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2012年1月20日金曜日

知る者は好む者に如かず 好む者は楽しむ者に如かず - 孔子

巻三雍也第六之二○
子曰 (子曰わく)
知之者不如好之者 (之れを知る者は之れを好む者に如かず)
好之者不如楽之者 (之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず)

一体 "知" とは何であろうか。

知識、情報は言葉に過ぎない。

その言葉を "知る" 者はより優れるのであれば、それはアリババと40人の盗賊と何も変わらない。現代は 「イフタフヤーシムシム」 で溢れる世界だ。呪文を知る者が他の者を制する。パスワードを知る者はどんな扉も開けることが出来る。"知る" 事が優れている、それは今の世界を振り返らずとも昔より変わらぬ事実である。

孫子第三篇謀攻
故曰、知彼知己者、百戦不殆 (彼れを知り己れを知れば、百戦あやうからず)
不知彼而知己、一勝一負 (彼れを知らずして己れを知れば、一勝一負す)
不知彼不知己、毎戦必殆 (彼れを知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ずあやうし)

孫子の語る "知る" という言葉の重要性は今でも変わらないが、どうも孔子の語る "知る" はそのような意味ではないように思える。何故 "知る" 者は "好む" 者に敵わないのか。これは "知る" とは何か、"好む" とは何かという問いに変容する。

"知る" だけでは足りぬと言う。では足りないものは何であるのか。

"好む" ものは、より "知ろう" とする。だから "知っている" 者よりも、"好む" 者のほうがもっと詳しく知る。だから "知る" よりも "好む" ほうがよいのだ。

そんなはずはあるまい。こんな解釈で済むのであれば今日まで残るとは思わない。

"知る" の比較級としての "好む" では何とも詰まらない言葉だ。"知る" は "もっと知る" には勝てない、と言っているようでは孔子の言葉を待つまでもない。

"知る" 者は勝負の世界を生きている。この言葉は勝敗のある世界で通用する言葉であろうか。"知るだけ" の者よりも "好む" 者の方がより技術の上達が早いのであろうか。"好きでいる" だけの者よりも "楽しんでいる" 方が実力を発揮しやすいという事だろうか。

何を "楽しめ" というのか、どう "楽しめ" というのか。これは勝敗の世界でのあり方を語る言葉であろうか。"楽しむ" ことが、例えば "知識" をより増やす方法であるのか。それとも人生をより豊かにする方法であるのか。

どうも、しっくりとこない解釈だ。

"好む" だけでは足りぬ、"楽しむ" ほうが良いと此処では言っている。またもや "楽しむ" とは何かという問いに変容する。

"知っている" だけでは足りない。"知るだけ" よりも "好む" ほうがより対象に近づく。しかしそれを行動に移して初めてそれを "楽しむ" ことが出来る。

その "知った" 事を実践するには "楽しむ" 必要がある、"知る" から "楽しむ" に至るには "好き" でなければならぬ。そう言いたいのだろうか。

どうも僕には "楽しめ" と言っているようには聞こえて来ない。"楽しむ" とは何であるかは答えられぬとしても、では、"楽しむ" ことで何に対して如かずと言っているのか。そうやって考えているうちにどうやらこれは苦しさに打ち勝つ基準のような気がしてきた。

"知る" 者では耐えれない苦しさも "好き" という気持ちがあれば打ち勝つ事ができる。しかし "好き" という気持ちだけではいつか苦しさの前に打ち崩れる事もある。そんな時でも苦しさを "楽しむ" 者であればそこで負ける事はない。

だから如かずなのだ。これは "知" による勝敗について語ったものではない。苦しみに打ち勝つ為の在り方を語っているのではないか。

まさに苦しく果てしない孔子の己れの求める道の歩き方についての感慨ではないか。

この言葉はだからため息のような読後感がある。

この言葉の後に孔子はきっとため息をついている。

何しろその苦しさに変わりはない。

故にこの知好楽の順序はその優劣を語らない。

自分が今どこにいるのか、それはどれくらいの所にいるのかを知っておればいい。では私はどうであろうか、と自問する。そして苦しみは "楽しむ" 者にこそより強くなるのだと語っているように聞こえる。どうしてもこの言葉はため息で終わらざるをえない。

巻三雍也第六之二三
子曰 (子曰わく)
知者樂水 仁者樂山 (知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ)
知者動 仁者静 (知者は動き、仁者は静かなり)
知者樂 仁者壽 (知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し)

この言葉では知者も "楽しんで" いる。"楽しむ" ようでなければ知者とは言えぬ。そう言っているのだろうか。

少なくとも "楽しむ" とは動くことであるようだ。知者が水を "楽しむ" とは絶えず変わりゆくものを "楽しむ" という事であろう。知識は絶えず変わる、時間や場所や人により次々と変わってゆく。そのような動くものであり、それを "楽しむ" と言っているのであろうか。

では "知らぬ" ものはどうすればよいのか。"知らぬ" 者は "知る" 者に如かず、という言葉はない。いや "知らぬ" ものにはそもそも苦しみがないのかも知れぬ。だとすれば、"知らぬ" ままでいることも又その苦しみと対峙する方法の一つである。

だが、孔子はそうとは言わない。彼は自分が "知ってしまった" 苦しみについて語っているのであろうし、"知ってしまった" が故にどうにもならぬことを思っているのではないか。だから "知らないままでいる" ことを卑下にしたり劣った考えであるとも言ってはいない。

人はそれぞれの苦しみを抱いている。"知らぬ" 者にはそれがないのでそれも結構であるが、もしも "知ってしまった" のであるならば、せめて "楽しむ" ことでより先へ耐えて行きたいものだ、そう述懐したのではなかろうか。

それについては孔子は沈黙する。

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