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2026年10月3日土曜日

稱其德也 - 孔子

憲問第十四之三十五
子曰(子曰く)
驥(きは)
不稱其力(其の力を称せず)
稱其德也(其の徳を称するなり)

驥きは名馬を指す。驥州が馬の名産地であったことからそう呼ばれるらしい。これを棋に変えて揮毫したのが曲励起九段。

孔子は稱すと言っている。これは恐らく評価ではない。賞賛すると言っている。賞賛するという言い回しはどういう場合か。

名馬とは役に立つ使役の事だ。早く走る馬、千里を走ってもくたびれない馬。長く使役できる馬。武人の命を救う馬である。

だが名馬を其の力では賞賛しないと言う。力はあって当たり前という事だろうか?それとも力だけでは足りないという事だろうか。だが馬の能力で評価しないとはどういう了見だろうか?

徳は賞賛すると言っている。力と徳を切り分けている。孔子の言葉に従うなら徳は力に含まれない。

評価軸を二つにして対比するのは論語でもよくある構文だ。そこには共通する点、異なっている点、そして決して交差しない点があると考える。

其々について評価した結果として、こういう結論を得た、そういう構造だろうか。

馬の徳とは何だろうか。馬にも徳があると言う事か?馬が使役の動物である限り、徳も能力の何かになるだろう。

更には徳は人間だけが持つものではない事になる。馬にも備わるものが人間には足りない事もあると言う訳だ。

馬の徳とは人間にとっての有用性に違いない。野生の馬という考えはあるまい。

それは人間に付き従う事だろうか。だが徳とはそういう実用性に与えるものだろうか。作用の効果について与えるのであれば、場面場面で発揮したりしなかったりする筈である。馬にも体調のいい時、悪い時があるだろう。名馬は常に名馬の走りをするとは限らない。

力で評価する限りは、力を発揮できなければ評価を取り下げなければならなくなる。名馬は老いて力を失えば名馬ではなくなるのか?

そういう気もする。老いて徳を失えばやはり名馬ではなくなるのか?

だが力よりも徳の方が長持ちだろうと孔子は言っているのではないか?それとも徳を備える方がより踏み外しが少ないという事か。

その場限りで使うなら能力がより高い方がいいに決まっている。またその場面に適合した方がいいに決まっている。だが、そういう評価に名馬を使う必要があるだろうか?そう語っているようにも見える。

もし君がそれを名馬と呼びたいのなら、それはその馬の力や能力によってではないだろう?君はその馬に長く乗ってきたんだろう?

君がその馬をそう呼びたい中にもう答えはあるじゃないか。


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