ある一部の地域を除けば、この国に住む人はその住む場所ごとの山がある。それは小さい頃から見てきた、見られてきた山だ。
山というものは、それぞれの人がそれぞれの山を持っていて其れはどんな概念よりも強く人の中に残り続ける。
それが古里の姿でもあるだろう。
東京には山がない、だから関東に住む人には故郷がない。それが富士山が好きな理由かも知れない。
富士山をとりわけ美しいとは思わない。 形も好きなわけではない、冬の雪化粧した富士をいいとも思わない。
確かに5月に雪をまとった富士の姿には感ずるものがある。
白峰をたたずませ夕の五月ふじ
美しく桜がしだれる吉野の山も美しい。
緑野に桜のありて山の色
それでも自分の故郷の山の方が遥かに雄弁だ。この古里の山こそが自分の本当の山だ。それぞれの山が、ふじも含め、この国の至る所にある。
八百万の神が、それらの神々の存在が山と無関係だったとは思われない。砂漠の国の宗教と我々の神を分かつものは山であろう。
砂漠の国の預言者の言葉を受け止めたのはヨーロッパの深い森であったろう。そこでどのように結びついたのであろうか、それはどのように形成されていったのだろうか。
それが世界に広がる力を与えたのだとしたら。
砂漠の国の宗教が乾いた大地が水を吸い込むように、彼らは森の泉でその預言者の乾いたくちびるを濡らした。この世界を作った神は森の中に差し込む月明かりや枝の間から垣間見える星の輝きと重なったに違いない。
それが森の中に光注いだ神の姿だとすれば。砂漠の神は、砂漠の陽射しと森の月の輝きを併せ持つ神となった。
太陽の光りのなか、海の煌めきのなか、蝋燭の明かりのなかにもいる。何故に神は光の姿をしているのか。
この国の山は豊かであって、神さえも宿す。その豊かさが故にこの神は人間だけの神ではなかった。草も動物も川も虫も等しく育む神であった。
それは人だけの神であるには余りに豊かな自然だった。
豊か過ぎる神に対して、なぜ日本人は仏を求めたのであろうか。豊かに命を育む神は同時に奪い取る神でもあった。それがこの国の死生観であった、常に人は山の麓で朽ちる。
我々が大陸に出てゆく為にはこの神を連れてゆく訳には行かなかった。仏を求めた人達は己の山を捨てた旅人であったのかも知れぬ。
わたしの山がこの冬初めて冠雪した。
冬の訪れを山はこうして教えてくれる。季節を教えてくれるのはいつも山からだった。
さあて寒くなるなあ。
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