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2012年5月23日水曜日

日産サニー - デザインと名前

道を歩いていると、お、いい車じゃん、これ。

よく見れば実家に同じ車がある。

日産サニー!


http://ja.wikipedia.org/wiki/日産・サニー より

どうよ、この車らしい、車。車の絵を描いてみなさいと言われたらきっとこうなる最大公約数のデザイン。ポルシェだのランボルギーニだの、そういうのに憧れる年頃から見れば、侮蔑の極み、堕落の象徴、一般化の具現、面白みのない大人、皮肉、そう言った声が聞こえてきそう。まさに、僕も最初にこの車を見た時はその平凡さに落胆した。

この車。

今みると悪くない。

美しいという称号を与えたいなら、この車は不適格かも知れない。細部に美が宿るからも遠そうだ、綺麗ではあるが美しいとまでは言えない。これが感嘆できる曲線であるかは微妙だ。

しかし、ここにも一つの意志がある、平凡かも知れないが、車という道具に与えられた形がある。全ての虫が煌びやかに多彩に迷彩されている訳ではない。地味な虫は美しくないのか、そういう感性は神の創造物であるには欠陥のように思える。虫がではない、その感性の宿り主が。

存在に与えらえたデザインとは何とも不思議なものである。

と、国道に目をやればふと来る車、次に来る車、一台づつ見ていると。。。

どれもこれも、 十分個性的で愛らしい。まるで、色々な虫が歩いているのを観察してるようだ。楽しい。最悪のデザインに見えていたTOYOTAまでもが悪くない。TOYOTAの車はどれもこれも、後部座席ドアの流れるような曲線の良さが見えてくると面白くなってくる。これらの車に与えられているのはデザインではない、パッケージングであろうと思われてくるから不思議だ。

ブランド
昔の車が良く見えてくる、古い時代のものの存在感を感じる。そういう事はデザインでも良くある話だ。石器時代の石器にロマンを感じるが、ジャングルで生活する人が使っている石斧にどれだけの感想を覚えるともない。

デザインの何に興奮するかは非常に変動的なのだろう。それはバックグランドや思い込みも含めて感傷的なのかも知れない。如何にも日本車のデザインは何かの影響を強く受けているように見える。あの車を真似たのか、という思いに捕らわれる。似ていないなら、あの車に対抗しようとしたのだという思いに捕らわれる。デザインに影が見えてくる。

これは名前のリンクでもある、サニーとカローラ、この二つのリンクが切れればそれぞれが美しい。しかしこの二つが切れていなければ、それはサニーはカローラの真似というフィルターから逃れる事が出来ない。

だから車の名前やメーカーも全部を忘れてただ眺めてみればどれもこれもよく思えて来るんだろう、と思う。

名前ってのは解剖学で定義するようにある一部分、どこかを切り出す行為だ。だから名前がある限りは空間なり領域なり境界なりで何かから何かを切り取っている。それは世界であるだろう、ではそれを切る道具は何だろうか。きっとそれが価値観というもの。

ステータス
有名なメーカーだの、排気量が大きいだの小さいだの、金額だの新車か中古だの。謂わばブランド。

ブランドがあれば価値で染まった姿が見える。後ろ盾のある人物が大きく見えたり、落伍した人が小さく見えたりするのと変わりはしない、デザインの価値観を入れる箱物という側面は否定しきれない。ステータスとデザインには深い繋がりがあるはずだ。

そういうものを全て忘却してみればどれもこれもよい車。過去が価値観を洗い流してくれた訳だ。どれにも個性がある。

この失われたステータスはビジネスが生み出したものだ。であればビジネスとは名前を付ける行為なのだろう。何かに新しく命名する。商品を作っては名前を付ける。仕様を提唱して名前を付ける。

パッケージ
従来とは違った切り口を見付けたなら其れに名前を付ける。これが新しい価値の提案と言える。逆も真。名前を付けたならそれは新しい価値の提案なのだ。既にある名前でも再発見という事もあるし、Version 2.0やRevision、Season、Seriesとするのもある。

少なくとも今やっている事に名前を付けてみよう。ビジネスとは名前を付ける事。それがビジネスの恐らく第一歩だ。そしてデザインとは名前に仮面を与える事である。それは価値観と強く結びついてデザインされる、何故なら、価値観は名前と表裏一体だからだ。それが次第に時間の経過により名前が忘れられてゆく、その時に、名前を失ったデザインというものがもう一度姿を現してくる。

時間の経過とデザインが関係するなら若さや老いもデザインと深い関係にあるはずだ。若い野心がステータスと無関係ではいられるはずがない。若い時こそ物事に色を付けて見る癖が強くでる。それは己の価値観をぶつけたものだ、好き、嫌い、使える、使えない、得になる、ならない、金になる、ならない、如何に行くべきか。彼らは名前に反応し、新しい名前はないかと探す。

ビジネスだけではない、呪いも名を必要とする。相手の名が分からなければ呪う事さえ出来ない、何故なら、名前によって相手を世界から切り離すからだ。名前に取り憑きその重みで人を殺すに至る。遠い昔、既に忘れられた名前の人々の物語がそこにある。

造形
それらが流れ過ぎてゆき今もこの世界に残っているものは何であろうか。

デザインに美しいも美しくないもありはしない。それはブランドという価値観に酔った感性に過ぎない。デザインはただ存在する。その存在に感性が畏怖したならば、それはデザインだけではない何かと出会った事になる。

このサニーも家族の思い出だけが残ったような姿をしている。

誰もがデザイン以外の形を目で見るなど出来ない。だから、この世に残るものはデザインだけなのだ。

人は去る、デザインだけが残る。

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