stylesheet

2012年5月25日金曜日

もっと知りたい曾我蕭白―生涯と作品 - 狩野 博幸

うちの母親は狩野永徳について面白い意見を持っていた。

織田信長の前で絵を描くとは命懸けであった。彼の癇に障るといつ命が飛ぶかも分からなかった。そんな命懸けが絵に出る。その迫力に圧倒される。

絵描きが絵をお披露目するときの緊張感を想う時、その絵には覚悟があったはずだ。この絵で殺されるならどうしようもない。だから狩野永徳を見る時はそれが命懸けであったと想うて見るのがいい。その迫力に圧倒され、緊張感のうち、色々な思いに捕らわれる。

時代を超えて残るものは解釈をし過ぎて困る事がない。どのような解釈も出来るし新しい見方も拒絶しない。だからそれは見る者を映す鏡と呼んでも困る事がない。

だが息子である僕の好みは時代が少し違う。

江戸時代である、江戸時代のユーモアこそが骨頂である。この時代に描かれたあちこちに見られるユーモアがこよなく好きだ。じいっと見ていると思わずプッと笑ってしまう。それはにらめっこしていたら遂に新しい所を発見してしまって笑わずにはいられなくなるような、そんなのが幾らでもある。

美術館で刀剣の鍔であるとか根付とかを見ていると職人の笑い顔が見えてくる。なんだこのかわいさは。目に入ってしまえば途端に笑ってしまう、カエルの開いた手や牛ののんびりするなんとユーモラスな事か。この、江戸時代独特のユーモアがなんとも謂えずにいい。

ユーモア、と言うしか表現のしようがない世界がある。ユーモアな人物はあちこちに居る。ユーモラスな会話というもの本になっているほどにある。しかし工芸品や絵などがユーモラスであるとは、これは珍しい事ではないか、日本ではない、江戸時代だけに見られる不思議な世界に思えるのだ。

ユーモアは恐らく意識的な造りであろう、狙って落とす先ではあるが、作為的ではない、しかし、天然でもない。さらっとしてないといけない、作者の舌を出した笑い顔が思い浮かなければいけない、それを、後から気付くようでなければいけない。そうでなければそれはユーモアではない。

きっとこれを「ああ愉快」と言っていた。

そして曾我蕭白。

絵について語ると言うのも可笑しな話ではある。見ればわかる、と言うべきだ。しかし、どう見るかを語るのも悪くない。面白さは人によっても時間によっても変わるのだから、それぞれが一つの道標みたいになる。人それぞれが見付けるものだとしても、こういう見方もあるよ、というのは、絵の解釈に等しいだろう。絵を言葉にするだけが絵を語る事ではない。どう見ているか、どこに注意しているかを語るのも絵について語る事だろうと思う。

さっと全体を見て終わるのではなく、ざっと見る方がいい、そのあと、どこか一点を注意してみる、そこは何気なく魅かれたり気になった所でいい、たまたま目の言った所でもいい、そこを見ていると線の伸びる先に目をやったり、対角線に目が移ったり、色や筆使いが気に成ったり、色々な妄想が湧いてくる。あちこちに目を移してみて、筆使いだの書き順などにも想像が膨らむ。

そうこうして絵の中を彷徨っている時に見つかるのだ、この絵の中に、その片隅に、何気ない曲線の中に、こんな曲線が隠れていたのかと驚いたり、どんな真剣な表情でこの絵を描いていただろうかと空想してしまう視点が。それは、長き年月を経たとも思われず、想像を超えた遥か昔であるとも信じられず、今も僕の目の前にあるじゃないか。

なんともユーモラスな顔や目や線がそこにある。こちらの事など何一つ気にするそぶりを見せずにそこにいる。鉄で出来たうさぎだったり、ささっと書かれた童の顔だったり。それに気付いて、ああここに居たのかと笑ってしまう。このユーモラスさは心地よい。それを見付けた時にすとんと腑に落ちる。

真剣さとユーモアの対比がある。真剣にこのカエルの顔を描いていたのかと思うと飄々とする。

本書の表紙をじっくりと見てみよう。女の人の目が寄っているのはおかしさをぐっと我慢しているからに違いない。老木のような仙人がくすぐったいのを我慢しているようでもあり気持ち良さそうにしているようにも見える、ところで、ふと目に入るこの白いカエルに気付くだろうか。この頭にちょこんと乗ったカエルの表情。何を考えるともない澄ましている。何の理由もありはしないが笑みがくるカエルではないか。

商山四皓図屏風の服の描画はどうだ、この太い線が生む白の雄弁さはどうだ、こんな描き方があるのかと訝る。酒吞仙人図を見ているとディズニーの白雪姫の7の小人にも見えてくる、驚きだ。

蝦蟇・鉄拐仙人図

http://ja.wikipedia.org/wiki/曾我蕭白 より


左の絵、なんとなしに見ると口から何かを出ている。ピューーと何かを吹き飛ばしているのかな。人か、近付いて良く見てみよう。すると、なんて顔をしているんだろう、小指が立ってる。なんともおかしな唇のカッコ、ああこれは面白いよく描けた口だ。右の絵は、笑っているようだな、おっと、一本足のカエルが見栄を切ってるぞ。これは愉快。


本書に楽しさを加えている一つに著者である狩野博幸が付けたキャッチがある。

こう言いたくなる理由は絵を見れば分かる。この人がどういう風に絵を見ているかもよく分かる。誰の言い分も講釈も信じちゃいない、自分で見て、その感覚に信頼を置いているのだろう、自分に自信があるという事ではない、自分の目を信じてみようと決心した人の言葉だと思う。

あっち行け!しっ!蝶を怖がる百獣の王

怯える獅子と困惑する虎、ガリガリガリガリと岩に爪たてる音がする。

亀よ、その小さな手で何を掴む

この亀の手がポツネンとしてユーモラスでたまらない。

マンガ的擬音語を添えてみたい衝動に駆られる

これは物理学ではないか、宇宙と重力の関係式が見えてくるような。

ピューッと風を切って走る音が聞こえてきそうなスピード感

この絵を見た時に、手塚治虫の新宝島の逸話を思い出さない者がいようか、スピード感という表現で時代を超えて二つの作品が交わったかのようだ。波も岩も草原も漫画のスピード線で描かれているに違いない。

とぼとぼと雪の上に続く幾重にも重なる足跡は数多の絵師たちの通った跡であり、そのどれもがいい、その景色さえ一幅の絵のようだ。

こちらも併せてどうぞ。

根付
耳鳥斎 (にちょうさい)
仙厓義梵(せんがい ぎぼん)
白隠 慧鶴(はくいんえかく)

0 件のコメント:

コメントを投稿