フリーレンはアニメーションで嵌った。少年サンデー連載当初、確か漫画の一巻目は読んだ。でもその後は追いかけなかった。面白くないと思ったのか、集めていたら長丁場になると思ったのか。それさえもう定かではない。
声優の魅力は銀河英雄伝に迫る。何度の視聴にも耐える声の魅力。
アニメを3回見て漸く気付いたのはフリーレンの旅とヒンメルの旅を重ねている構造。同時並行して進むふたつの冒険譚。ふたつの旅でひとつの旅のような錯覚。どちらか一つだけではこの重層さは生まれなかったと思う。
フリーレンは長命種の紀行文の様でもある。外伝、スピンオフ、サブストーリーが沢山生まれるフレームワークもしっかりしている。のんびりとした雰囲気も非常にいいが、それでもやはり戦いが始まると少しだけ前のめりになる。
この不思議さはどこから生まれるのか。原初的な闘争本能が呼び覚まされるのか。爬虫類脳への刺激か。だがそういう考え方で説得されたくはない。戦闘の始まりが何かを示唆する。物語のある瞬間を境に、ここから先は解放する。タガを外す、そういうスイッチの構造がある。
バタイユの過剰蕩尽、溜まったものを解放する快楽。エネルギーを失い光子を放出するイメージ。熱が赤外線を輻射する。エントロピー増大を阻止するネゲントロピー。情報の蓄積を回避するために必要とされる眠り。
我々の社会では蕩尽は祭りとして企画され定期的に社会全体で受容される。祭りは時間と場所を限定するハレの日として行われる。なぜ蕩尽は祭りとして組み込まれたか?
蕩尽は恐らく抑制系を停止する。抑制は前頭葉が司る。一般的に睡眠時には抑制が弱まる。だから誰でも夢の中で自分でも思っていないような行動をする。それに驚いて夢から醒める事もある。フロイトはこれを深層心理を読解する手掛かりとした。
睡眠時に脳は情報を整理整頓する。その場合に入力と出力をシャットダウンするのは、整理時に新しい入力があると混乱を起こすし、出力を停止しないと危険すぎる。だから高度に発展したAIは睡眠を要求する筈だ。
日常の中で睡眠や飲酒などで解放を続けても蕩尽は規模で異なる。それは参加者の規模の違いでもあり、個人的経験から集団的経験として体験される。日常のなかで蓄積され続けてきた何か。そのストレスを発散しトランス状態で忘却しカタルシス(浄化)により意識を再起動する。それらの多くは快楽を伴う経験であるし一種の防衛機制でもあるだろう。だから行動規範も解除されやすい。
脳が抑制系を止めそれまで働きの乏しかった神経系を開放する。土管掃除のイメージで大量の信号を一気にそこに流す事で活性化する。これはもしかしたら神経網の定期検査かも知れない。
脳は、怪しみ、疑い、確かめを繰り返し情報を精査し生存性を高める。個体にとってこれ程に重要な機能はない。だから脳は疲れる。睡眠により日々の情報を整理整頓し刷新する。それをしなければ脳の中はジャンクだらけで足の踏み場もなくなる。
祭りを社会全体で集団的に行う理由はそうしないと危険だからだろう。抑制系を解放すれば謂わばブレーキのないアクセルだから危険度は高まる。だから個体単位でやるよりも集団単位で一斉に行う方が危険を分散できる。誰かの危険察知も全体で共有できるし誰かが捕食されても他が生き残る可能性が高い。ペンギンたちが捕食者の待つ海に飛び込む時に一斉に飛び込むのと同じ案損保障機構が働く。
互いに危険な時間を共有し互いの生存を互いに依存しあう関係は社会への帰属意識を強化する。これは群れとしても望ましい。
抑制系のOFFのタイミングは物語の中にも見出される。ここから先はなにも疑問を持たなくてよい。このスイッチが押された瞬間から安全な空間の始まりとなります。どうぞ脳の抑制系を落としてこの世界に入り込んでください。このような構造がある。それが戦闘シーンである。
ヤマトやザンボットでも見られるこれらの文法は物語の約束事よりももっと深い部分で人間が元来持っている「何か」に直結していると考える。
テレビにはワイプという手法がある。映像の中で起きている事を視聴者がどう理解すればよいかを暗示する。どういう感情でいればいいのという疑問に答えるためにワイプに映ったタレント、芸人、俳優の顔で誘導する。もし彼/彼女らが笑えば、それは笑ってもいい合図である。悲しんでいるなら今は悲しい空間を示す。
例えナチス収容所の描写であってもワイプの中で誰かが笑っていれば笑ってもよい時間帯である。瞬間少し早いタイミングで拍手や笑いを挟み込めばその場の空気も支配できる。人々は余りにもこの能力を無邪気に使用する。
人間が群れを作る動物である以上、抑制、共感、駆け引きする能力が発達する。群れの中での力関係や階級、役割、地位を理解して行動を決定する。そうする事で群れという高いコミュケーションを要求される中で如何に低いコストで運用し続けられるか。
如何なる組織でも世界の構造は人間の階層関係として描く。これは現実でも物語の世界でも変わらない。作品中で誰が最上位に位置するかは明示的に描く。そこを基準として人物関係を膨らませてゆく。このような位置づけ方が恐らく人類に王政を齎したのだろう。家族という最小単位にさえ、この構図は存在する。古代中國では鼓腹撃壌という別の理想も生み出された。
ミルグラム実験はある特殊な状況で社会的協調性がどれほど優先されるを示したのだろう。何より抑制系をOFFにし解放した状態でなければ成立しない。そしてこのような行動を人間が取るのは、個人単位のみならず、群れの中でも生存性を高めるのに寄与した有益な能力だったろうと考えられるのである。br />
抑制系を放棄する事で群れが一斉に動き出す。豹に襲われている時にあれこれ考えても無益だ。そうではなく隣を見て全員が一斉に素早く動き出すべき時なのだ。そういう行動を取る群れの方が圧倒的に生き残る可能性が高い。そうでない群れは淘汰される。こうしてこの形質が遺伝的に残りやすくなる。
その延長線上にあるから、戦争では兵士が考える事を放棄した様々な事例が報告される。そういう性質を人間は元来備わっている。
人は味方にも敵にもなる。だから警戒は解けない。家族にさえ気を許せない人もいる。このコストを社会全体で如何に下げるかは重要だろう。高コストのままではいつか群れは警戒の重さで分解してゆく。全体主義が長続きしないのはこのコストが増大し遂には疑念と疑惑の中で自重で押し潰されるからだろう。情報を扱う装置である限り、情報の増加は、処理能力をどこかで追い抜く。
社会全体が効率的に円滑である為には警戒のコストを下げたい。しかし無防備である事もまた危険。どこかに均衡点があるはずだ。集団の中に如何に人を迎え、如何に追い出すか、そういう手続きを人の集団は手探りで作ってきた。どのような社会でも何らかの警戒を解く手順がある。
だから関東大震災のような時には言葉がなまっているという理由で虐殺が起きる。
今の時代は急性アノミーが起き、コミュニティが希薄になりつつある。人々は自分たちの従属意識を頼りに集団の再構築を模索している。まず群れがある事。そこに属する事。どの群れを選ぶかは民主主義の投票とも相性がいい。ある意味で従属意識を頼りに政治への参加が促進される。
およそ共同体と政党政治が直結するのは望ましい形ではない。投票の基本は選択にあり従属性にはないからだ。従属性は簡単に全体主義を正当化する。従順である事は群れから追い出されない為にも必要な行動様式だ。疑ったり吟味しても仕方ない。疑問を持てばまた群れから出て事になる。こうして抑制系はOFFされ危険の警戒よりも集団の中で安住する事が優先される。
民主主義を成立するのは疑問を持つ事、討論を重ねる事だ、これらは抑制系が十分に働く事が全体になる。だから民主主義は遅いと指摘される事にもなる。抑制系が働いているのだから当然に遅いのである。
群れの外に豹がいる時には団結力が重要だろう。その場合は抑制系は余り必要ではない。今重要なのは豹を監視する事だ。そして襲ってきたら全員で逃げ出す事だ。それ以外の何について考える必要があるだろう。外国人排斥が流行する理由である。
敵がいるから境界が引ける。世界を架空にするからこの世界のルールが必要ない。小説の中では人はどのような悪党にでもなれるものだ。転生ものの作品が警戒心なしで楽しめるのは現実から隔離した架空世界があり、実世界のしがらみやルールが無視できる。そして主人公は基本的に無双であり生存について悩む必要がない。その世界は安全なのである。抑制系を働かせる必要はない。
フリーレンでは魔族という倒す相手が説明されている。旅は人間と交流しているか魔族、魔物と戦闘しているかのどちらか。目指すのは魂の眠る地「オレオール」。人間を知る旅と位置付けられているが、死者がすべてここに集まるのであれば、そこには転生という概念は無い事になる。また死んだ魔族はその場所に行けない事になる。
だがそれは不思議だ。なぜ魔王はその地に拠点を築いたのか。なぜ全ての生物がそこに集まらないのか。そこには一般的には知られていない魔族が生まれる理由とか、その場所に人の魂が集まる理由が居る筈だ。そして魔族が人間を捕食する世界の理も説明される事になるのではないか。
その謎に先行して挑んでいるのは案外魔族の誰かであるかも知れない。その研究者との出会いがあっても全然矛盾はない。調和と矛盾のあるべき場所へ、作品は更なる展開を読者に突き付ける。
さて、どんな展開になろうともフリーレンの声の人(種﨑敦美)の演技を楽しみに待っている。次に会えるのは2027秋。
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