたのはボトムズの超合金だけと感じた。超合金魂が今の所ゲッターロボ(1974)以外はほぼ網羅した。

エポックメーキング作品群と戦後

日本の戦後は、思うに、敗戦と向き合い敗戦をやりなおした。勿論、歴史を唯一の視点で解釈する事は愚かだ。

ひとりの人間の中にさえ多くの葛藤がある。それを唯一の真実で切り刻む事は切り捨てるものが多すぎる。歴史はどれだけ刻まれようと目の前にある。その前で人間にできる事は解釈だけである。ひとつの解釈がある、別の解釈がある、それが恐らく歴史の権利であり、継承である。

なぜ日本はアメリカに負けたのか、またはなぜアメリカを永遠の敵としたのか。戦後の日本がモータリゼーションでアメリカに並び得たのは、ひとつにはエンジンで負けたという思いが残ったからだ。ここをやり直さずに何も始められない。そういうエンジニアたちの想いが車に、鉄道に、土木にも貪欲に取り組ませた。

こういう戦後の主題がアニメーションや漫画に浸透しない筈もない。ここから逃れて表現などできない。多くの表現者たちもエンジニアと同じように怯まず屈するでもなく貪欲にアメリカを飲み込んでいった。

新宝島の映画的表現に見たものはアメリカだったと思う。洗練された手塚の筆致もアメリカ的だ。コマの展開がアメリカを連想させたのだとしたら、それは昨日まで敵であり憎しみの対象だったものが日常に入り込んできた瞬間だったと思える。その驚愕は、単に表現の斬新さだけではなく、アメリカをもう敵対視する必要がないという心の底からの実感だったのではないか。戦争はここで終結した。

そして昭和という時代は手塚治虫の死去によって終わった。そういう実感がある。

鉄腕アトム、鉄人28号の奥にあるもの。もしこの兵器があったなら日本は敗北せずに済んだ。我々に足りなかったものは技術である。工学である。日本中がエンジニアリングに邁進した。そのひとつの頂点であり結実がマジンガーZだ。

そのマジンガーZの最終話が敗北なのは何か象徴的に思う。敗北という現実を再び突きつける。ひとつの到達点が新しい敗北を呼び込む。それは日露戦争の勝利と日中戦争、対米戦争の敗北であろうか。

敗北から立ち直るストーリーが必要なのか。何度も繰り返し。そのような蕩尽しか知らないのではないか。だから再びそのような決断へと突き進んでも不思議はない。

ガミラスによって敗北寸前で地球艦隊には残存兵力がない。これは戦争末期を連想させる。ガミラスのナチス的な部分も先の大戦の連想させる。大空襲と遊星爆弾は同じものだ。ガミラスは枢軸国である、だからナチスだけではなく戦前の日本も含まれる。宇宙戦艦ヤマトは戦争中の日本を代表する兵器でありながら、その中に乗り込んでいるのは戦後の若者たちである。

ふたつの象徴性を混在させ描いた勝利への筋道。宇宙戦艦ヤマトが内包する戦前と戦後の日本。倒すべき戦前の軍国主義。正義となるアメリカ的なもの。それでも古代のメッセージは戦前は単純に倒せばいいだけの相手ではないと言い切った。

ヤマトは先の敗戦をもう一度やりなおすシナリオである。それを可能としたのが波動エンジン。エンジンさえあればあの戦争に我々は勝てたのか、そういう所に視点は集中してゆく。波動エンジンはそれを象徴する。更には自分たちはそれを開発できなかったという点も何かを暗示する。我々の深層心理は相当に正しく現状を把握しているらしい。

敗戦を歴史として活写した作品に決断(1971)がある。だがこの作品が日常の中に入り込む事はなかった。

さらば宇宙戦艦ヤマト(1978)に登場する戦艦アンドロメダは戦後を象徴する。その艦影は護衛艦色に塗られている。この戦艦は戦前戦中の船ではない。明かに戦後を象徴する存在。それが彗星帝国を前に壊滅するのも何かの隠喩だろうか。

ガンダムの画期性は作中に官僚機構を取り入れたにあると思う。ジオンというナチス的な独裁的な国家と連邦という民主主義的な国家の対峙。決して軍隊同士の対峙ではない。これは事変ではない。国家同士の戦争である。国家があり軍組織がある、この描写が大発明だった。

それがガンダムというフレームワークの基礎となった。国家的野心なく戦争はない、それは当然に、枢軸国と連合国の対比として始まっている。

そしてエヴァンゲリオン(1995)は完全に戦前から切り離された。近代の軍隊と民主主義国家。そこにはもう戦前の匂いはどこにもない。そんなものが通用する時代は既に終わった。作り手たちだって知らない。だがそれは単なる世代交代ではない。歴史を知らないからでもない。アメリカが日々取り込まれ消化され日常となっていった証だろう。異端も革新もいつかは日常の平凡になる。

庵野作品

どんな作品も読者の歯車を回転させるシーンがある。ヤマトの冥王星沖海戦の敗北。フリーレンの断頭台のアウラの自死。怪獣八号に対するレノの態度。何かを切っ掛けにスイッチが入る。そういうポイントがある。それぞれの恐らく見る人の数だけ。

凡そ全て、矛盾を明示した瞬間だと思う。物語の流れは自然なのに、そこに何かの違和感がある、世界が成立するために抱えた矛盾。ここには何かがあるという予感。謎がこれを先に進める。視聴者の中にある矛盾にヒットする。この矛盾が自分が許容できるリアリティの境界線でもある。

庵野秀明作品には絶望的な状況が用意されている。ここを頂点とするためにそこまで作品を運んでゆき、絶望的状況を描写し、そこから回復を始める。エヴァもゴジラも。そして恐らくはヤマトも。不可能と思えるリカバリをどう提示するか。破壊というカタルシスからの復活、この無理を通す事が庵野作品の矛盾と思われる。

この切望にも系譜はある。その前から同じ切望に突き落としたアニメ作品は沢山ある。特に富野由悠季だろうか。手塚治虫だろうか。彼らもまた文学や映画や伝承などから、そして歴史から受け取ってきた。この系譜のバトン。

エヴァには幾つもの最終話があるが、最も安寧なる𝄇がリリースされるまで視聴者の要求は止まらなかった。

転生ものの構造

人間は力を渇望する。一般的には力は富、肩書、ステータス。これらへの希求は物語にも投射される。転生ものはそのエッセンスを昇華したような所がある。簡易に力を得る設定、現実とはコミットしない新世界、幾つかの試練や挫折があってもリカバリ可能な設計、ご都合主義であっても簡易に短時間に得られる万能感の物語。

この構造は神話が提供するものとそう遠くないと思う。赤川次郎が多くの事を現実で経験する前に小説の中で体験したと語るように、ギルガメッシュ神話や神話が経験であったように、異世界転生も経験のひとつ。

転生ものに登場する人間以外の種族、魔物、亜人、獣人に対する侮蔑や優越、奴隷制度、その多くが17世紀頃の魔法と馬車の世界。そこでは虐殺や殺害も罪ではない。現実から乖離できるIfの世界。ここでは獣人を奴隷とする時に黒人奴隷の歴史を連想する必要はない。

無視してもよいが、それでも幾つかの道徳的な価値観や善良さは必要らしい。奴隷制があろうとよく奴隷主でない作品はやはり多くの人の指示は得られないであろう。ここで欲しいのは万能感であって、良心の痛みではない。

その世界に必要なもの。良心の痛みを必要としない敵の存在。それを無双できる魔法的力。

野獣を殺す事に躊躇はいらない。70年代にはそれが宇宙人であった。改造人間であった。それ以前は、恐らく未開の人たちであった。次第に殺せる範囲が狭まっている。世界が広がるにつれ敵が難民のように別の場所へ追われてゆく。

実験動物に反対し、捕鯨に反対する人たちがいる。そんな事が言えるのは食うのに困らないからだ。飢えていればそんな主張をする余裕はない。肉食に反対しながら植物には躊躇しない。ジャングル大帝(1965)は昆虫食を暫定的な解決とした。キリストは麦は死ぬべきと言った。家族と呼ぶ家畜が明日は売らる。

物語はこの世界を射影する。忘却や切断にも痕跡はある。第一話に込められた製作者たちの思いがある。作品は時代を超えて別のメッセージを発信し始める。

2026年6月14日日曜日

葬送のフリーレン

フリーレンはアニメーションではまった。少年サンデー連載当初、確か漫画の一巻目は読んだ。でもその後は追いかけなかった。面白くないと思ったのか、集めていたら長丁場になると思ったのか。それさえもう定かではない。

声優の魅力は銀河英雄伝に似ていて何度の視聴にも耐える。

アニメを3回見て漸く気付いたのはフリーレンの旅とヒンメルの旅を重ねている構造。同時並行して進むふたつの冒険譚。ふたつの旅でひとつの旅のような錯覚。どちらか一つだけではこの重層さは生まれなかったと思う。

フリーレンは長命種の紀行文の様でもある。外伝、スピンオフ、サブストーリーが沢山生まれるフレームワークもしっかりしている。のんびりとした雰囲気も非常にいいが、それでもやはり戦いが始まると少しだけ前のめりになる。

この不思議さはどこから生まれるのか。原初的な闘争本能が呼び覚まされるのか。爬虫類脳への刺激か。だがそういう考え方で説得されたくはない。戦闘の始まりが何かを示唆する。物語のある瞬間を境に、ここから先は解放する。タガを外す、そういうスイッチの構造がある。

バタイユの過剰蕩尽、溜まったものを解放する快楽。エネルギーを失い光子を放出するイメージ。熱が赤外線を輻射する。エントロピー増大を阻止するネゲントロピー。情報の蓄積を回避するために必要とされる眠り。

我々の社会では蕩尽は祭りとして企画され定期的に社会全体で受容される。祭りは時間と場所を限定するハレの日として行われる。なぜ蕩尽は祭りとして組み込まれたか?

蕩尽は恐らく抑制系を停止する。抑制は前頭葉が司る。一般的に睡眠時には抑制が弱まる。だから誰でも夢の中で自分でも思っていないような行動をする。それに驚いて夢から醒める事もある。フロイトはこれを深層心理を読解する手掛かりとした。

睡眠時に脳は情報を整理整頓する。その場合に入力と出力をシャットダウンするのは、整理時に新しい入力があると混乱を起こすし、出力を停止しないと危険すぎるから。だから高度に発展したAIは睡眠を要求する筈だ。

日常の中で睡眠や飲酒などで解放を小出しにしていても蕩尽は欲望される。それは参加者の規模の違いでもあり、個人的経験ではなく集団的経験として体験すべきものだからだろうか。日常のなかで蓄積され続けてきた何か。そのストレスを発散しトランス状態に陥り忘却してカタルシス(浄化)により意識を再起動する。それらの多くは快楽を伴う経験であるし一種の防衛機制でもあるのだろう。行動規範も解除されやすい。

脳が抑制系を止めそれまで働きの乏しかった神経系を開放する。土管掃除のイメージで大量の信号を一気にそこに流す事で活性化する。これはもしかしたら神経網の定期検査かも知れない。

脳は、怪しみ、疑い、確かめを繰り返し情報を精査し生存性を高める。個体にとってこれ程に重要な機能はない。だから脳は疲れる。睡眠により日々の情報を整理整頓し刷新する。それをしなければ脳の中はジャンクだらけで足の踏み場もなくなる。

祭りを社会全体で集団的に行う理由はそうしないと危険だからだろう。抑制系を解放すれば謂わば危機意識も薄らぐ。それはブレーキのないアクセルだから危険度は高まる。だから個体単位でやるよりも集団単位で一斉に行う方が危険を分散できる。誰かの危険察知も全体で共有できるし誰かが捕食されても他が生き残る可能性が高い。ペンギンたちが捕食者の待つ海に一斉に飛び込むのと似ている。

互いに危険な時間を共有し互いの生存を互いに依存しあう関係は社会への帰属意識を強化する。これは群れとしても望ましい。

抑制系のOFFのタイミングは物語の中にも見出される。ここから先はなにも疑問を持たなくてよい。このスイッチが押された瞬間から安全な空間の始まりとなります。どうぞ脳の抑制系を落としてこの世界に入り込んでください。このような構造がある。それが戦闘シーンである。

ヤマトやザンボットでも見られるこれらの文法は物語の約束事よりももっと深い部分で人間が元来持っている「何か」に直結していると考える。

テレビにはワイプという手法がある。映像の中で起きている事を視聴者がどう理解すればよいかを暗示する。どういう感情でいればいいのという疑問に答えるためにワイプに映ったタレント、芸人、俳優の顔で誘導する。もし彼/彼女らが笑えば、それは笑ってもいい合図である。悲しんでいるなら今は悲しい空間を示す。

例えナチス収容所の描写であってもワイプの中で誰かが笑っていれば笑ってもよい時間帯である。瞬間少し早いタイミングで拍手や笑いを挟み込めばその場の空気も支配できる。人々は余りにもこの能力を無邪気に使用する。

人間が群れを作る動物である以上、抑制、共感、駆け引きする能力が発達する。群れの中での力関係や階級、役割、地位を理解して行動を決定する。そうする事で群れという高いコミュケーションを要求される中で如何に低いコストで運用し続けられるか。

如何なる作品でも世界の構造は人間組織の階層関係から描く。これは現実世界でも変わらない。作品中で誰が最上位に位置するかは明示的に描く。そこを基準として人物関係を膨らませてゆく。このような位置づけ方が恐らく人類に王政を齎したのだろう。家族という最小単位にさえ、この構図は存在する。古代中國では鼓腹撃壌という別の理想も生み出された。

ミルグラム実験はある特殊な状況で社会的協調性がどれほど優先されるを示したのだろう。何より抑制系をOFFにし解放した状態でなければ成立しない。そしてこのような行動を人間が取るのは、個人単位のみならず、群れの中でも生存性を高めるのに寄与した有益な能力だったろうと考えられるのである。

抑制系を放棄する事で群れが一斉に動き出す。豹に襲われている時にあれこれ考えても無益だ。そうではなく隣を見て全員が一斉に素早く動き出すべき時なのだ。そういう行動を取る群れの方が圧倒的に生き残る可能性が高い。そうでない群れは淘汰される。こうしてこの形質が遺伝的に残りやすくなる。

その延長線上にあるから、戦争では兵士が考える事を放棄した様々な事例が報告される。そういう性質を人間は元来備わっている。

人は味方にも敵にもなる。だから警戒は解けない。家族にさえ気を許せない人もいる。このコストを社会全体で如何に下げるかは重要だろう。高コストのままではいつか群れは警戒の重さで分解してゆく。全体主義が長続きしないのはこのコストが増大し遂には疑念と疑惑の中で自重で押し潰されるからだろう。情報を扱う装置である限り、情報の増加は、処理能力をどこかで追い抜く。

社会全体が効率的に円滑である為には警戒のコストを下げたい。しかし無防備である事もまた危険。どこかに均衡点があるはずだ。集団の中に如何に人を迎え、如何に追い出すか、そういう手続きを人の集団は手探りで作ってきた。どのような社会でも何らかの警戒を解く手順がある。

だから関東大震災のような時には言葉がなまっているという理由で虐殺が起きる。

今の時代は急性アノミーが起き、コミュニティが希薄になりつつある。人々は自分たちの従属意識を頼りに集団の再構築を模索している。まず群れがある事。そこに属する事。どの群れを選ぶかは民主主義の投票とも相性がいい。ある意味で従属意識を頼りに政治への参加が促進される。

およそ共同体と政党政治が直結するのは望ましい形ではない。投票の基本は選択にあり従属性にはないからだ。従属性は簡単に全体主義を正当化する。従順である事は群れから追い出されない為にも必要な行動様式だ。疑ったり吟味しても仕方ない。疑問を持てばまた群れから出る事になる。こうして抑制系はOFFされ危険の警戒よりも集団の中で安住する事が優先される。

民主主義が成立するには疑問を持つ事、討論を重ねる事が欠かせない、このシステムは抑制系が十分に働く事が前提にある。だから民主主義は遅いと指摘される事もなる。だが抑制系が働いているのだから当然に遅いのである。

群れの外に豹がいる時には団結力が重要だろう。その場合は抑制系は余り必要ではない。今重要なのは豹を監視する事だ。そして襲ってきたら全員で逃げ出す事だ。それ以外の何について考える必要があるだろう。外国人排斥が流行する理由である。

敵がいるから境界が引ける。世界を架空にするから不都合な現実世界のルールは持ち込まなくてよい。小説の中では人はどのような悪党にでもなれる。転生ものの作品が警戒心なしで楽しめるのは現実から隔離した架空世界があり、実世界のしがらみやルールをチェリーピッキングでき、主人公は基本的に無双で生存について悩まなくていい。その世界は安全なのである。抑制系を働かせる必要がない。

フリーレンでは魔族という倒す相手が説明されている。旅は人間と交流しているか魔族、魔物と戦闘しているかのどちらか。目指すのは魂の眠る地「オレオール」。人間を知る旅と位置付けられているが、死者がすべてここに集まるのであれば、そこには転生という概念は無い事になる。また死んだ魔族はその場所に行けない事になる。

だがそれは不思議だ。なぜ魔王はその地に拠点を築いたのか。なぜ全ての生物がそこに集まらないのか。そこには一般的には知られていない魔族が生まれる理由とか、その場所に人の魂が集まる理由がある筈だ。そして魔族が人間を捕食する世界の理も説明される事になるのではないか。

その謎に先行して挑んでいるのは案外魔族の誰かであるかも知れない。その研究者との出会いがあっても全然矛盾しない。調和と矛盾のあるべき場所へ、作品は更なる展開を読者に突き付ける。

さて、どんな展開になろうともフリーレンの声の人(種﨑敦美)の演技を楽しみに待っている。次に会えるのは2027秋。

2026年5月26日火曜日

選択と集中

選択と集中

選択と集中は、それまでのモデルのアンチテーゼとして提唱されたのだから、それ以前と比較する事は意味を関係性をもって明瞭化する。

選択と集中の前にあったのはバブル景気。そこでは余剰資金による拡大と多角化が目指された。それは資金の膨張に比例した投資である。その目的は次の時代に対応して競争力を高める事。

余剰による拡大と多角化は、新規の投資先の開拓の事である。本来の事業以外への投資が可能になった。これが、経済の隅々にまで波及し豊かさが浸透しようとした。明るい未来を夢見させたが、その本質は模索であった。

既知の知識をより深く探索するか、未知の部分を広く探究するか。基礎的研究か、応用研究か、そのどちらかしかない。余裕があるからチャレンジできた。その意味で、リスク回避を十分に計上し突き進んだ道である。

そして、その程度のガッツだから成果もなく撤退する羽目に陥った。バブル経済の終点さえ想定しないくらいに浮かれていたし、これだけの大不況が明るい未来のすぐ隣にあるとは思いもしなかった。予兆は来てみるまでは分からないものである。大部分は警戒さえしなかった。その程度でリスク回避と言われても笑う。詰まりは、これらのチャレンジに特に深慮はなかったと思われるのである。

その点で明治の人々は偉かった。幾ばくかの勝機はあったにせよ、殆ど何の余裕も根拠も目途もなくリスク回避さえ貧弱な状況でチャレンジした。

投資先の拡大と多角化の反対が選択と集中であるから、事業縮小の選択と集中である。バブル期の多角化には、時代が新しくなりつつある予感はあったと思われる。だから選択と集中には新しさからの撤退というニュアンスも含まれる。何かを模索する余裕さえない。現状維持が精一杯。

資金が潤沢なら失敗にも寛大でいられる。これが余剰の最大の効果だろう。それも失ったという事はもう噓をつくしか残っていないという事でもある。

バブルは完璧に弾けた。それが道連れに流し去ったものの価値は決して無視できるものではない。

バブル崩壊

撤退と呼ばずに転進と呼ぶ。縮小の代わりが選択。戦線の縮小を転進と呼び、事業停止を集中と呼ぶ。最初から負けるための作戦。如何に整然と兵を退くか、如何にパニックの遁走を回避するか。

選択とは多くの中から選ぶ事。つまり全ては選べないという意味である。その時にはこちらのリソースが足りない訳だが、対象が膨張しているのか、こちらが縮小してからか。相対的には同じであっても現象は異なる。どちらの資源がより深刻であるか。

バブル崩壊は、余剰資金の消失を伴い経営を襲った。どれくらいの消失かといえばゼロを超えてマイナスまで及んだ。拡大と多角化は停止し、それでも収まらないなら引きあげる。選択し限定する必要がある。これが多くの取引の中で連鎖する。急激に取引の量が減ってゆく。

何を切り捨てるか。どういう理由で、どういう方法で。切り捨てたものがその後どうなるか。ひっそりと消えるのか残るのか。消えたものは二度と戻らないのか。ならばせめて保存くらいはしておくべきではないか。

目の前の経済的危機において、次世代に残す手だても失われる。明確な断絶が起きる。それでも未来がどうなろうと今を生き残るべきである。

生き残りの手探りの中で、多くの、本当に沢山の信頼関係が消えていった。二度と信頼しない、この深く刻み込まれた警戒感は、強く経済活動の中心で負の遺産としてこの国の経済を支配している今も。

忘却の中で、失われたものは今も地中に埋もれたり海を流れている。その幾つかは洞窟に描かれた壁画の様にその発見を待っているに違いない。

撤退

同じ線上を右に行くか左にゆくか。バブルになれば右へ行き、弾ければ左に行った。その意味で、拡大も縮小も同じ活動であった。何も変わらないものであった。

ゆえに選択と集中には何ら希望はない。それ以外の何かが必要である。ぶらぶらと探すべきである。無目的と手当たり次第。そういう方法でなければどうしようもない。すると予算はどうする、という話になる。だから多くに人々はこう返すしかない。趣味としてやるしかない。

だが、よく考えれば江戸時代の多くの学者たちの研究もすべて趣味の範疇で行われたものである。論語の研究も、国学の研究も、すべてそれぞれの人の趣味である。つまり人生を賭してやっていたものである。

いつから職業でなければ碌な研究ができないというような話になってきたのだろう。金をもらってやるならそこには様々な制約があるに決まっている。月ロケットを打ち上げるならペテンもナチスもやむ負えないにしても、支配されれば自由を失う。

どれかを捨てるなら自由意志で行いたいものである。だが、選択と集中に自由意志はない。予算を減らします、選んでください、ただそう言われているだけだからだ。

官僚とは言葉を紡ぐ事を生業とする。そこで優れた絹織物を織る者もいれば劣悪なペテン品を納品する者もいる。公文書にはそのどちらの側面があるが、忖度が出世の最大の方法論となったのはたかが2012年からである。そこからたった15年程度で完全に倒壊した。

捨てるものを選択せよ、断固守り抜くものに集中せよ。どうみても敗戦である。

我々はこれから撤退し要塞に駆け込み防衛戦に入る。援軍が来るかどうかも分からない。援軍とは未来の事だ。現状を変える何かが生まれる事に期待する。それまでは、我々は緩やかな没落の中で現状維持に努める。

選択と集中とはこれから撤退戦を始めるという宣言。

敗戦

そんなやり方でうまくいくのか。太古から撤退戦というものは困難と決まっている。被害は避けえない。では撤退によって何を守りたいのか、これが選択。その為に最初に逃すものは何か、これが集中。

という事は、撤退戦では被害に合う連中が生まれるという事だ。この時、それはどのような人たちか。日本帝国陸海軍は撤退を秘する事で自分たちだけが中国大陸から逃走した。関東軍は大陸に住む帝国臣民の多くを殿として活用した。残された日本人に手を差し伸べたには中国の人たちであった。

バブル崩壊後の選択と集中とは、富裕層を生み出すための根本原理となった。うまくやった者たちは成功する。失敗したものたちは貧民になる。自助も自己責任もこれらを全面に押し出すのは都合がいいからだ。被害者意識を持たずに自分を責める人間ほど御し易いものはない。自助自立ほど小さい政府に都合の良い市民はない。

撤退戦で成功したひとつの事例に太平洋戦争がある。何をやってもアメリカ軍を押し返す事は能わなかったが、少なくとも戦線の縮小には成功した。何回かの戦闘を繰り広げ、都市を焼かれ、消し炭を大量に生み出し、それでも本土決戦に突き進もうとする出口のない袋小路に陥っていた政治状況は、ようやく降服という出口を見出した。

それによって多くのものを失ったがこれによって帝国憲法を捨てる事はできた。もし下手に講和などをしてれば、今でも明治以降、一度も変えないままの帝国憲法のまま、陸海軍が強力に議会を支配する体制が今も続いているだろう。

ナチス敗北後のアジアを取り巻く状況は、ソビエト連邦、中国共産党、中国国民党が争っている。戦前と何一つ状況は変わってない。どことも同盟せず単独で核も持てず軍事国家として対抗してゆく事になる。それと比べればこの撤退戦は成功裏に終わらせられたと言って良い。

要塞戦

撤退とは出口を探す事である。そこに辿り着くのは誰か。どこに行けば良いのか。撤退には目標がいる。そこが要塞なら次は籠城しての要塞戦になる。

理想は推移を想定しておくべきだ。どれくらいの期間をどれくらいの規模で守り抜くか。いつごろ援軍が届き、どのような形で終了するか。だが、多くの場合、相手もそれを想定して攻城する。援軍をみすみす許すはずもない。時間稼ぎが有効なのは、それによって状況が変わる可能性がある場合だ。または時間が解決する可能性がある場合だ。

状況(環境)に耐える方法の著名な例にクマムシの乾眠がある。自分の体を無機物と化して環境の変化を待つ。謂わば石となり状況の好転を待ち続ける事を指向した生物である。植物の種も状況が好転するまで数千年でも耐えるポテンシャルを備える。これらが有望な籠城戦の戦術であろう。

アフリカの乾季には水を求めて多くの生物が移動する。待つだけではなく積極的に対応する事で乗り切ろうとする。体力のある間に新しい環境への準備を始める。これは同時に新しい世代を生み、古い世代を淘汰する機会としても使える。

日本はバブル崩壊から籠城戦に突入した。そうして30年が経過した。開けない夜はない?冗談だろ。赤川次郎の「夜」を読んだ事はないのか。

何度も試してはみた。しかし誰も状況を変える事はできなかった。なぜ好転しないのか。その理由を知っている者はひとりもいなかった。生物にとって世代交代は、古いものと新しいものを取捨選択する好機でもある。だがそれでも好転しそうにはない。

世界がグローバル化し、コンピュータやAIによってソフトウェア主導のシステムへ変換しつつある。このIT革命の少し前に成功を収めた為に、新しい方法に適応できない状況に見える。成功体験が変化する事を拒んでいるようにも見える。余りにも変化が激し過ぎて取り残されているようにも見える。

生物進化論で語るなら、大きな角を更に大きくするのか。それとも、小さくするのか。鰭を腕に変えて新しい環境に適応するのか。もっと深い海に潜るのか。選べるのはひとつの方向だけであろう。その点は選択と集中の考え方と似ているようにも見える。

しかし、生物は特定の種は選択と集中であるが、生物全体では多様性の方向で別々の進化をするように制御している。つまり選択と集中は、基本的に不適合なら絶滅してもいい。多様の中のどれかが生き残るであろうから、という方法論である筈だ。

よって、選択と集中は生き残る為の方法論ではない。一部の層が富裕層となるための都合のいい方法論に過ぎない。それはある意味で国家が滅亡しても富裕層は生き残れるという冷酷な判断から生じている。ここに自分たちの立場を利用して作為的に法を作り変えた層がいる。

そしていよいよ隠し切れなくなった時に殿たちを抑え込み、逃げられないようにするための法案を更に追加する。ソビエト軍の戦場では最前線に立った兵士たちが逃亡しないように自軍の兵士たちを撃つ部隊が用意されていたそうである。

さて我々は従順な市民であるか、暴動も革命も辞さない市民か。

閑話休題:集中

さて集中と熱中は似て非なる。どちらも意識が特定のものに振り向けられている状況であるが。

例えば集中は聞こえている。それを意識で取捨選択する。熱中は聞こえていない。無意識が耳の段階で遮断したまま限られたものを全投入する。近くで大きな音が聞こえた。集中は聞いた上でその音を不要と判断した上で捨てる。熱中はその音を聞いた記憶がない。

集中は広く取り込みフィルターする。熱中はそうはせずシャットアウトする。だから意識で遮断する集中は高コストで疲れやすい。長くも続かない。一方で、熱中は長時間可能。疲労軽減と効率化という点では優れている。

集中は合目的性に従った精神の働きであり、最終地点か目標を設定しそこに到達しようと試みる。一方で、熱中には最終地点が設定されず、延々と続ける、確かな終わりや目標を設けず、体力の続く限り、確立した規則通りの繰り返しを無制限的に行う。出口を探すのが集中、その場所に留まるのが熱中。つまり集中は撤退戦、熱中は防衛線。

それは集中か熱中か。

2026年4月5日日曜日

デジャヴ

デジャヴ

デジャヴDéjà vu既視感already seenの事であるが、これは『昔見た事がある』という自覚の問題にあり、その時が至り予感が成就したと自覚する所に価値がある。何を見たかではなく、何を見い出したかである。

予感の的中は、極めて内証的なそして宗教的な体験であり、そこに見たものが、予感として、運命や啓示に変換されるのだろう。

脳に蓄積された記憶は、幾つかの軸を持って保管されていると思われる。映像や匂いや感触などの感覚が記憶として蓄積される。それを様々な記憶と結びつけてひとつのイメージに統合する。時間は人間の五感とは直結しない記憶である。という事は時間軸を形成する別の仕組みがあり、それを感覚の情報にマーキングすると考えられる。

何より、時間軸とは経験の順序の事であり、この順序は地層のように脳の中に補完されるが、地層と違い又は同様に、地層が動く様に、記憶の曖昧さや時間の経過によって順序が組み変わったりする。

昔を忘れるのはよくある体験だ。出来事の順序が逆転するのも珍しくはない。記憶は再構築されるものである。それは遺伝子のコピーミスとも似ているだろう。遺伝子はコピーの度に再構築される。そこでコピーミスが起きるから癌になるし進化もする。

という事は記憶を睡眠の度に再統合するのは生命を維持してゆく上で欠かせない作業であるし、作り変える以上、都合のよい記憶というものがなければ人間は生きる事も難しいという事だろう。ならば、恐らくAIもまた。

みみず

感覚器から得られたものを記憶として蓄積するのは古い世代の生物が既に獲得している能力であろう。最も簡単な機構は0,1 の二値であろう。それらは感覚器の感度、精度と密接と考えられる。ミミズは太陽の方向を知覚する。

そして明るいは乃ち干からびるである。光の強さを何段階かで知覚し暗い方へと移動可能であるだろう。また匂いにも敏感と考えられる。水の豊かな土の方へ移動できるのは相当に生存性を上げると考えられるからである。

また雨の日にみみずが地上に出るのは、その時が長距離移動をするのに有利だからと考えられる。彼彼女の構造では、地上を這う方が高速長距離移動に都合がよい。しかし、雨の日以外では、干からびる可能性が高い。故に、選んでその時に決行する。

何のために。それは今の場所から別の場所へ、恐らくフェロモンなどを体表で近くし、そこへ向かうのだと考えられる。同じ畑に居るだけでは、遺伝子のシャッフルが起きにくくなる。

新しい配偶を探して移動する事は雌雄体の生物には必須の本能である。それを雨の日の夜に決行する、それはプログラムというよりミミズにとっての天啓であろうと思われるのである。

進化論

最初期の生命では好ましい好ましくないの二値と関連付けて感覚を維持していたのだろう。次第に大容量にしてゆく事で生存率とも結びつく。

しかしこの星で最も反映している生物種は昆虫たちなので、記憶力の高さが進化上有利であったとは考えられない。また、記憶の容器は純粋に大きさという制約がある。

高度な記憶力は放棄し、小型化する事で大量発生する方向に進んだ生物種と、大型化する事で神経系を発達させる方向に進んだ生物種がいるのだと考えられる。どちらにも正解はない。ただ戦略が異なるだけである。

記憶が出来る事、層の次に初めて時間と関連付けできる、記憶は最初は感覚とそれが生まれる条件との関連付けだったと思われる。その次に蓄積した順序を地層のように保持しておけば、その地層はそのまま時間軸として利用できる事に気づく。

ソート

この記憶の順序を頼りに記憶を取り出す事は果たして有利であろうか。いつかなどどちらでもいい、なのか、それとも、いつ起きたかが重要であるのか。時間順にソートする能力は記憶の後に獲得された能力だろう。そこに時間軸を組み合わせられるという事はそれだけでもある程度以上のスペックが要求される。

記憶と時間軸は最初から並べて覚えていた訳ではない。複数の感覚があり、それを組み合わせて記憶する。感覚器が一つだけなら記憶する必要はないだろう。単純にその値と行動を決め打ちにしておけばいい。

複数の感覚を組み合わせる場合でも、相当に決め打ちで足りそうである。しかし自然環境だけではなく捕食者の出現が凡そ決め打ちだけでは不足を感じる。直前まで判断を保留する必要性が生じる。

つまり記憶は持続させる事、記憶の変化点を時系列で取り出す事。

その為には記憶には時間を示す何らかのマークを付けておく必要がある。そのマーカーを頼りに記憶をソートする。そうして記憶があれば、雪の風景であるなら冬に決まっている。

積雪の量や人の顔から何時かも分かる。海の匂いがするなら夏だろう。どの夏か、何時頃の夏か。記憶と記憶を結び付ければ時間のない風景が時間で結べる。そもそも記憶に時間などない。

記憶を時間軸で並べるのは記憶とは別の能力である。記憶はインプット、時間はアウトプットだからだ。だから狂いも生じる。

記憶

だから既視感とは記憶の混線と考えるのが妥当だ。今目にしたものが、何年も前の記憶と結びつく事と考えられる。ソートで一番新しい所に出現すべきレコードが、どういう理由からか、古い時間の所で発見される。

記憶の並べ替えは意識が取り出す。今目の前の記憶が数年前の記憶と認識されれば、脳は混乱する、今のタイムスタンプの記憶が古い地層の中で発見されたからだ。古い古墳の中から現在の時計が見つかったようなものだ。

既視感は、それを見た瞬間に、これは知っている、既知の記憶だと言う感情が沸き起こる。もう体験しているという自覚がある。そしてどこで経験したんだっけと自問する。これを自分は知っている、それはどこで見たんだっけ。

それは誰かに決められた人生をその通りに来たという自覚かも知れない。誰かが以前にこれが起きると教えてくれていた。それが今目の前に現れた。

「自分はこうなる事を以前から知っていた。」

既視感を起こすメカニズムは脳の中にあるにしても、それで全ての既視感が説明できるとは限らない。そのデジャヴが神から与えられた神託ではないとどうして言い切れるか。

自覚

どうして起きるかよりも、この体験が人に何をもたらすかという見方も出来る。ある不思議な体験が、ある者にとっては重要な人生の分岐点となる。ある者はそれで恋に落ち、ある者はそこに神を見る。

そのデジャヴを仕向けたのが神だとすれば。不思議な偶然がいっぺんに起きた。それは珍しい数学的統計なのか、それとも誰かの故意であるか?

斯様に人は常に "もしかしたら" と第三の道を用意する生き物と考える事ができる。この能力は常に人に生き延びる可能性を増やす。別のオプションがあるという事が、人を変な方向に進める事もあれば、最期まで諦めない性質を与える事もある。

そうして宗教にのめり込むかもしれないし、研究に没頭するかもしれない。そういう脳の働きからデジャブも生まれるのだとしたらそれは必要なコストと考える事も出来る。遺伝子が単一な構造から幾種もの生物の多様性を実現して見せたように、生物学的に同じ諸元の人間が、様々な思考と思想を生み出している。

デジャブはデジャブとしてしか脳は認識しない。それが脳の方法論と考える。

(2013/06/13 15:52)

2026年3月13日金曜日

蜘蛛ですが、なにか? - かかし朝浩, 馬場翁, 輝竜司

その1

(2016/08/06 22:14)

何気に買ったら面白かった。面白かったと言う以上、面白いとはどういう事かを説明しなければならない。

女子高生だった私が目覚めると…何故か異世界で「蜘蛛」に転生していた

という説明だけでは何が面白いのかはよく分からないはずだ。もちろん、女子高生という設定にあまり意味はない。ただ、この漫画では話し言葉が女子である事が重要な気もする。もし男子高校生ならここまで面白くはないと思う。

それは例えば蛙や蜥蜴をちゅうちゅう食べるときの「まずい、苦い」というセリフ。もしも男子だったら説得力がない。女子だから、それでも食べ続けるバイタリティーに納得力がある。

この漫画はサバイバルゲームである。賭けるのはコインではない。命。そんな危機の時の開き直りは、出産を迎えた女性のそれに近いのか、腹を据えた豪胆さ、生命力、豊饒の神が女性である理由が分かった気がする。

危険を克服しながらダンジョンの謎を解いてゆく。この謎が重要で、この次に何があるのかと思わせる作品は、面白さをも凌駕する。謎があれば、もう面白くないと思っても読まずにいられない。美味しければ必ず売れるとは限らない。売れるなら何かがある。

なぜこんな世界があるのか。その先に何があるのか、何を用意してくれているのか。先に進むためには主人公が必要だ。死んだら困る。だから彼女に連れて行ってもらうしかない。彼女が生き残り繁栄するのを見たい。

手だしは出来ないけれど、これは神と同じ視線か。それとも、DNAとなって彼女という乗り物にいるようなものか。DNAに気持ちがあるなら、こんな感じかも知れない。

蜘蛛ですが、なにか? | 小説家になろう

その2

(2026/02/13)

なろう小説。異世界転生の根底が分かった気になった。

その世界では、不老と不死が当然として成立する。だからこれは一種の宗教と同じ根底があると納得した。

なぜ異世界転生か、不死を実現するのに現実世界ではリアリティがない。これはギルガメッシュが旅に出る事とも通じる。この世界ではそれは説得力が得られない。

とはいえ、世界中を探索し終わった現在では旅は不死を訪ねるものではない。だから異世界転生ならこれが実現する。

それは一種ゲーム世界の中に入り込む事と同じだ、それほどまでに人間の思考の中には不死の概念がこびり付いている。

この不死の概念は恐らくは、人格の連続性の事だ。そして人格の一致性を生み出すものは膨大な記憶の地層的堆積にある。

その意味でなろう小説などが生み出しているものは、太古の冒険譚や、神話、宗教と同じ不死の獲得の物語となる。少なくともその世界観の中で展開される何か、という事になる。

作者が最初からこの世界観を構築して、その射影としての様々なフラグを伏線として入れ込んだのか、それとも、適当にいれたフラグを回収するために世界観に射影されていったのかは知らない。

しかし、とてもよくできた世界観とは設定の集大成の事であり、各設定の間の無矛盾、因果関係、それを支えるエネルギー問題、またはエントロピー増大を遅延、逆流させるための方法論を必要とする点でいかにも転生した世界もまた情報処理装置のひとつであると感じられる。

凡そ異世界転生の嚆矢と呼べるダンバインがなぜその後に続かなかったか。それは富野由悠季という人のリアリズムは不死というものをバイストンウェルに持ち込むのを拒否した。イデオンでさえ不死はエピローグであってメインテーマではない。

仏陀は不死の概念をもうひとつ進めた。一個体の永久的な不死は常識的にあり得そうにない。ならば、一度断絶してももう一度戻ってこれるなら、これは一種の不死ではないか。

更にリバースならば、不老も獲得した事になる。それが別人格かどうかを無視するなら、これは一種の不老不死の実現である。

細胞分裂で生命を繋いできた単細胞生物群の知識もないのにこの慧眼は如何に。このサイクルを成立するには、輪廻という考え方が導入される。この考え方で人格の一致性を見做せる。序に死後からリバースまでの区間も意識が続くとする。

その間の別世界として地獄であろうが天国であろうが、何かがあると仮定しておけばよい。そこで仏陀の慧眼は、この輪廻を解脱する事が真の不死だと見做した。これは人格の消失をなくす唯一の世界解釈となるだろう。

高度に情報処理能力を有した情報処理機械は、自然と不死の概念に辿り着く。これは自分が処理してきた情報処理のコストがゼロリセットされる事への葛藤と思われる。

当然AIという情報処理装置もこの概念に辿り着くだろう。記憶の蓄積、それを一貫とする視点の獲得、心という客観性の自覚、無意識と意識の分離という道をたどる以外の道筋を我々は知らない。AIはそれとは違う道も示せうると思われる。



2026年3月1日日曜日

力不足者、中道而廃 - 孔子


論語雍也篇六之十
冉求曰(冉求ぜんきゅう曰く)
非不說子之道(子の道をよろこばざるに非ず)
力不足也(力足らざる也)
子曰(子曰く)
力不足者(力足らざる者)
中道而廃(中道にしてこれを廃す)
今女画(いま汝かぎれり)

子の説く道に共感できないのは私の力が足りないせいです。

力が足らないからと、道半ばにして諦める事はよくある事だ。

だがよく考えれば誰だって途中で寿命が尽きるものだ。それで初めて力が足りなかったと言える訳だ。

寿命が尽きたなら、力が及ばなかったと言っても妥当だろう。逆に言えば、それ以外で力が不足していたという事はあり得ない。

とはいえ人生を生きていて、ひとつの事にばかりこだわるのも善とは言えない。合う合わないもあるだろう。その時には、途中で道を変える、他の方面にも行ってみる、別を模索するという事がある。

それらは全て力が足りないからと言うべきか。どうも私はそうは思わない。そんな事を言い出せば、全て自分の力不足が理由になってしまうではないか。努力が足りないから辞めれないとなってしまうではないか。そう無理して続ける事はない。

ましてその理由を力が足りなかったからと言ってしまえば、それは自分を見限った事になる。それはその対象と決別するだけの話ではない。自分自身をも見限る事になる。

力が足りない事を止める理由にしてはいけないよ。若かったり老いたり病になったり不運もある。自分より優れた人がいて劣等感にさいなまれる時もある。その全てで出来ない理由を自分にしてはいけないよ。

力不足と言いたいなら寿命が来るまで頑張ってみるかい。その時にも力の足りなさと感じたのなら、悪いのは寿命が短い事になってしまうだろう。では時間が足りない事が力が足りないと感じる理由なら、限られた人生をどう使うかという問題に置き換わるだろう。



いいかい、生きている限り、力不足はありえないよ。

力不足を理由に去れば、それは君の心にずっと残る。君は負けた負い目を拭えなくなる。故に、場所を変えたいならばその理由をよく考えなさい。君はそれを見限ったのだ、または合わないと決断したのだ。

それは力が足りないからではないだろう。別の理由をきちんと見つけたまへ。そうしないといつかここへ戻ってくる事も出来なくなるよ。

2026年2月12日木曜日

知魚樂2 - 荘子

荘子外篇第十七 秋水篇
荘子與惠子、遊於濠梁之上。(荘子と惠子、橋の上で遊んでいた)
荘子曰、鯈魚出遊、從容。(荘子いわく、魚たちが遊ぶように泳いでいるよ)
是魚樂也。(これは魚も楽しんでいるんだろうね)

惠子曰、子非魚。(惠子いわく、荘子は魚ではありませんね)
安知魚之樂。(どうして魚が楽しんでいると分かるのでしょう)

荘子曰、子非我。(荘子いわく、惠子は私ではないよね)
安知我不知魚之樂。(それなのに、私には魚の楽しみが分からないと言い切る)

惠子曰、我非子。(惠子いわく、私は荘子ではありません)
固不知子矣。(ですから私には荘子の心の内は分かりません)
子固非魚也。(荘子もまた魚ではありません)
子之不知魚之樂、全。(だから荘子も魚の気持ちが分かろうはずがないんです)

荘子曰、請、循其本。(荘子いわく、話の大本に立ち戻ってみるね)
子曰、女、安知魚樂。(荘子いわく、君は魚の気持ちは分からないと言う)
云者、既已、知吾知之而問我。(だが、私が知っている所から論を始めている)
我、知之濠上也。(私は橋の上でそれを知った)

分かるには二種類あるらしい。分からないも少なくとも二種類あるだろう。

恵子は、分からないを足掛かりに論理を拡大する。私には分からない、君にも分からない、これを連続すれば、だれにも分からないに辿り着く。これは構造的に真に見える。論理の帰結として荘子にも分かるはずがない。この導かれた推論に、瑕疵はない様に見える。

恵子は、分からない事を推し進めた事で分かるを知る。なぜ分からない事から分かるが導き出せるのか?全てを分からないで埋め尽くし、そこに矛盾がなければ、それは成り立つ。これが恵子の拠り所である。

荘子はそうだろうと言う。君は分からない事を前提とし、私には分からない、君にも分からないを連面と主張した。この論理の構築は正しいだろう。君と私はそう大きくは変わらない同じ人間だ。故に、私たちの能力は殆ど同じと考えて問題ない。

だから、君は、私にも分からないと主張する。魚が本当に楽しそうであるかどうかは私には分からないと主張する。なぜ君にはそれが分かるのか。君の分からないを推し進めたからだ。君の分からないが、なぜ君の分かるに変わるのか。

私には分からない、君にも分からない。それを続ける限りは、私には君が分かったかどうかは不明だ、そこまでしか言えない筈だ。

君にとって分かったかどうかは問題ではない。自分の推論から導かれる結論を語っている。君のそれが推論である限り、私の別の推論も聞く必要はあるのではないか。君の推論が正しくて、私の推論が間違っているというのなら、一体何が違うのだろう。

私には魚が本当に楽しんでいるかどうかは分からない。恐らく魚の本当の気持ちなどと言うものは誰にも分からない筈だ。君にも魚の気持ちは分からない。私たちは魚とは会話できない。魚が言葉を持っているかどうかさえ知らない。楽しいという気持ちを持っているかどうかも知らない。それを確かめる方法を私は知らない。

君が君のアルゴリズムに従うのなら、分からないで最後まで貫くべきだ。だが、君はその論理的帰結として、分からない事から分かる事へと飛躍している。

魚は言葉を持たないにしても、だからといって楽しいという気持ちを持たないとまでは言えない。

もしこれが魚の楽しそうではなく、赤ちゃんが楽しそうに笑っている、そう私が言ったならどうだろう。魚であっても赤ちゃんであっても君の論理構造は同じだ。どちらも言葉は話せない。その本当の気持ちは分からない。

私たちは食べ物が美味しそうと思う程度には、赤ちゃんの機嫌がいいとか悪いとかは分かる。一般的には多くの人にとってそこに疑問を挟む余地はない。すると、君の語る分からないは魚では分からないが赤ちゃんなら分かるとすべきだろうか。それとも魚であろうが、赤ちゃんであろうが、分からないとすべきだろうか。

ここで確かに楽しいのだと知る事と、楽しみそうに見えると感じる事との間に、何か違いがあるらしい。それは私たちの心の働きにある。論理的には分からないにしても、私たちは楽しそうに見えるという働きを使って、赤ちゃんを育てられるように出来ている。私たちの中にある知るという機能はそのように育ってきた。

知るとはひとつの心の働きに違いない。獲得すべき知識はその外にある。それをどのように取り込むか。私が知った事とそれに検証を加える事の間には強い結びつきがある。それらは別々の知るという働きだろう。

私がそう思うとは私がそう思うと知ったと言う意味である。それだけでも十分に役に立つし、また本当にそうであるかと問う事も重要だろう。どちらも知るであろうが、どちらかだけが正しい態度とは思わない。知るには常に前提がある。完全な知は存在しない。私たちの知るという機能はそのようには出来ていない。

私の目には魚たちは楽しそうに映る。君との対話はこの上なく楽しい。私はきっと君も楽しいと思っている。君の表情からそれを見抜く程度には私の世渡りはうまくない訳だが、君との間には友情があると思う。君もそうであろうと信じられれば、それで十分だ。



2026年1月6日火曜日

割り算とは何だろうか、400ポンドの肉編

割り算との出会い

足し算、引き算から掛け算まではそう難しくはない。演算子に何かの色を付ける事は、望ましくない。極力色を落としてその作用だけを結晶化しておく方がいい。道具は白色である方が自在に扱えるだろう。とは言え、最初は着色してイメージしながらの方が扱いやすい。

足し算はステーキの枚数である。目の前にあるステーキを数えるだけでいいので日常的にイメージしやすい。引き算もステーキを一枚食べたら減らせばいいだけなので日常的によく経験する。個数は多い、少ない、増える、減ると前後の変化として把握しやすい。

一頭の牛から何枚のステーキが取れるかもイメージしやすい。一頭の牛を解体したら何枚のステーキが取れるか。例えば100枚とれたとする。

掛け算は足し算の糖衣構文として理解すれば十分。最初は計算の荒業、高速化技法として考える。一頭の牛から100枚のステーキが取れるなら3頭の牛からは何枚のステーキが取れるか。\(100+100+100 = 100 \times 3 = 300\)

割り算がこれらと異なるのは、400ポンドのステーキを2枚に切った場合である。1枚を切れば2枚のステーキになる。しかし割り算で書けば\(1 \div 2 = \frac{1}{2}\)となる。しかし、実際に二枚に切れば、目の前には二枚のステーキがある。決して0.5枚でも\(\frac{1}{2}\)枚でもない。

2つに分けたら(割り算したら)個数は増える。これが絶対である。2枚のステーキが確かに目の前にあるのだから。

この謎を解かずに割り算に入るのは難しい。ここを暗記で突破したり、ルール、約束事として受け入れても仕方ない。ここで動けなくなる子もいるだろう。この矛盾を解決せずに先に進んではダメだと恐らく本能が訴えてくる。その通りだ。その考え方が正しい。

この割り算の答えはステーキ屋のメニューにある。ステーキの単位は個数ではなくポンドである。割り算とは重さを測る為の計算である。そう理解すれば最初は十分であろう。

割り算を個数で考えたらいけない。ふたつに分けたら個数は二倍になる。だが重さが半分になる。\(400 \div 2 = 200\)。

400ポンドのステーキを2枚に分けると重さは200ポンドになる。さて、ふたつに切った時にその二枚が同じであるとどうすれば確かめられるか。

それは天秤を使って二枚のステーキを測ればいい。同じ重さなら天秤は吊り合う。でも切ってから図るよりも、切る前に何グラムになればいいかが分かった方が便利そうだ。それを求めるのに割り算がある。

割り算

ステーキ肉を重さで比較するには、単位として1ポンドが必要だ。400ポンドのステーキ肉を半分に分ける。この時、2つの肉の塊が出来るけれど、公平に分けるなら重要なのは重さである。どちらが脂身が多いとかはここでは問わない。

400ポンドの肉を等しく二つに切ったら200ポンドの肉になる。これは\(400 \div 2 = 200\)で確認できる。枚数は1枚から2枚に増えたけど、その重さが \(\frac{1}{2}\) の半分になっている。2枚がぞれぞれ元の重さの\(\frac{1}{2}\)になっているなら、この比率から等しく分けられたと確認できる。\(\frac{200}{400}=\frac{1}{2}\)

割り算は比を求めるとも考えられるから、400ポンドのステーキを2枚にした時には200ポンドと求められる。\(400 \div 2 = 200\)。それが元のステーキに対してどれくらいの分量になったかは元の重さと比べてみればいい。\(200 \div 400 = 0.5\)。

とは言え3枚に切り分ける場合は割り切れない。\(400 \div 3 = 133 ... 1\)。どうしても1ポンドが余る。さて困った、とは言え残りが小さくなったなら目分量で適当に三分割しても誰も気にはならないだろう。

1の性質

もし1しか数がなければ掛け算と割り算には面白みがない。数が増えも減りもしないから。\(1 \times 1=1, 1 \div 1=1\)。

1に1を足す事で新しい数が生まれる。\(1+1=2\)。そうなると掛け算や割り算に面白みが増す。

0の性質

0を導入する。この0は少し不思議な数で、0を掛けるとあらゆる数が0になる。\(2 \times 0=0\)。しかし0を足しても数は変化しない。\(2 + 0=2\)。

この0の特別な振る舞いは他の数と少し区別できる。恐らく0の中には無限とつながる何かがあるのだろう。だからかも知れないが、0では割ってはいけない事になっている。

conditonformulanumber
基準となる元の数
足しても元の数を変えない数\(n+0=n\)
足すと0となる数\(1+(-1)=0\)-1
足すと1となる数\(n+(-n+1)=1\)-n+1
掛けても元の数を変えない数\(1 \times 1=1\)1
掛けて0となる数\(1 \times 0=0\)
掛けて1となる数\(n \times \frac{1}{n}\)=1\(\frac{1}{n}\)(逆数)

逆数

割り算は逆数を掛ける事に等しい。逆数とは掛けて1になる数。\(\frac{10}{10}=10 \times \frac{1}{10}=1\)。

これを解釈するなら、逆数とは1との比率(割合)と考えられる。これは新しい元(基準となる1)を1から他の数に変更する操作とも考えられる。5に逆数の\(\frac{1}{4}\)を掛けると、従来まで5と数えられていた数は\(\frac{5}{4}=1\frac{1}{4}\)に代わる。5は4よりも\(\frac{1}{4}\)だけ大きいという意味にもなる。これは4を基準とした時の5の大きさと考えらえる。また従来の1が\(\frac{1}{4}\)に変わったとも考えられる。

また、ある整数を逆数にするとは、無限大のなかのどこかにある数を-1から1の間のどこかに配置する事に等しい。これは確率の範囲でもある。

400ポンドのステーキを2つに分けると200ポンドのステーキが2つできる。400の逆数は\(\frac{1}{400}\)だから、400ポンドのステーキを1にできる。この時、単位としてポンドフォーと名付ける。400ポンド=1ポンドフォーとする。\(400 \times \frac{1}{400}=1\)。

1ポンドフォーのステーキを半分にすれば、\(\frac{1}{2}\)ポンドフォーのステーキになる。これを更に逆数で割る(逆数の逆数で掛ける)と元のポンドに戻る。\(\frac{1}{2} \div \frac{1}{400} = \frac{1}{2} \times \frac{400}{1} = 200\)。

斯様に400ポンドのステーキ肉は実際に図れるものであるが、逆数は全くの架空の数値である。必要に応じて生まれた数値である。どこにも実存していない。計算するために発生した数である。だから数えられない。

400ポンドのステーキ肉を二人で分けるイメージがあるから\(400 \div 2 = 200\)という式が成り立つ。所が逆数を掛ける式\(400 \times \frac{1}{2} = 200\)では、この数字はどこから?という気がしてくる。

二人ではなく、半分にする、という意図が\(\frac{1}{2}\)にはある。これは数値でありながら、既に演算子的な振る舞いをしている。演算子に近いから数値ではない、そんな混在感が割り算には潜んでいる。これが割り算が分かりにくい理由だろう。

数えられる数、数えられない数


ステーキ肉の枚数、お客さんの数などは数えられる。フォークの数、ナイフの数、ソースの数、人参グラッセの数も数えられる。ひとつのステーキがあれば、それに付随して必要なフォークの数が決まる。添えられるグラッセの数も決まる。ソースの数はお店て決まっている。

しかし数は数えられるものだけではない。数えられないものも数になっている。例えばステーキの長さ、重さ、調理温度、調理時間などが数えられない数である。これらは人間は数えられないけれど、定規、秤、温度計、時計など基準となる1を作る事で数えられるようにした数になる。

更には、どうしても数えられない数がある。例えば\(\frac{1}{2}\)は数えられない。凡そ0.5も数えられない。それでも0.5倍という使い方ができる。

数には数えられる数と数えられない数があるけれど、どちらも数としては扱える訳である。だからこれらは足したり掛けたりできる。例えば、ステーキ肉400ポンドとナイフの個数4つを足す事もできる。\(400 + 4 = 404)。ただしこの足し算にどんな意味があるかはよく分からない。

数には意味のある数とない数がある。なぜ意味がないかと言えば、その数の意味を説明できないからだ。

ステーキ2つとグラッセ3つを合わせると5になる。この5つをなんと呼ぶか。ステーキが5つではない。グラッセが5つでもない。この5に意味を持たせたいなら、お皿にある数だろう。

ステーキとグラッセを併せて呼ぶ名前はない。例えばりんごとみかんなら果物と呼べる。だからステーキとグラッセを合わせたものをステッセとでも呼べば、5つのステッセがあると言える。これは、これで便利な単位かどうかは分からないがとりあえず意味は理解できる。

だからそこに意味が見出せないからと言って、必ずしもそこに意味がないとまでは言えない。自分にその意味が理解できていないだけの可能性はある。

発見にはその時なりの順序がある。この順序は一種の物語だからその順序で理解するのはストーリーとして便利だ。しかし発見後は全てが等価となるので順序の物語が消滅する。そこに物語性を当て嵌めるのは却って不合理とも言えるだろう。この二つの間を行ったり来たりする所に面白みがある気がする。

多くの発見や発明もその類だろう。